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第46話

Author: 北野 艾
長い沈黙が部屋を支配し、空気さえも凍りついたかのようだった。

柊也はただ、冷え切った眼差しで彼女を見つめていた。その黒い瞳に宿るのは、薄情さと氷のような冷たさだけだった。

やがて、彼が口を開く。その声は、夜の闇よりも冷たかった。「……宇田川京介のせいか?」

一瞬、詩織の頭の中が真っ白になり、言葉の意味がすぐには理解できなかった。

彼の瞳に浮かぶ侮蔑と嘲笑を見て、ようやくその言葉の裏にある意味を悟る。

……そう、賀来柊也の目には、私、江崎詩織は、そんな女にしか映っていなかったんだ。

笑わせる。

最近、急に気温が下がったせいだろうか。

詩織は大きく息を吸い込むと、身体の芯から凍えていくような感覚に襲われた。

骨の髄まで凍みるような、刺すような冷たさだった。

どの口が言うの?

先に心変わりしたのは、彼のほうじゃない。

先に裏切ったのも、彼のほうでしょう。

それなのに、どうして最後の最後で、私に汚名を着せようとするの?

骨身に沁みるほどの冷たさが、逆に彼女の理性を保たせた。自分の声が、驚くほど落ち着いて、柊也に反論しているのが聞こえる。「あら、あなたに教わったことじゃないですか。間を置かずに乗り換えるのって、案外楽しいものですね」

……

最近、同僚たちは皆、仕事の虫だった江崎秘書が変わったと感じていた。以前とは、まるで別人だ。

定時で帰るようになっただけでなく、服装や纏う雰囲気もがらりと変わった。

まるで吹っ切れたように晴れやかなその姿は、事情を知る者たちにとっては、正直なところ不可解でならなかった。

何しろ、皆の見立てでは、彼女は仕事も恋も……まとめて失ったはずなのだから。

賀来社長が二人の関係を公言したことは一度もなかったが、勘のいい者なら誰でも気づいていた。

本命の彼女が帰国した今、誰もが詩織は意気消沈するだろうと踏んでいたのだ。

ところが当の本人は、まるで何事もなかったかのように平然と日々の業務をこなし、悲しみの色など微塵も見せない。

対照的に。

おかしなことになっているのは、むしろ社長の柊也の方だった。

公私ともに順風満帆で、得意の絶頂にいるべき男が、一日中、重苦しい顔で黙り込んでいる。

社長室フロア全体の空気は、息もできないほどに淀んでいた。

投資第三部のディレクターである柏木志帆を除き、他の投資ディレクター
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