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第166話

Author: marimo
last update publish date: 2026-05-14 20:19:16

ソファに座って震えている櫻羅を前に、叶翔は息を呑んだまましばらく動くことができなかった。先ほどまで必死に走り、怒りと焦りだけでここまで辿り着いた叶翔だったが、こうして目の前に櫻羅が無事にいることを確認した瞬間、全身から一気に力が抜けていくのを感じていた。

しかし、櫻羅の小さく震える肩を見た途端、叶翔は迷うことなくその身体を優しく抱き寄せた。壊れ物でも扱うようにそっと腕を回し、自分の胸へと引き寄せる。

そして櫻羅の耳元で、何度も何度も、優しく、しかし強い意志を込めて囁き続けていた。

「もう大丈夫だ、安心しろ。もう絶対に離さない」

その言葉は、一度だけではなかった。二度、三度、それ以上。まるで櫻羅に言い聞かせるように、同時に自分自身にも誓いを立てるように、何度も繰り返していた。

櫻羅は最初、身体を硬くしたままだったが、叶翔の温もりと鼓動を感じるうちに、少しずつ力が抜けていった。それでもまだ恐怖は消えていないのか、叶翔の服をぎゅっと掴んだまま離そうとはしなかった。

そんな二人を見ていた悠臣と英士は、顔を見合わせると無言で頷き、そのまま部屋を出て行った。

悠臣と英士は、ホテルの中にあるブティ
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