共有

第5話

作者: 北野 艾
そんな過去を思い出しながらも、詩織は完璧な笑顔で応対する。辰巳は、詩織の返事を聞くと、残念そうにしながらも、どこか羨ましそうに言った。「賀来社長は本当に果報者だ。江崎さんのような逸材がいてくれるんだから、そりゃあ事業も成功するわけだ」

「いえ、とんでもないお言葉です。私からすれば、一代で会社を築かれた辰巳社長こそ、心から尊敬しております」

酒席での社交辞令に過ぎないと分かってはいても、辰巳は彼女の言葉にすっかり気を良くした。

「いやぁ、江崎さんと話していると、どうしてこうも気持ちがいいのかねぇ。こっちの言いたいことを全部汲んでくれる。さあ、この一杯は君にだ」

「辰巳社長は肝臓を労わらないといけませんから。この一杯は、私が代わりにいただきます。では、失礼して」

辰巳は、気風のいい人間との付き合いを好んだ。詩織のそういうさっぱりとした性格が、彼はことのほか気に入っていた。

彼女が杯を空にするのを見ると、慌てて声をかける。「おいおい、そんなに無茶するな。このプロジェクトの契約相手は、君しかいないと決めてるんだ。他の誰が来ても、ハンコは押さんよ!」

「……ありがとうございます、辰巳社長!」詩織はそう言うと、彼のグラスに丁寧に酒を注いだ。

その時、辰巳は彼女の顔色が普通でないことに気づき、気遣わしげに尋ねた。「江崎さん、君、もしかして具合でも悪いのかね? 顔色が優れないようだが」

「いえ、大丈夫です」

「無理はするな。なら、俺の運転手にでも病院まで送らせようか」

詩織が、それには及ばないと断ろうとした、その時。個室の扉が、コンコン、とノックされた。

ウェイターがドアを開け、中へと入ってくる。「辰巳社長。賀来社長が、辰巳社長がこちらにいらっしゃるとお聞きしまして。こちらのワインを、と」

辰巳は、ウェイターが恭しく差し出すワインに目をやった。

ロマネ・コンティ。――とんでもない代物だ。

だが、彼がそれ以上に不思議に思ったのは、柊也がこの店にいるのなら、なぜ詩織と一緒ではないのか、ということだった。

その疑問を口にする間もなく、柊也が、志帆を連れて姿を現した。

「辰巳社長、このワインはお気に召しましたか」柊也は、詩織の存在などないかのように、その視線を彼女の横を通り過ぎさせ、辰巳に声をかけた。

男が纏っているのは、清潔な白いシャツ一枚だけ。体に寸分違わずフィットしたそのシャツは、彼のすらりとした体躯と、どこか育ちの良さを感じさせる気品を際立たせていた。

では、その上着はどこにあるのかと言えば――

今、まさに志帆の肩に、ふわりと掛けられている。隠そうともしない親密さを見せつけながら。

皮肉なことに、そのジャケットは、かつて詩織が柊也のために自ら選んだ一着だった。

「これはこれは、賀来社長からの有り難いお心遣いだ。気に入らないはずがありませんよ。ところで、こちらは……」

辰巳の視線が、柊也に伴われてきた志帆の上で留まる。男が、自分の上着を女に着せかけてやっている。その関係性は、言うまでもない。

辰巳は、無意識のうちに詩織へと視線を送った。

彼女の表情は、驚くほど穏やかだった。ただ、その顔色は先ほどよりも一層、血の気を失っているように見えた。

「ご紹介します、辰巳社長。弊社の投資第三部ディレクター、柏木です」

柊也はそう言うと、今度は志帆に向き直った。「柏木さん、こちらはトレヴィ社の辰巳社長。我が社の古くからの友人だ」

志帆が一歩前に出て、辰巳に手を差し伸べる。「辰巳社長、はじめまして。柏木志帆と申します。これから、どうぞよろしくお願いいたします」

「いえいえ、柏木さん。こちらこそ」

トレヴィ社はエイジア・キャピタルとはいくつも案件を共にしてきた。だから、内情もある程度は耳に入っている。

投資第三部が設立されてまだ一年も経っておらず、そのディレクターのポストはずっと空席のままだった。誰もが、あの席は詩織のために用意されたものだと思っていたのだ。

彼女は本来の秘書業務と兼任しながらも、わずか一年で、第三部の業績を社内トップにまで押し上げた。その裏にあった彼女の尽力が、並大抵のものでなかったことは想像に難くない。

だが、まさか、その結末が……

彼女が懸命に育てた木に、別の人間が涼しい顔で腰掛けることになろうとは。

部外者である辰巳でさえ、詩織の境遇に同情を禁じ得なかった。

「ああ、そうだ辰巳社長。トレヴィ社とのこの共同プロジェクトの件ですが、今後は柏木の方で担当させていただきます。今日はそのご挨拶も兼ねて、彼女を連れてきました」

その言葉に、辰巳は思わず眉を顰める。「しかし、これまではずっと江崎さんが窓口だったが……急に担当が変わるというのは……」

だが柊也は、それを意にも介さない。「江崎はしょせん秘書ですから。以前は柏木がまだこちらに戻っていなかったので、一時的に代理をさせていただけのこと。本来の担当者が戻ってきた以上、持ち場を返すのは当然でしょう」

そう言うと、今度は辰巳をなだめるように言葉を続ける。「ご心配には及びませんよ、辰巳社長。柏木はM国のWTビジネススクールで金融学の博士号を取得し、海外のトップバンクでの実務経験もある。私が高給でエイジア・キャピタルに引き抜いた逸材です。その手腕は、疑う余地もありません」

辰巳が懸念しているのは、もちろん実務能力のことではない。彼が不憫に思ったのは、詩織のことだった。

彼女がこのプロジェクトのために、どれほどの心血を注いできたか。

それを、柊也はこうもあっさりと他人に引き渡してしまう。部外者である自分でさえ、見ていられないほどの仕打ちだった。

そんな辰巳の同情の視線を受けながらも、詩織の反応は、彼の予想に反して、驚くほど穏やかだった。

……ああ、そうか。柊也が自ら志帆を取引先に紹介して回る。彼女の将来のために、地盤を固めてやろうというわけだ。

本当に、手が込んでいる。

私が、一度も与えられたことのなかった、その気遣い。

そんな思いを押し殺し、詩織は、ただ静かに口を開いた。「……早急に資料を整理し、柏木さんに引き継ぎをいたします」

「ええ、よろしくお願いするわね、江崎さん」志帆は、どこまでも丁寧に応じる。

詩織は淡々と頷くと、立ち上がってバッグを手に取り、辰巳に会釈した。「辰巳社長。それでは、後は柏木さんと直接お話を。私はこれで失礼いたします」

辰巳は引き止めたい気持ちに駆られたが、自分にその資格がないことも分かっていた。

せめてもの抵抗として、彼は詩織のために、ささやかな反撃を試みた。「これは御社の決定ですから、私のような部外者が口を挟むことではありません。ええ、誰が担当でも結構ですよ。……ですが、賀来社長もご存知の通り、私は酒を酌み交わしてこそ、腹を割って話せるという古い人間でしてね。以前、江崎さんには強い酒を九杯も立て続けに飲んでいただき、その気骨には心底感服させられたものです。……それで、柏木さんの酒量は、いかがなものですかな?」

「江崎さんには及ばないかもしれませんが、辰巳社長にお付き合いする準備はできておりますわ」志帆はそう言って、臆することなく大胆に杯を手に取った。

しかし、柊也がその杯を、彼女が口にする前に奪い取った。「彼女は、体調が優れないんだ。この一杯は、私が代わろう」

そして、辰巳が何か言うより先に、それを一気に呷した。

辰巳は知っていた。柊也が、アルコールを受け付けない体質だということを。だからこそ、どんな酒席でも、常に詩織が彼の代わりに酒を飲んできたのだ。

彼と付き合い始めてから、柊也が誰かのために酒を飲むところなど、一度も見たことがなかった。

では、これまで詩織が彼のために体を張って飲んできた、あの無数の酒は、一体何だったというのか。

扉の外に佇む詩織もまた、同じことを考えていた。

……

家に帰り着き、薬を飲んでベッドに横になった、まさにその時。詩織のスマートフォンが着信を告げた。親友のミキからだった。

電話に出るなり、ミキは詩織の体を気遣う質問を立て続けに投げかけてくる。

最近ちゃんと休めているのか、体調は万全なのか、医者の言いつけを守って、決してお酒に口をつけていないか、など……

詩織は言葉を濁す。

するとミキは、それだけで全てを察したようだった。

「……また飲んだんでしょ」

「仕事の接待で……仕方がなかったの」

電話の向こうでミキが声を荒らげるのがわかった。「あんた、死にたいの!? 急性アル中で死にかけたこと、もう忘れたわけ!?ていうか、賀来柊也のやつ、なんであんたを飲み会なんかに参加させてんのよ!」

「……もう、しないから」詩織はなだめるように約束する。

だがミキは、そんな言葉を信じようとしなかった。「あんた、前も同じこと言ってたじゃない!」

「今度は、本当だから」

「……どのくらい?」

詩織は少し考えを巡らせてから、ミキに尋ねた。「ねえ、ミキ。知り合いに弁護士いないかな。エイジア・キャピタルの法務部と渡り合えるくらい、腕の立つ人が」

電話の向こうで、ミキが息を呑む気配がした。「……なにする気」

「エイジア・キャピタルとの契約を解除しようと思ってるの。でも、前に結んだ長期契約、覚えてるでしょ。条項が私にとってすごく不利なものばかりで……おまけに、あそこの法務部は強気だから、そこらの弁護士じゃまず引き受けてくれない」

そこでようやく、ミキは詩織が本気なのだと悟った。驚愕の声を隠せないまま、彼女は問いかける。「え……あんた、本当にあの詩織?」

「本物よ、正真正銘のね」

「今日はなんて記念すべき日かしら! 恋に目が眩んでた親友が、ついに目を覚ましたんだから!」

ミキは、心の底から詩織の決意を喜んでくれた。詩織が休まなければならないと分かっていなければ、今すぐにでも飛んできて一晩中語り明かしたい、そんな気持ちが声色から伝わってくる。

「弁護士のことは私に任せて。なんとかして腕の立つ人を探してあげるから」

電話を切る直前にも、ミキは「安心して」と念を押すのを忘れなかった。

親友に胸の内を話せたことで、詩織の心はいくらか軽くなった。そして、心地よい眠気が襲ってきた、まさにその時だった。

柊也から着信があった。

詩織は電話に出た。その声は、驚くほど平坦だった。

「社長、何かご用でしょうか」

「アレルギーの薬を届けてくれ」柊也は、いつものように当然といった口ぶりで命じた。

「かしこまりました」

通話を切ると、詩織はそのままスマートフォンの電源を落とし、ベッドに深く体を沈めた。瞼の裏に、柊也の顔が浮かんでくる。

どこかの誰かさんが、「か弱いお姫様」のために騎士よろしくお酒を呷あおり、アレルギー反応を起こしたかなんだか知らないけれど……

それが、今の私に何の関係があるというのだろう。

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第10話

    詩織が怜をなだめる間もなく、一方的に電話は切られた。すぐにかけ直そうとした、まさにその瞬間、今度は柊也からの電話が割り込んできた。詩織は、それに出るしかない。「広江に来い」柊也は用件だけを告げると、すぐに電話を切った。相変わらず、命令口調だ。詩織は数秒ためらったが、最終的に広江へ向かうことを決めた。だが、それは柊也のためではない。スカイウィング社と、怜のためだ。あの案件は、彼女自身が選び、心血を注いできたプロジェクトだった。何度も怜の元へ足を運び、提案を練り直し、ようやく相手の心を動かして漕ぎつけた提携なのだ。それを途中で見捨てるのは、どうしても忍びなかった。こうなっては、風間先生との約束を反故にするしかない。案の定、電話口でこっぴどく叱られた。詩織は、この件が片付いたら必ず、大人しく治療に専念しますからと、必死に約束するしかなかった。深夜、広江市に降り立つと、外は土砂降りの雨で、気温もぐっと下がっていた。詩織は急いで来たため、何の準備もできていない。おまけに、タイミング悪く腹の奥が鈍く痛み始め、体調は最悪だった。どうにか体を支えてタクシーに乗り込み、ホテルに着いた頃にはもう深夜零時を回っていた。時間は遅かったが、詩織はスカイウィング社の件について、柊也と事前に話をしておきたかった。明日の早乙女社長との再交渉で、こちらの方針が統一できていないせいで話がこじれるのを恐れたのだ。部屋に入ると、雨で濡れた髪を拭うのも忘れ、すぐに柊也の携帯を鳴らした。コールが数回鳴った後、ようやく相手が出た。だが、詩織が口を開くより先に、電話の向こうから聞こえてきたのは、志帆の声だった。「柊也くん、江崎さんから電話よ」柊也の返事はくぐもっていて、はっきりとは聞き取れない。志帆が、彼の言葉を伝える。「江崎さん、柊也くん、今シャワーを浴びているの。だから、後でまたかけ直してもらえる?」詩織は、思わず喉を詰まらせた。「……大したことではありませんので。賀来社長のお邪魔はいたしません」詩織はそう言うと、一方的に電話を切った。深夜のホテル。男女が一つ部屋に二人きり。何かが起こるには、あまりに都合のいいシチュエーションだ。窓の外では、雨足がさらに強まっている。詩織は窓際に立ち尽くしながら、体の芯

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第9話

    太一は、柊也が驚愕するだろうと踏んでいた。ところが、彼の反応は驚くほど平然としていた。「城戸の奴、まだ諦めてなかったのか」「ってことは……あいつ、江崎に声をかけるの、初めてじゃないのか?」「ああ」柊也は意にも介さず、その口調には確信さえ滲んでいた。「だが、あいつに引き抜けるようなタマじゃない。江崎は行かない」太一も同意見だった。彼はせせら笑う。「だよな。江崎がエイジアを辞めるわけねえよな」他の理由はさておき、柊也がエイジアにいる限り、詩織が会社を去ることなどあり得ない。「あの女も大概、食えねえよな。俺の見立てじゃ、わざと城戸をあの店に呼び出したんだ。俺に目撃させて、その噂をお前の耳に入れさせるために。そうすりゃ、お前が焦って引き留めてくれるとでも思ったんだろ」太一は、すべてお見通しだと言わんばかりの口調で続けた。「お前が志帆ちゃんを重用して、自分を構わないから嫉妬してんだ。まったく安っぽい手だよな。分別ってもんがねえ。男が、女の嫉妬だの小細工だのを一番嫌うって分かってねえのか。そんな真似すればするほど、お前が離れていくってのによ。ほんと、身の程知らずもいいとこだ。自分が何様だと思ってんだ?志帆ちゃんと張り合おうなんて、土台無理な話だろ。どっちを選ぶかなんて、少しでも頭が回りゃ分かることだろうに」柊也に、太一のゴシップに付き合っている時間はなかった。適当に相槌を打って電話を切る。サインすべき書類の束をめくると、一枚の書類が目に留まった。詩織からの、退職願だった。彼はごく僅かに眉をひそめたが、すぐにその書類を脇に放ると、何事もなかったかのように他の書類にペンを走らせ始めた。……詩織は渉との話が弾み、すっかり上機嫌になっていた。帰り道、マンションの一階にある花屋で、自分のために花束を一つ買った。家に着いて、そういえば花瓶が一つもなかったことを思い出す。部屋中に溢れる、自分のものではない品々を眺めているうちに、せっかくの明るい気持ちが少しだけ翳りを帯びた。詩織は段ボール箱を見つけ出すと、そこへ書類をすべて詰め込んでいく。そうしてようやく、ダイニングテーブルの上を何もない状態に戻した。部屋をぐるりと見回し、やがて花瓶の代わりになりそうなものを見つけ出した。一つの、トロフィー。エイジア・キャピタ

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第8話

    だが彼は知らない。あの部屋が散らかっていたのは、彼の物で溢れかえっていたからだということを。柊也は根っからの仕事人間で、首席秘書である詩織は、彼の都合に合わせて二十四時間いつでも動けるように待機していなければならなかった。机の上には、彼がいつ必要とするか分からない各種資料が山積みになっていた。壁には、彼のスケジュールや業務計画を記したメモがびっしりと貼られていた。クローゼットには、彼がパーティーで着るための様々な礼服が掛けられていた。床には、彼がクライアントに贈るためのギフト類が無造作に置かれていた……もともと広くもないワンルームは、詩織にとって第二のオフィスと化していた。部屋全体で、彼女自身のものだと言えるのは、あの小さなシングルベッドだけだった。皮肉なことに、柊也はそのベッドさえも「狭すぎる」と嫌い、あの日以来、二度と彼女の部屋に来ることはなかった。家を出る前、詩織は引っ越し業者に一本電話を入れ、週末に荷物の整理を手伝う人員を手配してくれるよう頼んだ。もう、自分のものではない物をすべて部屋から運び出す時が来たのだ。……渉が選んだのは、最近オープンしたばかりで、体に優しい繊細な味わいで評判の創作料理の店だった。店名は『月蝕』。電話口で詩織が「胃の調子が悪い」と言ったのを聞いて、気を遣ってくれたのだろう。テーブルに並べられたのは、どれも胃に優しそうなあっさりとした料理ばかりだった。本当に、気が利く人だ。こういう気遣いは、誰かに教わってできるものではない。詩織は今まで、柊也が生活の中の些細なことを見過ごすのは、ただ仕事に集中しすぎているからだと信じようとしてきた。だから、そんな彼を受け入れ、気にしないように自分に言い聞かせてきたのだ。けれど今日、思い知らされた。柊也は、志帆が生理中だと知るや、彼女を気遣って薬膳スープを出す『百草庵(ひゃくそうあん)』へとわざわざ連れて行くような男だったのだ。彼もまた、ちゃんと気が利く人だった。ただ、その相手が自分でなかったというだけで。詩織は、いつもの生真面目な印象をがらりと変えていた。体に貼り付いていたようなスーツを脱ぎ捨て、長年きつくまとめていた髪も解いている。もともと透き通るように白い肌が、淡い色のワンピースに映え、まるで発光しているかのよう

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第7話

    『赤ちゃん』という言葉に、詩織が無理やり心の奥底に押し込めていた痛みが、じわじわと全身に広がっていくのを感じた。……真っ白な天井の照明。……鼻をつく消毒液の匂い。……処置を終えた後の、体の芯まで凍えるような寒気。一生、忘れられない。自らの血肉が剥がれ落ちるような、あの痛みも、永遠に。今になって思えば、あの子は何かを予感していたのかもしれない。だから、静かにやって来て、また静かに去っていった。まるで、自分に代わって大きな厄災を引き受けてくれるかのように。会議が終わると、志帆が密に声をかけた。「小林さん、さっきの議事録、一部送ってくださる?」内心の怒りを抑えきれない密は、棘のある言い方で答える。「まだ、まとめてません」「だったら、整理してからでいいわ」「こっちは死ぬほど忙しいんです。そんな時間ありません」志帆は眉をひそめ、密を一瞥した。密はそんな彼女を無視して、詩織の周りの片付けを黙々と手伝っている。志帆が部屋を出て行った後で、詩織は彼女を諭すように言った。「覚えておいて。仕事に感情を持ち込んでは駄目。この会社では、それは許されないことよ。もしあなたがここで長くやっていきたいなら、誰の反感も買っちゃいけない。特に、自分より職位が上の人にはね」「……だって、詩織さんのことを思うと、悔しくて」「悔しいとか、そういうものじゃないの」詩織の表情から、すっと感情が抜け落ちていた。彼女にしてみれば、恋愛は等価交換ではない。自分が柊也に尽くすのは、自分がそうしたかったから。それに対して柊也がどう応えるかは、彼自身の選択だ。その二つの間に等号を引こうとすれば、自分で自分の首を絞めるだけだ。柊也を愛していたから、将来を賭けて、海外留学の機会も諦めて、彼の起業に付き添い、彼を支えることを選んだ。結果は芳しいものではなかったけれど、後悔はしていない。負けを認めて、潔く身を引く。人生における最大の敵は、時として、自分の思考という名の檻に囚われたままの自分なのだから。ただ、一つの恋が終わること。それはどうしようもなく、人を疲れさせ、悲しませる。もう少し、時間が必要なだけ。きっと、乗り越えられる。……終業時刻が近づいた頃、詩織は志帆宛てにメッセージを送った。投資第三部のプロジェクト資料は

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第6話

    翌日、詩織が出社するなり、アシスタントの密が何やらこそこそとした様子で近づいてきた。「詩織さん……」周囲に聞き耳を立てられないよう、密はぐっと声を潜めている。「昨日の夜、柏木さん、社長とお泊まりだったみたいです」スマートフォンの画面に映し出されていたのは、彼女がこっそりと撮ったという証拠写真だった。「今朝、お二人、同じ車でいらしたんです。それに柏木さん、昨日のままの服で……」詩織はスマートフォンの画面に目を落とした。車のドアの前に立つ柊也は、顔の半分を影に落とし、降りようとする志帆を俯き加減に見つめている。絶妙な角度で撮られたせいだろうか、写真の中の二人からは、どこか密やかな情愛が漂っているように見えた。数秒間、詩織は無言でそれを見つめていたが、やがて視線を外し、手のひらにあった薬を一気に口の中へと放り込んだ。数口の白湯で薬を流し込む。熱い液体が喉を通り過ぎていくが、不思議と熱さも痛みも感じない。本当に、何も感じなかった。詩織は午前中いっぱいを使い、自分が担当してきたプロジェクトの資料をすべて整理し、その合間に辞表まで書き上げた。その間、志帆が柊也のオフィスを訪れたのは四回。毎回、三十分以上も中に留まっていた。想い人がそばにいて機嫌が良かったせいか、昨夜、詩織が彼の元へ行かなかった件で柊也が詰問してくることは、意外にもなかった。昼休みが近づいた頃、柊也と志帆がオフィスから連れ立って出てきた。詩織のデスクの横を通り過ぎていくが、一瞬たりとも足を止めることはない。志帆が柊也に話しかけているのが聞こえる。お昼は何が食べたいか、と。昨夜、自分の代わりにお酒を飲んでくれたお礼に、ご馳走させてほしい、と。柊也は、近くにいい薬膳スープの店がある、と答えた。そこの滋養スープは気や血を補うのに良く、今の志帆の体にぴったりだと。「柊也くん……優しいのね」志帆の、見るからに感動した様子の声が聞こえた。エレベーターの扉が閉まる、その直前。詩織は、書き上げた辞表に自分の名前を打ち込んだ。密から【お昼、どうします?】とメッセージが届く。詩織は少し考えて、返信した。【例の薬膳スープのお店、行ってみない?】すぐに【いいですね!】と返事が来た。ちょうど昼食時で、店内は多くの客で賑わっていた。店に足を踏

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第5話

    そんな過去を思い出しながらも、詩織は完璧な笑顔で応対する。辰巳は、詩織の返事を聞くと、残念そうにしながらも、どこか羨ましそうに言った。「賀来社長は本当に果報者だ。江崎さんのような逸材がいてくれるんだから、そりゃあ事業も成功するわけだ」「いえ、とんでもないお言葉です。私からすれば、一代で会社を築かれた辰巳社長こそ、心から尊敬しております」酒席での社交辞令に過ぎないと分かってはいても、辰巳は彼女の言葉にすっかり気を良くした。「いやぁ、江崎さんと話していると、どうしてこうも気持ちがいいのかねぇ。こっちの言いたいことを全部汲んでくれる。さあ、この一杯は君にだ」「辰巳社長は肝臓を労わらないといけませんから。この一杯は、私が代わりにいただきます。では、失礼して」辰巳は、気風のいい人間との付き合いを好んだ。詩織のそういうさっぱりとした性格が、彼はことのほか気に入っていた。彼女が杯を空にするのを見ると、慌てて声をかける。「おいおい、そんなに無茶するな。このプロジェクトの契約相手は、君しかいないと決めてるんだ。他の誰が来ても、ハンコは押さんよ!」「……ありがとうございます、辰巳社長!」詩織はそう言うと、彼のグラスに丁寧に酒を注いだ。その時、辰巳は彼女の顔色が普通でないことに気づき、気遣わしげに尋ねた。「江崎さん、君、もしかして具合でも悪いのかね? 顔色が優れないようだが」「いえ、大丈夫です」「無理はするな。なら、俺の運転手にでも病院まで送らせようか」詩織が、それには及ばないと断ろうとした、その時。個室の扉が、コンコン、とノックされた。ウェイターがドアを開け、中へと入ってくる。「辰巳社長。賀来社長が、辰巳社長がこちらにいらっしゃるとお聞きしまして。こちらのワインを、と」辰巳は、ウェイターが恭しく差し出すワインに目をやった。ロマネ・コンティ。――とんでもない代物だ。だが、彼がそれ以上に不思議に思ったのは、柊也がこの店にいるのなら、なぜ詩織と一緒ではないのか、ということだった。その疑問を口にする間もなく、柊也が、志帆を連れて姿を現した。「辰巳社長、このワインはお気に召しましたか」柊也は、詩織の存在などないかのように、その視線を彼女の横を通り過ぎさせ、辰巳に声をかけた。男が纏っているのは、清潔な白いシャツ一枚だけ。体に寸

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status