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第5話

Author: 北野 艾
そんな過去を思い出しながらも、詩織は完璧な笑顔で応対する。辰巳は、詩織の返事を聞くと、残念そうにしながらも、どこか羨ましそうに言った。「賀来社長は本当に果報者だ。江崎さんのような逸材がいてくれるんだから、そりゃあ事業も成功するわけだ」

「いえ、とんでもないお言葉です。私からすれば、一代で会社を築かれた辰巳社長こそ、心から尊敬しております」

酒席での社交辞令に過ぎないと分かってはいても、辰巳は彼女の言葉にすっかり気を良くした。

「いやぁ、江崎さんと話していると、どうしてこうも気持ちがいいのかねぇ。こっちの言いたいことを全部汲んでくれる。さあ、この一杯は君にだ」

「辰巳社長は肝臓を労わらないといけませんから。この一杯は、私が代わりにいただきます。では、失礼して」

辰巳は、気風のいい人間との付き合いを好んだ。詩織のそういうさっぱりとした性格が、彼はことのほか気に入っていた。

彼女が杯を空にするのを見ると、慌てて声をかける。「おいおい、そんなに無茶するな。このプロジェクトの契約相手は、君しかいないと決めてるんだ。他の誰が来ても、ハンコは押さんよ!」

「……ありがとうございます、辰巳社長!」詩織はそう言うと、彼のグラスに丁寧に酒を注いだ。

その時、辰巳は彼女の顔色が普通でないことに気づき、気遣わしげに尋ねた。「江崎さん、君、もしかして具合でも悪いのかね? 顔色が優れないようだが」

「いえ、大丈夫です」

「無理はするな。なら、俺の運転手にでも病院まで送らせようか」

詩織が、それには及ばないと断ろうとした、その時。個室の扉が、コンコン、とノックされた。

ウェイターがドアを開け、中へと入ってくる。「辰巳社長。賀来社長が、辰巳社長がこちらにいらっしゃるとお聞きしまして。こちらのワインを、と」

辰巳は、ウェイターが恭しく差し出すワインに目をやった。

ロマネ・コンティ。――とんでもない代物だ。

だが、彼がそれ以上に不思議に思ったのは、柊也がこの店にいるのなら、なぜ詩織と一緒ではないのか、ということだった。

その疑問を口にする間もなく、柊也が、志帆を連れて姿を現した。

「辰巳社長、このワインはお気に召しましたか」柊也は、詩織の存在などないかのように、その視線を彼女の横を通り過ぎさせ、辰巳に声をかけた。

男が纏っているのは、清潔な白いシャツ一枚だけ。体に寸分違わずフィットしたそのシャツは、彼のすらりとした体躯と、どこか育ちの良さを感じさせる気品を際立たせていた。

では、その上着はどこにあるのかと言えば――

今、まさに志帆の肩に、ふわりと掛けられている。隠そうともしない親密さを見せつけながら。

皮肉なことに、そのジャケットは、かつて詩織が柊也のために自ら選んだ一着だった。

「これはこれは、賀来社長からの有り難いお心遣いだ。気に入らないはずがありませんよ。ところで、こちらは……」

辰巳の視線が、柊也に伴われてきた志帆の上で留まる。男が、自分の上着を女に着せかけてやっている。その関係性は、言うまでもない。

辰巳は、無意識のうちに詩織へと視線を送った。

彼女の表情は、驚くほど穏やかだった。ただ、その顔色は先ほどよりも一層、血の気を失っているように見えた。

「ご紹介します、辰巳社長。弊社の投資第三部ディレクター、柏木です」

柊也はそう言うと、今度は志帆に向き直った。「柏木さん、こちらはトレヴィ社の辰巳社長。我が社の古くからの友人だ」

志帆が一歩前に出て、辰巳に手を差し伸べる。「辰巳社長、はじめまして。柏木志帆と申します。これから、どうぞよろしくお願いいたします」

「いえいえ、柏木さん。こちらこそ」

トレヴィ社はエイジア・キャピタルとはいくつも案件を共にしてきた。だから、内情もある程度は耳に入っている。

投資第三部が設立されてまだ一年も経っておらず、そのディレクターのポストはずっと空席のままだった。誰もが、あの席は詩織のために用意されたものだと思っていたのだ。

彼女は本来の秘書業務と兼任しながらも、わずか一年で、第三部の業績を社内トップにまで押し上げた。その裏にあった彼女の尽力が、並大抵のものでなかったことは想像に難くない。

だが、まさか、その結末が……

彼女が懸命に育てた木に、別の人間が涼しい顔で腰掛けることになろうとは。

部外者である辰巳でさえ、詩織の境遇に同情を禁じ得なかった。

「ああ、そうだ辰巳社長。トレヴィ社とのこの共同プロジェクトの件ですが、今後は柏木の方で担当させていただきます。今日はそのご挨拶も兼ねて、彼女を連れてきました」

その言葉に、辰巳は思わず眉を顰める。「しかし、これまではずっと江崎さんが窓口だったが……急に担当が変わるというのは……」

だが柊也は、それを意にも介さない。「江崎はしょせん秘書ですから。以前は柏木がまだこちらに戻っていなかったので、一時的に代理をさせていただけのこと。本来の担当者が戻ってきた以上、持ち場を返すのは当然でしょう」

そう言うと、今度は辰巳をなだめるように言葉を続ける。「ご心配には及びませんよ、辰巳社長。柏木はM国のWTビジネススクールで金融学の博士号を取得し、海外のトップバンクでの実務経験もある。私が高給でエイジア・キャピタルに引き抜いた逸材です。その手腕は、疑う余地もありません」

辰巳が懸念しているのは、もちろん実務能力のことではない。彼が不憫に思ったのは、詩織のことだった。

彼女がこのプロジェクトのために、どれほどの心血を注いできたか。

それを、柊也はこうもあっさりと他人に引き渡してしまう。部外者である自分でさえ、見ていられないほどの仕打ちだった。

そんな辰巳の同情の視線を受けながらも、詩織の反応は、彼の予想に反して、驚くほど穏やかだった。

……ああ、そうか。柊也が自ら志帆を取引先に紹介して回る。彼女の将来のために、地盤を固めてやろうというわけだ。

本当に、手が込んでいる。

私が、一度も与えられたことのなかった、その気遣い。

そんな思いを押し殺し、詩織は、ただ静かに口を開いた。「……早急に資料を整理し、柏木さんに引き継ぎをいたします」

「ええ、よろしくお願いするわね、江崎さん」志帆は、どこまでも丁寧に応じる。

詩織は淡々と頷くと、立ち上がってバッグを手に取り、辰巳に会釈した。「辰巳社長。それでは、後は柏木さんと直接お話を。私はこれで失礼いたします」

辰巳は引き止めたい気持ちに駆られたが、自分にその資格がないことも分かっていた。

せめてもの抵抗として、彼は詩織のために、ささやかな反撃を試みた。「これは御社の決定ですから、私のような部外者が口を挟むことではありません。ええ、誰が担当でも結構ですよ。……ですが、賀来社長もご存知の通り、私は酒を酌み交わしてこそ、腹を割って話せるという古い人間でしてね。以前、江崎さんには強い酒を九杯も立て続けに飲んでいただき、その気骨には心底感服させられたものです。……それで、柏木さんの酒量は、いかがなものですかな?」

「江崎さんには及ばないかもしれませんが、辰巳社長にお付き合いする準備はできておりますわ」志帆はそう言って、臆することなく大胆に杯を手に取った。

しかし、柊也がその杯を、彼女が口にする前に奪い取った。「彼女は、体調が優れないんだ。この一杯は、私が代わろう」

そして、辰巳が何か言うより先に、それを一気に呷した。

辰巳は知っていた。柊也が、アルコールを受け付けない体質だということを。だからこそ、どんな酒席でも、常に詩織が彼の代わりに酒を飲んできたのだ。

彼と付き合い始めてから、柊也が誰かのために酒を飲むところなど、一度も見たことがなかった。

では、これまで詩織が彼のために体を張って飲んできた、あの無数の酒は、一体何だったというのか。

扉の外に佇む詩織もまた、同じことを考えていた。

……

家に帰り着き、薬を飲んでベッドに横になった、まさにその時。詩織のスマートフォンが着信を告げた。親友のミキからだった。

電話に出るなり、ミキは詩織の体を気遣う質問を立て続けに投げかけてくる。

最近ちゃんと休めているのか、体調は万全なのか、医者の言いつけを守って、決してお酒に口をつけていないか、など……

詩織は言葉を濁す。

するとミキは、それだけで全てを察したようだった。

「……また飲んだんでしょ」

「仕事の接待で……仕方がなかったの」

電話の向こうでミキが声を荒らげるのがわかった。「あんた、死にたいの!? 急性アル中で死にかけたこと、もう忘れたわけ!?ていうか、賀来柊也のやつ、なんであんたを飲み会なんかに参加させてんのよ!」

「……もう、しないから」詩織はなだめるように約束する。

だがミキは、そんな言葉を信じようとしなかった。「あんた、前も同じこと言ってたじゃない!」

「今度は、本当だから」

「……どのくらい?」

詩織は少し考えを巡らせてから、ミキに尋ねた。「ねえ、ミキ。知り合いに弁護士いないかな。エイジア・キャピタルの法務部と渡り合えるくらい、腕の立つ人が」

電話の向こうで、ミキが息を呑む気配がした。「……なにする気」

「エイジア・キャピタルとの契約を解除しようと思ってるの。でも、前に結んだ長期契約、覚えてるでしょ。条項が私にとってすごく不利なものばかりで……おまけに、あそこの法務部は強気だから、そこらの弁護士じゃまず引き受けてくれない」

そこでようやく、ミキは詩織が本気なのだと悟った。驚愕の声を隠せないまま、彼女は問いかける。「え……あんた、本当にあの詩織?」

「本物よ、正真正銘のね」

「今日はなんて記念すべき日かしら! 恋に目が眩んでた親友が、ついに目を覚ましたんだから!」

ミキは、心の底から詩織の決意を喜んでくれた。詩織が休まなければならないと分かっていなければ、今すぐにでも飛んできて一晩中語り明かしたい、そんな気持ちが声色から伝わってくる。

「弁護士のことは私に任せて。なんとかして腕の立つ人を探してあげるから」

電話を切る直前にも、ミキは「安心して」と念を押すのを忘れなかった。

親友に胸の内を話せたことで、詩織の心はいくらか軽くなった。そして、心地よい眠気が襲ってきた、まさにその時だった。

柊也から着信があった。

詩織は電話に出た。その声は、驚くほど平坦だった。

「社長、何かご用でしょうか」

「アレルギーの薬を届けてくれ」柊也は、いつものように当然といった口ぶりで命じた。

「かしこまりました」

通話を切ると、詩織はそのままスマートフォンの電源を落とし、ベッドに深く体を沈めた。瞼の裏に、柊也の顔が浮かんでくる。

どこかの誰かさんが、「か弱いお姫様」のために騎士よろしくお酒を呷あおり、アレルギー反応を起こしたかなんだか知らないけれど……

それが、今の私に何の関係があるというのだろう。

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hime kichi
こんなクズ社長死んだらいいねん! でもヒロインにも責任ある!
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