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第60話

Author: 北野 艾
エイジアがこのホテルで祝賀パーティーを開くのは初めてではなかった。

だから詩織はこの場所の造りを熟知しており、どこが静かで、誰にも邪魔されずに済むかを知っていた。

このところ南下してきた寒気団のせいで、気温は下がる一方だった。

肌を刺す寒風が、火照った頭を強制的に冷ましてくれる。

今日、ドレスを着ていなかったのは幸いだった。でなければ、とてもここに長くはいられなかっただろう。

母の初恵からメッセージが届く。【お酒はほどほどにね】と釘を刺された。

詩織は【わかってる】とだけ返す。

続けて、【私の代わりに柊也くんにお祝いを伝えて】と。

詩織は数秒ためらった後、ようやく【わかった】と返信した。

酔いがだいぶ覚めたところで、詩織は立ち上がり宴会場へ戻ろうとした。その時、内側から誰かがドアを開けてバルコニーに出てくる。

まさか、柊也が来るとは思わなかった。

しかも、一人で。

詩織は思わず彼の背後を目で探してしまった。いつも影のように寄り添っている志帆の姿がないかと。

「誰を待っている」柊也は伏し目がちに彼女を見下ろす。彫刻のように整った顔立ちは鋭角的で、その瞳には何の温度も宿っていなかった。「京介か?」

少し和らいでいた詩織の眉が、再び険しく寄せられた。

柊也の、自分をゴミでも見るかのような話し方が、どうしても許せない。

「……通してください」

彼女は、できる限り平静を装った。

しかし、柊也は微動だにしない。これまで見たこともないほど深く、威圧的な眼差しで彼女を見据えている。

詩織の堪忍袋の緒が切れる寸前、柊也が再び口を開いた。それは忠告のようでもあり、脅しのようでもあった。「詩織、宇田川家は家柄を何よりも重んじる一族だ。お前のような出自の女など、端から相手にされん。余計な色気は起こさず、大人しくエイジアにいろ。それがお前の身のためだ」

詩織はしばらく呆然としていたが、やがて彼の言葉の意味を理解した。

自分が宇田川家への玉の輿を狙っていると、彼は言いたいのだ。

腹の底から、得体の知れない怒りが突き上げてきた。詩織は思わず柊也に問い返す。「あなたの目には、私がそんな女に映るの?……ずっと、そうやって私のことを見てきたわけ?」

「事実、そうしているだろう」彼は、言葉の刃で容赦なく彼女を切り刻む。「京介に頻繁に接触し、新しい足場を見つけ
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Comments (1)
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みっちゃん
詩織の気持ちを、追い詰める話の流ればかりだと、疲れる! 彼女の足跡は、人間性を温め、関わった人達の心に残る...️足跡だと思う ならば、傷つくばかりの内容では、心が折れます!心がホッと救われる 話も時折混ざらないと、疲れて読む気が失せる!じゃないと、詩織の7年間は 本当に無駄だった…傷ついても、心のある人の...️話も盛り込んでくれないと (クズ男とクズ女)の汚くて、ドロドロした人間性が、こちらにも移って来そうで 気持ち悪い............?
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