Compartir

第5話

Autor: 北野 艾
そんな過去を思い出しながらも、詩織は完璧な笑顔で応対する。辰巳は、詩織の返事を聞くと、残念そうにしながらも、どこか羨ましそうに言った。「賀来社長は本当に果報者だ。江崎さんのような逸材がいてくれるんだから、そりゃあ事業も成功するわけだ」

「いえ、とんでもないお言葉です。私からすれば、一代で会社を築かれた辰巳社長こそ、心から尊敬しております」

酒席での社交辞令に過ぎないと分かってはいても、辰巳は彼女の言葉にすっかり気を良くした。

「いやぁ、江崎さんと話していると、どうしてこうも気持ちがいいのかねぇ。こっちの言いたいことを全部汲んでくれる。さあ、この一杯は君にだ」

「辰巳社長は肝臓を労わらないといけませんから。この一杯は、私が代わりにいただきます。では、失礼して」

辰巳は、気風のいい人間との付き合いを好んだ。詩織のそういうさっぱりとした性格が、彼はことのほか気に入っていた。

彼女が杯を空にするのを見ると、慌てて声をかける。「おいおい、そんなに無茶するな。このプロジェクトの契約相手は、君しかいないと決めてるんだ。他の誰が来ても、ハンコは押さんよ!」

「……ありがとうございます、辰巳社長!」詩織はそう言うと、彼のグラスに丁寧に酒を注いだ。

その時、辰巳は彼女の顔色が普通でないことに気づき、気遣わしげに尋ねた。「江崎さん、君、もしかして具合でも悪いのかね? 顔色が優れないようだが」

「いえ、大丈夫です」

「無理はするな。なら、俺の運転手にでも病院まで送らせようか」

詩織が、それには及ばないと断ろうとした、その時。個室の扉が、コンコン、とノックされた。

ウェイターがドアを開け、中へと入ってくる。「辰巳社長。賀来社長が、辰巳社長がこちらにいらっしゃるとお聞きしまして。こちらのワインを、と」

辰巳は、ウェイターが恭しく差し出すワインに目をやった。

ロマネ・コンティ。――とんでもない代物だ。

だが、彼がそれ以上に不思議に思ったのは、柊也がこの店にいるのなら、なぜ詩織と一緒ではないのか、ということだった。

その疑問を口にする間もなく、柊也が、志帆を連れて姿を現した。

「辰巳社長、このワインはお気に召しましたか」柊也は、詩織の存在などないかのように、その視線を彼女の横を通り過ぎさせ、辰巳に声をかけた。

男が纏っているのは、清潔な白いシャツ一枚だけ。体に寸分違わずフィットしたそのシャツは、彼のすらりとした体躯と、どこか育ちの良さを感じさせる気品を際立たせていた。

では、その上着はどこにあるのかと言えば――

今、まさに志帆の肩に、ふわりと掛けられている。隠そうともしない親密さを見せつけながら。

皮肉なことに、そのジャケットは、かつて詩織が柊也のために自ら選んだ一着だった。

「これはこれは、賀来社長からの有り難いお心遣いだ。気に入らないはずがありませんよ。ところで、こちらは……」

辰巳の視線が、柊也に伴われてきた志帆の上で留まる。男が、自分の上着を女に着せかけてやっている。その関係性は、言うまでもない。

辰巳は、無意識のうちに詩織へと視線を送った。

彼女の表情は、驚くほど穏やかだった。ただ、その顔色は先ほどよりも一層、血の気を失っているように見えた。

「ご紹介します、辰巳社長。弊社の投資第三部ディレクター、柏木です」

柊也はそう言うと、今度は志帆に向き直った。「柏木さん、こちらはトレヴィ社の辰巳社長。我が社の古くからの友人だ」

志帆が一歩前に出て、辰巳に手を差し伸べる。「辰巳社長、はじめまして。柏木志帆と申します。これから、どうぞよろしくお願いいたします」

「いえいえ、柏木さん。こちらこそ」

トレヴィ社はエイジア・キャピタルとはいくつも案件を共にしてきた。だから、内情もある程度は耳に入っている。

投資第三部が設立されてまだ一年も経っておらず、そのディレクターのポストはずっと空席のままだった。誰もが、あの席は詩織のために用意されたものだと思っていたのだ。

彼女は本来の秘書業務と兼任しながらも、わずか一年で、第三部の業績を社内トップにまで押し上げた。その裏にあった彼女の尽力が、並大抵のものでなかったことは想像に難くない。

だが、まさか、その結末が……

彼女が懸命に育てた木に、別の人間が涼しい顔で腰掛けることになろうとは。

部外者である辰巳でさえ、詩織の境遇に同情を禁じ得なかった。

「ああ、そうだ辰巳社長。トレヴィ社とのこの共同プロジェクトの件ですが、今後は柏木の方で担当させていただきます。今日はそのご挨拶も兼ねて、彼女を連れてきました」

その言葉に、辰巳は思わず眉を顰める。「しかし、これまではずっと江崎さんが窓口だったが……急に担当が変わるというのは……」

だが柊也は、それを意にも介さない。「江崎はしょせん秘書ですから。以前は柏木がまだこちらに戻っていなかったので、一時的に代理をさせていただけのこと。本来の担当者が戻ってきた以上、持ち場を返すのは当然でしょう」

そう言うと、今度は辰巳をなだめるように言葉を続ける。「ご心配には及びませんよ、辰巳社長。柏木はM国のWTビジネススクールで金融学の博士号を取得し、海外のトップバンクでの実務経験もある。私が高給でエイジア・キャピタルに引き抜いた逸材です。その手腕は、疑う余地もありません」

辰巳が懸念しているのは、もちろん実務能力のことではない。彼が不憫に思ったのは、詩織のことだった。

彼女がこのプロジェクトのために、どれほどの心血を注いできたか。

それを、柊也はこうもあっさりと他人に引き渡してしまう。部外者である自分でさえ、見ていられないほどの仕打ちだった。

そんな辰巳の同情の視線を受けながらも、詩織の反応は、彼の予想に反して、驚くほど穏やかだった。

……ああ、そうか。柊也が自ら志帆を取引先に紹介して回る。彼女の将来のために、地盤を固めてやろうというわけだ。

本当に、手が込んでいる。

私が、一度も与えられたことのなかった、その気遣い。

そんな思いを押し殺し、詩織は、ただ静かに口を開いた。「……早急に資料を整理し、柏木さんに引き継ぎをいたします」

「ええ、よろしくお願いするわね、江崎さん」志帆は、どこまでも丁寧に応じる。

詩織は淡々と頷くと、立ち上がってバッグを手に取り、辰巳に会釈した。「辰巳社長。それでは、後は柏木さんと直接お話を。私はこれで失礼いたします」

辰巳は引き止めたい気持ちに駆られたが、自分にその資格がないことも分かっていた。

せめてもの抵抗として、彼は詩織のために、ささやかな反撃を試みた。「これは御社の決定ですから、私のような部外者が口を挟むことではありません。ええ、誰が担当でも結構ですよ。……ですが、賀来社長もご存知の通り、私は酒を酌み交わしてこそ、腹を割って話せるという古い人間でしてね。以前、江崎さんには強い酒を九杯も立て続けに飲んでいただき、その気骨には心底感服させられたものです。……それで、柏木さんの酒量は、いかがなものですかな?」

「江崎さんには及ばないかもしれませんが、辰巳社長にお付き合いする準備はできておりますわ」志帆はそう言って、臆することなく大胆に杯を手に取った。

しかし、柊也がその杯を、彼女が口にする前に奪い取った。「彼女は、体調が優れないんだ。この一杯は、私が代わろう」

そして、辰巳が何か言うより先に、それを一気に呷した。

辰巳は知っていた。柊也が、アルコールを受け付けない体質だということを。だからこそ、どんな酒席でも、常に詩織が彼の代わりに酒を飲んできたのだ。

彼と付き合い始めてから、柊也が誰かのために酒を飲むところなど、一度も見たことがなかった。

では、これまで詩織が彼のために体を張って飲んできた、あの無数の酒は、一体何だったというのか。

扉の外に佇む詩織もまた、同じことを考えていた。

……

家に帰り着き、薬を飲んでベッドに横になった、まさにその時。詩織のスマートフォンが着信を告げた。親友のミキからだった。

電話に出るなり、ミキは詩織の体を気遣う質問を立て続けに投げかけてくる。

最近ちゃんと休めているのか、体調は万全なのか、医者の言いつけを守って、決してお酒に口をつけていないか、など……

詩織は言葉を濁す。

するとミキは、それだけで全てを察したようだった。

「……また飲んだんでしょ」

「仕事の接待で……仕方がなかったの」

電話の向こうでミキが声を荒らげるのがわかった。「あんた、死にたいの!? 急性アル中で死にかけたこと、もう忘れたわけ!?ていうか、賀来柊也のやつ、なんであんたを飲み会なんかに参加させてんのよ!」

「……もう、しないから」詩織はなだめるように約束する。

だがミキは、そんな言葉を信じようとしなかった。「あんた、前も同じこと言ってたじゃない!」

「今度は、本当だから」

「……どのくらい?」

詩織は少し考えを巡らせてから、ミキに尋ねた。「ねえ、ミキ。知り合いに弁護士いないかな。エイジア・キャピタルの法務部と渡り合えるくらい、腕の立つ人が」

電話の向こうで、ミキが息を呑む気配がした。「……なにする気」

「エイジア・キャピタルとの契約を解除しようと思ってるの。でも、前に結んだ長期契約、覚えてるでしょ。条項が私にとってすごく不利なものばかりで……おまけに、あそこの法務部は強気だから、そこらの弁護士じゃまず引き受けてくれない」

そこでようやく、ミキは詩織が本気なのだと悟った。驚愕の声を隠せないまま、彼女は問いかける。「え……あんた、本当にあの詩織?」

「本物よ、正真正銘のね」

「今日はなんて記念すべき日かしら! 恋に目が眩んでた親友が、ついに目を覚ましたんだから!」

ミキは、心の底から詩織の決意を喜んでくれた。詩織が休まなければならないと分かっていなければ、今すぐにでも飛んできて一晩中語り明かしたい、そんな気持ちが声色から伝わってくる。

「弁護士のことは私に任せて。なんとかして腕の立つ人を探してあげるから」

電話を切る直前にも、ミキは「安心して」と念を押すのを忘れなかった。

親友に胸の内を話せたことで、詩織の心はいくらか軽くなった。そして、心地よい眠気が襲ってきた、まさにその時だった。

柊也から着信があった。

詩織は電話に出た。その声は、驚くほど平坦だった。

「社長、何かご用でしょうか」

「アレルギーの薬を届けてくれ」柊也は、いつものように当然といった口ぶりで命じた。

「かしこまりました」

通話を切ると、詩織はそのままスマートフォンの電源を落とし、ベッドに深く体を沈めた。瞼の裏に、柊也の顔が浮かんでくる。

どこかの誰かさんが、「か弱いお姫様」のために騎士よろしくお酒を呷あおり、アレルギー反応を起こしたかなんだか知らないけれど……

それが、今の私に何の関係があるというのだろう。

Continúa leyendo este libro gratis
Escanea el código para descargar la App
Comentarios (2)
goodnovel comment avatar
おすがさま
バカじゃないの? ここまでヤラれても、まだ目が覚めないの… いい加減離れれば、、、
goodnovel comment avatar
hime kichi
こんなクズ社長死んだらいいねん! でもヒロインにも責任ある!
VER TODOS LOS COMENTARIOS

Último capítulo

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第922話

    それは単に、二度と志帆を入り込ませないためだった。当時は最も緊迫した局面に差し掛かっていた。何年にもわたり、血の滲むような思いで繋ぎ合わせてきた証拠の包囲網が、あと少しで完成しようとしていたのだ。ここでほんのわずかでも躊躇や弱みを見せれば、長年の苦労がすべて水の泡になる。だからこそ、彼は心を鬼にして、あの家を徹底的に破壊するしかなかったのだ。志帆を納得させる口実も十分だった。「ここにあるものはすべて詩織が整えたものだ。君に嫌な思いをさせたくないから、更地にして建て直すことにした」そう告げると、彼女は疑うどころか、自分のためにそこまでしてくれるのかと感激すらしていた。自分はこれほどまでに愛されているのだと、彼女は信じて疑わなかった。だが、真実は彼だけが知っている。建物が崩れ去るその瞬間、彼の心もまた、音を立てて瓦礫の山へと崩れ落ちていた。思えば、あの家の装飾を詩織に一任したときから、彼には下心があった。自分の好みなど一切気にせず、彼女の好きなように、彼女の理想を形にしてほしかったのだ。遠慮させないよう、あえて無関心を装い、「寝られればどこでもいい」などとそっけない態度をとった。ただ、彼女が思い描く「温かな家庭」がどんなものか、見てみたかったのだ。もし運が良ければ、三、五年ほど刑務所で服役したあと、彼女が作り上げたあの家で余生を静かに過ごせるかもしれない。運が悪ければ――その時は、それまでの運命だと諦めるつもりだった。......車がホテルのエントランスに滑り込んだ。詩織は、再び眠りに落ちかけた柊也を揺り起こした。回ってきたアルコールのせいで、彼の意識はさっきよりも混濁している。運転手が手を貸そうとしても、彼はそれが誰かも判別できないのか、ひたすらその手を拒絶し、振り払おうとする。見かねた詩織が、代わりに彼の身体を支えた。すると、彼は先ほどまでの抵抗が嘘のように大人しくなったが、代わりにその体重のすべてが彼女にのしかかってきた。詩織はドレスにハイヒールという格好だ。成人男性の重みを支えきる体力など、どこにもない。「……お願い、少しは自分で歩いてよ」詩織の声に、余裕がなくなっていく。「ここにも、泊まらない……」柊也は頑なにホテルに入ろうとしない。いい加減、詩織の堪忍袋の

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第921話

    せり上がってくる苦いきしみから逃れるように、詩織は窓から顔を背けた。眉間を寄せ、冷徹なまでに淡々とした声で言い放つ。「何を今さら感傷に浸ってるの?自分で壊したくせに」柊也は気怠げに腕を上げ、自分の両目を覆い隠した。そして、重苦しい車内の空気よりもさらに沈んだ声で、ひと言だけこぼした。「ああ……俺が、この手で台無しにしたんだ」その瞬間、詩織の胸には訊きたいことが山ほど込み上げてきた。なぜ、あの家を壊したのか。志帆を愛したことなど一度もないと言うなら、なぜあの時、私を捨てて彼女を選んだのか。けれど、言葉が喉まで出かかっては、そのまま飲み込むことを繰り返した。今さら訊いてどうなる。未練があると思わせるだけではないか。彼女の心には、燻り続ける怒りと、どうしても拭えない不信感があった。一度私を捨てた男だ。二度目も、三度目も、きっと同じことを繰り返すに違いない。......「柊也くん、家が火事になっちゃって……しばらくの間、あなたのところに置いてもらえないかな?」そう訴える志帆の瞳は、悲劇のヒロインのように潤んでいた。柊也が、長期滞在用のホテルを手配しようと口を開きかけた、その時だ。佳乃が、まるで示し合わせたようなタイミングで助け舟を出した。「志帆は昔からデリケートでしょ?ホテルだとなかなか寝付けないのよ。一日二日ならまだしも、長期となると……家を直すのに一ヶ月はかかるっていうし」佳乃はわざとらしく自分を責めるような仕草を見せた。「ごめんなさいね。私の不注意なの。料理中に電話に出ちゃって、つい火の粉を……」当時、帰国したばかりの志帆を伴って現れた佳乃の言葉は、明らかに柊也を試すためのものだった。「ホテルには泊まれない」などというのは単なる口実で、彼がどこまで志帆を特別扱いするのかを見極めようとしていたのだ。柊也は仕方なく、志帆を自分の家に住まわせることを承諾した。本当は、適当なマンションの一室を自分の家だと偽って貸し出すつもりだった。詩織が心を込めて整えたあの家を、志帆に汚されたくなかったからだ。だが、志帆はすでに調べ上げていた。職場であるエイジアに近く、都会の喧騒を忘れさせるあの閑静な邸宅が、彼の一番の拠点であることを。あの日、柊也は車を走らせながら、同じ場所を何度も何度も回った。

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第920話

    太一は、背筋に氷を押し当てられたような戦慄を覚えた。振り返るまでもない。この得体の知れない気配の主を、彼は嫌というほど知っていた。「太一くん、来てたなら挨拶くらいしてくれてもいいじゃない」ニーナが前に回り込んできた。顔中にべったりと笑みを湛えている。「……いやあ、今日のニーナさんがあまりに綺麗なんで、見惚れて誰だかわからなかったんですよ」太一は引きつりそうになる顔を必死で抑え、精一杯の営業スマイルを絞り出した。「もう、相変わらず口が上手いんだから。そういうところが大好きなのよねえ」ニーナは上機嫌で浮かれているが、太一の方はすでに表情筋が限界だった。今の太一が味わっている地獄とは対照的に、会場の反対側で「完璧なアシスタント」を演じている男は、まさに我が世の春を謳歌しているようだった。今夜、詩織に注がれる酒はすべて、柊也が鮮やかな手際で引き受けていた。宴も中盤に差し掛かっているが、詩織はまだ一滴もアルコールに触れていない。最初は、彼のアレルギーを心配して止めたのだ。だが柊也は「来る前に薬を飲んできたから大丈夫だ」と事もなげに言った。その言葉に、詩織の思考がふと止まる。――その手慣れた準備の良さは、かつて志帆の傍らで彼女を庇い、酒を代わりに飲み続けてきた経験からきているものだろう。そう気づいた瞬間、詩織の心は鉛を飲まされたように重く沈んでいった。結局、お開きになる頃には、柊也はすっかり出来上がっていた。詩織は彼を支えて車に押し込み、ひとまず送り届けようとして、ふと足が止まった。自分は今の柊也の住所を知らない。隣のシートに沈み込んでいる男に目を向ける。かなりの酔いようだ。二、三度名前を呼んでみたが、反応がない。詩織はためらいながらも、彼の頬を軽く叩いて促した。「柊也、起きて。家はどこ?住所を教えてくれないと送れないでしょう」「……ん……」柊也は何かをくぐもった声で呟いた。聞き取れず、詩織が耳をその口元へ寄せた。「どこだって?」しかし、彼はそれきり黙り込んでしまった。耳たぶにかかる熱い吐息に、詩織は思わず身をすくめる。彼女は小さくため息をつくと、運転席へ指示を出した。「……ひとまず、賀来の本宅へ向かってください」賀来家の本宅は帰り道からだいぶ外れていたが、詩織は構わず運転手にハンド

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第919話

    履歴書の備考欄には、密が書き加えた「独身」という二文字がある。受け答えの内容も申し分なく、一通りの質問を終えると、密が彼女に外で待機するよう告げた。愛梨が退室すると、密が隣の詩織に声を落として訊ねる。「詩織さん、あの子いいと思うんですが。どうですか?」しかし、詩織の手元では、愛梨の名前に大きなバツ印がつけられていた。まさか、詩織さん……賀来社長の件で焼きもちを?密がそんな不敬な邪推をしているとは露知らず、詩織は淡々とした口調で言った。「彼女、右の中指に指輪の跡があったわ。面接に来る直前に慌てて外したんでしょうね」この界隈の習慣では、右の中指に指輪をはめるのは「婚約中」や「真剣交際中」を意味することが多い。愛梨は、採用に不利になるのを恐れてか、その事実を隠して「独身」と嘘をついたのだ。もちろん、採用されたい一心での隠し事だろう。だが、詩織が求めているのは、公私にわたって密接に自分を支え、時には機密事項にも触れることになるアシスタントだ。仕事の入り口でこうした不誠実さを見せる人間を身近に置くのは、ビジネス上のリスクを伴う。詩織が彼女を落とした理由は、嫉妬などではなく、あくまで冷徹なリスク管理の結果だった。密は自分の考えの浅さを恥じ、背筋を正した。その後も何人かの面接を行ったが、誰もが優秀ではあった。しかし、性別の壁を除けば、柊也の積み上げてきた圧倒的なキャリアを打ち負かせる者など、一人もいなかった。詩織は手元に残った四枚の履歴書を眺め、一分ほどの沈黙のあと。迷いなく、賀来柊也の名前にチェックを入れた。彼女はペンを置くと、密に言い渡した。「規約通り、試用期間は一ヶ月。合格ラインに達して初めて本採用とするわ」そして、会議室を出る間際に、短くこう付け加えた。「今夜の会食、さっそく彼を同行させて」......太一は朝から頭痛が止まらなかった。原因はわかっている。今日またしても、あのニーナと顔を合わせる羽目になったからだ。本当に勘弁してほしかった。前回、あの女にねっとりとセクハラまがいのボディタッチをされて以来、三日連続で悪夢にうなされたのだ。ようやくトラウマから立ち直りかけていたというのに、今夜のレセプションパーティーに彼女が参加すると知らされ、本気で泣きたい気分だった。

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第918話

    お昼時、ミキから詩織の元にメッセージが届いた。夜は大事な接待が入ったから夕食は作れない、適当に済ませてほしいという内容だ。詩織が「最近、仕事入れすぎじゃない?」と返すと、ミキは「それだけ私が売れっ子になる予兆ってこと!」と、自信満々の絵文字を送ってきた。「『人生の三大錯覚』って知ってる?」詩織が冗談半分に訊ねる。「何それ?」「海外株が暴落する、日経平均が爆上がりする、そして――『私はもうすぐ有名になる』」するとミキは、首を横に振るスタンプと共にこう返してきた。「残念、今は『四大錯覚』に更新されてるよ」「あと一つは?」「『彼はまだ私を愛している』、それから『今回は今までとは違う』」「……」これ以上の返信は無理だ。完全に会話を強制終了させられた気分だった。そんな「会話ブレイカー」のミキだが、最後の一押しは忘れなかった。「アシスタントのこと、忘れないでよ!」「わかってる。ちょうど今、密が面接してるはずだから」ミキからOKの手元スタンプが届き、やり取りは終わった。スマホを置いたタイミングで、密がノックをして部屋に入ってきた。その表情はどこか言いようのない、奇妙な陰を帯びている。詩織は怪訝そうに顔を上げた。「面接、この時間じゃなかった?」密は困ったように頭をかいた。「そうなんですけど……ちょっと判断に迷いまして。詩織さん、お忙しいところ申し訳ないんですが、一度直接会っていただけませんか?」密が詩織の下について五年になる。実務能力に疑いの余地はない彼女が、ここまで歯切れを悪くするというのは、よほどの事情があるに違いない。「候補者の履歴書を見せて」密は心得たもので、最終選考に残した五人の履歴書をすぐに差し出し、手短に報告した。「最終に残ったのは五名。女性が四名、男性が一名です」「男性?アシスタントは女性限定って言っておいたはずだけど」「はい、承知しています。ただ……この最後の一人だけは、あまりに経歴が優秀すぎて……」詩織の訝しむような視線を受け、密はもう腹をくくったという様子で言った。「とにかく、まずは彼のプロフィールをご覧になってから、判断していただけますか」一番下にあった履歴書を目にした瞬間、詩織は密があんなに歯切れが悪かった理由を完全に理解した。彼女は眉間にしわを寄せ、その履歴書

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第917話

    あの日、横断歩道で死んだように立ち尽くしていた自分を、鬼気迫る顔で引き戻してくれたミキの怯えた目を、詩織は一生忘れることはないだろう。氷のように冷え切った自分の手を、泣きそうな顔で何度も何度も温めようと擦ってくれた、あの痛切な姿を。その一言が、柊也の胸の内で燃え上がっていた燻りを、冷水のように完全に鎮火させた。ぐうの音も出ない。これ以上、彼に反論する資格など何一つ残されていなかったからだ。詩織はあえて彼の方を振り返らず、冷たい窓ガラスを向いたまま淡々と言った。「もしあなたがこういう関係を我慢できないなら、今この瞬間に諦めてくれて構わないわよ」――選択権は、最初からずっとあなたの側にある。対する柊也の答えは、絡めていた指にさらに力を込め、彼女の手を力強く握りしめることだった。「俺は構わない」迷いのない、絶対的な響き。「たとえ一生、公にできない日陰の身だったとしても……俺は構わない」その言葉に、詩織の胸の奥が、熱い火の粉を落とされたようにチリッと焼けた。彼女は残された最後の理性を総動員して、彼に強く握り込まれた手を振り払った。「……もう帰るわ」「なら……今夜は、俺のことを思い出してくれるか?」ほんの少しの甘い余韻でもいい、すがりつくように彼が問う。詩織は振り返ることなく、短い言葉を投げ返した。「……いいえ」それでも柊也は怒るどころか、静かな夜の雨音の中で、自嘲するように柔らかく笑った。「……俺は、ずっと君のことを考えているよ」......ミキはまだ起きていた。リビングのソファに寝転がり、中身のない恋愛リアリティ番組を見ながら、推しのカップリングの展開にきゃあきゃあと騒いでいる。詩織が玄関のドアを開けると、ミキは一瞬だけテレビから視線を移した。「おかえりー」「ただいま」詩織はうつむき加減で靴を脱いだ。「鍋にスープ作ってあるから飲んでおきなよ。お酒抜けるし、胃も休まるから」「うん、ありがとう」詩織はキッチンでスープを器によそい、ダイニングテーブルについた。温かいスープを、少しずつ胃の腑に流し込んでいく。「毎日そんな接待ばっかりで大丈夫なの?あんたもうすぐ三十路なんだよ。二十代半ばの頃とは違うんだから、絶対に体がもたないって。密に言って、もう一人アシスタントを探してもらいなよ」テレビ画面を眺め

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第57話

    密が詩織に白湯を注ぎ、心配そうに尋ねた。「詩織さん、大丈夫ですか」「ええ、まだ平気」詩織は温かい白湯を喉に流し込み、少しだけ強張りが解けるのを感じた。「外の様子はどう?」「滞りなく進んでいます」密はため息交じりに言った。「それよりご自身の心配をしてください。顔、真っ青ですよ」「あなたは先に戻って。私はもう少し休んでから行くわ」ホールに人手が足りなくなることを懸念し、詩織は密に戻るよう促した。「わかりました。何かあったらすぐに呼んでくださいね」密が休憩室から出ていくと、詩織は壁に寄りかかって一息つこうとした。その瞬間、ポケットに入れていたスマートフォンが静かに震える。画面

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第34話

    詩織は何気なく尋ねた。「何があったの?」「あの柏木ディレクターがですよ!詩織さんが前に決めてた案件、一つ残らず全部ボツにしちゃったんです!」密は明らかにトイレにでも隠れてこそこそ話しているようで、声がひどく潜められている。詩織は一瞬、固まった。「……全部?」「ええ、全部です!詩織さんが一番期待してたAIの案件と、ゲームの案件も……ぜんぶ」密はもう、呆れて言葉もなかった。詩織は眉をひそめて尋ねる。「社長は、何て?」「それが……何も」詩織の頭の中が、一瞬だけ真っ白になった。だが、すぐにすべてを察した。あの案件に投資価値があるかどうか、柊也が知らないはずはない。

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第43話

    始まりの美しさとは裏腹に、終わりはいつもこうも無様なのか。でも、もうどうでもいい。自分の中では、もう、この恋にピリオドを打ったのだから。柊也がそれに応えようが、頷こうが、もはや重要ではなかった。京介は詩織を食事に迎えに来たのだった。どうやってこの恩に報いてもらうか、いいことを思いついた、と彼は言った。しかし、詩織は思ってもみなかった。京介が予約した店が、まさか『せせらぎ』だったなんて。人生とは、時として皮肉なものだ。ずっと、ずっと心待ちにしていた。いつか柊也と一緒に来たいと、あれほど願っていた場所に、結局、彼は志帆を連れてやって来た。そして自分は、京介と訪れるこ

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第40話

    彼女は、ビジネス用の貼り付けたような笑顔を浮かべた。「病院は公共の場です。お二人がいらっしゃれるのなら、当然、私も参りますわ」柊也は、その答えが気に入らないとばかりに、さらに眉間の皺を深くする。そんな彼とは対照的に、志帆は何かに思い至ったように、詩織に尋ねた。「じゃあ、この前の……ご家族がご病気だっていうのは、本当だったの?」詩織は、その問いかけがおかしくてたまらなかった。まさか、この女は、私が嘘をついていたとでも思っていたのだろうか。 あなたたち二人を、わざわざ尾行するために?家族が病気だなどという嘘を、誰が好き好んでつくものか。きっと、柊也も、同じように私を疑ってい

Más capítulos
Explora y lee buenas novelas gratis
Acceso gratuito a una gran cantidad de buenas novelas en la app GoodNovel. Descarga los libros que te gusten y léelos donde y cuando quieras.
Lee libros gratis en la app
ESCANEA EL CÓDIGO PARA LEER EN LA APP
DMCA.com Protection Status