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第7話

Author: 星入りポケット
声は左手から聞こえてきた。宥里は足を止め、左側の病室へ顔を向けた。

病室のドアは完全には閉まっておらず、大きく開いた隙間から中の様子がはっきりと見えた。

香織はベッドに半身を起こし、陽太は小さな体をベッドの縁に寄せるようにして、両手でしっかりと香織の手を握りしめていた。

ベッドから少し離れた椅子には知輝が腰を下ろし、穏やかな眼差しで二人を見守っている。

事情を知らない者が見れば、仲睦まじい親子三人そのものだった。

香織は愛おしそうに陽太を見つめ、彼に手を握られたまま優しい声で言った。

「もう大丈夫だよ。陽太くんを心配させちゃったね。ごめんね」

そう言うと、香織は優しく陽太の額へキスをした。

陽太はまったく嫌がる素振りを見せず、それどころか照れたように頬を赤らめた。あどけなく、思わず頬が緩むほど可愛らしい仕草だった。

だが、その口から出てきた言葉は、扉の外にいる宥里の心を凍りつかせるものだった。

「全部ママが悪いんだ。何も知らないくせに勝手に邪魔ばっかりして、香織さんを入院させちゃったんだから。僕、ママなんて嫌い。香織さんに謝りに来ない限り、もう仲直りしないから。絶対に許さない!」

香織は目を丸くした。陽太がそんなことを言うとは思っていなかったらしい。目を潤ませ、その瞳には戸惑いと安堵が入り混じっていた。

そこで知輝が口を開いた。声にはわずかに厳しさが滲んでいる。

「大人の事情は、子供が余計な口を挟むものじゃない」

陽太は不服そうに口を尖らせた。「余計な口なんかじゃないよ!ママのことが、本当に嫌いなだけ!」

そう言うと、香織の手を離して知輝のそばへ歩み寄った。そして、とても真剣な顔で言った。

「ねえパパ、早くママと離婚してよ。香織さんに本当のママになってもらいたいんだ。いいでしょ?」

「えっ?」香織がその言葉に息を呑んだ。ひどく動揺した様子だった。「陽太くん、何を言い出すの……」

「陽太」知輝の顔がすっと冷たくなり、声にも厳しさが増した。「誰にそんな馬鹿げたことを教わったんだ」

知輝は大学院生を指導する教授であると同時に、千人を超える社員を抱える科学技術企業の経営者でもある。ひとたび冷たい顔で怒れば、その威圧感は本物だった。周囲の空気まで凍りつかせるようだった。

陽太はその様子に怯えて泣き出し、香織の胸に飛び込んだ。

それでも、怖がりながらも自分の考えを曲げず、泣きじゃくりながら訴え続けた。

「もう知らない!僕、香織さんのことが好きなんだ!ママなんか大っ嫌い!香織さんは僕と一緒に実験してくれるし、ほかの子が知らないことをいっぱい教えてくれるもん!おばあちゃんも叔母ちゃんも言ってたよ。香織さんみたいに賢い女の人こそ、パパにふさわしいって!」

「もういい。話がどんどんめちゃくちゃになっている!」知輝は立ち上がると、大股で歩み寄り、陽太を抱き上げて言い聞かせようとした。

それを見た香織は、慌てて陽太を強く抱きしめた。

「先生、そんなにきつく叱らないであげてください。まだ小さいんですから、分からないことがあって当然ですもの。こういうことは、大人が根気よく教えてあげないと」

香織の言葉を聞きながら、知輝は彼女の胸にしがみついて泣く息子を見下ろした。その顔には次第に苛立ちが滲んでいく。

「宥里は、子供のしつけすらまともにできないのか。あいつは今まで、いったい何をしてきたんだ」

扉の外でその言葉を聞いた宥里は、とっくに覚悟していたはずなのに、胸の奥を鋭くえぐられたような痛みを覚えた。

「先生、奥様のことをそんなふうに言わないでくださいね。誰にだって、体力にも、知識にも、理解力にも限界はあります。奥様だって精一杯やってこられたはずですよ。ただ……」

香織はまだ何か言おうとしていたが、ふと顔を上げた瞬間、扉の外に立つ宥里の姿に気づいた。

途端に顔がこわばった。「お……奥様……っ」

香織の胸から顔を上げた陽太も、すぐに扉の外の宥里に気づいた。「ママ?」

知輝はその場に立ったまま宥里を見つめた。先ほどまで浮かんでいた苛立ちの色が、彼女を見た瞬間、いくらか和らいだ。

だが、口をついて出た言葉は、相変わらず冷たいものだった。

「気が済んだなら、入って香織に謝れ」

宥里は一瞬、呆気にとられた。知輝は勘違いしているらしい。自分がわざわざ香織に謝りに来たのだと思っているのだ。

謝るという話を耳にした途端、陽太は誰よりも早くベッドから飛び降り、扉の外まで駆け寄ってきた。そして有無を言わせず宥里の手を引っ張り、病室の中へ引きずり込んだ。

あの結婚式の日、彼女を押し出し、追い払おうとしたときとまるきり同じように。

「ほらママ、香織さんを入院させちゃったんだから、早く謝ってよ。悪いことをしたら素直に謝るのが、いいママなんだよ」

陽太に引っ張られた宥里は、香織のベッドの前に立たされた。

陽太は丸く澄んだ大きな瞳で宥里を見上げ、謝罪の言葉を待っていた。

だが香織は青ざめた顔で慌てて両手を振った。まるで怯えた小動物のように、必死に宥里へ弁明しようとする。

「謝らないでください。謝るべきなのは私のほうです。奥様、どうか先生を誤解しないでください。私が家族から無理やり結婚させられそうになっていたから、先生は助けてくださっただけなんです。あの結婚式も、全部形だけのものでした」

そこで何かを思い出したように、慌てて言葉を継いだ。

「キスのこともそうです。リハーサルでは、あんな演出は入っていませんでした。本番になって、どうして司会の方が急にあんな流れにしたのか、私にも分からないんです。

私が言っていることは全部本当です。お願いですから、私のせいで先生を疑わないでください。そんなことになったら、先生に申し訳なくて……」

体調が悪いにもかかわらず、香織は自分たちの間には何もなかったのだと、必死に訴え続けている。

その一方で、宥里は何も言えず、ただその場に立ち尽くしていた。

知輝が冷ややかに眉をひそめた。

「香織、そこまで丁寧に説明してやる必要はない。感情に任せて見境をなくしたのはこいつだ。謝るべきなのは、こいつのほうだ」

宥里は思わず笑みをこぼした。嘲るような目で知輝を見つめる。

「そう。じゃあ私が、感情的になって見境をなくした女ってことにしておきましょう。知輝、私たち、結婚して七年になるのに、式どころか結婚写真一枚、撮ったことがなかったわね。

だから、この心残りを晴らすために、明日にでも適当な男を見つけて、私も結婚式を挙げようかしら。どう思う?」

知輝はそれを聞くと、深く眉をひそめた。声にはすでに苛立ちが滲んでいる。「屁理屈をこねるな」

宥里は頷いた。もう感情そのものが麻痺しているようだった。

「分かったわ。屁理屈はやめる。もっと現実的な話をしましょう。明日は月曜日だから、一緒に役所へ行って離婚届を出しましょう」

宥里が再び離婚を口にすると、知輝はまず反射的に陽太を見て、次に香織へと視線を移した。そして最後に一歩前へ踏み出し、警告するような目で宥里に詰め寄った。

「俺の我慢にも限度がある。これ以上、馬鹿な真似をするな」

これまでなら、知輝が苛立ちや怒りを見せるたびに、宥里はどうしていいか分からず、おろおろするばかりだった。

もっとも、この男が自分の前で怒りを露わにすることなど、滅多になかった。ほとんどの時間、彼は無関心だった。宥里のために感情を動かす価値すらないと、そう思っていたからだ。

けれど、今の宥里は違った。後ずさりもせず、動揺もしなかった。

ただ、どこまでも冷静に、揺るぎない意志を込めて自分の考えを口にした。

「今朝、離婚するかって言ったのはあなたよ。私はそれに同意しただけ」

宥里を見下ろしていた知輝の表情から、ふっと強張りが消えた。深く澄んだ瞳がかすかに揺らぐ。

彼はどうやら、目の前にいる宥里を、まるで見知らぬ人間のように感じ始めていた。

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