Mag-log in律の口元に、冷えた笑みが浮かんだ。
「貴臣専務が統括プロデューサーとして名前を出す、新人グループの表題曲です。英語の仮歌もそのまま使えと。1文字も変えずに」
瀬川は何かに取りつかれたようにUSBを抱え、逃げるように練習室を出ていった。
1人になると、律は古いリュックから私物のノートパソコンを取り出した。
画面に開いたのは、世界中のインディーズ作曲家が匿名で音源を投稿するプラットフォーム『ミューズヴォルト』。
今仕上げた罠用のムーンバートン版と、その中に仕込んだサビ8小節の原曲ファイルを、まとめてアップロードした。
各ファイルにSHA-256のハッシュ値とサーバー登録時刻が残るよう、原本認証をかける。
後に朝倉澪へ渡す曲と、同じ核となる旋律だった。
貴臣があの8小節を自作だと言い張った瞬間、先に記録された時刻そのものが罠になる。
作曲者名の入力欄。
律の指は、迷わずひとつの名前を打ち込んだ。
【MAESTRO】
入力した途端、ほんの一瞬だけ指が止まった。
前の人生では、自分の名前で呼ばれた時間などほとんどなかった。
誰かのゴーストライター。会長の婚外子。貴臣の影。
名前より先に、いつも誰かとの関係がついて回った。
だから今度は、誰のものでもない名前をつくる。
MAESTRO。
誰かをねじ伏せるためではない。自分の音楽に、自分の名前で最後まで責任を持つためだ。
しばらく、その文字を見つめた。
今度こそ、誰にも奪わせない名前だった。
エンターキーを押す。音源の送信が完了した。
そのとき、ドアの向こうの暗い廊下で、小さなすすり泣きが聞こえた。
久世エンターテインメントのメインボーカル候補、朝倉澪(あさくら・みお)。19歳。
やがて貴臣の無理な要求で声帯結節を患い、切り捨てられることになる、不遇の天才ボーカリストだった。
律はドアノブに手をかけたまま止まった。
前の人生でも、名前は知っていた。レコーディング室の隅で何度かすれ違い、ある日突然、育成生名簿から消えた子。
喉を壊して故郷に帰ったと聞いたのは、それから何年も後のことだ。
あの頃は、自分1人生き残るだけで精いっぱいだった。
今度は違う。
廊下の奥から、もう1度小さな咳が聞こえた。
律はノートパソコンを閉じた。
曲を守るより先に、やるべきことができた気がした。
薄暗い地下廊下の非常階段。
澪は冷たいコンクリートの床で膝を抱え、肩を震わせていた。
薄手のレッスン着は埃で汚れ、赤く腫れた喉から、かすれた呼吸が漏れている。
緑色の非常口表示だけが、その涙をぼんやり照らしていた。
「……っ、う……」
手から落ちた分厚いボーカル譜が、床に転がっていた。
楽譜の上部には、赤いマーカーで書き殴られた文字がある。
【G♯5の地声シャウト不可。C評価へ降格、契約解除を検討】
貴臣の字だった。
律は、その赤い文字から目を離せなかった。
この先、彼女がどうなるかを知っていたからだ。
澪には、4オクターブ近い音域と荒削りなソウルを評価されるだけの素質があった。なのに前の人生では、貴臣の無謀な高音要求に耐え続け、声帯結節を患ってデビュー組から外された。
律は近づき、彼女の前に片膝をついた。
作業室から持ってきたぬるい水と、はちみつ入りの梨のドリンクを差し出す。
「冷たい水はやめとけ。喉の粘膜が余計に腫れる」
澪は、水より先に彼の手を見た。
長い指。作曲家というより、ピアニストの手に見える。
けれど手の甲には、誰かともみ合ったような薄い赤い跡があった。
この人も、この会社で楽に生きているわけじゃない。
そう思うと、不思議に警戒が少しだけ緩んだ。
澪ははっと顔を上げた。
涙で濡れた大きな瞳には、まだ鋭い警戒が残っている。
「だ、誰ですか……?」
「地下の第2制作室にいる、作曲の育成生」
東京メトロアリーナ。アンコールが始まろうとしたとき、記者席にざわめきが広がった。「おい、チャート見ろ! 1位が変わった!」「ヴェロックスじゃない? ブルースカイ?」記者がノートパソコンを抱え、廊下へ出ていく。スマートフォンを確認した貴臣の顔から、血の気が失せた。「ふざけるな……俺の10億円のショーケースが、無駄になったっていうのか!」端末を握った手を、下ろすことさえできなかった。アンコールの照明がついたのに、記者席は半分空いている。そのとき、VIP席の入口脇に立っていた律のスマートフォンが、小さく震えた。【私たち、1位です】律は、数秒その文字を見つめた。私たち。前の人生では、どんな勝利にも、その言葉を使ったことがなかった。いつも他人の名前で、耐えるのは1人だった。短く返した。【うん。俺たちの1位だ】そこで貴臣が顔を上げた。「……律? なんでお前がここにいる!」律はスマートフォンをしまった。相手にしなければならない顔が、あとひとつ残っていた。貴臣が赤い目をむき、柱のそばにいた律へ飛びかかる。「何をにやにやしてやがる!」伸びてきた手が襟元を狙った。律は半歩身をひねって避け、手首を払う。酔った貴臣は自分の足につまずき、大理石へ倒れた。「この薄汚い私生児が! 避けるんじゃねえ!」律は、乱れた襟を直した。「会長のご指示で、専務の10億円のショーケースを見に来ました」「な、何だと?」「2億円の曲は12位。ブルースカイは1位です。そのまま会長へ報告します」貴臣の顔が青ざめる。「地上波3局の編成と制作の責任者を呼べ! 地上波でも衛星でも、ブルースカイの出演は全部潰せ! テレビに顔を出せなくしてやれ!」床
2011年9月1日、午後6時30分。東京メトロアリーナ。会場の周辺には、久世エンターテインメントが命運を懸ける5人組ボーイズグループ、ヴェロックスのデビューを見ようと、数千人のファンと報道陣が押し寄せていた。制作費10億円のステージでは、大型LED、プロジェクションマッピング、レーザーが休むことなく光っている。アリーナ一帯を埋める黄金色の照明は、久世グループの資金力を見せつけるようだった。VIP席の上座で脚を組んだ貴臣は、満足そうに笑い、洋酒をあおった。胸元には『統括プロデューサー 久世貴臣』の金色の名札。「記者のカメラは全部そろったな? 今日で、あの盗作騒ぎの汚名を消す」表題曲『Black Out』のために、米国のメインチャート1位経験者である作曲家たちへ2億円を払っていた。オートチューンを厚くかけたエレクトロニックダンスビートと、ハリウッドさながらの舞台演出。資本の力で押し切る、大企業のやり方だった。午後7時ちょうど。轟くイントロとともに、ヴェロックスのショーケースが幕を開けた。* * *同じ頃、下北沢のゼニトーン作業室。航とブルースカイのメンバーは、ソファにも座れず、モニターの前を行き来していた。【ブルースカイ――『君の痕跡』(Prod. by MAESTRO)】アルバムのジャケットが、国内最大手の配信サイトの新着欄、そのいちばん下に表示された。「手が震えて、更新も押せません」航が両手をズボンでこすった。澪が横から、彼のスマートフォンを置かせる。「じゃあ、見ないでおきましょう」「え?」「もう出したんです。今、数字を見たって歌は変わらないでしょう」「澪さんは1位になったことがあるから、そう言えるんですよ」航が笑って返すと、澪も笑った。「私も、最初に72位が出たときは息が止まりましたよ」律はコンソールの前で、試聴から本再生への転換率とダウンロード数だ
翌朝、下北沢のゼニトーン・ミュージック代表室。テーブルには国内トップ歌手や大手事務所の社長から届いた名刺と契約の提案書が、うずたかく積まれていた。デビュー15年の国民的バラード歌手。年間チャート1位を取ったボーカリスト。ヒップホップレーベルの代表。誰もがMAESTROの新曲を1曲手に入れようと、数千万円単位の契約金を提示していた。廊下には、マネージャーたちが送った高級な贈答品まで並んでいる。「律君、白地小切手だけで7枚だぞ。好きな額を書けという人もいれば、株を渡すという会社もある」相良が書類を振った。律は数枚に目を通し、脇へ寄せる。「すでに有名な歌手に渡したら、曲がよかったのか、ファンの力なのかが曖昧になります。今度は、不当に追いやられたバンドを表へ出します。久世が金で作ったデビュー組と、同じ日にぶつけましょう」「また戦争か」「検証です」「君にとっては同じだろ」相良がため息交じりに笑った。そのとき、ソファでプロフィールを整理していた澪が、古い紙を1枚取り上げた。「このバンド、知ってます」4人組の男性バンド、ブルースカイ。かつて大手事務所から音源の不正購入の濡れ衣を着せられ、活動停止に追い込まれた。今は解散寸前だった。ボーカルの高瀬航(たかせ・わたる)は、生活のため配達の仕事をしながら、音楽を離れて就職する準備をしていた。「大学祭の映像を見たことがあります。この人、ライブがすごくよくて。高い声より、真ん中の音域で声がざらつく感じが好きでした」律が澪を見た。「どんな曲が合うと思う?」突然聞かれ、澪はプロフィールから顔を上げた。「私に聞くんですか?」「先に知ってると言っただろ」少し考える。「あまり洗練されたロックじゃなくて……最初はギター1本がいいです。この人の声、飾れば飾るほど損する気がします」律は外付けハードディスクから、ロックバラード『君の痕跡』を開いた。古いアコースティックギターのアルペジオ。サビでは、歪んだギターと荒いシャウトが重なる。澪の目が大きくなった。「これですね」「どうして」「最初の10秒は寂しいのに、サビで怒るでしょう。この人の声と同じです」律の口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。「相良さん、連絡を」プロフィールにある番号へ電話をかける。呼び出し音が3回鳴った後、風とバイクのエンジン
深夜。多摩川沿いの二子玉川に、新しく用意したゼニトーンの作業室。律は窓際で炭酸水を飲み、東京の夜景を見下ろしていた。机には、久世グループ秘書室から届いた、統括副社長への就任打診が置かれている。年俸とストックオプションは華やかだった。だが著作権の帰属条項は、最後のページの小さな文字に隠されていた。律はその一文に線を引く。前の人生で何十回も見たやり方だった。金を渡すふりをして、まず人を所有しようとする契約。スマートフォンが震えた。本家の女主人、麗子の番号だった。『律。今どこ? すぐ本家へ来なさい。会長がお呼びです』「わかりました。今から向かいます」電話を切り、ジャケットを取る。そのときドアが開き、ストールを巻いた澪が顔だけ出した。「どこへ行くんですか?」「本家」表情がすぐに曇った。「今から?」「うん」「1人で?」律は笑わず、彼女を見た。「自分の家だろ」「あの人たちがいるところが、律さんの家なんですか?」言ってから、澪は口を閉じた。律の目が、ほんの一瞬揺れたからだ。澪はストールの端をいじった。「ごめんなさい。余計なことを言いました」「いや」律は提案書を内ポケットへ入れた。「そのとおりだ」玄関へ向かう背中に、澪が言った。「練習室、明かりをつけておきます」律が止まる。「どうして」「帰ってきたとき、誰もいないよりいいでしょ」「遅くなるよ」「夜のレコーディングの確認があるんです。どうせ残るので」嘘だった。今日のレコーディングは、もう終わっている。律も知っていた。けれど指摘はしなかった。「鍵、かけてて」「はい」「誰か来たら、先に相良さんを呼んで」「はい」「それと――」言葉が止まる。澪が待っていた。「いや。行ってくる」ドアが閉まっても、澪はしばらく、その場所を見つめていた。* * *元麻布、久世家の大邸宅。大理石の応接室には、息苦しい静けさが漂っていた。上座の宗一郎は葉巻の煙を長く吐き、向かいに立つ律を値踏みするように見た。隣には麗子が、きちんと着物を着て座っている。2人の視線には、婚外子への長年の蔑みがそのまま残っていた。「地下で書いている曲が、そこそこ使えるらしいな」宗一郎の声が低く響いた。「貴臣は少々しくじったが、エンターテインメントはうちの将来を担う事業だ。お前
午前1時。国内最大手の配信サイトで、リアルタイム総合チャートが更新された。代表室で、相良が更新ボタンを2度押す。数字は変わらない。ブースにいたルミナのメンバーと夜勤のスタッフが、ドアの隙間から画面をのぞいた。順位を撮ろうとして、スマートフォンを落としかけた者もいた。【リアルタイム音楽総合チャートTOP 5】1位:LUMINA――『Electric Queen』(Prod. by MAESTRO)2位:朝倉澪――『午前3時のメロディー』(Prod. by MAESTRO)3位:NOVA――『深夜飛行』(Prod. by MAESTRO)4位:橘悠真――『秋の残像』(Prod. by MAESTRO)5位:J-KILL & BIN――『Street Ghost』(Prod. by MAESTRO)この6週間、ゼニトーンはNOVAのモダンロック、橘悠真のバラード、J-KILL & BINのヒップホップを順にリリースしていた。3曲を同時に無理やり押し上げたわけではない。『深夜飛行』は大学周辺のラジオリクエストから。『秋の残像』は個人ブログのBGMから。『Street Ghost』はクラブとヒップホップのコミュニティーから。それぞれに反応が始まっていた。違うリスナー層が、同じ夜、チャートの上で出会ったのだ。アイドルのダンス曲、ネオソウル、ロック、バラード、ヒップホップ。1位から5位まで、クレジットには同じ名前があった。【Produced by MAESTRO】「こんなのある? 1人で全ジャンルを書いて、上位独占って」「MAESTROって誰だよ。曲ごとに全然違うのに、全部同じ人なのか?」配信サイトにはアクセスの遅延が発生した。地上波の夜のニュースも、『音楽業界を揺るがす匿名プロデューサー』として、この現象を取り上げた。国内有数の芸能事務所のトップたちが、曲を得ようと契約書を送ってくる。代表室の電話とファクスは、夜明けまで休まなかった。相良が椅子の背にもたれ、笑った。「律君。名前を明かせば、今夜だけで取材が100件は来るぞ」「まだです」「だろうな」律は5曲の継続再生率と、ダウンロードへの転換率を見比べた。1位という数字より、明日も聴かれる曲かどうかが重要だった。入口でしばらく見ていた澪が、そばに来た。「うれしく
「正しければ、邪魔じゃない」「間違ってたら?」「どこが違うか言うよ」澪は小さく笑った。「本当につまらない答え」「何か、言ってほしかった?」今度は澪が言葉をなくした。律は、何でもない顔でモニターを見ている。なのに、こういうことを突然聞く。人の気持ちがまるでわからないような顔をして、ときどき真ん中だけを突いていく。「いいえ。別に」澪は意味もなく、楽譜の角をそろえた。律は追及せず、コンソールの下にあった紙コップをひとつ押しやった。「ぬるい水」「私のだって、どうしてわかったんですか?」「レコーディングに入ると、コーヒーは飲まないだろ」澪の手が止まった。練習予定。喉の状態。水の温度。律にとっては、ただの作業データかもしれない。けれど澪には、そういうものが妙に長く残った。「他の歌手のことも、全部そうやって覚えてるんですか?」今度は、すぐには答えが来なかった。「必要なことは」短い答え。澪は、それ以上聞かなかった。それでも、口元は少しだけ上がった。* * *2011年7月1日、正午。ルミナのデビューデジタルシングル『Electric Queen』が、全配信サイトで公開された。奇しくもその日は、久世エンターテインメントが制作費10億円を投じた、看板6人組ガールズグループ『スカーレット』の新曲発売日だった。久世は地上波3局の広告枠とポータルサイトのトップを、多額の宣伝費で押さえた。貴臣は六本木の有名クラブを借り切って豪華なショーケースを開き、記者の前で得意げに語った。「スカーレットの新曲は、世界のポップ市場を狙って作った完璧な作品です。1位は当然でしょう。どこの馬の骨ともわからないインディーズの遊びは、もう終わりです」だが、ショーケースが終わる前から、予想と違う数字が出始めた。ルミナは発売1時間で、国内最大手のリアルタイムチャート45位。3時間後に17位。午後5時には4位だった。大手ファンコミュニティーやSNSを中心に、3段高音に挑戦する動画とダンスカバーが広がっていく。ゼニトーン代表室の壁のモニターが、更新のたび数字を書き換えた。最初は歓声を上げていたメンバーも、トップ5に入ると、かえって黙り込んだ。結衣は両手で口を覆い、画面だけを見ていた。「澪さん」彼女の腕をつかむ。「本当に、1位まで行けるんで