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第2話

Autor: 北野 艾
太一の野次馬根性は留まるところを知らない。

部屋の中では、他の男たちも一緒になって騒ぎ立て、その喧騒はひどくなるばかりだった。

詩織には、柊也が何と答えたのか聞き取れなかった。ただ、胃がキリキリと締め付けられるように痛む。

だがその痛みさえ、胸を抉るような心の痛みに比べれば、物の数ではなかった。

十月十日。

それは、彼女が急性アルコール中毒で倒れ、流産した日。

彼女がたった一人で死の淵を彷徨っていた、まさにその時。彼は『忘れられない女』と、かつての愛を再燃させていたのだ。

「お客様、どうかなさいましたか。ご気分でも」

通りかかった店員が、床に蹲って真っ青な顔をしている詩織を見て、ぎょっとした声を上げた。

詩織は、か細い声で救急車を呼んでほしいと頼んだ。

救急車の中で冷や汗を流していると、柊也から電話がかかってきた。

いつもなら、どんなに疲れていても眠くても、彼の電話には真っ先に出た。

けれど、今日の彼女は、あまりにも痛すぎた。

痛くて、何もかもどうでもよくなって、何も欲しくなくなった。

柊也、その人でさえも。

……

詩織は、重度の胃炎で五日間入院した。

原因は、前回のアルコール中毒と流産のあと、ちゃんと体を休めなかったことによるものだった。

入院している間、柊也から連絡は一度もなかった。

メッセージの一本すらなかった。

もしかしたら最初から、柊也の世界にとって自分は、いてもいなくてもいい存在だったのかもしれない。

ただ、今までの自分が、それに気づいていなかっただけなのだ。

月曜日、詩織が会社に出社すると、アシスタントの小林密(こばやし ひそか)が駆け寄ってきて、こそこそと噂話を切り出した。「詩織さん、聞きました?うちのエイジア・キャピタルに、落下傘が来るらしいですよ!女の人です!」

「落下傘?」詩織は眉をひそめた。その言葉が信じられなかった。

柊也は人事に関しては非常に厳格で、この詩織でさえ、入社した時は一番下のインターンからだった。

会社にコネ入社なんて前例は、これまで一度もなかったはずだ。

だが、密はきっぱりと言い切った。「本当なんです!私、社長が直々にサインした辞令、見ちゃいましたから。投資第三部のディレクター、だそうです!」

詩織の眉間が、ぴくりと動いた。

そこは、かつて柊也が彼女に約束したポストだった。

この数年間、詩織が会社のために身を粉にして働いてきたことは、社内の誰もが知っている。

社内の昇進規定からいえば、彼女はとっくにディレクター職を任され、一人でプロジェクトを動かせるだけの実力があった。

それを柊也が、「秘書は君じゃないと慣れない」「代わりが見つからない」という理由で、今まで秘書部に留め置いていたのだ。

投資第三部のディレクターの席は、ずっと君のために空けておく、と。

上場が成功したら、自らの手で辞令を出し、昇進させるとも言っていたのに。

「そう……」まぶたが微かに痙攣するのを感じながら、詩織は感情を押し殺して尋ねた。「名前はなんて言うの」

「ええと、確か柏木……なんとかさん、でしたかね」密はちらりと見ただけで、はっきりとは覚えていなかった。

詩織の指先が震えた。その瞬間、手からマグカップが滑り落ちる。床に叩きつけられ、中のお湯が飛び散った。

密が小さな悲鳴を上げる。「詩織さん、火傷しませんでしたか!」

「大丈夫」

お湯は、それほど熱くはなかった。だが詩織は、本物の火傷よりももっと、肌を焼くような痛みを感じていた。

「柏木志帆」詩織が呟いた。

密は何のことかわからず、きょとんとしている。「え?」

詩織は深く息を吸い込んだ。「その人の名前は柏木志帆。今度、投資第三部のディレクターになる人よ」

「あ、そうです!その名前です!詩織さん、お知り合いなんですか」

「知らない」

そう言って、詩織はカップを手に、再び給湯室へと歩き出した。

落下傘人事の噂はあっという間に社内に広まり、詩織の元には、ひっきりなしに真偽を確かめようとする社員が訪れた。

その対応に疲れ果て、ついに堪忍袋の緒が切れた詩織は、声を荒らげた。「そんなに知りたいなら、直接社長に聞けばいいでしょ」

詩織の声が響くと、社長室フロアは一瞬しんと静まり返り、その静寂を破るように、柔らかな女性の声が聞こえた。

「柊也くん、あなたの会社の社員って、ずいぶん気が強いのね」

声のした方に目を向ける。そこに立っていたのは、寄り添うように並ぶ男女の姿だった。その光景は、詩織の目を焼くには十分すぎるほど、お似合いの二人だった。

何日も顔を合わせていなかった柊也の視線は、詩織の上を冷ややかに滑っただけだった。彼は皆に向かって、隣に立つ女性を紹介する。

「皆に紹介する。こちらが、新しく投資第三部のディレクターに着任された柏木志帆さんだ。今後、第三部のプロジェクトは全て彼女が担当することになる」

社員たちは口々に志帆へ挨拶した。

志帆は人当たりがいいのだろう、誰に対してもにこやかに微笑みかけている。「これから皆さん、どうぞよろしくお願いします」

彼女が用意した着任の挨拶代わりの手土産、その紙袋を、隣に立つ柊也が持ってやっていた。

詩織は自嘲気味に口の端を歪めた。

以前、柊也と一緒に行動する時は、いつも荷物を持つのは詩織の役目で、彼が手を貸してくれることなど一度もなかったのに……

それが、あの女性が相手だと、自分から進んで持ってやるのだ。

ああ、やっぱり。愛されているかどうかで、こうも扱いは違うものなのか。

志帆は詩織にも手土産を渡した。カピバラのリストレスト付きマウスパッドだった。

「あら、かぶっちゃったみたい」志帆は詩織のデスクの上にある同じものを見て、少し驚いたように言った。

そして、柊也の方を振り返って言う。「柊也くん、この方と趣味が合うのね」

続けて、詩織に申し訳なさそうに微笑んだ。「この手土産、柊也くんに付き合って選んでもらったの。まさか同じものだなんて思わなくて……もし、嫌だったら、後で何か別のものを用意するわ」

「いえ、お気遣いなく。気にしませんので」詩織はそのリストレストを受け取った。

「江崎秘書」柊也が詩織に命じた。「柏木ディレクターに社内を案内してくれ」

詩織に断る理由はなかった。

エイジア・キャピタルの秘書としての服務規程、その第一条。『社長の命令を最優先とすること』

見るからに、志帆は人当たりが良く、誰に対しても物腰が柔らかく、丁寧な言葉遣いだった。

容姿もまた、非の打ち所がない。まさに完璧な顔立ちをしていた。

あの柊也が焦がれた女性なのだ。並大抵の女であるはずがなかった。

詩織が一通り案内を終えると、志帆は自分のオフィスを見てみたいと言い出した。

そのオフィスは、半月前に内装が仕上がったばかりだった。

詩織が自ら、現場監督まで務めた場所だ。

内装も、家具の配置も、すべて詩織の好みでデザインされている。

誰よりも、このオフィスで働くことを心待ちにしていた。

それは、ずっと柊也と結婚することを願ってきたのと同じように。

それなのに、今の詩織の手には、愛もキャリアも、何一つ残らなかった。

「このオフィスの雰囲気、すごく好き。思っていたより温かみがあるし、柊也くんの部屋にも近くて嬉しいわ」

志帆はとても満足そうだった。その喜びを柊也にも伝えたかったのだろう、彼女は詩織をそこに残したまま、急ぎ足で隣の社長室へと向かった。

オフィスに一人取り残された詩織は、自分がまるで道化師のようだと感じた。

自分が心を込めて作り上げた空間を見回すと、心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような感覚に陥った。

息が、苦しい。

……

昼からの定例会議は、エイジア・キャピタルで週に一度開かれる最重要会議だ。社内の誰もが、一番緊張を強いられる時間でもある。

遅刻が許される者など、誰もいない。それは詩織も例外ではなかった。

──ただ一人、志帆を除いては。

入社したばかりの新人のくせに、彼女は柊也が自ら定めたルールを、いとも簡単に破ってみせた。

詩織は、柊也が怒りを露わにするだろうと思った。

少なくとも、一言二言、咎めるくらいはするはずだと。

しかし彼は何も言わず、厳しい言葉一つかけることなく、ただ静かに、詩織に資料を配るよう指示しただけだった。

その瞬間、詩織は少しだけ、目の前の現実が信じられなかった。

ふと、昔の記憶が蘇る。

自分がまだインターンだった頃、インフルエンザの高熱で会議に遅刻し、全社員の前で柊也に名指しで罵倒された日のことを。

そのインフルエンザが、彼の看病をしたせいでうつったものだということには、一切触れずに。

後になって悔しさをぶつけた詩織に、柊也は言った。会社はまだ始まったばかりで、規律を示す必要があったのだと。見せしめだったのだ、と。

そして詩織は、彼が社内に権威を示すための、ただの道具にされたのだった。

それでも詩織は自分に言い聞かせた。柊也はただ公私をきっちり分けているだけで、自分を狙い撃ちにしたわけではない、と。

何年も経った今、目の前で繰り広げられるこの光景は、まるで力一杯に頬を張り倒されたかのような、強烈な衝撃を詩織に与えた。

彼にだって、公私を混同することがあるのだ。ただ、彼にそうさせる相手が、自分ではなかったというだけ。

人は、相手によってここまで態度を変えるものなのか。

それは、愛されているか、そうでないかの違いと、全く同じだった。

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まるまるまる
699話まで読んで読み返してます。1話から辛くて泣きそう。どんな裏があったとしても、他人をこんなに傷つけてはいけないよ。大逆転があっても、傷は消えない。辛い。
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