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第6話

星入りポケット
要人も利用する特別施設だけあって、セキュリティは厳重だった。宥里は受付で身分証を提示し、面会者名簿に記入したうえで、ようやく中へ通された。

病室へ続く廊下を歩いていると、まだかなり離れているにもかかわらず、花谷謙三(はなや けんぞう)の苛立った怒鳴り声が聞こえてきた。

「宥里が今日会いに来るって言ったじゃないか!あの子はどこだ!まだ来ないのか!お前、薬を飲ませるために俺を騙してるんじゃないだろうな!」

「いやいや先生、違いますって。騙してなんかいません。宥里は来ますから……」

「嘘をつくな!もうこんな時間だぞ!お前、俺を騙してるんだろう!」

続いて、コップか何かが床に落ちる音が響いた。

まずいと思い、宥里は思わず足を速めた。だが、病室の入口までたどり着いたところで、その足が止まる。

会いたくてたまらなかったはずなのに、いざ顔を合わせるとなると怖かった。

そんな恐怖を、宥里は初めて味わった。

病室の中では直樹が悲痛な顔をしながら、謙三が投げつけた薬とコップを拾い集めていた。ふと顔を上げると、入口で立ち尽くしたまま入ってこようとしない宥里の姿が目に入った。

途端に目を輝かせ、入口を指差した。「あぁ!先生、ほら、宥里が来ましたよ!」

謙三は振り返り、気まずそうに立つ宥里を見た。一瞬笑みを浮かべかけたが、次の瞬間にはすぐに顔を険しくした。

「……入口で突っ立って何をしている。とっとと入ってこい!」

謙三は座り直すと、また顔をしかめ、宥里のほうを見なくなった。

そこまで言われては、入らないわけにもいかない。宥里は口ごもりながら、のろのろと病室へ足を踏み入れた。

戸惑いと気まずさを滲ませた瞳が、謙三と直樹の間を行き来する。

「ええと、その……お見舞いに来ました……」

「ふん!お前が来たって、別に嬉しくなんかない。忙しい人だからな。こんな年寄りに構っている暇なんてないだろう。忙しいなら、さっさと帰れ。俺はお前の顔なんか見たくない」

謙三は拗ねたように、わざとらしく顔を背けた。

宥里は落ち込んだ表情を浮かべ、ますます申し訳なさを募らせていく。

そこで直樹が吹き出し、謙三を茶化すように言った。

「花谷先生、花谷教授、花谷大先生。さっきまでと言ってることが全然違うじゃないですか。宥里が来ないなら薬も飲まないって、あれだけ駄々をこねてたのに。いざ本人が来たら、急に意地を張るんですから」

「この生意気な小僧が!目上を敬う気もないのか!」謙三は顔を険しくし、直樹をきつく睨みつけた。

直樹は、謙三が本気で怒っているわけではないと分かっていた。睨まれても慌てて機嫌を取ろうとはせず、代わりに落ち着かない様子の宥里をなだめにかかった。

「ほら、早く座って」そう言いながら椅子を謙三の病床のそばへ運び、宥里に座るよう促した。

宥里はまるでロボットのようにぎこちなく体を動かし、椅子に腰を下ろした。謙三から目を離さず、唇を結んだまま何も言わない。

謙三は横目で宥里を一瞥すると、冷ややかに鼻を鳴らした。「ふん、恩知らずめ」

その一言は、宥里にとってあまりにも重かった。たちまち顔が青ざめ、うつむいたまま、もう謙三と目を合わせることさえできなくなった。

直樹が慌てて間に入った。

「それは宥里がかわいそうですよ。ここ何年か研究所には顔を出していませんでしたけど、先生のことを忘れたことなんて一度もないでしょう。

年末年始や先生の誕生日には、いつも欠かさず連絡をくれていたじゃないですか。電話に出なかったのは先生のほうなんですから、宥里を責めるのは筋違いですよ。

電話には出ないくせに、宥里から届いた贈り物は毎回きっちり受け取ってたじゃないですか」

「あー、もう、うるさい、減らず口を叩くな!!」再び直樹に痛いところを突かれ、謙三は怒りのあまり顔まで赤らめた。「本当に俺を大事に思っているなら、俺が授けた知識を眠らせて、主婦なんぞに収まっているはずがないだろう!」

直樹は、うつむいたまま消え入りそうになっている宥里をちらりと見た。「先生、その言い方はおかしいですよ。主婦の何がいけないんですか」

「いけないなんて言ってない!」謙三はベッドを叩いて声を荒らげた。

「こいつに人並みの才能しかなかったのなら、家庭に入って穏やかに暮らすのも悪くない選択だっただろうよ。だが、こいつには才能があるんだ。天才なんだよ!

七年だぞ、まる七年だ!この七年で、どれだけ世の中が変わったと思ってる!人の一生に、七年という時間が何度あるっていうんだ!それをたった一人の男のために棒に振ったんだ!まったく、たいしたものだよ!」

直樹は言葉を失った。謙三に主婦を蔑む気などないことは、もちろん分かっていた。

ただ悔しかったのだ。宥里が失った七年という、あまりにも貴重な時間が。

何しろ宥里は、謙三が誰よりも大切にし、最も将来を見込んでいた最後の弟子だった。そうでなければ、七年前にあの一件が起きたあと、自分の姓を名乗らせるはずがなかった。

花谷、と。

「先生……本当に、ごめんなさい……っ」宥里の声が震え、途中で途切れた。

知輝と香織の結婚式の場でも泣かなかった。

知輝から容赦なく侮辱され、貶められたときも泣かなかった。

離婚を決意したときも泣かなかった。

それなのに今、涙が溢れた。

自分が間違っていたと、それも取り返しがつかないほど間違っていたのだと気づいたからだ。

けれど、大声で泣くことすら憚られた。恩師の前で泣く資格など、自分にはないと思ったからだ。

最も可愛がっていた末弟子の痛々しい姿を見つめ、直樹は深くため息をついた。

「宥里ばかりを責めるのも違いますよ。彼女にも深い心の傷があるんです。七年前……いえ、この話はもうやめましょう。

とにかく今、宥里は研究所に戻る決心をしたんです。先生が一番目をかけていた弟子が帰ってくるんですよ。本来なら喜ぶべきことでしょう。あんまり脅して、また逃げられでもしたら、あとで後悔しても知りませんよ」

「ふん。俺の弟子はほかにもたくさんいる。こいつ一人減ったところで、痛くもかゆくもない」

謙三は不機嫌そうに宥里を睨みつけたが、結局、それ以上きつい言葉は出てこなかった。

「……お前、本当に腹は決まったのか?」

「はい!」宥里ははっきりと頷いた。その瞳には確信と、どこか吹っ切れたような光が宿っていた。

「もう決めました。あの人とは離婚します。そして、できるだけ早く生活を立て直して、研究所に戻ります」

その言葉を聞くと、謙三の顔から少しずつ怒りの色が消えていった。

かつて宥里が研究所を辞めると言い張ったとき、彼は激怒した。

その後、彼女が身ごもった末に授かり婚をしたと知ったときには、さらに怒りを募らせ、勘当すると言って聞かなかった。

だからこそ謙三はこれまで、宥里がいったいどんな男と結婚したのか、あえて尋ねようとはしなかった。

目の前にいる大切な教え子は、目の下に濃いくまを作り、ひどく疲れ切っていた。結婚生活でどれほど傷ついてきたのかは、一目見れば分かった。

それでも謙三は、相手が誰なのかも、なぜ離婚するのかも、何ひとつ尋ねなかった。

これほど優秀な教え子を、ここまで追い詰めた男だ。ろくな男ではないに決まっている。そう思ったからだ。

「まあいい。これからのことは直樹に任せる。病人の俺があれこれ口を出しても仕方ないからな」

直樹はすぐに頷いた。

「安心してください。宥里が戻るための手続きは、もう俺のほうで進めています」

宥里は謙三に薬を飲ませ、眠りにつくまでそばで見守ってから、病室をあとにした。

廊下に出ると、直樹がエレベーターまで付き添ってくれた。

「宥里、先生のことを恨まないでやってくれ。君に期待していた分、戻ってこなかったことがよほど堪えたんだよ」

宥里は首を振った。「まさか。先生を恨んだりなんてしません。恨むとしたら、自分自身だけです」

「君がようやく前を向いてくれて、俺も先生も本当に嬉しいよ。先生の言う通り、君は天才だ。才能があるんだ。埋もれさせておくには惜しすぎる」

「先輩」宥里は何かを思い出し、直樹のほうを見た。「あの家から出て行くことにしたんです。だからお手数ですけど、しばらく身を寄せられる場所を探してもらえませんか」

「それくらい、どうってことない。俺のほうで手配しておく」直樹は快く引き受けた。

「お願いいたします」

「俺たちの間で、礼なんていらないだろう」直樹は宥里がエレベーターに乗り込むのを見送ってから、先生の病室へと戻っていった。

ちょうど正午を回った頃で、外では強い日差しが照りつけていた。

どことなく体がだるかったため、宥里は外を歩かず、渡り廊下を使うことにした。

その渡り廊下のもう一方の端は、中央病院の入院病棟につながっている。

一階の病室が並ぶ廊下を通り抜ければ入院病棟の出口に出られ、そのままタクシーを拾って帰ることができる。

まさにそこを通り抜けようとしたとき、すぐ横の病室から漏れてきた声に、宥里の足がぴたりと止まった。

「香織さん、体の具合はどう?ずっと心配してたんだよ」

間違いなく、自分の六歳の息子、陽太の声だった。

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