LOGIN怒りの収まらない亜季は、その足で飛鳥の会社へと乗り込んだ。オフィスでは、ちょうど一真が飛鳥に報告を入れているところだった。先ほど星歌を追わせた手の者が、彼女を見失ったというのだ。飛鳥の顔に険しい色が浮かんだ瞬間、亜季が血相を変えて飛び込んできた。「兄様!星歌なんて女、もう絶対に許しちゃダメよ。お義姉様にあんなに酷い怪我をさせておいて!」亜季は飛鳥の向かいにどっかと座り込み、まくし立てた。「あいつ、本当に離婚届と離婚協議書を送ってきたんですって?だったら今すぐサインしてやりなさいよ!」「あんな女、何様のつもりかしら。世の中には星歌よりずっと素敵な女性なんていくらでもいるわ。兄様が離婚できないとでも思って、図に乗っているのよ!」怒りに任せて吠え続ける亜季の勢いに、周囲は口を挟むことすらできない。飛鳥が結婚する前、夏蓮のような気品ある令嬢たちが、こぞって飛鳥の正妻の座を狙っていた。それなのに、飛鳥が選んだのは、後ろ盾も何もない星歌だった。しかも、彼が自ら執拗に追いかけ回して手に入れたのだ。亜季はそれが昔から気に入らなかった。飛鳥が星歌に高価な品を贈るたびに目を光らせ、母親の都子を焚きつけては、それを取り上げさせて自分の名義に変えさせた。星歌にだけは、冴島家の財産をこれっぽっちも分け与えたくなかったのである。「離婚届と離婚協議書」という言葉が出た瞬間、飛鳥の眼光が亜季を鋭く射抜いた。「……あいつに電話したのか」低く、地を這うような声。そこには明らかな怒りが滲んでいた。だが、逆上している亜季はその変化に気づかない。「ええ、したわよ!本気で離婚するつもりだからサインしろって、あいつ大威張りで言ってたわ。あんな身寄りのない女が、冴島家を出て一体どこへ行くつもりかしら。今さら施設にでも戻る気?笑わせないでよ」高飛車な態度で嘲笑う。ここで徹底的に鼻っ柱を折っておかなければ、いつか自分たちの頭の上にまで乗りかねない。亜季は本気でそう信じていた。飛鳥の目がわずかに細められる。「あいつに何を言った」「別に、ただ本当のことを……」言いかけて、亜季は喉の奥が凍りつくような感覚に襲われた。飛鳥の纏う空気が、あまりに冷酷だったからだ。飛鳥の瞳に宿る冷徹な光を正面から受け、亜季の心臓が小さく跳ねる。「何を
脳裏に、先ほどの金髪の男の顔がよぎる。どこかで見覚えがあった。確か、啓介の側近として見たことがあったはずだ。やはり、あの男の手の者か。啓介め、護衛までつけて星歌を囲い込んでいるとは。まるで、冴島家が彼女に危害を加えるとでも言いたげではないか。啓介と星歌の関係を想像するだけで、飛鳥の胸は焼け付くような怒りで満たされた。……星歌が渓山居に到着しようとしたその時、スマートフォンの画面に覚えのない番号が表示された。「もしもし」「私よ」受話器の向こうから、亜季の甲高い声が響く。星歌はわずかに眉を寄せた。もともと亜季のことは好かなかったが、この耳障りな声と、常に他人を小馬鹿にしたような物言いは不快極まりない。特に、今この瞬間の尊大な態度は。星歌は視線を落とし、淡々と応じた。「……何の用?」「あなた、私の番号を着信拒否したでしょう!」「それが何か?」その声には、かつての忍耐の欠片もなかった。実のところ、この半年というもの、彼女は冴島家の連中に対して一切の我慢をやめていた。飛鳥との仲が円満だった頃は、多少の無礼や嫌がらせも「家族」として受け流してきた。だが今の彼女にとって、冴島家はもはや不愉快を撒き散らす存在でしかない。「よくもまあ、冴島家の人間を無視できるわね。いい?冴島家の後ろ盾がなくなったら、あなたなんて何者でもない、ただのゴミ同然なのよ」露骨な蔑みが言葉の端々に滲み出ている。以前から亜季は星歌を疎んでいたが、ここまで剥き出しの敵意をぶつけてきたことはなかった。間違いなく、夏蓮の一件で逆上しているのだろう。星歌は鼻で笑い、そっくりそのままの言葉を投げ返した。「あなたこそ、冴島家の名前がなくなったら、ただの何者でもない小娘でしょう?」「なっ……!私はあなたと違って、正真正銘の冴島家の人間よ!居候の分際で、何を勘違いしているの!」「勘違いも何も。冴島家の人間だなんて、死んでもなりたくないわ。誰がそんなもの、ありがたがるとでも思っているの?」「……ッ!」亜季の呼吸が激しく乱れる。「ありがたくない?じゃあ、自分から尻尾を振って冴島家に嫁いできたのはどこの誰よ!」「……あら、記憶違いじゃないかしら。無理やり嫁いでくれって膝をついてまで懇願してきたのは、飛鳥の方よ」「あなた……
飛鳥の呼吸が荒くなる。手首を握る力がさらに強まった。「……啓介と俺が、どんな仲か分かっていて言っているのか」「あなたたちがどんな関係だろうと、私には関係のないことよ」「星歌!」「いい?離婚届に判を捺した瞬間、私と彼はただの独身同士。付き合おうが何をしようが、誰に後ろ指を指される筋合いなんてないわ」星歌は一歩も引かず、飛鳥の瞳を射抜いた。「でも、あなたは違う。これだけ世間を騒がせた以上、たとえ離婚したところで、あなたと夏蓮がまともな関係として認められることは一生ない。永遠に、恥辱の柱に縛り付けられたまま生きていくのよ」「……」「そうでしょう?」重苦しい沈黙が、二人の間に立ち込める。飛鳥の眼差しは、凍てつくように冷えていった。「……いつからだ?」抑え込んだ声で、彼は問う。「いつから、あいつを好きになった」啓介のことだ。星歌はふっと鼻で笑った。「彼とは何もないわ。私はただ、離婚した後に待ち受けている『現実』を教えてあげただけよ」啓介という男は、常に沈黙を纏っている。星歌が抱く彼への印象は、全身から放たれる凍てつくような危険な空気、それだけだった。特にあの瞳に見つめられると、底知れない深淵に吸い込まれるような錯覚に陥る。本能が告げていた。あの男を敵に回してはいけない、と。星歌にとって、飛鳥との離婚問題で、あの危険な男を巻き込むことだけは避けたかった。「……じゃあ、教えてやるよ。俺たちが離婚することはない。さっさと家に帰るぞ」飛鳥はギリリと奥歯を噛み締め、星歌の手首を掴んだまま強引に自分の車の方へ引きずり始めた。だが、数歩も進まないうちに、彼の手首もまた、万力のように強く大きな掌によって掴まれた。グロだった。一瞬にして、場に爆発寸前の殺気が満ちる。飛鳥は憎悪を込めてグロを睨み返した。相手は自分より遥かに体格が良く、見上げるほどの巨漢だが、飛鳥もまた一歩も引かず、全身から鋭い威圧感を放っている。「手を離してください」グロの瞳には明確な敵意が宿り、その低い声には有無を言わせぬ圧迫感があった。飛鳥はグロを一瞥し、再び星歌へと視線を戻す。二人の視線が交錯する。「……家?どの口が言うの」星歌は冷ややかに言い放った。「私たちが住んでいた家は亜季の名義。あなたが私にくれた
一真は一瞬言葉を切り、慎重に続けた。「もう一社あるバイオ研究所は、高峰先生の傘下にある企業です」車内の空気が、一瞬で凍りついた。啓介の、研究所……またしてもY国の男を連れて、あいつは啓介の元を訪ねていたというのか。飛鳥は震える指先でタバコを一本抜き、火を点けた。紫煙が車内に漂う中、その瞳にはどす黒い疑惑が沈んでいく。「飛鳥様。……このまま会社へ向かいますか?それとも」一真が恐る恐る尋ねる。「待つ。……ここで張り込むぞ」……星歌はグロを伴い、立ち並ぶビルの一角にあるバイオテクノロジー研究所へと足を踏み入れた。背後を守るグロが、感心したように声を潜める。「星歌様がこの本港市にこれほど多くの資産をお持ちだったとは。……冴島飛鳥は、このことを知っているのですか?」「あの人が?知るはずないわ」星歌の口角が冷ややかに上がる。「あの人の頭の中は、夏蓮さんのことで一杯なんだもの」星歌は手際よく真っ白な無菌衣に着替えた。先ほど研究所から、三年越しに続けてきた研究がついに実を結んだという報告を受けたのだ。「ここが私にとって、最大の拠点よ」女なら誰しも美しくありたいと願うものだが、星歌もその例外ではなかった。このバイオ研究所は、彼女が四年前から心血を注いできた事業だ。宝飾デザインのスタジオやギャラリーは、もともとは趣味の延長に過ぎず、それが結果的に複数の拠点を持つまでに成長した。だが、このバイオテクノロジー分野だけは、彼女が最初からビジネスとして本気で取り組んできた聖域だった。「では、私はこちらでお待ちしております」グロの言葉に短く頷き、星歌は研究室の奥へと消えていった。それから三十分ほどが経っただろうか。再び姿を現した星歌の顔には、隠しきれない歓喜の色が浮かんでいた。長年の投資と努力が、ついに報われたのだ。無菌衣を脱ぎ、マスクを外して深く息をつく。「星歌様、成功したのですか?」グロが恭しく歩み寄ると、星歌は満足げに目を細めた。「三ヶ月前に招聘した調香師が、期待以上の仕事をしてくれたわ」この分だと、これからの数週間は毎日ここへ通い詰めることになりそうだ。彼女がその調香師の名を口にした瞬間、グロの伏せられた瞳の奥で、確かな光が爆ぜた。二人が連れ立って研究所の敷地を出る
夏蓮の病室には、多くの見舞客が詰めかけていた。冴島家に待望の双子をもたらした功労者として、父の正臣(まさおみ)や、一族の最高齢である祖母のキヨまでもが顔を見せていた。都子が病室に戻った頃には、二人はすでに引き上げた後だった。残っていたのは、長女の節子(みねこ)と、次女の亜季の二人だけだ。冴島家の人々は皆、夏蓮が「産後うつ」を患っていると信じ込んでいた。あまりのショックに、飛鳥を亡き夫の翼だと思い込んでいるのだと。都子が中へ入ると、亜季が夏蓮の手を握り、懸命に宥めているところだった。「お義姉様、大丈夫ですよ。翼兄様の心には、あなた一人しかいないんですから。今はちょっとお仕事が忙しいだけ。どこへも行きやしませんよ」「……本当に?本当にそうかしら?」夏蓮が喉を詰まらせ、縋るような瞳で問い返す。「もちろんですとも。今は何よりお体を大切にしてください。産後の肥立ちに障りますわ」「でも……星歌さんはどうしてあんな酷いことをするの?私、彼女に何か悪いことをしたかしら……」星歌の名が出た瞬間、室内の空気は一変した。彼女が冴島家に嫁いできて以来、大奥様であるキヨが徹底して冷遇し続けてきたせいで、一族の者たちは皆、星歌を露骨に見下していた。特に、都子と亜季の二人は、キヨの意向を汲んで誰よりも星歌を蔑んでいた。亜季は夏蓮の手を優しく握り直し、語気を強めた。「お義姉様、安心してください。あんな女、すぐに引きずり出してでも公の場で謝罪させてやりますから」冴島家が三年間も養ってやった恩を忘れて、あそこまでつけ上がるなんて。亜季の瞳には激しい怒りが宿っていた。普段から夏蓮を実の姉のように慕っていた亜季にとって、例の報道は許しがたい暴挙だった。星歌の顔を今すぐ引き裂いてやりたいほどの憎しみが込み上げている。女たちが代わる代わる耳元で優しい言葉をかけ続け、ようやく夏蓮は落ち着きを取り戻したようだった。夏蓮が眠りにつくのを見届けてから、亜季と都子は連れ立って病室の外へ出た。「お母様、お祖母様はお義姉様の顔の傷をご覧になって、ひどくお怒りでしたわ。あんな女、もう一刻も冴島家には置いておけないとおっしゃっています」『あんな女』――それが、一族内での星歌の呼び名だった。都子の表情も苦々しく歪む。追い打ちをかけるように、亜
星歌は幼い頃から、たった一人で生きてきた。どれほどの屈辱を味わおうと、自分の力で取り返すしかない。やられたらやり返す。それが彼女の流儀だ。これまでの夏蓮の嫌がらせは、故意である証拠が掴めなかったから黙っていただけ。だが今は、動かぬ証拠が揃っている。それなのに、飛鳥はまだ夏蓮を許せと言うのか。何より意外だったのは、飛鳥が自分と啓介を無理やり結びつけようとしていることだった。「今すぐ高峰さんのところから離れて」星歌が重苦しい声で告げる。飛鳥は鼻で笑った。「なんだ、あいつを庇っているのか?星歌、忘れるなよ。俺たちはまだ離婚しちゃいないんだ」怒りが飛鳥の中で激しく渦巻いた。疑念という種はいったん植え付けられれば、際限なく芽を吹く。今の理性を失った飛鳥にとって、星歌と啓介が無関係だとは到底信じられなかった。あまりにも条件が揃いすぎている。収まらない炎上、そして星歌を連れ去ったY国の男。啓介の周りにはY国人が溢れているし、海外のアカウントを駆使して世論を操作することなど、彼の手にかかれば容易いことなのだから。「あら、私たちがいまだに夫婦だって自覚はあったのね。自分の妻を蔑ろにして、夫婦の共有財産で夏蓮の不祥事を揉み消そうとしていたくせに」星歌の声は冷え切っていた。「そんなことをしておいて、自分と夏蓮は潔白だなんて、よく言えたものね」飛鳥の肺は怒りで押し潰されそうだった。額の青筋がピクピクと浮き上がる。「今はお前と啓介の関係を話してるんだ!なぜそこで夏蓮が出てくる!」彼が求めているのは、啓介との不貞の否定、その一点だった。「……あなたほど厚顔無恥じゃないわ」「お前――!」反論を許さず、星歌は一方的に通話を切り捨てた。ここ数日で唯一、彼女からかかってきた電話。それが啓介を庇うためのものであり、最後には啓介のために自分を突き放した。飛鳥は怒りに任せ、スマートフォンを絨毯に叩きつけた。ボフッという鈍い音を立てて跳ねた端末が、啓介の足元まで転がっていく。その時、啓介が飛鳥に向ける眼差しからは、友人としての温もりが完全に消え失せていた。「啓介、はっきりさせろ。お前、まさか本当に……」「俺たちは、お前ほど厚顔無知じゃない」「な……何だと?」啓介は、氷のように冷たく、そして危