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第3話

Penulis: 北野 艾
詩織が資料を配り終えて振り返ると、志帆はすでに席に着いていた。

けれど、そこはいつも詩織が使っている、社長の隣の席だった。

一瞬、詩織は息を呑み、そこは自分の席だと伝えようと口を開きかけた。

だが、それを遮ったのは柊也の声だった。「お前は今後、向こうの席を使え」

志帆が、申し訳なさそうに詩織へ微笑みかける。「ごめんなさいね。私、入ったばかりで分からないことだらけだから、柊也くんにすぐ質問できるよう、隣の方が都合がいいかなって」

柊也自身にそう言われてしまえば、詩織に反論の余地などあるはずもなかった。

彼女は黙って自分の書類をまとめると、ノートパソコンを抱えて部屋の隅の席へと静かに移動した。

その間、会議室にいる誰もが息を殺し、一言も発さない。けれど、突き刺さるような視線だけははっきりと感じられた。皆の目に浮かぶあからさまな同情が、かえって針のように詩織の背中を刺す。

まるで、針の筵に座らされているかのようだった。

会議が中盤に差し掛かった頃、柊也があるプロジェクトについて、厳しい声で問い質した。

「この案件、なぜ今になっても進捗がないんだ。担当は誰だ」

彼のことをよく知る者なら、それが怒りの兆候だとすぐに分かった。会議室は氷ついたように静まり返る。

張り詰めた空気の中、詩織がすっと立ち上がった。「……はい。私の担当です」

氷のように冷たい視線が、詩織を射抜く。その声は、底冷えするほどに厳しかった。

「理由を聞かせろ」

「申し訳ありません。数日前から体調を崩しておりまして、プロジェクトの進行が遅れて……」

詩織が言い終わる前に、柊也の怒声が飛んだ。「そんなものは理由にならん!どんな人間であれ、私的な事情で業務を滞らせることは許さないと、何度も言ったはずだ!それがこの会社のルールだろうが!」

詩織は唇をきつく結び、それ以上の言葉を飲み込んだ。ただ静かに、こう告げる。「……すぐに、遅れを取り戻します」

その返事を聞いて、柊也はフンと鼻を鳴らし、ようやく満足したようだった。

会議が閉会する直前、柊也が全員に向けて声をかけた。

今夜、『リヴ・ウエスト』で柏木さんの歓迎会を開く。会社を挙げての歓迎会だ、ぜひ全員参加してほしい、と。

『リヴ・ウエスト』といえば、この街で最も格式の高い会員制クラブで、その料金も桁外れだ。

破格の待遇と言っていい。

それだけで、柊也がいかに志帆を特別扱いしているかが、嫌でも伝わってきた。

その事実を目の当たりにし、他の社員たちも志帆のことを一目置かざるを得なかった。

普段は少し鈍感な密ですら、そのただならぬ雰囲気を察していた。

会議室の片付けを手伝いながら、彼女はそっと詩織に尋ねた。「詩織さん……大丈夫、ですか」

密は、詩織と柊也の関係を、薄々ながら感づいている数少ない人物の一人だった。

詩織は努めて平静を装って答える。「ええ、大丈夫よ」

「でも、なんだか顔色が……真っ白ですよ」密が心配そうに詩織の顔を覗き込む。

詩織は自分の頬に触れた。「そんなに、わかる?」

密はこくりと大きく頷く。「はい、はっきりと」

「ちょっと胃の調子が……いつものことよ、持病みたいなもの」詩織は、咄嗟にそう言って誤魔化した。

「じゃあ、今夜の歓迎会はどうします?」

詩織は少し考えてから、答えた。「私は、やめておくわ。悪いけど、社長にはそう伝えておいてくれる?」

それでいいのだ、と詩織は自分に言い聞かせた。

どうせ、柊也は全社員を招いて、志帆の歓迎会を開くのだ。大勢いるのだから、自分一人が欠けたところで、誰も気にも留めないだろう。

いいや、今の柊也は、きっと私のことなど思い出しもしない。私が行こうが行くまいが、彼にとっては些細なこと。何の違いもないのだ。

「その方がいいですよ。早く帰って、ちゃんと休んでくださいね。体がいちばんですから」密が心から気遣うように言った。

詩織は自嘲気味に思った。アシスタントの密にさえ、私の不調は一目でわかるというのに。

誰よりも深く肌を重ねてきた柊也は、それに気づかない。

今までは、自分に言い聞かせることができた。彼は仕事人間だから、細かいことには気づかないだけなのだ、と。

けれど、もう……もう、そんな嘘で自分を慰めることはできそうになかった。

まるで、そんな詩織の心を嘲笑うかのように、きり、と胃が鋭く痛んだ。

けれど、手元の仕事はまだ山積みだ。詩織は胃薬を数錠、水なしで無理やり喉の奥に押し込み、なんとか痛みをやり過ごすしかなかった。

どうにか終業時間まで耐えきり、詩織は家に辿り着くと同時に、ベッドに倒れ込むように体を丸めた。指一本動かす気力さえ、もう残っていなかった。

心も体も、すり減って限界だった。

しばらくそうして体を丸めていると、強張っていた体が僅かに弛み、そこへどっと眠気が押し寄せてくる。

今はただ、眠ってしまいたい。ぐっすり眠れば、少しは楽になれるかもしれない。詩織は朦朧とする意識の中でそう思った。

だが、眠りに落ちた直後、けたたましい着信音が鼓膜を突き刺した。

それは、柊也だけのために設定した、特別な着信音。

かつては心を躍らせたはずのその音が、今はただの拷問のように響く。

出たくない。詩織は目を閉じたまま、それが鳴り止むのをじっと待った。

柊也は短気だ。一度出てこなければ、二度とかけてくることはない。今までは、ずっとそうだった。

しかし、その日に限って、彼は自らの原則を破った。

一度目が切れ、静寂が戻ったのも束の間、再び同じ音が鳴り響く。

こうなっては、さすがに出ないわけにはいかない。

「……社長、何か御用でしょうか」詩織は、自分でも驚くほど冷たく、他人行儀な声でそう言った。

これまでの彼女とは、まるで別人だった。

受話器の向こうから聞こえてきたその声に、柊也は思わず眉を顰め、スマートフォンの画面に視線を落とす。表示されている名前は、間違いなく『江崎詩織』だ。かけ間違えたわけではない。「……お前、どこにいるんだ」

柊也の問いに、詩織は淡々と答えた。「体調が優れないので、今日は失礼します。皆さんで楽しんでください」

それだけを言うと、詩織は通話を切ろうとした。

しかしその瞬間、受話器の奥から、甘えるような志帆の声が割り込んできた。柊也に話しかけているのがわかる。

「江崎さんはいらっしゃらないの? ねぇ柊也くん、もしかして私、歓迎されてないのかしら」

その言葉に続くように、柊也の凍てつくように冷酷な声が、詩織の耳を打った。「詩織、偉そうな態度はやめろ。全員揃っているのにお前だけ来ないとは、自分が特別だとでも言いたいのか」

「私は……っ」

「二十分やる。もし来なければ、明日から会社に来なくていい」

それだけを一方的に告げると、通話は乱暴に断ち切られた。

ツー、ツー、という無機質な音を聞きながら、詩織は乾いた笑いを漏らしそうになった。

たかが歓迎会を一つ欠席しただけで、あの男は私をクビにすると言うのか。

じゃあ、私がこの会社に捧げてきた七年間は、一体何だったというの?

プロジェクトのために体を張って飲み続け、この身を蝕んだ胃の痛みは?全て、何の意味もなかったというの?

……

詩織が『リヴ・ウエスト』に駆けつけた時、個室の中は、まさに最高潮の盛り上がりを見せていた。

太一が、大声で囃し立てているところだった。柊也と志帆に、腕を絡めて杯を交わすよう煽っているのだ。

柊也の声は、先ほどの電話での冷酷さとはまるで別人のように甘やかす響きを帯びていた。「馬鹿を言うな」

「柊也、ノリ悪ぃって。こういう場は楽しまなきゃ損だろ。俺らはもうやったんだから、お前だけやんねーとかナシだろ?」

柊也が答えるより先に、志帆が自らグラスを手に取り、臆することなく大胆に柊也を誘った。「柊也くん、ただのゲームじゃない。ね、付き合ってよ。私に恥をかかせないで」

皆の期待に満ちた視線が集まる中、柊也はグラスを手に取る。

志帆が彼の腕に自分の腕を絡ませた、まさにその瞬間。柊也の視線が、入り口に立つ詩織のそれと、ふと交わった。

ほんの一秒。目が合ったのは、それだけだった。男はすぐに興味を失ったかのように視線を外し、志帆の体にぐっと顔を寄せ、持っていたグラスを掲げた。

太一が、この瞬間を仲間うちのネタにしようとスマートフォンを構えた。その興奮した拍子に、彼の体がぐらりと揺れ、志帆にぶつかってしまう。

「危ないっ」

二人の距離は、ごく僅か。

柊也はほとんど反射的に志帆の体を支えようと腕を伸ばす。

その結果、彼女は彼の胸の中へと、すっぽりと倒れ込む形になった。

個室内のボルテージは、この瞬間、最高潮に達したかのようだった。

詩織のいる場所から見ると、二人はまるで、睦み合う恋人のように見えた。

その光景を前にしても、不思議と、胸の痛みは感じなかった。

心が、麻痺してしまったのだろうか。

ただ、胃の奥がぐらぐらと煮えくり返るような感覚だけが、やけに生々しかった。

その熱気を切り裂いたのは、甲高い悲鳴にも似た声だった。

声の主は、密だった。

入り口に立つ詩織の姿を認め、思わず叫んでしまったのだ。「詩織さん!?なんでここに……?体調が悪いんじゃ……家で休んでいなかったんですか!?」

彼女の心からの気遣いは、この場の狂騒的な空気とは、あまりにも不釣り合いだった。

志帆が柊也の腕の中から顔を上げ、詩織に視線を向ける。その顔には、いつもの人懐こい笑みが浮かんでいた。「あら、江崎さん。来てくれたのね?さあ、入って入って。あなたが来るのを待ってたのよ」

「申し訳ありません、少し立て込んでおりまして」

詩織は平静を装い、個室の中へと足を踏み入れた。

詩織の落ち着き払った態度に、逆に太一の方が妙な罪悪感を覚えた。何か弁解しようと口を開きかけたが、当の柊也が、氷のように冷たい表情で口を開いた。

「遅れてきた人間は、まず罰として三杯ほど一気するのが筋ってもんだろう。誠意を見せるためにな」

三杯、という言葉を聞いた瞬間、詩織の胃は、さらに激しく収縮した。

痛みと吐き気が、荒れ狂う嵐のように、腹の底で渦を巻く。

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