LOGIN――きっと、すべてはアルコールのせいだ。あるいは、雨の夜の湿気めいた空気が、人を甘く狂わせているだけなのかもしれない。詩織は、自分の中にある衝動を抑えきれなくなっていた。柊也は顔を近づけてはきたものの、唇を重ねようとはしない。ただ、互いの熱を帯びた吐息が、ごく近い距離で絡み合うだけだった。彼はかつてないほどの凄絶な忍耐力で、その瞬間に耐えていた。彼に覆い被さられるようにして狭い車内の空間に閉じ込められ、詩織の胸の鼓動は激しく鳴り続けている。彼女の体勢からキスをするには、上半身を少し浮かせ、背筋を伸ばして彼を仰ぎ見る必要があった。だが、彼女は動かなかった。代わりに手を伸ばし、彼のネクタイをそっと掴み――ほとんど力を入れずに、彼を引き寄せた。そして、迷うことなく顎を上げ、自らその唇に触れた。その瞬間、柊也の中で必死につなぎ止めていた理性の糸が、音を立てて灰燼に帰した。彼女の唇が触れたか触れないかの刹那、彼は受け身から一転して圧倒的な攻勢に出た。詩織がわずかでも戸惑う隙すら与えない。彼女のうなじを太い指で強く固定すると、荒々しく唇を塞ぎ、強引に彼女のすべてを支配した。容赦のない、野蛮なまでの口づけだった。それはもはや、相手から何もかもをもぎ取ろうとする『略奪』そのものだった。彼女の心ごとその呼吸を、彼は激しく奪い尽くしていく。たちまち酸欠状態に陥った詩織は息を詰まらせ、彼のネクタイを握りしめていた指先の力を、弱めてはまた強く握り込んだ。やがて限界を迎え、仔猫のように抗議のサインとして彼の胸を小さく引っ掻く。それに気づいて、柊也はようやく唇を離した。額と額を重ね合わせ、鼻先と鼻先が親しげにこすれ合う。吐息はまだ、すぐそばで熱を交わし合っていた。詩織の瞳はすっかり霞み、潤んだ水面のように揺れている。柊也の親指の腹が、赤く腫れた彼女の柔らかな唇をそっと撫でた。鋭い喉仏が上下にゆっくりと滑る。「……嘘つきだな。あんなにも甘かったじゃないか」彼が指しているのは、レモネードのことではなく、彼女の唇のことだ。無意識に、詩織は自分の下唇を舌先でぺろりと舐めた。その仕草だけで、狭い車内の温度がさらに数度跳ね上がった。柊也の眼光が途端に暗く沈む。次の瞬間、再び嵐のようなキスが情赦なく押
「他に誰がいるのよ。あんたの『お料理の師匠』よ」「…………」詩織さんも、たまには冗談を言うんですね……だが、まさに噂をすれば影、である。外の湿った空気とともに、柊也が姿を現した。天井に連なる巨大なクリスタルシャンデリアが眩い光を放ち、その輝きが墨をこぼしたような影となって彼の端正な佇まいに降り注ぐ。彼は迷いのない足取りで詩織の元へ歩み寄ると、密から引き継ぐように、極めて自然な動作で彼女を抱き上げた。詩織の長い髪が重力に従ってこぼれ落ち、しなやかな髪筋が音もなく彼の腕に絡みつく。彼女は腕の中で首を傾けながら、じっと彼を見つめた。薄暗い照明と華やかな喧騒、そのすべてがこの男の顔にはよく似合う。柊也もまた彼女の瞳を見つめ返し、その奥に柔らかな笑みを浮かべた。「……何を見ているんだ?」詩織は答えず、代わりに指先を伸ばして彼の彫りの深い眉をなぞった。高い眉骨が、その下の涼やかな目元をより深く、情熱的に見せている。誰を――たとえそれが一匹の犬であっても、慈しむように見つめてしまう罪な瞳。「酔ったのか?」ふわりと漂う淡い酒の匂いに、柊也が尋ねた。「酔ってない。知ってるでしょ、私がお酒に強いことくらい」詩織が即座に否定すると、柊也はたまらずといった風に吹き出した。「なるほど。これだけはっきり『酔ってない』と言い張るなら、相当飲んだみたいだな」「……私が酔わなきゃ、あなたに迎えに来るチャンスなんてないでしょう?」詩織が小さく不満を漏らすと、柊也の喉仏がわずかに震えた。「……ほう。じゃあ、わざと酔い潰れて、俺に機会を作ってくれたのか?」詩織は彼の胸に顔を埋め、語尾を濁した。「……そんなわけないじゃない」「はいはい、そうだな」柊也は愛おしさを噛みしめるように応じると、壊れものを扱うような手つきで彼女を車に乗せた。詩織を座席に落ち着かせると、彼は用意していた特製のレモネードを差し出した。一口含んだ途端、詩織は整った眉をぐにゃりと歪めた。「……酸っぱい」「そんなはずはないだろう?」即座に柊也が否定する。彼女好みの味にするために、彼はこれまで何度となくレモネードを作ってきた。目分量だけで完璧な黄金比を再現できる自信がある。味見をするまでもなく、それが彼女の好きな甘酸っぱさであるはずだった
坂崎の言葉に、その場にいた一同だけでなく、詩織も興味を惹かれた。坂崎はゆったりとした口調で続けた。「単なる秘書の一人なら、私もそこまで注目はしなかったでしょう。あの日、賀来社長が『どうしても紹介したい人材がいる』と私を離さなかったんですよ。彼は会場中を歩き回ってあなたを探し、最後には電話でわざわざ呼び出した。私は、あの彼がそこまで熱心に推す人物とは一体何者だろうか、と強く興味を惹かれたわけです」坂崎は穏やかな視線を詩織に向けた。「後に、あなたが『ココロ』のプロジェクトを抱えて私を訪ねてきた時、ようやく確信しましたよ。ああ、あの男がここまで惚れ込んだ才能は、本物だったんだな、と」坂崎の話に、詩織の思考は一瞬だけ止まった。――思い出した。あの日、祝賀会の運営に追われていた彼女は、胃の激痛に襲われていた。あまりの辛さに耐えかね、ラウンジの隅で白湯を飲み、身体を丸めるようにして休んでいたのだ。ところが、痛みが引く間もなく柊也から電話がかかってきた。その時の彼の声は、どこまでも冷酷で厳しかった。疲労困憊の彼女を気遣う素振りすら見せず、冷たくどこにいるのかと問い詰め、「今すぐここへ来い」と命じたのだ。てっきり、自分を酒席の相手か何かの穴埋めに呼び出したのだとばかり思っていた。今の今まで、そう信じて疑わなかった。坂崎の話は、以前、沙羅から聞いた話と奇妙に符合した。沙羅も打ち明けてくれたことがあった。最初の2億円は個人的な友情から出資したが、その後の巨額の投資に関しては、柊也の強力な後押しがあったからだと。坂崎が詩織への投資を決めた裏側にも、やはり柊也の影があったのだ。ようやく、隠されていた真実の片鱗が見えてきた。当時、彼女は彼に傷つけられた痛みゆえに、自分が見たい一面……「冷酷な彼」しか直視していなかったのだ。今や一流のヘッドハンティング会社を経営する城戸も、酒席で坂崎の話に乗っかってきた。「いや、それだけじゃないですよ」と手を振って笑う。「あの頃の投資界隈じゃ、江崎さんのプロジェクトが難航してるって噂でもちきりでした。みんな様子見を決めていて、手を出そうとはしなかった。それどころか、わざわざ賀来社長に探りを入れた奴らもいたくらいです」当時の柊也の返答は、実に明快なものだったという。『あれは素晴ら
妖しげなネオンが瞬き、喧騒に包まれたレストランの中にあってなお、彼の放つ圧倒的な魅力は少しも揺らぐことはなかった。こういうコンセプトのレストランを利用する客の九割以上は女性だ。しかも、最初から「目の保養」を目当てに来店している彼女たちにとって、店内にこれほどの『極上』が座っていれば、ステージの上の男たちなどもう眼中にない。中には度胸のある女性客が、直接彼の席へ向かい連絡先を聞き出そうとしていた。だが、柊也はそれらをすべて冷ややかにすげなく断っていた。その様子を横目で確認して以来、詩織はどうしても彼のほうを頻繁に見てしまうようになっていた。そして、視線を向けるたびに、必ず彼と目が合うのだ。そのたびに詩織は、居心地の悪さを誤魔化すように慌てて目を逸らした。――だが、そんなことを何度も繰り返していれば、いつかボロが出るのは当然のこと。何度目かに顔を上げた時、ぶつかったのは柊也の視線ではなく、ミキの鋭い眼差しだった。ミキは二人の視線の間に強引に割り込むように、長い首を限界まで斜めに傾けてこちらを覗き込んでいた。その顔にははっきりと、『ほら、やっぱりね』と書かれている。詩織はサッと視線を落とし、コップの水を飲んで動揺を隠そうとした。しかし、そんな小細工で誤魔化されるミキではない。彼女は姿勢を正して腕を組み、ふんぞり返った。「さあ、洗いざらい白状しなさい。一体どういうこと?私たちが店に入って十分もしないうちに、なんであのクズ也が現れるわけ?」「……ただの偶然じゃない?」ミキは鼻で笑い、口元を皮肉げに歪めた。「そんな都合のいい偶然がしょっちゅうあってたまるもんですか。私がそんな子供騙しを信じるとでも?」「江ノ本市なんて人口三千万人もいる大都市よ?ここでピンポイントに偶然鉢合わせる確率なんて、ほぼゼロに等しいわ。言い訳にするにも無理がありすぎる!」無理がある、か。だが、かつての自分は……あの頃、行く先々で柊也と志帆の二人に遭遇していた。接待やビジネスサミット、投資先の開拓、さらには立ち上げようとしている新規プロジェクトのジャンルまで、すべてが被っていたのだ。同じ市内はおろか、地方出張先で出くわすことすらあった。当時の詩織自身も「こんな偶然、あり得ない」と思っていた。それでも、それが現実だ
口を滑らせたことに気づいたミキは、咄嗟に出まかせを並べ立てる。「ほ、ほら、前に海に行ったじゃない!あの時、あの人が毎日泳いでたからよ。あんな極上の目の保養が転がってるのに、スルーするなんて女が廃(すた)るでしょ?」もっともらしい言い訳に、詩織はそれ以上深く追求することなく納得したようだった。ミキが退屈そうに欠伸を噛み殺していた、その時だ。視界の端に、あまりにも見覚えのあるシルエットが映り込んだ。同時によく知る声が響き渡る。店内に足を踏み入れるなり、その光景に度肝を抜かれた太一の声が裏返った。「おい柊也!お前、いつからこんなメンズパブみたいな店に興味持つようになったんだよ!?」わざわざ遠くにいた自分を呼び出し、「飯を奢る」と言われて連れてこられたのが、まさかのマッチョ・レストラン。もしや柊也は、江崎に振られすぎて絶望し、そっちの道に目覚めてしまったのでは……?必死に慰めの言葉を探そうとした太一だったが、柊也の冷徹極まる一瞥を食らい、その言葉を喉の奥に引っ込めた。太一は気まずそうに鼻を擦った。どうやら、そういうわけじゃないらしい……じゃあ一体何しに?ふと、嫌な予感がよぎり、太一は恐る恐る柊也を仰ぎ見た。「……待てよ。まさか俺に彼女がいないからって、お仲間だと勘違いしてないよな!?俺は鋼鉄のように真っ直ぐなストレートだからな!?」俺はただ、一人の女に執着して身を滅ぼしたくないだけなんだ。俺の何が悪い。「飯を奢ってやるって言ってるんだ。黙って座れ」柊也は太一のことなど眼中にないといった様子で、さっさと席についた。そこは、詩織のテーブルのすぐ隣。無視しようにも不可能なほどの、至近距離だった。太一はここでようやく詩織の姿に気づき、一瞬ぽかんとした後、すべてを察した。なるほど、目的は江崎の方だったというわけか。彼は律儀にも詩織に向かって声をかけた。「どうも、江崎先生」詩織は「???」と頭にハテナを浮かべた。先生って何よ?ミキは柊也のことを敵視しているため、その連れである太一のことも当然気に入らない。類は友を呼ぶ、というやつだ。あからさまに嫌そうな顔をして、チクリと毒を吐いた。「……食欲が失せるわ」太一はグッと堪えた。何せ、あの柊也でさえ詩織の手前、あえて逆らわずに一歩引
詩織はますます頭が痛くなってきた。 「……どっちでもいいわよ、別に」「じゃあ、『カイ』にしよう。俺の名字の『賀来』の、賀の字の下半分だ」朝食後、詩織はオンラインで会議を一件こなした。仕事がひと段落してリビングに出ると、柊也がいつの間にかキッチンに入り込み、昼食の準備を始めている。食材は彼がネットスーパーの宅配で揃えたらしい。肉に野菜にフルーツと、とにかく栄養バランスを重視したらしい豪華なラインナップだ。キッチンから漂ってくる美味しそうな匂いに、普段なら仕事にしか向かない詩織の意識が、ふと宙に浮いたように逸れた。どうしてだろう、言葉にできないほどの安らかな感情が胸を満たしていく。目の前でエプロン姿の彼が料理をしている――この日常的で温かな光景こそ、かつての彼女が喉から手が出るほど渇望していたものだった。だが……今はもう、純粋に彼を想っていたあの頃とは、何もかもが変わってしまったのだ。胸に押し寄せる感傷を振り払うように、詩織は気分を変えようと立ち上がった。しかし、コーヒーメーカーの前に立った瞬間、柊也が湯気を立てるマグカップを持ってキッチンから出てきた。「コーヒーはやめて、これを飲め」「……ただの眠気覚ましよ」彼女は毎日この時間になると、決まって氷をたっぷり入れたアイスのブラックコーヒーで気合を入れるのが日課だった。「日向先生が言ってたぞ。生理痛が酷かったり周期が乱れたりするのは、普段から冷たいものばかり飲んでるのも原因だから、体質を改善しろってな」そう言って、柊也は温かい黒糖ジンジャーティーの入ったカップを彼女のパソコンの脇に置くと、無言で詩織の手からコーヒー用のカップをあっさり奪い取った。さらにそのまま手を伸ばし、彼女の頬を軽くふにふにと摘まむ。まるで小さな子供を甘やかすような、どこまでも優しく響く声だった。「ほら、いい子だから言うことを聞け」そのあまりに柔らかい声と切なげな眼差しに絆され、詩織は完全に思考をショートさせられてしまった。促されるまま、無意識に温かいジンジャーティーを口に含んだ瞬間、ハッとして自分が手玉に取られたことに気づく。あの狡猾な男……!あろうことか、自分の顔の良さを最大限に利用して『色仕掛け』を使ってきやがったのだ。雑誌の編集者との打ち合わせを終えたミキから
「詩織」と、まるで本当の娘のように名を呼び、自身の人脈を紹介し、大きなプロジェクトに関わらせようとしている。嫉妬するなというほうが無理な話だ。志帆は柊也を見上げて尋ねた。「ご挨拶に行かなくていいの?」柊也は静かに首を横に振る。「よそう。最近、親父は俺のことを良く思ってない。行っても嫌な顔をされるだけだ」「……そう」志帆は気まずそうに頷くしかなかった。先輩たちを見送った詩織は、ようやく自分の帰宅手段を確保しようとスマートフォンを取り出し、アシスタントの密に連絡を入れようとした。だが、電話をかける前に、一台の黒塗りのセンチュリーがしめやかに目の前に停まった。後部座席のド
詩織の全身が、まるで内側から光を放っているようだった。会場のすべての視線が、彼女一人に引き寄せられる。誰もが、彼女を見ていた。ふと振り返ると、柊也がその光景に我を忘れたように見入っている。その横顔を見て、志帆の顔からさっと血の気が引いた。ドレスの脇で垂れ下がっていた手が、ゆっくりと固く握りしめられる。爪が掌に食い込む痛みも感じなかった。この瞬間、自分がひどく滑稽な道化のように思えた。詩織が何を語っているのか、もう一言も耳に入ってこない。志帆はかさついた唇をなんとか動かし、絞り出すように彼の名を呼んだ。「柊也くん……気分が悪いわ。もう、帰りましょう」幸いにも、柊也はす
詩織はこの日のために、わざわざスケジュールを空けていた。すべては海雲への敬意とお祝いのためだ。以前、柊也からこの件について水を向けられた際は無視を決め込んだが、それは単に彼の相手をするのが億劫だったからに過ぎない。今日の訪問は、あくまで詩織個人の意思であり、柊也の「ついで」などでは決してなかった。賀来家の屋敷を訪れるのはずいぶんと久しぶりだが、その静謐な佇まいは記憶の中と変わっていない。門はわずかに開かれており、少し力を込めるだけで詩織を招き入れてくれた。リビングの掃き出し窓越しに、ソファに腰掛けた海雲がこちらの姿を認める。彼が傍らに控える家政婦の松本に何かを囁くのが見えた
志帆が駆けつけたとき、柊也は道端の花壇の縁に腰かけ、一人で煙草を吸っていた。もうほとんど燃え尽きそうなそれを、彼はただ指先に挟んだまま、動こうとしない。夜風が吹き抜けていく。火の粉を散らした灰が、手の上にぽとりと落ちた。じり、と焼けるような熱さに、思わず手が震える。彼は遠くへ向けていた視線を、自分の手元に戻した。痩せた手の甲に、煙草の火が残した赤い痕が、くっきりと浮かんでいる。痛みは、感じなかった。彼はただ、短くなった煙草を再び口にくわえ、麻痺したように数回、煙を吸い込んだ。そしてようやく、燃え尽きた吸い殻を花壇の土に押し付けて、火を消した。「柊也くん」 ようや