Share

第2話

Author: 北野 艾
太一の野次馬根性は留まるところを知らない。

部屋の中では、他の男たちも一緒になって騒ぎ立て、その喧騒はひどくなるばかりだった。

詩織には、柊也が何と答えたのか聞き取れなかった。ただ、胃がキリキリと締め付けられるように痛む。

だがその痛みさえ、胸を抉るような心の痛みに比べれば、物の数ではなかった。

十月十日。

それは、彼女が急性アルコール中毒で倒れ、流産した日。

彼女がたった一人で死の淵を彷徨っていた、まさにその時。彼は『忘れられない女』と、かつての愛を再燃させていたのだ。

「お客様、どうかなさいましたか。ご気分でも」

通りかかった店員が、床に蹲って真っ青な顔をしている詩織を見て、ぎょっとした声を上げた。

詩織は、か細い声で救急車を呼んでほしいと頼んだ。

救急車の中で冷や汗を流していると、柊也から電話がかかってきた。

いつもなら、どんなに疲れていても眠くても、彼の電話には真っ先に出た。

けれど、今日の彼女は、あまりにも痛すぎた。

痛くて、何もかもどうでもよくなって、何も欲しくなくなった。

柊也、その人でさえも。

……

詩織は、重度の胃炎で五日間入院した。

原因は、前回のアルコール中毒と流産のあと、ちゃんと体を休めなかったことによるものだった。

入院している間、柊也から連絡は一度もなかった。

メッセージの一本すらなかった。

もしかしたら最初から、柊也の世界にとって自分は、いてもいなくてもいい存在だったのかもしれない。

ただ、今までの自分が、それに気づいていなかっただけなのだ。

月曜日、詩織が会社に出社すると、アシスタントの小林密(こばやし ひそか)が駆け寄ってきて、こそこそと噂話を切り出した。「詩織さん、聞きました?うちのエイジア・キャピタルに、落下傘が来るらしいですよ!女の人です!」

「落下傘?」詩織は眉をひそめた。その言葉が信じられなかった。

柊也は人事に関しては非常に厳格で、この詩織でさえ、入社した時は一番下のインターンからだった。

会社にコネ入社なんて前例は、これまで一度もなかったはずだ。

だが、密はきっぱりと言い切った。「本当なんです!私、社長が直々にサインした辞令、見ちゃいましたから。投資第三部のディレクター、だそうです!」

詩織の眉間が、ぴくりと動いた。

そこは、かつて柊也が彼女に約束したポストだった。

この数年間、詩織が会社のために身を粉にして働いてきたことは、社内の誰もが知っている。

社内の昇進規定からいえば、彼女はとっくにディレクター職を任され、一人でプロジェクトを動かせるだけの実力があった。

それを柊也が、「秘書は君じゃないと慣れない」「代わりが見つからない」という理由で、今まで秘書部に留め置いていたのだ。

投資第三部のディレクターの席は、ずっと君のために空けておく、と。

上場が成功したら、自らの手で辞令を出し、昇進させるとも言っていたのに。

「そう……」まぶたが微かに痙攣するのを感じながら、詩織は感情を押し殺して尋ねた。「名前はなんて言うの」

「ええと、確か柏木……なんとかさん、でしたかね」密はちらりと見ただけで、はっきりとは覚えていなかった。

詩織の指先が震えた。その瞬間、手からマグカップが滑り落ちる。床に叩きつけられ、中のお湯が飛び散った。

密が小さな悲鳴を上げる。「詩織さん、火傷しませんでしたか!」

「大丈夫」

お湯は、それほど熱くはなかった。だが詩織は、本物の火傷よりももっと、肌を焼くような痛みを感じていた。

「柏木志帆」詩織が呟いた。

密は何のことかわからず、きょとんとしている。「え?」

詩織は深く息を吸い込んだ。「その人の名前は柏木志帆。今度、投資第三部のディレクターになる人よ」

「あ、そうです!その名前です!詩織さん、お知り合いなんですか」

「知らない」

そう言って、詩織はカップを手に、再び給湯室へと歩き出した。

落下傘人事の噂はあっという間に社内に広まり、詩織の元には、ひっきりなしに真偽を確かめようとする社員が訪れた。

その対応に疲れ果て、ついに堪忍袋の緒が切れた詩織は、声を荒らげた。「そんなに知りたいなら、直接社長に聞けばいいでしょ」

詩織の声が響くと、社長室フロアは一瞬しんと静まり返り、その静寂を破るように、柔らかな女性の声が聞こえた。

「柊也くん、あなたの会社の社員って、ずいぶん気が強いのね」

声のした方に目を向ける。そこに立っていたのは、寄り添うように並ぶ男女の姿だった。その光景は、詩織の目を焼くには十分すぎるほど、お似合いの二人だった。

何日も顔を合わせていなかった柊也の視線は、詩織の上を冷ややかに滑っただけだった。彼は皆に向かって、隣に立つ女性を紹介する。

「皆に紹介する。こちらが、新しく投資第三部のディレクターに着任された柏木志帆さんだ。今後、第三部のプロジェクトは全て彼女が担当することになる」

社員たちは口々に志帆へ挨拶した。

志帆は人当たりがいいのだろう、誰に対してもにこやかに微笑みかけている。「これから皆さん、どうぞよろしくお願いします」

彼女が用意した着任の挨拶代わりの手土産、その紙袋を、隣に立つ柊也が持ってやっていた。

詩織は自嘲気味に口の端を歪めた。

以前、柊也と一緒に行動する時は、いつも荷物を持つのは詩織の役目で、彼が手を貸してくれることなど一度もなかったのに……

それが、あの女性が相手だと、自分から進んで持ってやるのだ。

ああ、やっぱり。愛されているかどうかで、こうも扱いは違うものなのか。

志帆は詩織にも手土産を渡した。カピバラのリストレスト付きマウスパッドだった。

「あら、かぶっちゃったみたい」志帆は詩織のデスクの上にある同じものを見て、少し驚いたように言った。

そして、柊也の方を振り返って言う。「柊也くん、この方と趣味が合うのね」

続けて、詩織に申し訳なさそうに微笑んだ。「この手土産、柊也くんに付き合って選んでもらったの。まさか同じものだなんて思わなくて……もし、嫌だったら、後で何か別のものを用意するわ」

「いえ、お気遣いなく。気にしませんので」詩織はそのリストレストを受け取った。

「江崎秘書」柊也が詩織に命じた。「柏木ディレクターに社内を案内してくれ」

詩織に断る理由はなかった。

エイジア・キャピタルの秘書としての服務規程、その第一条。『社長の命令を最優先とすること』

見るからに、志帆は人当たりが良く、誰に対しても物腰が柔らかく、丁寧な言葉遣いだった。

容姿もまた、非の打ち所がない。まさに完璧な顔立ちをしていた。

あの柊也が焦がれた女性なのだ。並大抵の女であるはずがなかった。

詩織が一通り案内を終えると、志帆は自分のオフィスを見てみたいと言い出した。

そのオフィスは、半月前に内装が仕上がったばかりだった。

詩織が自ら、現場監督まで務めた場所だ。

内装も、家具の配置も、すべて詩織の好みでデザインされている。

誰よりも、このオフィスで働くことを心待ちにしていた。

それは、ずっと柊也と結婚することを願ってきたのと同じように。

それなのに、今の詩織の手には、愛もキャリアも、何一つ残らなかった。

「このオフィスの雰囲気、すごく好き。思っていたより温かみがあるし、柊也くんの部屋にも近くて嬉しいわ」

志帆はとても満足そうだった。その喜びを柊也にも伝えたかったのだろう、彼女は詩織をそこに残したまま、急ぎ足で隣の社長室へと向かった。

オフィスに一人取り残された詩織は、自分がまるで道化師のようだと感じた。

自分が心を込めて作り上げた空間を見回すと、心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような感覚に陥った。

息が、苦しい。

……

昼からの定例会議は、エイジア・キャピタルで週に一度開かれる最重要会議だ。社内の誰もが、一番緊張を強いられる時間でもある。

遅刻が許される者など、誰もいない。それは詩織も例外ではなかった。

──ただ一人、志帆を除いては。

入社したばかりの新人のくせに、彼女は柊也が自ら定めたルールを、いとも簡単に破ってみせた。

詩織は、柊也が怒りを露わにするだろうと思った。

少なくとも、一言二言、咎めるくらいはするはずだと。

しかし彼は何も言わず、厳しい言葉一つかけることなく、ただ静かに、詩織に資料を配るよう指示しただけだった。

その瞬間、詩織は少しだけ、目の前の現実が信じられなかった。

ふと、昔の記憶が蘇る。

自分がまだインターンだった頃、インフルエンザの高熱で会議に遅刻し、全社員の前で柊也に名指しで罵倒された日のことを。

そのインフルエンザが、彼の看病をしたせいでうつったものだということには、一切触れずに。

後になって悔しさをぶつけた詩織に、柊也は言った。会社はまだ始まったばかりで、規律を示す必要があったのだと。見せしめだったのだ、と。

そして詩織は、彼が社内に権威を示すための、ただの道具にされたのだった。

それでも詩織は自分に言い聞かせた。柊也はただ公私をきっちり分けているだけで、自分を狙い撃ちにしたわけではない、と。

何年も経った今、目の前で繰り広げられるこの光景は、まるで力一杯に頬を張り倒されたかのような、強烈な衝撃を詩織に与えた。

彼にだって、公私を混同することがあるのだ。ただ、彼にそうさせる相手が、自分ではなかったというだけ。

人は、相手によってここまで態度を変えるものなのか。

それは、愛されているか、そうでないかの違いと、全く同じだった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Comments (1)
goodnovel comment avatar
まるまるまる
699話まで読んで読み返してます。1話から辛くて泣きそう。どんな裏があったとしても、他人をこんなに傷つけてはいけないよ。大逆転があっても、傷は消えない。辛い。
VIEW ALL COMMENTS

Latest chapter

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第928話

    誰かが困惑したように声を上げる。「え、何で急に答えが間違いだって気づいたんだ?」その問いを機に、個室の中は異様な静寂に包まれた。少しでも勘のいい者なら、すぐに事の核心に辿り着く。一同の視線が、詩織、柊也、そして京介の三人の間を激しく行き来した。剥き出しの好奇心、真相を暴こうとするいやらしい眼差し、そして野次馬特有の、下世話な興奮。沈黙の中で、かつての誤解と、今さら明らかになった真実が音を立ててぶつかり合っていた。見世物にされるのは真っ平だった。詩織は自分の手を取り戻そうとする。だが、柊也の指は鉄の枷のように食い込み、微塵も解ける気配がない。「悪いが、少し個人的な話がある。お先に失礼するよ。みんな、楽しんでくれ」最後に太一へ向かって、「誕生日おめでとう」と言い添えた。それだけ言い残すと、柊也は詩織の手を引いて外へと歩き出す。その足取りは、かつてないほど迷いがなかった。詩織は半ば強制的に連れ出される羽目になった。握られた手首が熱い。彼の体温が伝わり、手のひらにはじっとりと汗がにじむ。振り払おうとしても、力ずくで引き抜こうとしても、びくともしなかった。「……ちょっと、一体何を考えてるのよ」詩織は眉をひそめ、苛立ちをぶつけた。柊也はそのまま、誰にも邪魔されない静かな場所まで彼女を連れて行くと、ようやく足を止めた。そして、射抜くような鋭い視線を彼女に浴びせる。「お前と京介は……一度も付き合ってなんていなかった。そうなんだな?」詩織は心底呆れ果てた。何を今更、そんな分かりきったことを聞くのか。さっき個室であれだけはっきりと否定したはずだ。二度も三度も繰り返すつもりはない。強引に腕を振り抜き、その場を去ろうとした。だが柊也は、逃がすまいと彼女を抱き寄せ、上から覗き込むように顔を近づけた。「詩織、答えろ!」どんな時でも冷静沈着、不測の事態にも動じない詩織だが、柊也を相手にするといつもペースを乱される。赤く跡がついた自分の手首を見て、ついに怒りが沸点に達した。「なんで私が、そんなわけのわからない質問に答えなきゃいけないのよ!」「ただ知りたいんだ。お前とあいつが、本当に付き合っていたのかどうかを」柊也は執拗に答えを求めてくる。詩織が強引にすり抜けようとした瞬間、彼は彼女を壁に押し込んだ。

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第927話

    昔、京介本人に問い詰めた時、彼は「志帆と交際したことなど一度もない」とはっきり断言していたのだ。あれは志帆が国内の社交界で勝手に流したただのデマだった。そもそも留学中、彼らは滞在している大陸すら違っていたのだから。だとしても、「誰とも付き合ったことがない」だと?太一は怪訝な顔になり、思わず横の柊也へと視線を送った。柊也の目は鋭く光り、京介の顔を射抜くように見つめていた。「それは『真実』か?」「ああ」京介はきっぱりとうなずく。「こんな時に、わざわざ嘘を吐く必要なんてない」「十二年前、江ノ本第一高校の校門前にある売店だったよな。お前と詩織、付き合ってるって周囲に公言してたじゃないか」柊也は当時の時間や場所までも明確に口にした。まるで紛れもない事実であるかのような、断定的な物言いだ。当事者である京介ですら、一瞬呆気に取られていた。彼は柊也を一瞥し、次いで詩織を見る。ずっと他人事で通していた詩織も、これには驚きを隠せなかった。十二年前?江ノ本第一高校?彼が言っているのは……あの、付き合っているふりをしていた一件のことだろうか。詩織がふと視線を上げると、あの真っ向から見据える黒い瞳とぶつかった。柊也の顎のラインは硬く強張り、その眼窩の奥には激しい嵐の予兆が渦巻いている。京介もようやく思い出したようで、苦笑混じりに口を開いた。「……ああ、あれは誤解だよ。当時、第一高校の周りは治安があんまり良くなくてね。下心を持って近づいてくる連中を追い払うために、しばらく彼氏のふりをして詩織の下校に付き合ってただけだ」「なんだ、偽装カップルだったのかよ?」太一が素っ頓狂な声を上げた。あまりにも大きな、そして長すぎる勘違いだった。京介は深く頷く。「ああ。あくまでフリだ。高村先生に頼まれてね」当時、高村教授は詩織を弟子に取ったばかりで、末っ子の弟子をそれはもう可愛がっていた。彼女が不良絡みのトラブルに巻き込まれそうになったと知るや、京介をナイト役に指名したのだ。『もしあの子に何かあれば、お前の責任だぞ』とまで脅されて。だから京介はしばらくの間、彼女の用心棒を務めていたに過ぎない。長年、柊也を縛り続けてきたはずの因縁が、あまりにもあっけなく、淡々と解き明かされていく。柊也は、胸を焼かれるような熱い

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第926話

    その質問に、詩織は思わずピクリと眉を動かした。彼女は、彼がどう答えるか知っている。――『好きな女の恋路に割り込んで略奪すること』だ。五年前、彼にプロポーズしようと決意したあの夜。太一が彼に同じ質問をしたのを、詩織はこの耳ではっきりと聞いていた。そして、今でも鮮明に覚えている。あれは、彼女が七年間抱き続けた夢が、木っ端微塵に砕け散った瞬間だったのだから。柊也はすぐには答えなかった。その熱を帯びた深い瞳が、ゆっくりと詩織へと向けられる。だが、詩織は目を逸らし、彼の視線を完全に無視した。その表情はどこまでも淡泊で、傍目には二人の間に親密さなど微塵も感じられない。やがて、柊也は焦る様子もなく口を開いた。その答えは、五年前と一言一句違わなかった。「――好きな女の恋路に割り込んで、略奪することだ」詩織の口角がわずかに上がり、声のない冷ややかな笑みがこぼれた。柊也はソファに深く背を預けている。間接照明の曖昧な光が彼の瞳の奥に落ちるが、まるでブラックホールに吸い込まれたかのように、そこにはただ底知れぬ漆黒だけが広がっていた。「お前がそこまでなりふり構わず惚れ込むなんて、一体どんな女なんだよ?」太一の反応は、五年前と同じように激しかった。周りの人間も興味津々で身を乗り出してくる。だが、柊也はあっさりとそれをかわした。「ゲームのルールだろ。質問は一回につき一個までだ」「よっしゃ、もう一回だ!今夜絶対に吐かせてやるからな!」太一が闘志を燃やして腕まくりをする。「やれるもんならやってみろ」柊也はどこ吹く風と余裕を見せた。続く第二回戦。ターゲットになったのは太一の友人だった。質問者は彼に、「自分の妻を愛しているか」と尋ねた。男は鼻で笑って答える。「政略結婚だぜ?愛だの恋だの、あるわけないだろ」太一が納得いかない顔で反論した。「政略結婚だって、相手を好きになることくらいあるだろ」男は薄笑いを浮かべたまま肩をすくめる。「もっと視野を広く持てよ。結婚してから、ゆっくり自分の好きな相手を外で探せばいいんだ。表沙汰にさえならなきゃ、誰も文句は言わねえよ」これが、世の政略結婚のリアルな実態だった。財界の荒波に揉まれてきたこの数年間、詩織はこんな話を腐るほど耳にしてきた。もはや驚きすらない。人間の本性なんて

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第925話

    さらには詩織が入ってくるのを見計らって、わざ見せつけるように京介に擦り寄っていく。京介はさりげなくそれをかわし、「少しタバコを吸ってくる」と席を立った。霜花はすかさずその後を追う。一目散に元夫の機嫌を取りに行く気満々だ。「あの二人、結局のところ本当に離婚したわけ?それともただの喧嘩?」誰かが野次馬根性で尋ねた。すると、霜花に金魚のフンのようについてきた取り巻きの一人が、鼻高々に答えた。「あれは夫婦のちょっとしたスパイスみたいなものよ。わからないかしら?敬語で静かに過ごす夫婦もいれば、ああやって喧嘩しながら愛を深める夫婦もいるの」そこで彼女はわざとらしく言葉を区切り、ちらりと詩織を見下しながら口の端を吊り上げた。「だから、変な噂を流さないでよね。あの二人の絆は本物なんだから。どこかの誰かさんが、変な期待をして勘違いすると困るでしょ?」あまりにも露骨な当て擦りに、詩織は思わず眉をひそめた。その瞬間、太一の足がテーブルの下で誰かに蹴られた。彼は慌てて咳払いし、喋っていた女に向かって唐突に口を開いた。「いや、ちょっとごめん。俺、あんたを誕生会に呼んだ記憶はないんだけど? もしかして会場間違えてない?」女の顔が引きつった。這うように出た気まずい笑みを浮かべ、必死に取り繕う。「えっと、私は霜花ちゃんと一緒に……」「別に霜花さんのことも呼んでないけど」ここまで言われると、さすがの女も愛想笑いすら作れなくなった。しかし、彼女も面の皮の厚さには自信があるらしい。「……まあまあ、もう来ちゃったんだからいいじゃない。お祝いの席は賑やかな方が楽しいでしょ?まさか太一さん、席から追い出すような野暮な真似はしないわよね?」自分たちは常識のある大人なのだ。いくらなんでも太一がここで本気で追い払うような真面はしないだろう。女はそうタカをくくっていた。だが、残念ながらそれは大きな勘違いだった。もし先ほどのあの当て擦りがなければ、太一だって大人の対応でその「常識」とやらを保っていただろう。だが、相手はよりにもよって詩織に噛み付いたのだ。ならば、情け容赦などする必要はない。「あ、大正解。出口はあっちだから、気をつけて帰れよ」女の顔は真っ赤に染まった。怒りと屈辱で震えながら、彼女は逃げるようにその場を去っていった。「江崎、

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第924話

    詩織という女は、そういう人間だった。貸し借りの境界線をきっちりと引き、少しでも不釣り合いな贈り物は絶対に受け取らない。相手にばかり負担をかけることを極端に嫌がった。高価なプレゼントをもらえば必ずそのことを覚えておき、後から自分なりのもっと心のこもった贈り物で返してくる。彼女は決して好意を無下にしているわけではない。人間関係における「バランス」の重要性を、誰よりも熟知していたのだ。一方的に甘えて、相手を利用していると思われるのを酷く恐れていた。かつて、彼女が恩師である高村教授に詫びを入れるため、彼が欲しがっていた書画をオークションで競り落とそうとした時のことだ。その時、横から強引に横取りしていったのが志帆だった。志帆は別にその掛け軸が欲しかったわけではなく、ただ詩織のものを奪いたかっただけだ。手に入れた途端に興味を失い、その後、柊也が裏で手を回したことなど微塵も気づいていなかった。彼が父の海雲の名前を借りて、それをこっそり詩織の手に渡したことなど。だがその後すぐ、詩織は自ら骨董屋で別の絵画を見つけ出し、海雲への「お礼」として贈ってきたのだ。自立しすぎていて、あまりにも潔い。だからこそ、彼が彼女に贈るプレゼントは、常に彼女が気負わずに受け取れる負担のないものばかりになった。――「五ヶ月と八日」。その正確すぎる数字の響きに、詩織は胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。急にこの狭い部屋が、ひどく息苦しい場所に思えてくる。彼女はふいと顔をそむけ、無意識に指をきつく握り込んだ。完全に塞いでいたはずの心の奥底に、また小さな波紋が広がっていくのがわかる。じわじわと込み上げてくる胸の痛みをどうにか押し殺すと、彼女は冷たい声を作って振り返った。「……どうして、そんな無意味なことをするの? 私が情にほだされて、よりを戻すとでも思ってるわけ?」「そんなこと、一度も考えたことはない」柊也は酔った瞳の奥に真剣な光を宿して答えた。もし今夜、酒に酔って正気を失っていなければ、こんな場所を詩織に見せるつもりなど到底なかった。彼はただ、彼女のかつての痛みを疑似体験したかっただけなのだ。彼女が歩んできた苦難の道を、自分も同じように歩いてみたかっただけ。これは、彼自身が背負った過去の罪に対する身勝手な精算だ。彼女にひけらかすための

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第923話

    だが、まさか柊也が今そこに住んでいるなんて。実際に部屋へ足を踏み入れた瞬間、詩織の胸は激しく揺さぶられた。部屋のレイアウトは五年前と全く同じで、何一つ変わっていない。かつて彼女が大切にしていたトロフィーすら、元の場所に飾られていた。ピカピカに磨き上げられた表面を見れば、頻繁に手入れされているのは明らかだ。でも、あのトロフィーは間違いなくゴミ箱に捨てたはずなのに。手に取って確かめてみる。欠けた部分の傷跡まで、記憶と完全に一致した。間違いない、私が捨てたあのトロフィーだ。リビングの壁際には相変わらずデスクが置かれ、壁には色とりどりの付箋が貼られている。しかし、そこに書かれているのは彼女の文字ではない。柊也の筆跡だった。以前彼が落とした手帳と同じように、書かれていることの九割九分は彼女に関するものだった。部屋の至る所に、確かな生活の匂いがあった。テーブルには飲みかけのグラス。キッチンにはずらりと並んだ調味料に、オープンラックに収納された様々な鍋。冷蔵庫には新鮮な食材がたっぷりと詰まっており、今朝彼女が食べたばかりのオレンジまで入っている……それらを目の当たりにし、詩織の冷ややかな表情に複雑な色が滲んだ。彼女は深く探るような視線を柊也に向ける。「……どうして?」いくらエイジアが破産したとはいえ、彼は賀来グループの唯一の跡取りだ。豪華な別荘にだって、五つ星ホテルや高級マンションにだって住める。最悪、実家に戻ることだってできる。帰る場所に困るような人間ではない。それなのに、どうしてこんな狭いアパートに?あんなにこの場所を嫌っていたじゃないか。私が住んでいたあの七年間で、彼がここに来た回数なんて両手で数えるほどしかなかったのに。今になって、なぜ彼がここに住んでいるの?柊也はペットボトルの水を一本飲み干し、ようやく少しだけ正気を取り戻した。だが、まだ頭は重いのか、ひどく辛そうな顔をしている。彼はゆっくりと息を吐き出すと、さきほどの問いに答えた。「ただ……君が昔どんなふうに過ごしていたのか、俺も同じように感じてみたかったんだ」ここは本当に狭い。彼の実家のバスルームにすら及ばない。住人の層もバラバラで、セキュリティなど無いに等しい。環境も酷いものだ。訳ありの住人も多く、モラルなんて期

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第574話

    向井が去った後、志帆は恐る恐る柊也の顔色を窺った。彼の様子は以前と少しも変わらない。平然として、静かなままだ。食事が進まない志帆に気づいたのか、彼がふと顔を上げる。「口に合わなかったか?」「ううん、そんなことないわ」その何気ない気遣いに、志帆の胸の痞えが少しだけ下りた気がした。食後、柊也はそのまま『エイジア』での会議へ向かうという。「ついでだから」と志帆を実家まで送り届けてくれた。帰宅するなり、美穂が目を丸くして出迎える。「早かったのね。てっきり一日中デートかと」「帰国したばかりだもの、会社が大忙しみたい。朝食の時間を作るだけでも大変だったんじゃないかしら」志帆はそう言

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第544話

    あの頑固な恩師のことだ。直接目の前に置いてやらなければ、薬を飲もうとなんてしないに決まっている。車を降りる際、詩織は運転手の湊に「すぐに戻るから」と一言残し、屋敷の玄関へ向かった。インターホンを押すと、家政婦が顔を出した。詩織の姿を認めると、柔和な笑みを浮かべる。「江崎さま。先生は散歩に出られておりまして、戻られるまで少し掛かるかと。中でお待ちになりますか?」「いえ、これを届けに来ただけですので。先生に、きちんと飲むようにお伝えください」詩織はそう言って、手にした紙袋を渡した。「かしこまりました」用件だけ済ませると、詩織は屋敷に足を踏み入れることなく踵を返した。家政

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第545話

    柊也は運転手を走らせ、アイスを買ってこさせた。だが、志帆はそれを二、三口舐めただけで、意味ありげな視線を柊也に送り続けた。しかし、彼の表情はあまりに平静で、彼女の暗示など微塵も察していないようだ。業を煮やした志帆は、わざとらしく彼の方へ身を寄せた。フェロモンを模した香水の甘い香りが車内に漂う。わざわざ胸元の大きく開いたミニドレスを選び、暑さを口実に上着まで脱ぎ捨てたのだ。その誘惑の意図はあまりに露骨だった。すると突然、柊也が口元に拳を当て、こほん、と咳払いをした。そして、やんわりと志帆の身体を押し戻した。「インフルエンザ気味なんだ。あまり近づかない方がいい。うつると

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第539話

    上機嫌で実家へ戻ると、珍しく父の長昭が帰宅していた。志帆は明るい声で挨拶を交わし、さりげなく『パース・テック』の審査状況について水を向けた。「ああ、昨日ちょうど市場監視局の村上さんと食事をしてね。上層部もあの案件にはかなり注目していると言っていたよ」立場上、長昭の口からはそれ以上の具体的な言及はなかった。だが、志帆にはそれで十分だった。上層部が注目しているということは、それだけ期待値が高い証拠だ。つまり、上場の可能性は限りなく高い。今日はなんていい日なの。まさに吉報続きね!志帆は心の中で祝杯を挙げた。……週末、詩織は小春に会うため、G市へと飛んだ。響太朗

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status