Mag-log inこの日の夜、一条は自分でもおかしいと思っていた。 これまでずっと上手く隠してきたはずの言葉が、今夜に限って次々と零れてしまう。 もう抑えきれなくなってしまったみたいに。心の奥に隠していた本音を、一句ずつ陽菜へ曝け出してしまっていた。 こんなふうに気持ちをぶつけても、陽菜を困らせるだけだ。 そんなこと、一条自身が誰より分かっている。 分かっているのに……止められなかった。「……俺なら、絶対にお前をあんなふうに言わせたりしないし、嫌な思いだって、絶対させない」 胸の奥では、何度も「やめろ」と自分に言い聞かせていた。 鷹宮は、自分にとって世界で一番大切な友人だ。 失いたくない存在で、誰よりも大事にしてきた相手。 そんな男から、奪いたいと思ってしまうなんて。 ――最低だ。 一条は、自嘲するように唇を歪めた。「ご、ごめんなさい……一条君……」 陽菜は怯えたように肩を小さく震わせ、視線を落とした。困ったように自分の足元を見つめたまま、一条の顔を見ようとしない。 触れれば壊れてしまいそうな、甘く張り詰めた空気。 けれど、その空気はそこで途切れた。 一条は小さく息をつき、諦めたように笑う。 これ以上、陽菜を困らせたくなかった。 ――いや。 本当は、自分自身が耐えられなくなりそうだったのかもしれない。だから彼は、わざと何でもないような顔を作ると、意図的に話題を変えた。「藤野。いちご串、食べたくない?」「えっ? いちご……串?」 あまりに急な話題転換に、陽菜はすぐ反応できない。「最近流行ってるらしいぞ。結構みんな買ってる」 一条の視線の先を辿ると、少し離れた場所にいる女子高生二人組が、いちご飴を手に笑っていた。 陽菜は思わずくすっと笑う。「一条君。それ、いちご串じゃなくて、いちご飴ですよ」 一条は数度ぱちりと瞬きをして、それからおかしそうに笑った。「へえ。ちゃんとそんな名前だったんだな」 本当に知らなかったのか。 それとも、わざと知らないふりをして、陽菜を笑わせようとしたのか。 その答えは、きっと本人にしか分からない。 一条にとっては、理由なんてどうでもよかった。陽菜が少しでも笑ってくれるなら。 それだけで、十分だった。* その日の夜、結局鷹宮から連絡は来なかった。 陽菜が寝る前に何度も迷った末に送った「おや
柔らかな風がまた二人の間を通り抜ける。 今度は、陽菜はすぐに両手を閉じた。宝物を守るみたいに、花びらを逃がさないよう大事に握り込む。 そんな様子を見て、一条は小さく笑った。 彼はそれ以上、さっきの話題には触れなかった。代わりに視線を公園の奥へ向ける。「藤野。あっち、池があるみたいだな。行ってみる?」「はい」 二人は公園の石畳の道を並んで歩きながら、ゆっくり奥へ進んでいく。 途中、楽しそうに笑い合う高校生たちのグループとすれ違った。 一条はその制服へ何気なく視線を向ける。そして、どこか懐かしむように目を細め、不意に口を開いた。「うちの高校の制服も、あれに近い色だったよな。……俺、結構好きだった。凌は『目立ちすぎる』って言ってたけど。あいつ、もっと暗い色のほうが好きだから」 青みがかったブレザーに、深い赤のチェック柄。 確かに少し似ている。 陽菜は目を細めて微笑んだ。「私も……結構好きでした」「だろ?一年の自己紹介の時、制服が可愛かったから選びました”て言ってるやつ、結構いたし」「一年生の時……一条君は、家が近いからって言ってましたよね」 その言葉に、一条は少し驚いたように目を見開いた。「……覚えてたのか?」「えっ……だって、一条君が一番最初に立ったので。だから印象に残ってて……」 そう言いながら、陽菜自身も少し驚いていた。 まさか、自分がそんな細かいことまで覚えているなんて思わなかったから。 高校時代の記憶には、不思議なくらい、こういう小さな場面がたくさん残っている。 一条だけじゃない。 他のクラスメイトの自己紹介だって、いくつかまだ覚えていた。 その話題が楽しかったのか、一条は興味深そうに笑う。「藤野。他には?俺のこと、何覚えてる?」「一条君のこと……」 いつの間にか、二人の歩く速度はゆっくりになっていた。 笑いながら駆けていく高校生たちが、二人を追い越して前へ行く。その制服姿を眺めながら、陽菜は静かに口を開いた。「一条君は、いつも鷹宮さんと一緒にいて……それから、よく……」「よく?」 本人を前に高校時代の話をすると、どうしても思い出してしまう。 あの頃、自分が抱えていた片想い。 そして、一条にそれを見抜かれていたことも。 昔から胸の奥にあった疑問が、不意に口をついた。「一条君は……いつ、私が
不意に一条と視線がぶつかり、陽菜は一瞬息を呑んだ。 心臓をそっと叩かれたみたいに、胸の奥が小さく揺れる。そこから広がっていく妙な感覚に、なぜか少しだけ苦しくなった。 これはいったい、どんな感情なのだろう。 自分でも分からないまま、陽菜はどこか落ち着かなくなって視線を伏せる。「一条君……この公園、綺麗ですね」 一条は小さく笑った。 彼には、そんな陽菜の反応が少し照れているようにも見えた。「へえ。地面もそんなに綺麗だった?藤野、下ばかり見てたら、いいもの見逃すぞ」 軽くからかうように言ってから、一条はふいに陽菜へ手を差し出した。彼の掌には、いつの間にか舞い落ちてきた桜の花びらが一枚乗っていた。 改めて見ると、一条の手は大きい。 そのせいで、薄く小さな花びらが掌の真ん中でぽつんと取り残されているように見えて、少し可愛かった。 一条はそのまま掌を開き、陽菜へ見せる。 陽菜は意味が分からず、しばらく花びらを見つめてから、一条を見上げた。 一条はずっと口元に笑みを浮かべている。 とても機嫌が良さそうだった。「藤野。花、あげる」「……花びら、ですか?」 一条は時々、本当に何を考えているのか分からない。 それでも陽菜は、そっと彼の掌から花びらを摘み上げ、自分の手の中へ大事そうに乗せた。 まるで本当に花束でも受け取ったみたいに。「ありがとうございます、一条君。綺麗な花びらですね」 一条は目を少し見開いたあと、堪えきれなかったように吹き出した。 笑った拍子に、耳までうっすら赤くなっている。 柔らかく細められた眼差しには、隠しきれないほどの好意が滲んでいた。「藤野ってさ……花びら一枚でそんなに嬉しそうにできるんだな」「だって、一条君がくれたものですし。もしかしたら特別な花びらかもしれませんよ?」 陽菜がふわりと微笑んだ、その瞬間だった。 春風が、二人の間をすり抜ける。 掌に乗せていた桜の花びらは、ひらりと空へ舞い上がり、そのまま風にさらわれるように遠くへ流れていった。「あっ……」 陽菜は慌てて手を伸ばしたが、風のほうがずっと速い。 結局、花びらを捕まえることはできなかった。 振り返ると、一条はまだ楽しそうに笑っていた。 目を細めるほどに。 その顔を見た瞬間、陽菜の頬が熱くなる。 何か言い訳をしようとしたところで、一
一条の言葉は、遠回しでありながらも、明らかに鷹宮の母親を指していた。 その瞬間、鷹宮の母親の顔色がさっと変わる。震える指先を一条へ向けたまま、唇を戦慄かせ、言葉を失っていた。「お母さん、落ち着いて。そんなに興奮しないで……深呼吸して」 あまりにも激しく取り乱した母を見て、鷹宮はすぐにその傍へ歩み寄り、支えるように肩へ手を添えた。耳元で低く声をかけ、静かに宥める。 どれほど理不尽なことを言われても、彼にとっては母親だ。 こんなふうに取り乱す姿を見れば、放っておけないのだろう。「……ごめん、修司。陽菜さんも。先に母を連れて帰るよ。二人とも……気をつけて帰って」 母親を気遣うように前へ立ちながら、それでも鷹宮の視線は一瞬だけ陽菜へ向けられた。 何か言いたげに揺れたその目は、けれど結局何も告げないまま伏せられる。 短い別れの言葉だけを残し、彼は母親を連れて通りへ向かっていった。タクシーを拾うつもりなのだろう。 あとには、一条と陽菜だけが残された。 陽菜はずっと黙ったままだった。 その沈黙が気になったのか、一条がわずかに振り返る。「藤野? 大丈夫か?」「あ……一条くん、私は平気です。ただ……その……」 言いかけて、陽菜は言葉を止めた。 自分でも何を言いたいのかわからないように、小さく視線を彷徨わせる。「ただ」が何度も唇の上で途切れ、最後には力なく俯いた。「……私、やっぱり鷹宮さんと一緒にいないほうが、いいのかな」 あまりにも沈んだ声だった。 一条も、さすがに笑えなかった。 しばらく道路を流れていく車の灯りを眺め、それから困ったように息をつく。「……凌のお袋、昔からああいう性格なんだよ。正直、凌と一緒にいるのは……楽じゃないと思う」 陽菜は小さく頷いた。「鷹宮さんの……前の恋人も、やっぱりそうやって離れていったんですか?」「え……」 不意に前の婚約者の話を振られ、一条はわずかに目を瞬かせた。 秘密というほどではない。 だが、どう説明すればいいのか分からなかった。 鷹宮の前の恋愛は、理由を一言で片づけられるようなものではなかったからだ。 一条自身、完全に理解しているわけではない。 けれど少なくとも――母親が原因ではなかった。「……いや。前の相手に関しては、母親は別に反対してなかった」「……そうなんですね」 陽
三人は席で鷹宮が電話を終えるのを待ってから、店を出ることにした。 まさか――ほんの数十分の間に、鷹宮の母が店の前まで来ているとは思わなかった。 まるで最初から居場所を把握していたかのように、彼女はレストランの下で待ち構えていた。 そして、鷹宮と陽菜が並んで出てきた瞬間、その顔に浮かんだのは「やっぱり」という確信の色だった。 向けられる視線には、露骨な怒りと怨みが滲んでいる。 陽菜に対しても。 そして、自分の息子に対しても。「凌! あなた、今は母親に嘘をつくようになったの!?」 鋭い声が夜の街へ響く。「修司と一緒って言ってたでしょう!? これがあなたの言う“修司”なの!?」 鷹宮の母は陽菜を指差した。 怒りのせいで、唇が細かく震えている。 声量も抑えきれておらず、近くを通る人々が次々と足を止め、こちらを振り返り始めていた。 鷹宮は露骨に頭を押さえる。 左のこめかみへ手を当てたまま、疲れ切った声で言った。「母さん……ただ食事しただけだろ。どうしてそこまで――」 母の声がさらに鋭くなる。 その怒りは、もう抑えが利かなくなっていた。「ただの食事!?今問題にしてるのは、あなたがこんな女のために、何十年も育ててきた母親に嘘をついたってことよ!あなたが私の選んだ相手に不満なのは分かるわ。でもだからって、わざわざこんな女を選んで私に当てつける必要がある!? あなたの見る目、いつからこんなになったの!? それとも、最初から私に反抗するためだったの!?」「母さん!」 鷹宮の声にも苛立ちが混じる。「陽菜さんにそんな失礼な言い方をするなって、前にも言ったはずだ」 それでもなお陽菜を庇う息子を見て、ついに鷹宮の母の堪忍袋も切れたらしい。「せめてもう少しまともな家の娘ならまだしも、どうしてよりにもよって訴訟まみれの家の子なの!? あなた、この子のお父さんが何をしたか知ってるの!? 今あの家、裁判所に差し押さえまでされてるのよ! そんな子があなたに近づく理由なんて、鷹宮家の人脈とお金以外にあるわけないでしょう!」「……っ」 その瞬間、その場の空気が凍りついた。 鷹宮は言葉を失う。 訴訟の件について、彼は何も聞かされていなかったのだろう。 反射的に否定しようとしても、事情を知らない以上、言葉が出てこない。 気づけば、彼は陽菜を見ていた。
電話を切ったあとも、陽菜はしばらく席に座ったままぼんやりしていた。 そんな彼女の前を、退勤しようとしていた一条が通りかかる。「藤野? 帰るのか。送ってくぞ」「……っ、一条君!」 突然名前を呼ばれ、陽菜はびくりと肩を震わせた。その反応が思った以上に大きかったのか、一条が不思議そうに目を瞬かせる。「どうした? 考え事してたのか。……俺、驚かせた?」「あ、いえ……違うんです。さっき、立花先輩から電話があって。仮処分の申立てが通ったって……」 そう告げると、一条は驚いた様子もなく、むしろ予想通りだと言いたげに笑った。「そっか。よかったな。まだ始まりに過ぎないけど、それでも十分いい知らせだ」 そして自然な流れで続ける。「せっかくだし、今夜は祝い飯でも行くか?」 一条は、担保金のことには一切触れなかった。 陽菜はじっと彼の表情を見つめる。 ――一条君、自分から話すつもりはなかったんだ。 そう確信してから、ようやく口を開いた。「あの……先輩から聞きました。一条君が、三百万の担保金を払ってくれたって……」「あー……」 一瞬だけ、一条の表情に微かな気まずさがよぎる。だがそれもすぐ消え、何でもないことのように肩をすくめた。「そんな深刻そうな顔してるから、もっと大ごとかと思った。……ただの金だよ。お前が気にすると思ったから、わざわざ言わなかっただけ」 さらに、一条は当然のように続けた。「それに藤野。これは別に、お前一人の問題じゃない。東和は俺にとっても敵だ。だったら、俺が力を貸すのは当然だろ」「でも……」 一条の言葉には隙がなかった。 おそらく、最初からこう言うつもりでいたのだろう。 陽菜が何か言い返そうとした瞬間、一条は「はいはい」とでも言うように片手を上げる。「この話は終わり。……どうしても礼したいなら、今夜ちゃんと俺に付き合え」 一条に促されるまま車へ乗り込む。 そのままレストランへ向かうのかと思っていたが、途中で車は鷹宮の会社へと向かった。 一条は車の中から鷹宮へ電話をかけ、半ば強引に夕食へ誘った。それから十五分ほどして、ようやく鷹宮が姿を現す。 かなり急いできたのだろう。スーツの上着はきちんと着る暇もなかったらしく、片手に雑に抱えたままになっている。「修司? 急にどうしたんだ……って、陽菜さんもいたのか。こん
陽菜はわずかに口を開いたが、何を言えばいいのか分からなかった。 記憶の中の月乃は、服装も話し方も、もっとおとなしくて柔らかな印象だった。 だが今、目の前にいる月乃は、身なりも言葉遣いも、高校の頃よりずっと刺々しい。変わりようがあまりにも大きくて、陽菜は目の前の彼女と、記憶の中の月乃をうまく重ねることができなかった。 この瞬間、陽菜は今日この約束を受けてしまったことを、心の底から後悔していた。 本当なら、もっと大事なことがあるはずだった。 母に電話をかけて、事件の深刻さをきちんと伝えなければならない。 立花先輩からのメッセージにも、早く返事をしなければならなかった。あまり長く待た
一条は迷いなく言い切った。 東和キャピタルとはそういう存在だと、最初から決めつけているかのように。 陽菜彼が本気で怒っている姿を初めて見た気がした。さきほどまで自分をからかっていた態度とは、まるで別人だった。 長いあいだ、陽菜は一条に嫌われているのだと、勝手に思い込んでいた。鷹宮のそばにいる自分を、内心では軽蔑しているのではないか、と。 けれど、今の彼の怒りを目の当たりにして、はじめて気づく。 あれは決して本気の敵意ではなかったのだと。 少なくとも、自分に向けられていたものは、ずっと穏やかな部類だったのだと。 「修司……もしかしてまだ樹くんのことで怒って……」 鷹宮は小さ
陽菜が答えを迷っているわずかな沈黙のあいだ、一条はベッドに横たわる鷹宮へと視線を落とした。 そして、今夜の出来事を短く思い返す。 今日の夜、彼らは一緒にいた。 いや、夜だけではない。 昼間も、その半分ほどは一条が仕事を口実にして鷹宮を付き合わせていた。 業務上の往来があることを理由に、帰国してからというもの、一条はほとんど毎日のように鷹宮のそばにいる。 もっとも、それが完全に仕事のためかと言えば、そうとも言い切れない。 今回の新ブランド開発は、一条の父親が言い出したものだった。 一条自身には大して興味はない。ただ、父親は昔から鷹宮を格別に信頼している。だから一条が鷹宮と行動
あとから思い返し、断片的な記憶をつなぎ合わせてようやく気づいたことがある。 鷹宮は倒れる瞬間、反射的に陽菜を抱き寄せていたのだ。 だからこそ、彼女は床に直接叩きつけられずに済んだ。 額がぶつかった硬い感触は、おそらく床ではなく、鷹宮の胸だったのだろう。 ほんの一瞬。 ほんの、どうしようもなく短い一瞬だけ。 このまま自分も意識を失ってしまえたら、と陽菜は思った。 そうすれば、こうして彼と触れ合ったまま、あと少しだけ時間を引き延ばせるのではないかと。 けれど、酒に酔っている鷹宮とは違い、陽菜の意識はやけに冴えていた。 胸が高鳴っても、心が揺れても、弱みに乗じるような真似はでき