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三千メートルの断絶と、光の征途
三千メートルの断絶と、光の征途
Author: 緋色の追憶

第1話

Author: 緋色の追憶
「風哉、もし陽翠が私たちの子供を臍帯血で救うためだけに妊娠させられたって知ったら、怒るかしら?」

篠原碧泉(しのはら あおい)の甘く柔らかな声がしめやかに流れてくる。その一言一言が、まるで鋭い針となって相沢陽翠(あいざわ ひすい)の鼓膜を突き刺す。

次の瞬間、西園寺風哉(さいおんじ ふうや)の声が響く。一切の揺らぎを感じさせない、あまりに冷徹な響きだった。「彼女に怒る資格はない。当然の義務だ。

あの時、あらゆる手段を使って俺のベッドに潜り込み、無理やり結婚を迫ったのは彼女だ。その腹の子が役に立つなら、むしろ彼女にとって喜ばしいことだろう」

陽翠は冷たい壁に力なくもたれかかった。指先から妊婦健診の報告書が滑り落ち、ひらひらと床へ舞い落ちる。

その時、無邪気で甘えるような子供の声が響いた。

「パパ、いつおうちに帰るの?パパがこの前買ってくれたケーキ、食べたいな」

風哉の声にようやく感情が宿る。陽翠がこれまでほとんど聞いたことのないような、温かな声だった。「ああ、今すぐ買いに行こうな」

足音がこちらへ向かってくる。

陽翠は身を翻し、逃げるように非常階段へと駆け込んだ。

エレベーターには乗れなかった。彼らと鉢合わせるのが恐ろしかったのだ。

手すりにつかまり、一段ずつ階段を下りていく。足の震えが止まらず、下腹部にチクチクとした引きつるような痛みが走った。

彼と碧泉の間に、息子がいたなんて。

彼があんなふうに聞いたこともない優しい声で話すなんて。

それなのに、結婚して七年、風哉は一度も陽翠の誕生日を一緒に祝ってくれたことはなかった。

一年目、彼女はテーブルいっぱいに手料理を並べ、夜明けまで彼を待った。深夜に帰宅した彼は、リビングの明かりがついているのを見て眉をひそめ、「これからは待つな。仕事が忙しいんだ」とだけ言った。

三年目、三十九度の高熱を出し、彼に電話をかけた。

基地にいた彼は、「医者に診てもらえ」とだけ言って電話を切った。

彼女は一人でタクシーに乗り病院へ向かい、夜更けまで点滴を受けた。

深夜に点滴を外しに来た看護師が、小声で尋ねた。「ご家族は?どうしてお一人なんですか?」

陽翠は力なく笑って、「大丈夫です。一人で平気ですから」と答えた。

時間が経てば、きっと良くなる。彼女はずっとそう思っていた。

彼はただ性格が冷淡なだけで、心の中には私の居場所があるはずだ。そうでなければ、なぜ私と結婚したのだろうか?

そのたびに彼女は自分に言い聞かせた。彼はただ口下手で、愛情表現が苦手なのだと。

結婚という形を選んでくれたことこそが、彼なりの不器用な愛の証明なのだと。

妊娠を告げる、その瞬間までは。

この子が転機となり、七年もの間、二人の間に横たわっていた分厚い氷を溶かしてくれるのだと信じて疑わなかった。

しかし、それは違ったのだ。

碧泉の子供が病気になり、適合する臍帯血が必要になったからだ。

自分はただの器で、お腹の子は道具に過ぎなかったのだ。

彼女は呆然としたまま帰宅した。夜七時、風哉が帰ってきた。

彼はソファに座る陽翠を見て、足を止めた。「今日の健診はどうだった?」

陽翠は顔を上げ、彼の真っ直ぐな背中を見つめた。「風哉」

彼が振り返る。

「離婚しましょう」

数秒間、重い沈黙が流れた。

風哉はコップを置き、彼女の前に歩み寄った。そして彼女を見下ろし、不快そうに眉をひそめる。「また何のわがままだ?」

「わがままなんかじゃない」陽翠は顔を上げて彼を見た。「離婚協議書はもう用意してある。私は何もいらない。ただ、そこにサインをしてほしいの」

「理由は?」

「もう、子供を産むための道具にはなりたくない」彼女は彼の目を真っ直ぐに見つめた。「碧泉の息子を生かすための生け贄にもなりたくない」

風哉の顔色が変わり、体が一瞬こわばった。「……聞いていたのか」

「ええ」陽翠は立ち上がった。こうすれば彼を見上げなくて済む。「あの子があなたをパパと呼ぶのも聞いたわ。私と結婚したのはただの責任だって言ったことも、あなたが本当に愛しているのは……碧泉だけだってことも」

「聞いていたのなら、自分の立場をわきまえろ」

風哉の声が氷のように冷たくなった。「離婚はあり得ない。子供は絶対に産んでもらう。悠和(ゆうわ)に残された時間は、もう一刻の猶予もないんだ」

「もし、私が産まないと言ったら?」

「お前に選択肢はない」

彼は一歩前へ踏み出した。その影が彼女をすっぽりと覆い尽くす。「陽翠、この数年間、お前に不自由ない暮らしと安定を与えてきたのは俺だ。少しは物分かりよくしろ」

物分かりよく……また、その言葉だ。

結婚一年目、彼のために手作りのお弁当を基地まで届け、それを同僚に見られてしまったことがあった。その日の夜、帰宅した彼は冷たく言い放った。「これからはあんな真似はするな。もっと物分かりよくしろ。俺に迷惑をかけるな」

それ以来、彼女はお弁当を届けるのをやめた。

彼女にとって「物分かりが良い」というのは、邪魔をせず、何も求めず、ただ静かに待つことなのだと思っていた。

今になってようやく分かった。彼が求めていた「物分かりの良さ」とは、文句ひとつ言わずに道具になり、一生日の目を見ない飾りのままでいることだったのだ。

「絶対に離婚するわ」彼女はもう一度繰り返した。声が微かに震え始めている。

風哉は長い間彼女をじっと見つめていた。

それはまるで、故障した機械を点検するかのような、苛立ちと、冷酷に観察するような眼差しが入り混じっていた。

やがて、彼は吐き捨てるように言った。「情緒不安定は胎児に障る。もう休め。一晩寝れば、その馬鹿げた考えも変わるだろう」

彼は背を向けて書斎へと歩き、ドアを閉めた。

陽翠はその場に立ち尽くし、カチャリという小さな鍵の音を聞いていた。

分かっている。彼が同意するはずなどない。

彼の目には、これもまた気を引こうとする私の稚拙な小細工にしか映っていないのだろう。

数日間は私を突き放し、私が「聞き分ける」のを待つつもりなのだ。そうして計画通りに私に子供を産ませ、臍帯血を採取し、碧泉の息子を救う。

――なら、私は?

これからも「西園寺の妻」という殻に閉じ込められ、彼ら親子三人が睦まじく笑い合うのを傍らで眺めながら、自分の子供が医療資材の一部として扱われるのを見届けるというのか?

リビングの照明が、惨めなほど白々と冷たく光っていた。

陽翠はゆっくりとした足取りで寝室へ戻り、ナイトテーブルの一番下にある引き出しを開けた。

中には一通の書類が入っている。国家深海研究院からの極秘プロジェクトの異動辞令。期間は三年間。完全閉鎖環境での改修任務であり、勤務地は絶対機密の深海基地。その間、外部との通信は一切絶たれる。

当時、この辞令を受け取った時の最初の反応は「拒否」だった。

妊娠していたし、風哉のそばにいて、この子を無事に産みたかったからだ。

だが今、彼女はその書類を手に取り、表紙の金箔押しのエンブレムを指でそっとなぞった。

そしてスマートフォンを手に取ると、半月もの間保存したまま、一度もかける勇気の出なかったその番号を、ついに呼び出した。

「沢田さん」自分でも驚くほど、その声は静かに澄んでいた。「『群青』プロジェクトの件ですが、参加させていただきます」
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