チリチリとしたイラつきのような不快感を感じて薄目を開けると、ダイレクトに日差しがその隙間から入り込んで来た。
カーテンも閉めずにいつの間にか眠ってしまった瞼が光に晒されていたようだ。寝起きの習慣で、横になったままベッドボードをまさぐるが、求めているものは手に触れなかった。仕方なく、声にならない唸を上げて身体を起こした。頭の中では分かっていた。携帯電話はリビングのテーブルにある。昨夜帰宅し、音川に連絡することができずに放置したまま。重いまぶたを無理矢理にこじ開けてようよう立ち上がり、床においたままのバックパックにつま先をぶつけて小さく舌打ちをする。土日の午前中は英会話の集中レッスンがあるため、いずれにせよ起きなくてはいけない。「めんどくさ……」思わず本音がこぼれる。泉は一旦顔を洗ってくると、覚悟を決めてスマホを手に取った。——不在着信が1件——音川からだった。
『連絡します』と送ったきりだったのだから、当然だろう。
きっちりした性分のため、連絡無視するようなことは、上司相手はもちろん友達にもしたことがない。それが、昨夜は違った。イーサンから知らされた音川の暗い部分——混乱し、それでも心の底から否定した。なのに——まるで自分が自分でなくなっていくような気がして、どうにかなりそうだった。コールは2回で繋がった。
「ああ、泉。よかった」
音川の一声は、安堵に彩られていた。
「っ……すみません、昨夜は……」声に詰まり、一拍の沈黙の後、ようやく絞り出す。
「いいんだ」
音川は穏やかに、泉の詫びの言葉を遮った。その声にはいつもないノイズが乗り、背後でカチカチと規則的なリズムで機械音が鳴っている。この音に、泉は聞き覚えがった。
「もしかして、運転中ですか?」
「うん」
泉が知る限り、
首筋をきつく吸う唇の熱さ、抱きしめられた胸の鼓動、低く囁かれた言葉。全てが竜巻のように泉を取り囲み、音川にとって自分は『特別』であると叫んでいる。泉はしばらく、その歓喜の嵐のなすがままになっていた。しかし、そこにははっきりと音川の葛藤も存在していた。泉は目を伏せ、絡められた指から伝わる熱を感じることに集中する。言葉にできないのか、したくないのか、すべきでないと思っているのか——それは唇へのキスも同じで——泉には分からなかった。自分が引いた境界線に阻まれて、音川は留まっている。それを強引に崩すのは——きっと間違っている。音川の中に、こんなにも熱い葛藤を起こさせるほど、自分という存在が大きいのだ。それだけで、もう何も要らないと思わせる。しばらく無言で、お互いの絡まる指を見つめていた。微かに音川が息を吐き、少し身じろいでまた静かに泉の額に唇を落とす。そうして二人の手がほどけ、泉は顔を上げるとはにかむように微笑む音川と目が合う。優しく濡れたグリーンの瞳。再びこめかみに唇が触れたかと思うと、音川はスッと立ちあがった。「俺はジムでも行くかな。今朝行けてないし」などと言いつつドアへ向かう。「ウェアあるんですか?」そんなことを聞きたいわけではないのに、口をついて出た。「館内で売ってるだろ」「そんな、買ってまで……?」心底不思議そうな問いかけに音川が見せた表情は、泉が釘付けになるほどに妖艶な自嘲を浮かべていた。「……体力を使い果たすまで戻ってこないから、安心してゆっくりしてて」「あ……まっ、」引き止める間もなく音川がドアの向こうへ消えた後、泉は顔のほてりを抑えるために両手を頬に当てたが、余計に熱くなるだけだった。音川の大人の男の色気は凄まじく、傍にいれば自分がどうにかなってしまっただろう。場を離れてくれたのは正解なのかもしれな
美術館前を出発してまもなく、泉が「着替えを取りに帰りたい」と言い出したことで、音川も自分のクルマにPCを置いたままなのを思い出した。特に仕事があるわけではないが、遠出する場合の習慣で持ってきている。職業病というよりマシン依存に近い。タクシーの行き先を泉のマンションに変更し、そこから音川の無骨な愛車に乗り換えてホテルに向かうことになった。長距離運転の後で車体に多少の汚れはあるが、高級車の部類に入るので、行き先が五ツ星ホテルであっても見劣りすることはないはずだ。見栄とは正反対にいるような音川だが、泉を——大切な人を連れて行くのだから、多少は気になる。ああいう場所には、行動や持ち物で人の扱い方を区別する人間が必ずいるからだ。——要するに音川は、自分を『泉の所有物である』と対外的に見せたかった。事実、深層心理では、いつか上司と部下の枠を外した時——そう、なっていたいと願っている。所有欲のない人間だが、所有されたい願望はあったようで——泉との時間がそれを気付かせた。助手席をちらりと横目で見て、音川は「出向に送り出した日……」と語りかける。「駅からの帰り道に、その背もたれにマックスの毛が数本着いているのに気がついたんだ」泉は申し訳無さげに「すみません、僕の服からですよね。あの日はうっかりして」と無意識に自分の服を見下ろす。もうそこにマックスの名残は無いと分かっていても。「いいんだ。……それから家に着いて、コーヒーを入れにキッチンに行ったらきみと選んだ家電と食器たちがあって。ソファではマックスがずっと玄関の方を向いたまま箱座りだ。……今日、東京に来る道中ね、もしきみが少しでも困難な状況にあるのだとしたら、問答無用で連れ戻そうと考えていた」「音川さん……」「会いたかったよ」「僕も、です」泉はうつむきそうになる顔を懸命に運転席へ向けた。音川からこぼれた言葉が、どれほど泉に喜びをもたらすのか知って貰いたかった。「うん。ありがとう。激務の中でも、そう思ってくれて」「激務……確かに周りを見ているとそうですね。要求レベルがかなり高いと感じています。全員が多言語を話す中、僕だけが英語すら話せないのも辛い。でも、音川さんに少しでも追いつく手段だと思えば、とても楽しいんですよ。仕事を頑張れば頑張るほど評価されますが、僕にとってはまるで、音川さんとの距離が縮まる毎に評
チリチリとしたイラつきのような不快感を感じて薄目を開けると、ダイレクトに日差しがその隙間から入り込んで来た。カーテンも閉めずにいつの間にか眠ってしまった瞼が光に晒されていたようだ。寝起きの習慣で、横になったままベッドボードをまさぐるが、求めているものは手に触れなかった。仕方なく、声にならない唸を上げて身体を起こした。頭の中では分かっていた。携帯電話はリビングのテーブルにある。昨夜帰宅し、音川に連絡することができずに放置したまま。重いまぶたを無理矢理にこじ開けてようよう立ち上がり、床においたままのバックパックにつま先をぶつけて小さく舌打ちをする。土日の午前中は英会話の集中レッスンがあるため、いずれにせよ起きなくてはいけない。「めんどくさ……」思わず本音がこぼれる。泉は一旦顔を洗ってくると、覚悟を決めてスマホを手に取った。——不在着信が1件——音川からだった。『連絡します』と送ったきりだったのだから、当然だろう。きっちりした性分のため、連絡無視するようなことは、上司相手はもちろん友達にもしたことがない。それが、昨夜は違った。イーサンから知らされた音川の暗い部分——混乱し、それでも心の底から否定した。なのに——まるで自分が自分でなくなっていくような気がして、どうにかなりそうだった。コールは2回で繋がった。「ああ、泉。よかった」音川の一声は、安堵に彩られていた。「っ……すみません、昨夜は……」声に詰まり、一拍の沈黙の後、ようやく絞り出す。「いいんだ」音川は穏やかに、泉の詫びの言葉を遮った。その声にはいつもないノイズが乗り、背後でカチカチと規則的なリズムで機械音が鳴っている。この音に、泉は聞き覚えがった。「もしかして、運転中ですか?」「うん」泉が知る限り、
彼の心は、すでに「誰かの手の中」にある。そしてその相手が誰かなど、考えるまでもない。「……上司で、抑制の効いた男」床から天井まではめ込まれた重厚なガラス窓に身体をもたせかけ、東京の街を見下ろしながらイーサンは無言で鼻を鳴らした。泉に惹かれている……自分と同じ人種。――だが、まるで違う人間。音川と自分を比べるつもりはなかった。だが泉の目に映る彼の姿が、どれほど理想化されているかは容易にわかる。『正しくある』ことに命をかけるような男。しかし――『正しさ』だけで人を幸せにできると考えているとすれば、大間違いだ。イーサンはゆっくりと笑った。それなら、私は『間違う』方を選ぶ。キミを惑わせ、揺らし、思考の隙間に入り込んで――最後には、私無しではいられないように。泉の、音川への信頼の強さは、オファーに際して行われた身辺調査の中でも特筆すべき項目として報告されていた。ルームシェアは一般的な生活スタイルであるが、それが上司の家でとなると、少々引っかかるためだ。だが、若い感情は脆い。強さの裏に、必ず揺らぎがある。そして何より――泉の心の向かい先が「今ここにはいない誰か」であり、それは明らかに寂しさの形をしていた。その寂しさを、満たしてやる。まずはそれだけでいい。イーサンは自分のオフィスから半身を乗り出し、近くにいた日本人アシスタントに軽く声をかけた。「あとで、イズミに金曜の夜に時間を割けるか聞いてくれ。理由は……そうだな、“中間報告と今後のキャリアについての面談”。彼のスケジュールがブロックされているのは承知だが、夜まで私の身が空かないんだ。なんとかならないかな」――仕事の顔をした、私的な誘い。キミの敬愛する音川と違って、私は仕事に私情を持ち込む男だ。(イズミ、情熱は相手に伝わってこそ力を発揮する。そんな計算すらできない男に、キ
泉がイーサンの誘いに応じたのは、出向が開始してから四度目の月曜日だった。夜は、晩夏の湿度に、ほんの僅かながら秋風の気配が交じる。あと二ヶ月——イーサンの頭では既にカウントダウンが動き始めていた。さほど焦りは無い。むしろ、確信めいた冷静さがそこにはあった。離れた場所にいる男の影など、さほど脅威ではない。「プライベートな予定があるなら、無理に誘わないよ」社屋の前に縦列駐車しているタクシーのひとつに乗り込みながらイーサンがことさらにやんわり確認すると、少し遅れて「……ありません」と泉が口を結ぶ。「では、食事をしながら、少し話がしたい。仕事のことでも、それ以外でも」目的地は銀座の鉄板焼店だった。夜の街がゆっくりと深夜へと表情を変える頃、店の入口には和紙を通した明かりが滲み、訪れる客の気配を静かに迎える。鉄板焼と聞いて、泉は派手なナイフパフォーマンスを想像していたが、料理もサービスもまるで列車の時刻表のように狂いがなく、見事な職人技が光る演出だった。会話は、思いのほか弾んだ。イーサンの話し方は柔らかく、どこか異国の大きな公園を歩いているような静けさがあった。泉が足を止めれば必ず少し前で待っている。時折織り交ざる冗談は控えめで知的、決して押し付けがましくない笑いを誘う。泉の反応を寸分違わず読み取りながら、話題を選んでいるようだ。こうして肩を並べて過ごしていると、会食を拒む理由はなんだったのか、拒む必要があったのかどうか曖昧に思えてくる。求められて出向しているのだから、勤務時間外の交流は応えるべき礼節なのではないか——そう考え始めていた。——けれど、ふとした瞬間に目が合うたび、イーサンの目の奥に潜んでいる冷たさを見るような気がして——研磨された精密機械に反射する光のような。この、眼の前に差し出されている穏やかな時間や心地よさが、もしかしたら計算し尽くされた手綱かもしれないと考えてしまう。出向して1ヶ月経とうとしているが、未だ
オフィスを出てマンションに戻る足取りは、今夜に限ってやけに重たかった。イーサンからの食事の誘いを断ったのは、これで三度目だ。にもかかわらず、彼は笑顔のまま言う。「気にしないで、イズミ。今日は金曜日で、僕はフリーだから誘っているだけ。定時後は君の時間だ。自由にするといい」一見、紳士的で余裕のある態度。けれどその言葉の隅々に微かな圧力が潜んでいるように受け取ってしまう。ただ、それはイーサンが母国語でない日本語を使用してくれている所為だとも十分考えられるため、あまり気にすべきでないのかもしれない。出向初日は、歓迎会を兼ねてと言われ誘われるがままに食事を共にした。たしか、Bコンサルティング社の日本支社からほど近いホテルのフレンチレストランで、メニューに金額の記載がなく、高級店のようだった。泉は、そこでのイーサンとの会話が脳裏に蘇り、思わず顔をしかめた。「このレストランはね、東京、パリ、ニューヨーク、ハンブルクにあるんだ。僕はどれも行ったことがあるけれど、パリが一番美味しいですね」フランス料理なのだからそうあるべきだろうな、と泉は冷めた意見を飲み込み愛想笑いでやりすごしたが、イーサンは続けて「美味しいでしょう?」と上機嫌でワイングラスを傾けていた。「はい、とても。でもフランス料理のフルコースなんて食べ慣れないので……他と比べることはできませんが」「例えば家族のイベントなどで食事に行かない?」「まあ、結婚式の披露宴ではあります。それくらいですね」そう答えた泉を、イーサンは目を細めて見てきた。「じゃ、会社でも……あの音川サンにも、連れて行ってもらったことが無いんだね。彼なら知っていそうなのに」なぜそこで音川の名が——?理由はわからない。ただ、あの視線。冗談めかした言葉の端々。——妙に自分を『優位に見せよう』としてくる物腰。B社が借り上げているマンションは、オフィスから歩いて20分ほどの距離にある。立地の良さはさること