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第4話

Author: 北野 艾
密は、詩織が酒を飲むと聞いて、血相を変えた。

「ダメです!詩織さん、体調が悪いんですから、お酒は飲めません!」

かつて詩織がアルコール中毒で倒れた時、その接待の場に付き添っていたのは密だった。

あの時の凄惨な光景が、今も彼女の脳裏には焼き付いている。

あと少し搬送が遅れていたら、命が危ないと医者にはっきり言われたのだ。その恐怖は、今も消えていない。

だが、太一はその言葉を鼻で笑った。「密ちゃん、詩織さんのこと、なめすぎでしょ。彼女が酒豪で有名なの、知らないわけ?前に柊也と北の方に出張した時なんか、二十人相手に差しつ差されつやっても、最後まで平然としてたんだぜ?なのに何?今さら三杯ぐらいで音を上げんの?それとも、相手を見て態度変えてるだけ?……ああ、もしかして、志帆ちゃんの顔を潰す気か?」

場の空気が凍りつくのを感じて、志帆が割って入った。「太一くん、江崎さんも女の子なんだから、そんなにいじめちゃだめよ」

「いじめてなんかないって」

太一は納得いかない様子で、柊也に同意を求める。「なぁ、柊也。これって、いじめてることになるか?」

柊也が、すっと瞼を上げた。色のない視線が詩織の頬を撫でるように滑り、その唇の端を、冷ややかに歪めて言い放った。「……別に」

その一言で、太一は完全に勢いづく。「だよな!柊也もこう言ってんじゃん。志帆ちゃんは心が綺麗すぎるんだよ。詩織さんみたいに、修羅場を潜り抜けてきて、損得勘定で動くことにかけてはプロな人間とは違うんだからさ」

侮辱的な言葉を投げつけられても、詩織は何も言い返さなかった。ただ、じっと柊也を見つめた。

彼の瞳の奥に、何か、別の感情を探すように。

彼が助け舟を出してくれるのを、待っていた。たとえそれが、「もういい」とか「ふざけるな」という一言だけであっても、構わなかった。

それは、絶望の淵に沈む前の、最後の足掻きだったのかもしれない。

だが、柊也が口を開くことは、なかった。

彼の瞳に映るのは、氷のような無関心だけだった。

その瞬間、詩織の中で、何かがぷつりと切れた。

まるで背後から、氷の欠片が無数に混じった冷水を頭から浴びせられたように。心の奥で燻っていた最後の期待の火を、根こそぎ消し去っていく。

詩織は、どこか夢でも見ているかのように、ふ、と自嘲の笑みを浮かべると、テーブルの上のグラスに手を伸ばした。その声は、驚くほど穏やかだった。「……私の方が、無作法でしたね。ええ、いただきます」

かつて、接待の席で生き抜くために、数え切れないほどの酒の飲み方を学んだ。

飲む前に牛乳を飲んで胃に膜を張ること。少しずつ、ゆっくりと口に含むこと。

そんな処世術を駆使して、彼女はどんな酒席でも切り抜けてきた。

だが、今の詩織は、そのどれも使わなかった。

ただ、喉に流し込む。それだけだった。

一杯。

二杯。

三杯。

焼けるような強い酒が喉を通り過ぎ、鼻の奥がつんと痛む。すでに悲鳴を上げていた胃が、さらに激しく引き攣った。

それでも詩織は、何事もなかったかのように、空になったグラスを柊也に向けて、ことりと持ち上げてみせた。「……飲み終わりました。これで、失礼してもよろしいでしょうか。――賀来社長」

……

柊也が、最後に頷いたのかどうか。

詩織には分からなかった。いや、確かめる気にもならなかった。彼の返事を待つことなく、彼女はその場を後にした。

胃の奥から、激しい吐き気がせり上がってくる。この場で戻してしまうことだけは避けたかった。

化粧室の冷たい便器に縋りつき、胃の中のものが空になるまで、意識が朦朧となるほど吐き続けた。その時、彼女の頭をよぎったのは、飲む前に口にしたのがアルコールとの飲み合わせが最悪な薬ではなく、ただの胃薬でよかった、という場違いな安堵感だった。

生まれつき酒に強い人間など、いるはずもない。

エイジア・キャピタルに入社するまで、詩織は一滴もお酒を飲めない人間だった。

初めて柊也の接待に同行した時のことだ。厄介な取引先で、それが誠意の証だとかなんとか言って、柊也に酒を強要した。

だが、彼はアルコールアレルギーで、一滴も受け付けない体質だったのだ。

その時、彼の盾になるように進み出たのが、詩織だった。

それが、彼女が初めて口にした酒だった。

慣れないアルコールにひどくむせながらも、これが柊也がようやく掴んだ千載一遇のチャンスなのだと思えば、どんなに喉を通らなくても、無理やり飲み干すことができた。

そうして、彼女が体を張って、柊也のために勝ち取った最初の契約だった。

「お前はエイジア・キャピタルの功労者だ」と、彼は言った。「会社が成功したら、この栄光を、お前と分かち合いたい」と。

彼が描いてみせたその未来のために、詩織はそれ以来、柊也に一滴たりとも酒を飲ませなかった。

どんな接待も、すべて彼女が引き受けてきた。

彼女の酒の強さは、そうやって一杯一杯、この身を削るようにして培われたものだった。

――かつて、彼のために矢面に立ち、その身を削って磨き上げた鎧は。七年の時を経て、彼の「特別な女性」を守るための鋭い矢となり、今、まっすぐに自分の眉間を射抜いた。

痛みは、けれど、どうしようもないほどの覚醒を彼女にもたらした。

『リヴ・ウエスト』を出ると、外は雨だった。

晩秋の冷たい雨が、何の兆しもなく降り始めている。

吐き出した後も、胃の不快感は少しも和らいでおらず、顔からは完全に血の気が引いていた。

詩織がスマートフォンを取り出し、タクシーを呼ぼうとした、その時だった。柊也の運転手が彼女に気づき、小走りで駆け寄ってきた。

「江崎さん。もうお開きですか?社長は?ご一緒では?」

「ええ、まだしばらくは……」詩織の声は、自分のものではないかのように、どこか宙を漂っていた。

中はまだ、最高潮に盛り上がっているのだろう。腕の中には、愛しい女性がいるのだ。柊也が、そう簡単にこの夜を切り上げるはずがない。

柊也の運転手、鈴木は店の入り口を一瞥し、それから詩織のあまりに血の気のない顔色に気づくと、気を利かせるように言った。「江崎さん。よろしければ、私が先にお送りしますよ。こんな時間に雨も降っていますし、タクシーもなかなか捕まらないでしょう」

詩織は断らなかった。体が限界で、これ以上自分を痛めつけたくはなかった。

しかし、車が走り出してまだ半分も行かないうちに、柊也から電話がかかってきた。運転手はどこにいるのか、と。

鈴木が正直に、詩織の具合が悪そうだったので、先に送っているところだと説明する。まだしばらくは終わらないだろうと思った、と。

スピーカーフォンから響く柊也の声は、車の密室の中、ことさらに冷たく響いた。「誰がお前に給料を払っているか、忘れたのか」

その一言に、鈴木はびくりと体を震わせる。「も、申し訳ありません!すぐにお迎えに上がります!」

電話が切れる、その直前。柊也の声が、さっきまでの冷酷さが嘘のように、雪が解けるような優しい声に変わった。

「車はもうすぐ着く。外は寒いから、中で待っていなさい」

受話器の向こうから、志帆の甘えるような声が聞こえた。「じゃあ、柊也くんも一緒にいてよ」

柊也が彼女にどう答えたのか、詩織には分からない。そこで、通話は切られたからだ。

鈴木が、心底困り果てた顔でこちらを見ている。詩織は自ら口を開いた。

「鈴木さん、ここで降ろしてください。私は自分でタクシーを拾いますから」

その場所は、タクシーを拾うどころか、雨をしのげるような軒先一つない道端だった。

さすがに良心が咎めたのだろう。鈴木は車を降りる際、詩織に車載の傘をそっと手渡した。

今夜はとことん運に見放されていると思っていたが、天が最後に少しだけ哀れんでくれたのかもしれない。車を降りて、さほど待つこともなく、一台の空車が通りかかった。

それでも翌日、詩織は熱を出した。

流産してからというもの、彼女の体はすっかり弱り切っていた。持病の胃痛は頻繁にぶり返し、免疫力はほとんど機能していない。ほんの少しの風雨が、すぐに体にこたえるのだ。

だが今日に限って、トレヴィ社の辰巳剛(たつみ つよし)社長との打ち合わせが入っていた。昨日、会議で柊也に名指しで遅れを指摘された、あのプロジェクトだ。

これ以上滞らせるわけにはいかない。もしそんなことになれば、今度はどんな嫌味を言われるか分からなかった。

詩織は体温計に目を落とす。三十八度五分。死にはしないが、立っているのも辛い体温だ。

解熱剤を飲めば少しは楽になるだろう。だが、よりにもよって、その辰巳社長は筋金入りの酒好きで、重要な商談ほど酒の席で決めたがることで有名な人物だった。

詩織は意を決して解熱剤の箱を引き出しに投げ戻すと、書類を掴み、振り返ることなくオフィスを出た。

……

詩織が料理と酒を注文し終えたところで、辰巳が姿を見せた。

テーブルに並んだのが自分の好物ばかりであることに気づくと、辰巳はたちまち上機嫌になった。「江崎さん、本気でうちへ来る気はないのかね?給料は君の言い値で構わんよ!」

「辰巳社長、身に余るお言葉です。ですが、まだエイジア・キャピタルとの契約が残っておりますので、今のところ移籍は考えておりません」

それは、詩織のいつもの決まり文句だった。

彼女の仕事ぶりは業界でも評判で、引き抜きの声は後を絶たない。

以前、ある取引先の社長が酒の勢いで、柊也の目の前で堂々と詩織を引き抜こうとしたことがあった。

柊也は表向きこそ何も言わなかったが、その夜は、まるで詩織を罰するかのように、執拗にその体を求めてきた。

結局、詩織が自らエイジア・キャピタルとの長期契約にサインすることで、ようやく柊也の機嫌を直させたのだ。

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