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不可逆の忘却
不可逆の忘却
作者: 80

第1話

作者: 80
南條航(なんじょう わたる)の初恋、林さやか(はやし さやか)が帰国した。

彼は何気なくココアを注ぎ、私に差し出した。

「さやかは末期の癌で、余命は一ヶ月だ。最後の時間を一緒に過ごしたいと言っている」

彼の表情には、動揺の色はなかった。

私は戸惑いながら尋ねた。

「こんな時は、家族に頼るんじゃないの?どうしてあなたに?」

さやかは彼の幼なじみだった。

彼は以前、たとえ別れたとしても家族のようなものだと言っていた。

私は何度もさやかに嫉妬した。

それでも、私たちはもうすぐ結婚する。

航は目を伏せて言った。

「叔父さんと叔母さんが事故で亡くなって、彼女は一人ぼっちになった」

「同情してるんだね」私は彼の心の内を敏感に感じ取った。

「いや、ただ気の毒に思っているだけだ」彼は肩をすくめ、軽く私の鼻をつついて話題を変えた。

「緊張してる?もうすぐ僕の嫁になるんだ」

「ふん」私は軽く目をそらした。

「まだだよ」

「もうすぐだ」彼は微笑みながら、真剣な眼差しで言った。

「君だけが、僕の妻だ。ずっと愛してる」

航は普段、控えめで感情をあまり表に出さない人だった。

告白の時も、脳波をハート型にして気持ちを伝えたくらいだ。

それなのに今、彼は突然、永遠の愛を誓った。

私は彼の胸にそっと寄り添い、結婚式の写真を一緒に選ぼうと誘った。

彼は腕をきつく回しながら言った。

「選んでくれ。もうすぐ結婚式だ。僕は研究室に戻って、仕事を引き継がなきゃ」

航は着替えに立ち去った。

彼は常に身だしなみに気を配っていて、私はそんな彼にいつも夢中だった。

だが、さっき彼が出て行く時、シャツは無造作にズボンに押し込み、靴下も左右違っていた。

私は口元を引き結び、何も言わなかった。

階下で車を呼び、遠くから彼の後をそっと追った。

航は研究室の前を通り過ぎ、立ち寄らずに病院へ向かった。

私は追わなかった。きっと幼なじみのさやかに会いに行ったのだろう。

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