LOGIN運転席の小林は実に気の利く男だった。彼は空気を読み、すぐさま運転席と後部座席の間にあるパーティションを静かにせり上がらせ、二人だけの完全な密室を作り上げたのだ。外の目から遮断された絶対的なプライベート空間が、柊也のタガをさらに外していく。詩織は戸惑いと緊張で身体をこわばらせていたが、彼の容赦なく深い、甘く焼け付くような口づけに抗うことはできなかった。圧倒的な男の熱と匂いが彼女を隙間なく包み込み、侵食していく。神経の隅々まで彼に支配され、やがて詩織の身体から力が抜け、抗議の意思すらも熱い吐息の中に溶けて消えた。気がつけば彼女は、彼の腕の中にぐったりと身を預けていた。とろけるように柔らかい彼女の身体と、熱く火照った彼の身体。互いの荒い息遣いだけが、狭い車内に生々しく響く。それでも、完全に理性を手放しそうになる寸前で、柊也はギリギリで踏みとどまった。これ以上踏み込めばどうなるか、誰よりも彼自身がよく分かっている。彼女がようやく自分に対する強固な拒絶を解き、ほんの少しでも受け入れてくれたのだ。その歩み寄りが針の穴ほどの小さなものであっても、今の彼にとっては十分すぎるほどの奇跡だった。彼女を心の底から渇望し、抱きたくて狂いそうだったが――今はまだ、耐えなければならない。柊也は震える腕で彼女を胸に強く引き寄せ、抱き締めた。彼の焼け付くような胸板に耳を押し当てられた格好になり、詩織の鼓動が跳ねる。彼の胸の奥から、力強い心音が高鳴っているのが痛いほど伝わってきた。ドクン、ドクン、と。早鐘を打つその音が、次第に自分自身の心音と重なり合い、溶け合っていく。詩織は身じろぎすらできず、ただおとなしく彼の腕の中にすっぽりと収まっていた。なぜなら――彼が今、どれほど熱に浮かされ、どれほど必死に己の衝動を抑え込んでいるのか、密着した身体の確かな感触を通して、誰よりもはっきりと理解してしまったからだ。甘く濃密な熱が満ちていた車体が、突如として激しい急ブレーキで前のめりになった。強い衝撃が走ったが、柊也が咄嗟に詩織を抱きすくめたため、彼女はかすり傷ひとつ負わずに済んだ。しかしその分、彼の腕が前方のパーティションに強く打ち付けられ、ドスッと重い音が車内に響き渡る。車が完全に停まるなり、自身の痛みには目もくれず、柊也は真
拉致され、目隠しをされていた恐怖の中、確かに銃声を聞いた。自分を抱き起してくれた人物が、撃たれたこともはっきりと覚えている。その後、賀来の邸宅で松本さんが彼の傷の手当てをしているのを見たとき、詩織はひどく自嘲したのだった。この人は、真実の愛のためなら命すら惜しくないのね。それに比べて、私のこの七年間の献身なんて、彼にとっては一文の価値もないんだわ。「誰もが、俺はこの傷を志帆のために負ったと思っている」柊也は静かにつぶやくと、詩織の手を取った。そして、その指先をゆっくりと、自身の腕に残る古い傷跡へと押し当てた。「だけど、違う。この傷は……お前を護るために刻まれたものだ。柏木志帆とはまったく関係ない」彼の熱い体温と確かな鼓動が、指先から伝わってくる。「あの日、お前が本港市の空港を出発する前、志帆の母親である佳乃とトラブルになっただろう。あの女はそれを根に持ち、裏社会の人間を使って本港市でお前を拉致し、報復しようとした。高坂剛太郎からその裏情報を得た俺は、わざと婚約式の衣装を台無しにして、『代わりの衣装を調達する』という口実で島を抜け出し……お前の元へ駆けつけたんだ」事件から五年という月日が流れてもなお、その時のことを語る彼の声には、隠し切れない恐怖と安堵が滲んでいた。間に合って本当によかった。彼女が無事で、本当によかった。彼の腕に触れている詩織の手のひらは、小刻みに震えていた。胸の奥で複雑な感情が荒波のように渦を巻き、どうやっても鎮めることができない。瞳の奥に抗いがたい熱が集まり、それはやがて透明な滴となって、長い睫毛の先からぽろぽろとこぼれ落ちた。堪えようとすればするほど、感情の波はより一層激しく押し寄せてくる。「……痛かったでしょう?」喉の奥が詰まり、絞り出した声はひどく震えていた。柊也は少し驚いたように目を見張った。真実を証明したかっただけで、決して彼女を泣かせたかったわけではないのだ。小さくため息をつくと、彼は身を屈め、彼女の濡れた瞼にそっと唇を落とした。じんわりとした熱と、微かな塩気が唇に伝わる。「泣くなよ。こんな傷、とうの昔に治ってる」子供をあやすような低い声で囁いたが、優しい言葉をかければかけるほど、彼女の涙は後から後から溢れてくる。――しまったな。柊也は内心で酷く狼狽
信じられないというように詩織が呆れると、柊也は声を出して笑った。「俺だって神様じゃない、ただの男だぞ。片思いくらいするさ」「そういう意味じゃないわ。当時のあなたの立場や環境なら、好きになったら堂々と追いかけて、告白すればよかったじゃない。わざわざ陰からこっそり見つめるような真似、あなたらしくないわ」そこまで言ってから、詩織はハッとして付け加えた。「でも……それには一つ条件があるわね。相手が成人していること。未成年相手の恋愛は犯罪だもの」柊也は少し考えるような素振りを見せてから、静かに答えた。「俺が彼女に出会った時、彼女はまだ……未成年だったからな」その言葉に、詩織はピタリと動きを止めた。彼女の記憶のタイムラインでは、柊也と初めて出会ったとき、彼女はすでに成人していた。つまり、柊也が「未成年の頃から片思いしていた」相手というのは、間違いなく自分ではない、別の誰かだということになる。どういうわけか、その事実を突きつけられた瞬間、詩織の胸の奥にじわりと苦いものが広がった。誤魔化すように視線を窓の外へ逸らし、彼に弄ばれていた自分の髪の毛を不意に引き抜く。突然空を掴んだ柊也の掌を、冷ややかな空気がすり抜けていった。車内の温度が、急激に下がったような気がした。彼女が身を引けば、彼が距離を詰めてくる。後部座席の片側に、ほとんど寄り添うようにして二人は押し込められた。詩織は顔を背けたまま、感情の読めない平坦な声で告げた。「……もういいわ。あなたの過去の恋愛事情なんて、興味ないから」何年もの付き合いがあるのだ。今の彼女が明らかに機嫌を損ねていることなど、柊也には痛いほど分かっていた。彼は強引に手を伸ばし、背けられた詩織の頬を両手で包み込んで、無理やり自分の方へと向かせた。いつもの気だるげな響きは消え、その双眸には射抜くような真剣な光が宿っている。「一つだけ、はっきりさせておく」低い声が、車内に響いた。「俺は、柏木志帆を愛したことなんて一度もない」「……最初から最後まで、欠片すらな」詩織の抗うような動きが、ピタリと止まる。――その言葉はつい最近、志帆の従妹である美穂の口からも聞かされたものだった。だが、あの時は本気で受け取ろうとはしなかった。「百聞は一見に如かず」と言うではないか。柊也が志帆にどれほ
柊也は眉をひそめた。何がおかしいのか全く見当がつかない。 すると小林は、もったいぶるように後部座席のドアをガチャリと開けてみせた。車内から、聞き慣れた着信音が漏れ聞こえてくる…柊也の足がピタリと止まった。後部座席には、詩織が座っていた。彼女は小首を傾げ、静かにこちらを見つめている。その手のひらには、着信を知らせて画面が点滅するスマートフォンが握られていた。西の空は燃えるような夕霞に染まっていたが、彼女の瞳の奥に宿る柔らかな光に比べれば、どんな美しい夕暮れの色も色褪せて見えた。彼女からこんな穏やかな眼差しを向けられるのは、いったいいつ以来だろうか。校門前を行き交う人々のざわめきも喧騒も、今の柊也には一切届かない。今の彼の世界には、ただ一人、彼女しか存在していなかった。「……乗る車を間違えたんじゃないのか?」詩織は片眉をぴくりと上げ、からかうように返した。「じゃあ、今すぐ降りようか?」柊也の精悍な顔立ちに、余裕たっぷりの甘い笑みが広がる。「もう遅い。ここは一度乗ったら最後、そう簡単には降りられない特等席なんだ」彼はなめらかな動作で車に乗り込み、詩織が外へ逃げる最後の退路を自らの体で完全に塞ぎ込んだ。運転席の小林がエンジンをかけるより早く、後部座席から柊也の低い声が飛んだ。「小林、ドアを全部ロックしろ。蚊一匹たりとも車外に逃がすな。もし逃がしたら、お前の首が飛ぶと思え」「…………」小林は言われた通り、即座にすべてのドアをカチャリとロックした。退路を断たれた詩織は、少し恨めしそうにルームミラー越しに小林を見た。「アイツを睨むなよ。給料を払ってるのは俺なんだから、文句があるなら俺に言え」柊也は背もたれに深く寄りかかりながら、身体の半分を彼女の方へと傾けてくる。その表情は酷く気だるげで、瞳の奥には悪戯っぽい光が揺らめいている。小林がビクビクしながら、ルームミラー越しに詩織の様子を窺う。詩織は呆れたように大きなため息をつきつつ、今度は柊也を横睨みした。「……別に、運転手さんを責めてなんかないわよ」彼女の冷ややかな態度などどこ吹く風で、柊也はすっと指を伸ばし、彼女の耳元にかかる後れ毛をすくい上げた。さらりとした髪の感触を指先で弄びながら、甘く囁く。「俺たち離れ離れになって、これでちょうど336時
京介の痛切な問いかけに対し、詩織の眼差しはどこまでも凪いでいた。感情の波一つ立たない、静かで、そしてどこか残酷なほどに穏やかな瞳だった。「いいえ」少しの間を置いて、彼女は真摯に言葉を紡いだ。「私は誰のことも、待ってなんかいません」それは強がりでも、嘘でもなかった。この数年、詩織だって新しい恋をしようとしなかったわけではない。ミキが口を酸っぱくして言っていたように、過去の呪縛を断ち切り、新たな出会いへと踏み出そうとした時期は確かにあった。実際、彼女の身の回りには好意を寄せてくれる優秀な男性たちもいた。しかし、どういうわけか、いつも最後にほんの少しの『縁』が足りなかったのだ。京介に対する感情も例外ではなかった。かつては確かに彼の優しさに心が揺らいだ瞬間があり、彼となら新しい人生を歩めるかもしれないと思ったことさえあった。けれど――結局は、ボタンの掛け違いのようにすれ違ってしまった。何度かのすれ違いを経験するうちに、彼女は誰かと道が分かれることに慣れてしまったのだ。他愛のない期待を抱くのをやめ、ただ自分のペースで、一歩ずつ前に進むことだけを選んだ。人生という道の上で、すれ違う人々はまるで走馬灯のように現れては消えていく。それでも詩織は、もう二度と誰かのために自分の足を止めることはなかった。それは、柊也に対しても同じはずだった。「でも、君はさっき、明らかに……!」京介は焦燥しきった声で、食い下がるように身を乗り出した。一拍置いて出かかった言葉を飲み込み、何とか別の表現を探り当てる。「……明らかに、彼を気にしていただろう」隣に座っていたからこそ、京介には彼女の微かな変化が痛いほどよく見えていたのだ。最初は柊也のことなど一瞥もしていなかったのに、学長と短い会話を交わした直後から、彼女の視線はどうしようもなく彼を追うようになっていた。「それでも、彼を待っていたんじゃないと言うのか?」悲痛な響きを帯びた追及にも、詩織は静かに首を横に振った。「ええ、待っていません」「……」「正確に言うなら――彼の方が勝手に先回りをして、私の行く先で待ち伏せしているだけです」その毅然とした一言に、京介は息を呑み、完全に言葉を失った。彼が先回りしているだけ。その事実を突きつけられ、
店主と一緒に路地へ戻ったとき、そこにはもう誰の姿もなかった。冷たいコンクリートの上に、詩織のリュックと上着だけがぽつんと取り残されていた。その夜の恐怖は、彼女の心に深い傷を残した。しばらくの間は夜の居残り勉強に出ることもできず、昼間に同じ道を通るときでさえ、言いようのない不安に襲われた。いつも誰かに後ろをつけられているような気がして、何度も振り返る。だが、そこには誰もいない。ただの思い過ごしか、恐怖が作り出した幻覚なのだと自分に言い聞かせるしかなかった。やがて事情を知った京介が、彼女の帰宅に付き添ってくれるようになった。ある日のこと、以前助けを求めた商店の店主に鉢合わせると、並んで歩く二人を見て、店主は「おや、彼氏かい?」と親しげに笑いかけてきた。ちょうどその時、店内にはあの工業高校の制服を着た男子生徒が買い物をしていた。詩織は変に絡まれるのを避けるため、つい「ええ。危ないからって、毎日迎えに来てくれるんです」と話を合わせてしまった。店主は京介に向かって、感心したように何度も頷いてみせた。「……それで、それが賀来社長とどう繋がるのですか?」須藤学長の声が、詩織の意識を現実へと引き戻した。「それが、大いに関係がありましてね」学長は懐かしむように話を続けた。「ある夜、その不良グループが一人の少女を執拗に追い詰めていたところを、賀来君がひとりで叩きのめしたんです」「彼もまだ十八か十九そこらの頃でしょう。八人を相手にたった一人で立ち向かったのだから、当然、無傷とはいかなかった。結局、半月ほど入院する羽目になりましたが、あのアバズレ共も相当こっぴどくやられたようでしてね」「生活指導主任だった私は、学校側の責任として謝罪や警察の対応に奔走しましたよ。それからは関係各所の厳しい監視の下、問題児の指導と周辺住民の安全確保のために、死に物狂いで警備体制を立て直したものです」学長のその言葉を聞いた瞬間、詩織は息を呑んだ。確かに思い返せば、あの事件の直後、学校の周辺には警察の防犯拠点がいくつも新設されていた。あんなに恐ろしかった暗い近道にも、等間隔に明るい街灯が立ち並び、防犯カメラまで設置され、見違えるほど安全な道へと変わったのだ。治安が劇的に改善されたことで、詩織はほどなくして京介の付き添いを断り、再び一人で帰宅す
志帆は慌てて後ろを振り返り、悠人に視線を送った。その目には懇願の色があった。悠人はさらに値を吊り上げるつもりでいたが、志帆のその眼差しを受け止めると、挙げかけた手をゆっくりと膝に戻した。これ以上は追わなかった。結局、その書画は20億円で落札された。隣で見ていた譲も、さすがに舌を巻いた。「柊也のやつ、派手にやりすぎだろ。結納の品だけで40億円だぞ?持参金はさらに跳ね上がるだろうし……お前がそんなにハードル上げたら、俺たちの立つ瀬がないだろうが」目当ての品が二つとも手に入らなかった以上、長居は無用だ。詩織は席を立つと、譲に声をかけた。「坂崎さん、私はこれで失礼します。用事があり
だが譲はのらりくらりと理由をつけては逃げ回り、美穂には指一本触れようとしなかったのだ。それなのに、詩織とはあんなに楽しそうに……柊也と自分が入ってきても気づかないなんて、どれだけ夢中になっているのよ。もしかして、譲は江崎詩織に気があるの?まさか。そんなわけない。確かに詩織は美人だし仕事もできるけれど、天下のサカザキの御曹司を本気にさせるほどの女じゃないわ。考えすぎね。そういえば、太一が言っていたじゃない。「譲には想い人がいる」って。詩織とは単なるビジネス上の付き合いで、それ以上の感情なんてあるはずがない。詩織ごときに、譲のようなハイスペックな男を落とす魅力な
「俺は、婚約する」「……は?」その瞬間、詩織はこの手にある荷物をすべて彼の顔面に叩きつけてやりたい衝動に駆られた。これが、重要な話?頭、どうかしてるんじゃないの!詩織が怒りを爆発させる前に、柊也が言葉を継いだ。「父さんはこの結婚に反対しているし、婚約式に出る気もない。俺にも無理強いはできない……今の父さんの体調じゃなおさらだ。松本さんも言っていたが、最近は食事も進まないようで塞ぎ込んでいる。だから、頼みがあるんだ」「私に説得しろって言うの?おじさまに式へ出席するように」詩織は、まるで狂人を見るような目で彼を見据えた。柊也は言葉を切り、首を横に振った。「違う。時間
なるほど。あの大金を叩いてこの書画を落札したのは、志帆のために父親の歓心を買おうとしてのことだったのか。どうりで、あんな異常な金額をポンと出せたわけだ。「だからって、画に八つ当たりすることないじゃないですか。すごく高価なものなのに、捨てるなんて勿体ないですよ」詩織が心を痛めているのは、もっぱらこの芸術品の行く末についてだけだ。「なら、詩織が処分してくれ。フリマアプリか何かで20円で売っ払ってしまえ。ここに置いてあるだけで目障りだ」海雲の本気だ。もし今日詩織が来なかったら、この名画は明日には本当にゴミ処理場行きだっただろう。「20円だなんて、あまりにも損ですよ」「損なもの







