Masuk一方、御影山の邸宅。都子が怒鳴り込んできた時、ダイニングの空気は最悪だった。星歌は、飛鳥が「自分が流産した事実」を知りながら、それでもなお夏蓮の関与を否定し続けるという彼の狂信的な態度を確信し、冷え切った視線を彼に向けていた。そこへ土足で踏み込むように現れた都子もまた、星歌に対してあからさまな敵意を剥き出しにしていた。「子供はどこに隠しているの!?」挨拶もそこそこに、都子は憎悪を込めた声で噛み付いた。都子の顔を見た瞬間、星歌の瞳に冷酷な光が宿った。彼女は無言で立ち上がると、直前まで座っていたダイニングチェアを思い切り蹴り飛ばした。——ガシャァンッ!!椅子は床を滑り、派手な音を立てて壁に激突した。その凶暴な振る舞いに、都子は心臓が止まりそうになり、顔を真っ赤にして怒鳴った。「なっ……!あんた、誰に向かってそんな態度をとっているのか分かっているの!?」「あなたに向かってよ」「なんですって……!」間髪入れずに放たれた星歌の冷酷な言葉に、都子は怒りで顔面を蒼白からドス黒い紫へと変えた。ソファに座っていた飛鳥も、険しい表情で眉間に皺を寄せる。都子はたまらず息子に助けを求めた。「飛鳥!あんたからもこの女に言ってやりなさい——」「私が大人しくあなたの不機嫌な顔を我慢して、黙って反論もせずにサンドバッグになるとでも思ったの?」都子の言葉を、星歌の氷のような声が鋭く遮った。頭に血が上り、目の前がチカチカする都子を、星歌は嘲るように見下ろした。「ふっ……そもそも私、昔からあなたの機嫌なんて一度も取ったことないわよね?」星歌の言う通りだった。かつて冴島家の本家で同居していた頃から、都子が嫌味を言えば、星歌は必ず十倍にして言い返していた。ただ当時は、都子が飛鳥の前で「出来た義母」を演じていたため、正面切っての衝突には発展しなかっただけだ。だが、星歌はこれまで一度たりとも、この傲慢な義母に阿ったことなどないのだ。「もういいわ!余計な御託は聞きたくない!」都子は怒りで胸を詰まらせながら叫んだ。「夏蓮の子供はどこ!?さっさと返しなさい!」夏蓮の都合のいい鉄砲玉として使われているとも知らず、必死に喚き散らす都子。その滑稽な姿に、星歌の唇に氷点下の笑みが浮かんだ。「その子供が死
吐き捨てるように言った都子の声には、ドロドロとした憎悪がこもっていた。都子は心の底から星歌を認めていなかった。どこの馬の骨とも知れない、児童養護施設出身の孤児。両親の顔すら知らない卑しい血筋の女が、神聖な冴島家をここまで引っ掻き回しているのだ。許せるはずもなかった。その言葉を聞いて、夏蓮と早苗は内心ほくそ笑んだ。だが早苗は、神妙な顔を崩さずに言う。「都子様のおっしゃる通りですが、まずは一刻も早く、あの方から子供を取り返さなくては……」「ええ、分かっているわ」都子は重々しく頷いた。彼女の中で星歌への怒りは既に限界を突破している。これまでは屋敷で騒ぎを起こす程度だったから見逃してきたが、冴島家の血を引く赤ん坊に直接手を出したとなれば話は別だ。都子は夏蓮の手を優しく握りしめた。「あなたは自分の体を治すことだけ考えなさい。あの子のことは、お義母さんに任せておいて」「お義母さん……っ」「安心して。絶対に、無事にあの子をあなたの腕の中に連れ戻してあげるからね」都子は力強く保証した。飛鳥の奴、未だにあの女から子供を取り返せないなんて。男のくせに、あんな小娘一人をどうにもできないなんて情けない!内心で息子への不満を募らせながら、都子は夏蓮を適当に慰めると、怒り心頭といった様子で病室を後にした。都子が去り、病室のドアが閉まった瞬間。部屋に残された夏蓮と早苗の顔から、先程までの悲劇のオーラが嘘のように消え去った。「お嬢様、スープはお飲みになられますか?」早苗が平然と尋ねる。「ええ、もちろんいただくわ」夏蓮もまた、つい先程まで娘の安否を憂いて泣き崩れていたのが信じられないほど、ケロリとした顔で答えた。我が子を平気で罠の駒として利用するような女に、深い母性愛などあるはずがないのだ。冴島家の人間がいない時は、夏蓮はしっかりと食事をとるようにしていた。産後の養生中とはいえ、あれだけの騒動を起こしながらも、自分の体だけは一番大切にしている。ただ、星歌と揉み合いになった時に開いてしまった帝王切開の傷口が、未だに少しズキズキと痛むのが不快だった。これも全部、星歌のせいよ……!あの女がさっさと飛鳥さんとの離婚に合意して屋敷を出ていきさえすれば、自分がこんな痛い思いをすることもなか
一方、その頃の病院。特別室のベッドで身を横たえていた夏蓮は、密かに部屋へ戻ってきた早苗から「ある知らせ」を聞かされ、瞬時に顔面を蒼白にさせた。「……嘘でしょ?あの子が、もう……」絞り出すような声は、喉の奥で詰まり、言葉にならなかった。感情の糸が切れそうになっている夏蓮を見て、早苗は慌てて口元に人差し指を当て、「しーっ」と息を潜めるよう合図した。病室の外には飛鳥が配置した見張りがいるからだ。「なんで……早すぎるわよ……!」夏蓮は必死に声を押し殺しながらも、荒い息を吐き、みるみるうちに瞳を涙でいっぱいにした。「……あの子は、もともとこの世にご縁のない運命だったのですよ」早苗が重苦しい溜息とともに告げた。「っ……」その言葉に、夏蓮の目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。あの子の深刻な病状を利用して星歌を罠にはめると決めた時から、娘の命が長くないことは分かっていた。それでも、いざ「死んだ」と報告を受けると、母親としての本能なのか、胸の奥がチクりと痛んだ。痛んだが——それだけだった。「いいですか、お嬢様。これで子供は完全にこの世からいなくなりました。あとは『星歌様が子供を攫い、殺した』と言い張るだけでいいのです」早苗が冷酷に囁く。夏蓮は胸を抑えながら、小さく頷いた。当初の計画は、ただ「子供の失踪」を利用して星歌を陥れ、飛鳥と離婚させることだった。しかし途中から、どうせなら星歌を「殺人犯」に仕立て上げ、飛鳥の手で刑務所へぶち込ませてやろうと計画を上方修正したのだ。そして今、娘は死んだ。飛鳥が「星歌が子供を拉致した」と完全に信じ込んでいる、この完璧なタイミングで。早苗の言葉で気を持ち直した夏蓮は、頬を伝う涙を乱暴に拭い去り、冷ややかな目つきに変わった。「……この情報を、飛鳥さんの耳に入れてちょうだい」「承知いたしました」「絶対に足がつかないようにね。飛鳥さんの部下が自力で子供の遺体を見つけたと思わせるように誘導して」「お任せを」と、早苗は深く頷いた。星歌を確実に刑務所へ送るためには、このタレコミが自分たちの側から漏れたと疑われることだけは絶対に避けねばならない。早苗は一度病室を出て工作を行い、しばらくして戻ってくると、夏蓮に向かって無言で頷いてみせた。「ご安心
その徹底した無視に、飛鳥のなかでギリギリと音を立てていた忍耐の糸が切れた。「答えろ。なぜこんな真似をする?」怒りを限界まで押し殺した声が響く。「なぜ、ですって?」星歌はそこでようやく箸を止め、ふっと冷笑を漏らした。「私が警戒していなかったら、今頃食中毒で病院のベッドに転がっていたのは私の方だからよ」一度目は、他でもない飛鳥自身に無理やり熱いスープを口に流し込まれ、病院送りにされた。そして先日の二度目——彼女の機転がなければ、確実に罠に嵌っていたはずだ。星歌は冷ややかな流し目で飛鳥を捉えると、淡々とした声で言い放った。「冴島家は、私の疫病神ね」——疫病神。それはかつて、都子が星歌に向けて吐き捨てた言葉だ。初めての子を流産したあの日から、都子は事あるごとに「あんたは冴島家に災いをもたらす疫病神だ」と彼女を罵ってきた。今、星歌はその呪いの言葉を、そっくりそのまま冴島家へと叩き返したのだ。飛鳥の顔色が、屈辱と怒りでどす黒く沈む。その重苦しい沈黙を破るように、つけっぱなしになっていた壁掛けの大型テレビから、ニュースキャスターの声が流れてきた。「——現在、唐沢琴乃容疑者の取り調べが進んでいます。冴島グループから提供された決定的な証拠により、容疑が固まり次第、唐沢容疑者は相応の法的責任を問われる見通しです——」『冴島グループから提供された証拠』。そのフレーズが耳に入った瞬間、星歌の視線がスッと飛鳥の顔を射抜いた。飛鳥の表情が硬直する。その漆黒の瞳の奥に、ぞっとするような冷ややかな怒りが閃いた。——一真の奴、マスコミの報道規制すらまともに処理できなかったのか。飛鳥の怒りの矛先は、裏工作を完璧にこなせなかった自身の側近へと向いていた。星歌は手にしていたスプーンをことりと置き、飛鳥を見た。「唐沢琴乃の職権濫用と不正の証拠……あなたが警察に提供したの?」飛鳥は彼女を一瞥しただけで何も答えず、身を翻して部屋の隅にあるソファに腰を下ろした。ポケットからタバコを取り出し、火をつけようとする。しかし、躊躇うように指先で弄るだけで、結局火をつけることはなかった。その無言の反応がすべてを物語っている。星歌は冷ややかな視線で彼を射抜いた。「証拠を提出したということは、私が妊娠
紫煙をくゆらせながら、飛鳥は氷のように冷ややかな目で夏蓮を見つめていた。星歌が離婚を突きつけて騒ぎを起こし始めてからというもの、彼が夏蓮に向ける視線は常に冷え切っていた。だが、今の冷たさには、以前にはなかった「危険な殺気」のようなものが混じっている。夏蓮の心臓は、恐怖で今にも口から飛び出しそうだった。それでも彼女は何度か深く深呼吸をし、必死にパニックをねじ伏せると、震える声で口を開いた。「お母さんが……もう、諦めなさいって言うの……」「…………」その言葉が出た瞬間、飛鳥の瞳の奥に氷の刃のような鋭い光が閃いた。「お母さんはまだ、女の子が拉致されたことをご存知ないの。だから……男の子の病状があまりにも重いから、このまま生かしておいてもあの子が苦しむだけだって。だから、どんなに辛くても……治療を諦めなさいって、そう言ってきたのよ……!」必死だった。先ほど電話口で陽子が放った言葉、そして自分がそれに返した恐ろしい言葉。それらをどうにかして「病気の男児を想う悲劇の会話」へとすり替えなければならない。飛鳥の顔色が、さらに一段と冷たく沈む。夏蓮の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。「お母さん……あの子が死ぬにしても、せめて一番価値のある死に方をさせてやりなさいって……」「…………」「ねえ、翼さん……!あんなに小さな赤ん坊に、価値のある死に方なんてあるわけないじゃない!お母さんは本当に……慰め方も知らないんだわ……っ」顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくるその姿は、病に苦しむ我が子を想って絶望する、哀れな母親そのものだった。飛鳥の呼吸が、微かに乱れるのがわかった。「私に……あの子を見殺しにしろだなんて、そんなことできるわけないじゃない!痛い思いをして産んだ、私の子供なのよ!?なのに、価値のある死に方をさせろだなんて……ひどすぎるわ……っ!」泣き喚きながら飛鳥の様子を窺ううちに、夏蓮のパニックに陥っていた頭は急速に冷え、冷静な計算が働き始めていた。大丈夫……病室のドアの外にはボディガードも立っているし、私だって大きな声では話していなかった。ドア越しに彼が全部を聞き取れたはずがないわ。だとしたら、飛鳥が聞いたのは、病室に入ってきた瞬間に響いた、電話のスピーカーから漏れた陽子の最
娘の胸中で渦巻く殺意など露知らず、陽子は電話の向こうで口うるさく続けた。「飛鳥に捕まっている悟を、一刻も早く助け出しなさい。長引けば手遅れになるわ」「わかっているわ」「それと……あの、病気の子だけど」話題が変わり、陽子の声のトーンが一段と低くなった。夏蓮の身の回りで起きていることは、早苗を通じてすべて陽子の耳に入っている。拉致を偽装して別荘に隠している女児の症状が、男児よりも遥かに深刻だということも。最悪の場合、あの子は今回の騒動を乗り越えられず、命を落とすかもしれない。「どうせただの女の子よ。万が一死なせることになっても、せいぜい一番価値のある死に方をさせなさい」ただの女の子。価値のある死に方。実の祖母が口にしたとは思えないほど、それは背筋が凍るほど冷酷で、毒気に満ちた言葉だった。一瞬だけ胸がチクリと痛んだ夏蓮だったが、次の瞬間にはその心を氷のように冷たく凍てつかせた。「ええ、わかっているわ。あの子には……最高の価値を持たせてあげる」――ガチャリ。夏蓮がそう答えた、まさにその時だった。病室のドアノブが回る鈍い音が響いた。ビクッとして夏蓮の手が震える。弾かれたように顔を上げると、そこには――氷のように冷たい目をした、飛鳥が立っていた。うそ……っ!?昨夜も彼に電話を聞かれそうになったばかりだというのに。またしても、こんな最悪のタイミングで……そんな夏蓮の絶望を知る由もなく、スマートフォンのスピーカーからは陽子の声が漏れ続けていた。「あなたが腹を痛めて産んだ子だもの。辛いのはわかるわ。でも、今の状況を考えれば……」「あっ……!」スマートフォンの通話音量は、決して小さくなかった。静まり返った病室に、母の冷酷な言葉がはっきりと響き渡る。夏蓮はパニックになりながら、震える指で通話の切断ボタンを狂ったように連打した。ブチッ、と無機質な音が鳴り、病室は恐ろしいほどの静寂に包まれた。夏蓮は顔を引きつらせながら、入口に立つ男へ視線を向けた。「翼さん……来てくれたのね」あえて亡き夫の名前を口にして甘えようとしたが、飛鳥はピクリとも表情を変えなかった。ただ、氷のように冷たく、底知れぬ漆黒の瞳で彼女をねめつけているだけだ。その無言の圧力に、夏蓮の心臓が激しく警鐘を鳴ら
二人の間に流れる空気は一瞬にして凍りつき、静寂が痛いほど肌を刺した。一触即発の緊張が部屋を満たしていく。星歌は逃げようとする飛鳥の背中に向けて、足元の椅子を思い切り蹴り飛ばした。激しい衝撃音が、静まり返ったリビングに響き渡る。全身から剣呑な覇気を立ち昇らせ、星歌は飛鳥を鋭く射抜いた。「お義母様に教えなさいよ。私がいつ、潮汁なんて作れるようになったのかを」言葉の一つひとつが、研ぎ澄まされた刃のように飛鳥に突き刺さる。「夏蓮さんが私の作ったものを飲みたいですって?そんな見え透いた嫌がらせ、あなたには分からないの?それとも、私が料理なんて一度もしたことがないことすら、もう忘れたの
病院独特の、鼻をつく薬液の臭い。それが胃の腑を締め上げ、こみ上げる吐き気をこらえるだけで精一杯だった。冴島星歌(さえじま せいか)は、蒼白な顔でベッドに横たわり、浅い呼吸を繰り返している。スマートフォンの呼び出し音が途切れ、通話がつながった。星歌は乾ききった唇を、ようやく開く。「……流産の手術、同意書にサインが必要なの。病院に来てちょうだい」受話器の向こうで、一瞬の沈黙が落ちた。やがて響いたのは、夫である冴島飛鳥(さえじま あすか)の低く、不機嫌な声だった。「妊娠?いったいいつの話だ。俺が知らないはずがないだろう。星歌、気を引きたいからって、嘘や芝居も大概にしろよ」「……来
忘れ物を取りに戻った江里子は、病室に足を踏み入れた瞬間、目の前の異様な光景に息を呑んだ。咄嗟に星歌の元へ駆け寄ろうとしたが、飛鳥が放った冷徹な視線に射すくめられ、足が止まる。「星歌……!」江里子の声も届かないほど、病室は一触即発の熱気に包まれていた。飛鳥の髪は乱れ、眉間には怒りのあまり青筋が浮き出ている。「星歌!」彼が掴んでいる星歌の手首には、骨が砕けそうなほど強い力が込められていた。「離しなさいよ!」江里子の叫びを無視し、星歌は飛鳥の凍てついた瞳を真っ向から見据えた。「どうしたの?夏蓮さんのために私を殴りたいわけ?」その挑発的な一言に、飛鳥の手の力がさらに
ところが、その一歩を踏み出した直後、足元に重い衝撃が走った。視線を落とすと、そこには先ほどまで泣きじゃくっていた夏蓮が、車椅子から崩れ落ちるように床に倒れ伏していた。彼女は意識を失っている。「夏蓮様!……ああ、血が、血がこんなに……!」周囲の者たちが悲鳴を上げた。星歌へと向かおうとした飛鳥の足が、まるで見えない鉛を流し込まれたかのように、その場に縫い付けられる。駆けつけた医師たちによってストレッチャーに乗せられたとき、星歌の意識は、僅かに、澱のように浮き上がった。霞む視界の端に映ったのは、必死な形相で夏蓮を抱き上げる飛鳥の姿だった。――ああ、やっぱり。その光景を







