共有

第3話

作者: 北野 艾
詩織が資料を配り終えて振り返ると、志帆はすでに席に着いていた。

けれど、そこはいつも詩織が使っている、社長の隣の席だった。

一瞬、詩織は息を呑み、そこは自分の席だと伝えようと口を開きかけた。

だが、それを遮ったのは柊也の声だった。「お前は今後、向こうの席を使え」

志帆が、申し訳なさそうに詩織へ微笑みかける。「ごめんなさいね。私、入ったばかりで分からないことだらけだから、柊也くんにすぐ質問できるよう、隣の方が都合がいいかなって」

柊也自身にそう言われてしまえば、詩織に反論の余地などあるはずもなかった。

彼女は黙って自分の書類をまとめると、ノートパソコンを抱えて部屋の隅の席へと静かに移動した。

その間、会議室にいる誰もが息を殺し、一言も発さない。けれど、突き刺さるような視線だけははっきりと感じられた。皆の目に浮かぶあからさまな同情が、かえって針のように詩織の背中を刺す。

まるで、針の筵に座らされているかのようだった。

会議が中盤に差し掛かった頃、柊也があるプロジェクトについて、厳しい声で問い質した。

「この案件、なぜ今になっても進捗がないんだ。担当は誰だ」

彼のことをよく知る者なら、それが怒りの兆候だとすぐに分かった。会議室は氷ついたように静まり返る。

張り詰めた空気の中、詩織がすっと立ち上がった。「……はい。私の担当です」

氷のように冷たい視線が、詩織を射抜く。その声は、底冷えするほどに厳しかった。

「理由を聞かせろ」

「申し訳ありません。数日前から体調を崩しておりまして、プロジェクトの進行が遅れて……」

詩織が言い終わる前に、柊也の怒声が飛んだ。「そんなものは理由にならん!どんな人間であれ、私的な事情で業務を滞らせることは許さないと、何度も言ったはずだ!それがこの会社のルールだろうが!」

詩織は唇をきつく結び、それ以上の言葉を飲み込んだ。ただ静かに、こう告げる。「……すぐに、遅れを取り戻します」

その返事を聞いて、柊也はフンと鼻を鳴らし、ようやく満足したようだった。

会議が閉会する直前、柊也が全員に向けて声をかけた。

今夜、『リヴ・ウエスト』で柏木さんの歓迎会を開く。会社を挙げての歓迎会だ、ぜひ全員参加してほしい、と。

『リヴ・ウエスト』といえば、この街で最も格式の高い会員制クラブで、その料金も桁外れだ。

破格の待遇と言っていい。

それだけで、柊也がいかに志帆を特別扱いしているかが、嫌でも伝わってきた。

その事実を目の当たりにし、他の社員たちも志帆のことを一目置かざるを得なかった。

普段は少し鈍感な密ですら、そのただならぬ雰囲気を察していた。

会議室の片付けを手伝いながら、彼女はそっと詩織に尋ねた。「詩織さん……大丈夫、ですか」

密は、詩織と柊也の関係を、薄々ながら感づいている数少ない人物の一人だった。

詩織は努めて平静を装って答える。「ええ、大丈夫よ」

「でも、なんだか顔色が……真っ白ですよ」密が心配そうに詩織の顔を覗き込む。

詩織は自分の頬に触れた。「そんなに、わかる?」

密はこくりと大きく頷く。「はい、はっきりと」

「ちょっと胃の調子が……いつものことよ、持病みたいなもの」詩織は、咄嗟にそう言って誤魔化した。

「じゃあ、今夜の歓迎会はどうします?」

詩織は少し考えてから、答えた。「私は、やめておくわ。悪いけど、社長にはそう伝えておいてくれる?」

それでいいのだ、と詩織は自分に言い聞かせた。

どうせ、柊也は全社員を招いて、志帆の歓迎会を開くのだ。大勢いるのだから、自分一人が欠けたところで、誰も気にも留めないだろう。

いいや、今の柊也は、きっと私のことなど思い出しもしない。私が行こうが行くまいが、彼にとっては些細なこと。何の違いもないのだ。

「その方がいいですよ。早く帰って、ちゃんと休んでくださいね。体がいちばんですから」密が心から気遣うように言った。

詩織は自嘲気味に思った。アシスタントの密にさえ、私の不調は一目でわかるというのに。

誰よりも深く肌を重ねてきた柊也は、それに気づかない。

今までは、自分に言い聞かせることができた。彼は仕事人間だから、細かいことには気づかないだけなのだ、と。

けれど、もう……もう、そんな嘘で自分を慰めることはできそうになかった。

まるで、そんな詩織の心を嘲笑うかのように、きり、と胃が鋭く痛んだ。

けれど、手元の仕事はまだ山積みだ。詩織は胃薬を数錠、水なしで無理やり喉の奥に押し込み、なんとか痛みをやり過ごすしかなかった。

どうにか終業時間まで耐えきり、詩織は家に辿り着くと同時に、ベッドに倒れ込むように体を丸めた。指一本動かす気力さえ、もう残っていなかった。

心も体も、すり減って限界だった。

しばらくそうして体を丸めていると、強張っていた体が僅かに弛み、そこへどっと眠気が押し寄せてくる。

今はただ、眠ってしまいたい。ぐっすり眠れば、少しは楽になれるかもしれない。詩織は朦朧とする意識の中でそう思った。

だが、眠りに落ちた直後、けたたましい着信音が鼓膜を突き刺した。

それは、柊也だけのために設定した、特別な着信音。

かつては心を躍らせたはずのその音が、今はただの拷問のように響く。

出たくない。詩織は目を閉じたまま、それが鳴り止むのをじっと待った。

柊也は短気だ。一度出てこなければ、二度とかけてくることはない。今までは、ずっとそうだった。

しかし、その日に限って、彼は自らの原則を破った。

一度目が切れ、静寂が戻ったのも束の間、再び同じ音が鳴り響く。

こうなっては、さすがに出ないわけにはいかない。

「……社長、何か御用でしょうか」詩織は、自分でも驚くほど冷たく、他人行儀な声でそう言った。

これまでの彼女とは、まるで別人だった。

受話器の向こうから聞こえてきたその声に、柊也は思わず眉を顰め、スマートフォンの画面に視線を落とす。表示されている名前は、間違いなく『江崎詩織』だ。かけ間違えたわけではない。「……お前、どこにいるんだ」

柊也の問いに、詩織は淡々と答えた。「体調が優れないので、今日は失礼します。皆さんで楽しんでください」

それだけを言うと、詩織は通話を切ろうとした。

しかしその瞬間、受話器の奥から、甘えるような志帆の声が割り込んできた。柊也に話しかけているのがわかる。

「江崎さんはいらっしゃらないの? ねぇ柊也くん、もしかして私、歓迎されてないのかしら」

その言葉に続くように、柊也の凍てつくように冷酷な声が、詩織の耳を打った。「詩織、偉そうな態度はやめろ。全員揃っているのにお前だけ来ないとは、自分が特別だとでも言いたいのか」

「私は……っ」

「二十分やる。もし来なければ、明日から会社に来なくていい」

それだけを一方的に告げると、通話は乱暴に断ち切られた。

ツー、ツー、という無機質な音を聞きながら、詩織は乾いた笑いを漏らしそうになった。

たかが歓迎会を一つ欠席しただけで、あの男は私をクビにすると言うのか。

じゃあ、私がこの会社に捧げてきた七年間は、一体何だったというの?

プロジェクトのために体を張って飲み続け、この身を蝕んだ胃の痛みは?全て、何の意味もなかったというの?

……

詩織が『リヴ・ウエスト』に駆けつけた時、個室の中は、まさに最高潮の盛り上がりを見せていた。

太一が、大声で囃し立てているところだった。柊也と志帆に、腕を絡めて杯を交わすよう煽っているのだ。

柊也の声は、先ほどの電話での冷酷さとはまるで別人のように甘やかす響きを帯びていた。「馬鹿を言うな」

「柊也、ノリ悪ぃって。こういう場は楽しまなきゃ損だろ。俺らはもうやったんだから、お前だけやんねーとかナシだろ?」

柊也が答えるより先に、志帆が自らグラスを手に取り、臆することなく大胆に柊也を誘った。「柊也くん、ただのゲームじゃない。ね、付き合ってよ。私に恥をかかせないで」

皆の期待に満ちた視線が集まる中、柊也はグラスを手に取る。

志帆が彼の腕に自分の腕を絡ませた、まさにその瞬間。柊也の視線が、入り口に立つ詩織のそれと、ふと交わった。

ほんの一秒。目が合ったのは、それだけだった。男はすぐに興味を失ったかのように視線を外し、志帆の体にぐっと顔を寄せ、持っていたグラスを掲げた。

太一が、この瞬間を仲間うちのネタにしようとスマートフォンを構えた。その興奮した拍子に、彼の体がぐらりと揺れ、志帆にぶつかってしまう。

「危ないっ」

二人の距離は、ごく僅か。

柊也はほとんど反射的に志帆の体を支えようと腕を伸ばす。

その結果、彼女は彼の胸の中へと、すっぽりと倒れ込む形になった。

個室内のボルテージは、この瞬間、最高潮に達したかのようだった。

詩織のいる場所から見ると、二人はまるで、睦み合う恋人のように見えた。

その光景を前にしても、不思議と、胸の痛みは感じなかった。

心が、麻痺してしまったのだろうか。

ただ、胃の奥がぐらぐらと煮えくり返るような感覚だけが、やけに生々しかった。

その熱気を切り裂いたのは、甲高い悲鳴にも似た声だった。

声の主は、密だった。

入り口に立つ詩織の姿を認め、思わず叫んでしまったのだ。「詩織さん!?なんでここに……?体調が悪いんじゃ……家で休んでいなかったんですか!?」

彼女の心からの気遣いは、この場の狂騒的な空気とは、あまりにも不釣り合いだった。

志帆が柊也の腕の中から顔を上げ、詩織に視線を向ける。その顔には、いつもの人懐こい笑みが浮かんでいた。「あら、江崎さん。来てくれたのね?さあ、入って入って。あなたが来るのを待ってたのよ」

「申し訳ありません、少し立て込んでおりまして」

詩織は平静を装い、個室の中へと足を踏み入れた。

詩織の落ち着き払った態度に、逆に太一の方が妙な罪悪感を覚えた。何か弁解しようと口を開きかけたが、当の柊也が、氷のように冷たい表情で口を開いた。

「遅れてきた人間は、まず罰として三杯ほど一気するのが筋ってもんだろう。誠意を見せるためにな」

三杯、という言葉を聞いた瞬間、詩織の胃は、さらに激しく収縮した。

痛みと吐き気が、荒れ狂う嵐のように、腹の底で渦を巻く。

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード
コメント (1)
goodnovel comment avatar
hime kichi
来なきゃいいのに。バカなん?
すべてのコメントを表示

最新チャプター

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第1051話

    右斜め後ろにある彼の唇から吐息が漏れるたび、詩織の耳の先端をくすぐるように熱が当たる。またしても、耳が恐ろしいほど熱くなってきた。鼓動がうるさいほどに早鐘を打つ。もし彼が上から手を添えてくれていなければ、手が震えて絶対にケーキを真っ二つに切り損ねていただろう。「味見してみてくれ。お前が作った味と同じになっているか」柊也がフォークでひとすくいしたケーキを、詩織の口元へ運ぶ。詩織は少しだけ舌を出し、控えめにクリームを口に含んだ。その何気ない仕草を至近距離で見てしまった柊也の喉仏が、ゴクリと大きく上下に動く。瞳の色が、一瞬にして深い夜の闇よりも濃く濁った。無意識のうちにフォークの冷たい柄を指の腹で強く擦りながら、ひどく掠れた声で問う。「……どうだ?」詩織は背後の彼の変化にまったく気づかず、ペロリと唇の端を舐めた。「うーん、よく分からないわ。ひと口が小さすぎたのかも。もうひと口ちょうだい」突然、柊也がさらに身を屈めて顔を近づけてきた。息がかかるほどの至近距離で、詩織の唇の端にちょこんとついたクリームを指の腹で微かに拭う。その瞳の奥には、詩織には読み切れない熱い感情が渦巻いていた。「なら、別の方法で食わせてやる。そうすれば思い出すだろ」お互いにしか聞こえないような低く掠れた声でそう囁くと、彼はフォークをテーブルにコトリと置いた。代わりに長い指を伸ばし、ケーキの端から白いクリームをひと掬いする。そして、詩織が事態を呑み込むより早く、そのクリームを自分の口へと運んだ。次の瞬間、柊也は詩織に覆い被さるように身を乗り出した。指先で強制的に彼女の顎を上向かせ、そのまま深く唇を塞ぐ。甘い口付けが、舌の上で弾けた。それはさきほどの車の中のような柔らかい感触ではなく、逃げ場を塞ぐような、ひどく侵略的な「給餌」だった。彼はすぐに離れようとはせず、唇を執拗に押し当てたまま、先ほどのクリームを少しずつ詩織の口内へと流し込んでくる。熱い舌先が上顎をなぞった瞬間、詩織の背筋にゾクッと痺れが走り、たまらず身をよじって逃げようとした。だが、うなじをがっちりとホールドされたまま、さらに強く引き寄せられてしまう。ケーキの甘さと、彼から香るミントの涼やかさ。そして、すべてを焼き尽くしそうなほど熱を帯びた彼の荒い吐息。それらが

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第1050話

    詩織が答えるより早く、柊也は再び顔を寄せ、耳元で低く囁いた。「俺たちが初めて寝た日だ」カッと、詩織の頭の中で何かが爆発した。こ、こ、この男……!なんであんな恥ずかしい日を暗証番号なんかにしてるのよ!頭おかしいんじゃないの!?耳の先まで真っ赤にして固まっている詩織を見て、柊也はこれ以上からかうのは危険だと察した。ここで本気で怒らせて逃げられてしまっては、後で自分が泣きを見ることになる。彼は詩織の手を取り、指を絡めてしっかりと握り直してから、ゆっくりとドアを開けた。「ようこそ、江崎詩織さん。俺の世界へ」この部屋に入るのは初めてではない。前回、彼を送り届けた時にも一度足を踏み入れている。だが、あの時と今とでは、まったく感覚が違った。今度こそ本当に、彼女は『賀来柊也』という人間の奥底にある、最も深い場所へと迎え入れられたのだ。部屋の中は、かつて彼女が暮らしていた頃と何一つ変わっていないように見えた。ただ一つ、決定的に変わっていた場所がある。かつて詩織が、彼に関する些細なメモを隙間なく貼り付けていたあの壁一面に――今は、詩織に関するあらゆる情報がびっしりと貼られていた。彼女の好きなもの。彼女のスケジュール。彼女の健康に関する直近の注意事項。詩織は一枚一枚、その付箋を指先でそっとなぞった。これらを書き留めている時の、彼の真剣な横顔が目に浮かぶようだ。きっと、全神経を集中させてペンを走らせていたに違いない。かつて、自分が彼のためにそうしていた時のように。壁掛け時計の針は、すでに午前零時を指そうとしていた。やはり、あの車の中でのやり取りで時間を食ってしまった。今日はもう、手作りケーキは無理だろう。まあいいわ、また次の機会でも。詩織は小さく息を吐き、胸の奥に芽生えたわずかな落胆をひっそりと飲み込んだ。 もともと急に思い立ったことなのだし、今からスポンジから焼いてくれと頼むのは酷だ。それに、彼は一晩中あの寒空の下で自分を待っていた。これ以上無理をさせるよりも、早く休ませてあげたほうがいい。「ねえ、ケーキのことは気にしなくて――」振り返り、そう告げようとした詩織は、言葉を失った。柊也が、キッチンからホールケーキを手に持って現れたのだ。詩織は立ち尽くしたまま、目を丸くした。抑え込

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第1049話

    車は無事に柊也の住処へと到着した。それは、詩織がかつて七年間も生活していた、あの古びた賃貸アパートだった。車内から見上げた上の階の窓には、すでに明かりが灯っている。詩織の胸に、言葉にできない感慨がこみ上げてきた。「ここが一番目立たなくて、それでいて一番よく見える特等席なんだ」柊也のその言葉に、胸の奥がキュッと締め付けられた。ここを見つけ出すまでに、彼は幾つもの夜を重ねてきたのだろうか。続けて彼が静かに紡いだ言葉に、胸の奥がカッと熱を帯びた。「あの窓の明かりがついているのを見るだけで、俺は、その夜の待ち時間が無駄じゃなかったと思えたんだ」彼が音のない深更の暗闇で、ただ遠くから彼女の部屋の小さな灯りを頼りに、独りで孤独に寄り添っていたのだと思うと。心の最も柔らかい部分が、優しく、けれど強く揺さぶられ、切なく熱いものが胸の奥から込み上げてくる。あの頃の彼を思うと、どうしようもなく心が痛んだ。過去の彼を救い出し、その空白を埋めることはもう誰にもできない。今の詩織にできるのは、ただ目の前にいる、現在の彼を抱きしめることだけだ。詩織はゆっくりと体を横に向け、運転席に座る冷厳な横顔を見つめると、何かに憑かれたように自らのシートベルトを外した。冷たいセンターコンソールを乗り越え、両手を彼の胸元に預け、そのまま身を乗り出して静かに彼の唇を塞いだ。柊也は一瞬だけ虚を突かれたように固まったが、すぐに詩織のうなじを大きな掌で押さえ込み、迎え入れるように応えた。最初は、雪が肌に舞い落ちるような柔らかく控えめな口づけだった。だが、それは瞬く間に激しい熱に変わった。詩織の指先が彼のコートの襟首を強く掴み、柊也の手は彼女の腰を引き寄せるように力強く抱きすくめる。荒々しく絡み合う吐息には、もはや隠しきれない独占欲と渇望が入り混じっていた。重なり合う唇は、濡れて、ひどく熱かった。どちらも一歩も退こうとはせず、詩織がシートの背もたれと彼の分厚い胸板の間に完全に閉じ込められ、息も絶え絶えになるまで、その熱狂的な口づけは終わらなかった。しばらくして、柊也が自ら顔を背けて唇を離した。乱れた吐息を詩織の耳元に寄せ、ひどく掠れた声で囁く。「ケーキ、まだ食べる気あるか?」彼の喉仏が上下に動いた。しかし詩織の腰を抱く手は、少しも緩

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第1048話

    祝賀パーティーがお開きになる頃には、詩織もごく薄っすらと酔いを感じていた。恩師や兄弟子たちから勧められた酒を、さすがに人に代わって飲ませるわけにはいかなかったからだ。ミキも今夜は相当なハイペースでグラスを空けていた。夜も更けてきたのにわざわざ自宅まで帰らせるのも億劫だろうと、詩織はホテルの上層階に部屋を取り、ミキをそのまま休ませることにした。一方、母の初恵を手配した車まで見送る。気品ある黒塗りの車に乗り込む直前、初恵が振り返って尋ねた。「あなたは今夜、帰ってくるの?」胸の奥でチクリと小さな罪悪感が跳ねたが、詩織は何食わぬ顔で答えた。「ミキがいっぱい飲んじゃって、一人にしておくのは心配だから。今日はここに残って様子を見るわ」「そう。分かったわ」初恵はまったく疑う様子もなく、いつものように詩織の肩にかかったストールを優しく直してくれた。「じゃあ、ミキちゃんをお願いね。あなたも明日頭が痛くならないように、ちゃんとお水をたくさん飲んで寝るのよ」「うん、分かってる」詩織は素直に頷き、母を乗せた車のテールランプが完全に夜の闇へと吸い込まれるのを見届けてから、ようやく長いため息をついた。三十歳にもなって、まさか母親相手にこんな見え透いた嘘をつく羽目になるとは。なんだかまるで……親の目を盗んでこっそり恋愛をしている高校生に戻ったような気分だった。少し熱を持った頬を両手で軽く叩き、気を取り直して柊也に電話をかけようとした、その時だった。どこに潜んでいたのか、音もなく不意に人影が現れた。驚いて顔を上げた詩織の視線が、見慣れた深い闇のような瞳とぶつかる。真冬の江ノ本市。刃物のように冷たいビル風が吹きすさぶこの場所で、柊也は丸々一晩中待ち続けていたというのか。「ずっと、ここで待ってたの?」口に出した直後に、愚問だったと気づく。詩織は小走りで駆け寄り、氷のように冷え切ったコートの襟首を乱暴に掴んだ。腹立たしさと胸の痛みが入り混じり、思わず声を荒げる。「あんた、バカなの!?幼稚園児だって雨が降ったらお家に帰るわよ?こんなに寒いのに、どうして車か家で待とうとしないのよ」柊也は抵抗もせず、されるがままになっていた。見つめ返してくるその目には、普段の冷静沈着なオーラなど微塵もない。寒さでかすれた低い声は、それでも一言一言

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第1047話

    華栄の危機を最大限に利用し、桐生キャピタルの利益をごっそりと抜き取る。それどころか、詩織に「命拾いした」という特大の貸しまで作ることができるのだから。だが、千手先まで緻密に盤面を計算したつもりでも、序はたった一つだけ、決定的な読み違いをしている。この江崎詩織という人間が、見下され、盤上の無知な駒としていいように転がされることを何よりも嫌悪するという事実を。「小宮山社長のお気遣いには、心から感謝いたします」詩織はようやく口を開いた。硬質な水晶のように澄み切り、はっきりと場に響く冷ややかな声だった。「ですが、華栄の問題は私自身で解決できます。桐生キャピタルに関しましては……」そこで言葉を区切り、わずかに眉を寄せた序の顔を刃のような鋭い視線で射抜く。「当面の間、私たちが手を組む必要はないかと」言い捨てるや否や、詩織はもう序に一瞥もくれず、ミキを連れて兄弟子たちの集まるテーブルへと歩き出した。その場に取り残された序は、顔に貼り付けた作り笑いを引きつらせていた。まさかこれほどまでに、一切の余地を残さずすっぱりと拒絶されるとは計算外だった。ビジネスの複雑な裏事情など分からない遥でさえ、今の刺々しい会話から漂う不穏な空気は感じ取っていた。おそるおそる兄の袖を引く。「お兄ちゃん……今の、詩織さん怒ってた?」去り際に詩織の瞳の奥をよぎった氷のような冷たさを、遥は見逃していなかった。序は少し間を置いてから取り繕うように答えた。「いや、気にするな。勘違いだ」兄は否定したが、遥の胸元にはかすかな不安が残った。本当はもっと詩織と親しく話をしたかったのに、今はとてもそんな空気ではない。遥はその考えを泣く泣く胸に仕舞い込んだ。高村教授の弟子たちは皆、各界で第一線を張る多忙な人間ばかりだ。これほど全員が一堂に会する機会はめったにない。唯一心残りなのは、京介が急用で途中で席を外してしまったことくらいだ。それでも高村教授の機嫌は頗る良く、つい嬉しくてワインのピッチが上がっていた。高村教授が三杯目に手を伸ばそうとした瞬間、澪士がさっと横からグラスを奪い取った。「先生、俺たちに隠れてこんないい酒飲んでたんですか? ちょっと味見させてくださいよ」高村教授が止める間もなく、澪士はそのまま一気に飲み干してしまった。「バカモン

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第1046話

    密が詩織の代わりに杯を空け続け、いよいよ限界が近づいたところでミキが交代に入った。今夜はとにかく招待客の数が多く、会場は異様な熱気にあふれている。ミキは少し呼吸を整えると、人の波の隙間を縫ってそっと詩織に耳打ちした。「正直、最初は全然人が集まらないんじゃないかってハラハラしてたのよ。昔のツテでキャスティングディレクターに連絡して、エキストラでも呼んでサクラにしようかと思ったくらい。完全に私の取り越し苦労だったわね」すると、詩織は冷静に会場の人間模様を見渡して返した。「でも、ここにいる何割かは私個人の顔を立てて足を運んでくれたわけじゃないわ」何を目当てにこれだけの人間が群がっているのか、詩織には痛いほど分かっていた。結局のところ、ビジネスという名のもとに集うこの社交界は、どこまでいっても利益がすべてなのだ。短い会話を交わしていると、序が遥を連れて歩いてきた。パーティー会場に入ってからというもの、遥はずっと詩織に話しかけるタイミングを図っていたのだ。しかし、本日の主役はあまりにも多忙すぎた。次から次へと名刺交換を求める人が押し寄せ、遥にはひたすら待つことしかできなかった。そしてようやく周囲の波が引いたのを見計らい、急いで兄の腕を引っ張ってやって来たというわけだ。詩織は遥に対しては良い印象を持っていたが、兄の序に向ける視線は少しだけ温度の低いものになった。遥は明るくあれこれとまくしたてた後、隣で黙りこくっている兄に気づいて急かした。「お兄ちゃん、詩織さんに話があるんでしょ? 早く言っちゃいなよ」妹に背中を押される形で、序が口を開く。「桐生キャピタルとして、以前から華栄と提携したいと考えていたんです。江崎社長、興味はありませんか?」その言葉を聞いて、詩織はぴくりと片眉を上げた。記憶が確かなら、序はここ最近、ずっと真理子のもとへ通って接触を続けていたはずだ。それが今になって、どういう風の吹き回しで華栄との提携を口にしているのか。もし真理子との一件がなければ、詩織も少しは前向きに検討したかもしれない。自ら扉を叩いてきたビジネスチャンスを、あえて突っぱねる理由など本来はないのだから。序は言葉の端々に真剣さを滲ませ、華栄キャピタルが直面している現在の危機を全力でサポートすると明確に申し出た。真理子の

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status