FAZER LOGIN一睡もせず朝を迎えた医乃の処の戸を、薄闇の晴れきらぬうちに、老いた蔵人がひとつ叩いた。
「御前付き検屍女医、清涼殿へ参れとの主上の仰せじゃ」
明け早くに蒸し芋を包んで来て、縁側に腰を下ろしていた蓮が、ぱっと立ち上がった。
「師匠! はじめての御前入りですよ!」
「なぜそなたが浮き立っておるのじゃ」
「存じませぬ、ただ、わたしの胸がどきどきと鳴るばかりで!」
袖の奥深くへ銀の簪を押し込むあいだも、この簪を送った者が誰であれ、今日その顔を見ることになるやもしれぬ、という思いが離れなかった。
清涼殿まで先立つ老蔵人は、少し曲がった背で、歩のたびに舌打ちをしていたが、ついに一言を添えた。
「のう、主上の御前では、問われたことにのみ答えよ。目は床に、口は重く。承知しておるか」
「はい、御蔵人さま」
「それと、主上が何を仰せになっても驚くでないぞ」
「……何を仰せになるとて、そう申されますか」
老蔵人は答えの代わりに、長い溜息を吐いた。
「わしにも、わからぬ。昨日より主上が、人が変わられたようでな」
老蔵人の長い息は、回廊を幾度か折れるあいだ続き、その果てに清涼殿の戸が開かれた。
水を打ったような静けさの奥、上奏(じょうそう)の山の向こうで、煌仁は医乃が伏して久しくなっても、筆を走らせるばかりで、顔ひとつ上げない。
いつの間にか帝の脇に立った老蔵人が、咳払いをした。
「主上、検屍女医、参ってございます」
「そうか」
筆が止まり、上がった眼差しを、医乃はまっすぐに受けた。
昨夜あの小箱を置いていった者がこのお方ならば、今、何かが露れるはずであった。
「重ねて見ても、朕の知る顔ではないな」
強張っていた肩から、するすると力が抜けた。
『……違うたか』
「検屍書は」
「ここにございます」
煌仁は検屍書を受け取って読み下していったが、一枚を繰る手が、妙に遅い。
「附子は、薬種庫の薬帳と照らしたか」
「藤堂のお典薬がお照らしになると申されましたが、まだ知らせはございませぬ」
「であろうな」
煌仁は検屍書を文机の端へ下ろし、顔も上げずに、ふたたび筆を取った。
「波嶺郷と申したな」
「……はい、主上」
「波嶺に火が出たのは、いつのことぞ」
床に手をついた医乃の指先に、知らず力が入る。
「2年前の冬にございます」
「検屍は、どこで学んだ」
「郷の医師さまから、肩越しに学び申しました」
「肩越しに学んだ女医が、30年を薬師寮に過ごした典薬の判定を、水口ひとつで覆したか」
「……亡骸が、教えてくれ申しました。わたくしは、書き留めたまでにございます」
煌仁の筆先が、宙で止まった。
『死せる者は嘘をつかぬ』
それこそが彼女の口癖であり、このお方が傍らで幾度となく聞いた言葉であることを、医乃は、その刹那、すっかり忘れていた。
煌仁は筆を下ろすと、御前の茶碗を彼女の方へ押しやった。
「飲んでみよ」
「……は?」
「朕の茶じゃ。毒の有無を、そなたが確かめよ」
老蔵人がぎょっとして、半ば腰を浮かせた。
「し、主上! 毒味の女房がござりまするに、何ゆえ末席の女医に——」
——「伏見」
「……はい、主上」
「静かに」
伏見が唇を内へ巻き込んだ。
医乃は膝で歩み寄り、茶碗を受け取ると、色を見、香りを嗅ぎ、舌先に一滴を転がした。
「毒はございませぬ。ただ」
「ただ?」
「茶葉を、長く煎じすぎてございます。苦みが強うございます。主上は本来、苦きを好まれませ——」
ふつりと切れた言葉を、手の甲で口を押さえたい衝動を、医乃はかろうじて堪えた。
『気でも触れたか』
本来、だと。
末席の女医が、帝の好みを、何の術で知るのか。
煌仁は何も申さず、ただ静かに彼女を見つめてから、茶碗を引き戻した。
「下がれ。呼べば、また参れ」
「……はい、主上」
逃げるように清涼殿を出、回廊の柱の陰に身を隠してようやく、息を整えることができた。
切れる息が上下するたび、袖の奥の銀の簪が、肌に冷たく触れた。
『あのお方のはずがない』
あの夜、彼女に背を向けた者が、2年のあいだ、この簪を磨いておられたはずがない。
その折、回廊の向こうから、灰色の顔をした藤堂が薬帳を抱え、慌しく駆けて来た。
医乃を見つけてはたと止まり、周りを見回してから声を落とす。
「そなたの申したことは正しかった。薬種庫の附子が、半斤(はんぎん)、失せておった」
「出納の花押は、いかがでした」
「……消されておった。誰ぞ刃物で削り取った」
藤堂はそれだけ残して清涼殿の内へ消え、医乃は柱に背を預けたまま息を整えた。
花押を削れる者は、薬種庫の鍵を握る者だけであった。
***
藤堂が薬帳を奉って逃げるように下がると、清涼殿にふたたび、ふたりが残った。
伏見がおずおずと口を開く。
「主上、あの女医、どこぞ怪しゅうはございませぬか。主上の苦き好みをどうして——」
答えの代わりに、煌仁は茶碗を取り上げ、彼女の唇の触れた縁を、しばし見下ろした。
わざと長く煎じた茶であった。
彼女ならば、必ずその言葉を口にするであろうから。
やがて開いた文机の引き出しの中には、絹に包まれた銀の簪が、ひとつ置かれていた。
端に小さな梅の花が刻まれた、片を失うた簪。
昨夜、桐の小箱に収めて届けさせた、そのもうひと片であった。
昨日、井戸端で声を聞いた一刹那、彼は悟っていた。
頬から首筋まで炎が舐めて過ぎようと、声を無理に掠らせようと、亡骸の前に膝をついたあの背を、見誤るはずがなかった。
「銀の簪は、砒霜しか知りませぬ」
2年前のあの夜も、彼女は同じことを叫んだ。
この毒は、砒霜ではござりませぬ、と。
その折、彼は聞きながら、答えなかった。
ゆえに此度(こたび)は、彼女の申すことを、ひと言も聞き流さぬと決めた。
伏見が腰の辺りを押さえ、泣き面を作った。
「主上、あの小箱を置いて来るのに、小官が女医の処の塀を越え、腰をひねったことは、ご存じでございますか」
「存じておる。戸の環に挿してあった髪を、落として来たこともな」
「……は?」
「東宮妃の頃より、あの者は戸を出るとき、環に髪ひと筋を挿しておった。この次からは、戻してから出て参れ」
口の開いたままの伏見を置いて、煌仁は答えず、己の分の簪を手の平に握り込んだ。
「……生きておったか」
伏見が、知らず一歩歩み寄る。
「し、主上。まさか——」
「今日聞いたことは、墓まで持って参れ、伏見」
煌仁は目を閉じた。
「あの者が朕を知らぬ振りをしておる間は、朕も、知らぬ振りをしよう」
医乃は額より手を離さぬまま、もう一方の手で傘の柄を握った。彼の手のちょうど上であった。「何時(いつ)より、熱(ねつ)がおありなさいました」「知らぬ」「お知りにならぬのではなく、お申しにならぬのでございます」柄を彼の方へ押して立て直そうとすれど、柄は微動だにしなかった。「そなたの懐の鉢が濡れるよりましじゃ」「鉢は、油紙に包んでございます」「ならば、そなたが濡れるよりましじゃ」医乃は柄を離さなかった。彼もまた、離さなかった。終いに唐傘はふたりのちょうど中ほどにまっすぐ立ち、宮の塀に至るまで、ふたりは並んで片の肩ずつ濡れた。脇門の敷居を越えつつ振り返った彼の横顔の上、雨か汗か知れぬものが、こめかみを伝うて流れた。唇の色が、闇の内にても白かった。***夜明け前より女医所の部屋の戸を叩いた伏見は、烏帽子の紐も結んでおらぬ顔をしていた。「主上が火の塊にあられまする。典薬(てんやく)を呼ばんとしたれば退けなさり、薬師寮の者は敷居も越えさせるなと仰せられ……。女医のみ参れとの仰せにございます」寝所の褥(しとね)の上で、煌仁は衾(ふすま)を首まで引き上げたまま、臥していた。昨夜塀の下にて取った額は、その間に、さらに燃え上がっていた。それなのに、彼は衾の内にて肩を縮めて震えていた。乾いた咳が破(は)ぜて脇を揺らすたび、彼の眉間が、刃にふたたび斬られる者のごとく狭まった。子の刻、雨中に
医乃が口元に耳をさらに近づけてみても、小珠からは息がゆき交うのみで、次の言葉は出なかった。袖口を掴んでいた指がほどけ、瞼がふたたび下りた。再び取った首筋には、先刻よりも確かに指先を押し上げる脈があった。眠りに落ちたのであった。顔を上げれば、広縁の上の煌仁が彼女を見ていた。何も問わぬ顔で、ただ彼女の口が開くのを待つ眼であった。医乃はその眼に短く頭を垂れ、薦ごと小珠を担架に移せと言いつけた。日の落つる頃、女医所の検屍の間の板の上でふたたび眼を開いた小珠に、蓮が温めた重湯を匙で含ませた。戸の外は、堀川が残していった下人がふたり、守っていた。「夜ごとに灰を運んでおりました」小珠は夜着の襟を顎の下まで引き上げ、震えていた。「別堂(べつどう)の裏の焚き口より出る灰を、桶に入れて池の水口(みなくち)に流しておりました。灰より、鉄の生臭が立っておりました。半年ほど経ちましたら、歯茎より血が出て、歯が揺らぎ……」「水銀、煉丹という言葉は、どこで聞いた」「別堂の戸の隙より……。灰を運び出せと申された御方が、今宵は煉丹がまだ足らぬ、水銀が未だ澄まぬと、独り言を仰せでした。わたくしは、それが何のことやら知りもせなんだ」「その御方は、誰じゃ」小珠の唇が、白く閉ざされた。瞳が戸の方へひとたび彷徨い、そのまま夜着の内へ逃げ込んだ。それ以上は問わず、医乃は小珠の爪の下より掻き出した灰色の澱を、銭ひとつに擦りつけた。黄なる銅の光が、擦られた箇所だけ、銀のごとく白く照った。蓮が口を大きく開いた。&
庭に満ちて平伏した女房たちの間から、悲鳴が破れた。「め、眼を……!」「骸が眼を開いた!」「物の怪じゃ、物の怪!」女房ひとりが後ずさって尻餅を突く間も、医乃は小珠の顔より眼を離さなかった。開いた二つの瞳は、何も見ぬまま、虚空に懸かっていた。女房が鏡を捧げて駆け出てくると、医乃は鏡を受け、小珠の鼻の下に近く寄せた。庭が、息をひそめた。磨き上げた銅の鏡の真ん中に、爪ほどの霧が結び、そして消えた。また、結んだ。「息をしておりまする」医乃は鏡を持ち上げ、広縁の上へ示した。「息は未だ、この身を去ってございませぬ」皇太后が膝の上の手を袖の内に納めた。南原 道玄の口の端に懸かった笑みが、初めて片側だけに残った。「御厨子所(みずしどころ)へ人を遣わしてくださりませ。甘草と緑豆をひと掴みずつ、水二杯を一杯に濃く煎じまするよう。それと、生温い塩水をひと鉢」煌仁が首を巡らすこともせずに伏見へ合図をすると、老蔵人は腰を押さえたまま回廊の方へ駆け出した。濡らした無名で小珠の顔を拭ってやると、白粉(おしろい)の落ちた跡の下から、熱の差したごとき紅(あか)い頬が現れた。唇を拭うと、無名の端に青き色が移った。蓼藍(たであい)の染料であった。誰かが生きた顔の上に、死者の顔の色を塗り置いていたのである。開いた口の内の舌は、ひからびて裂け、鼻を近づけると、口の内より甘ったるく生臭い草の匂いが昇った。「曼陀羅華(まん
医乃は敷居の向こうで、歩みを止めなかった。止めれば振り向くこととなり、振り向けば、眼を見られることとなる。背後から、花の笑い声が響いた。「母上もさように見えまするか。わらわも初めて見し折、誰かに似ておると申しました。骸の脇にて首をまっすぐ立てる眼にございます」「誰に似ておった」「……亡き姉上にございます」「中宮は、未だ姉の思いを捨てぬのう」皇太后の笑いが、低く続いた。閉まる戸が、その笑いを半ばで断った。女院御所の塀を出るまで、医乃は後を振り返らなかった。池風が入って却って涼しい広縁であったはずが、小袖の内は、しっとりと湿っていた。未の刻の茶の席にて、医乃は膏を替える手を止めた。魚市場の路地で開(あ)いた箇所のひと端が、糸の結び目の間からなお新しい血を出していた。「糸を抜く日が、3日は遅うなりました」「路地に参った値じゃ」「どなたが、ついて参れと申し上げました」煌仁が茶碗を取り上げては下ろした。「ひとりで参るなと申したのじゃ。朕を伴わず参るな、とは申さなんだ。此度より、さよう改めて伝えよう」返事もせず、巻き直す無名の最後の結び目を、わざと固く締めると、頭上で呻き声が洩れた。それでも顔は上げなかった。「女院御所にて、何を下されたか」「薬菓を下されましたが、口に入れてはおりませぬ。池には鯉がまたひとつ浮き、石の縁ごとに灰色の澱が乾きついてございました」&
医乃は盆の上に突いた手を、引くことができなかった。女院御所。この御方の嫡母(ちゃくぼ)の住まう御殿。中宮御所に住まった頃、朝ごとに文安(もんあん)に参上すると、いつも笑いながら手を取ってくださる御方であった。「……皇太后さまが、何故に」「妃候補(ひこうほ)の間別当(かんべっとう)は、女院御所の主宰じゃ」煌仁が焦げた草案を指先で押しやった。「中宮の候補の単子(たんし)が、事の3日前に蔵人所に入ったという。その単子を受け取った処も、女院御所であった。その後、女院御所は中宮の後ろ盾とならった」女院御所の池の鯉が腹を返すという蓮の饒舌が、唐突に耳をかすめた。「この件は、朕が引き受ける」草案を折って入れた文机の抽斗は、検屍書と白い簪の納まる、あの抽斗であった。「そなたは当分の間、女院御所のほうには足を向けるな」「……は、主上」答え終わるより前に、戸口の外が騒がしくなった。伏見が戸を開けると、紫の袿(うちぎ)を着た老いた女房がひとり、敷居の外に平伏していた。「女院御所の至密(しみつ)にございます。皇太后さまが、明朝の文安の席に、御前の女医も同席を、と仰せにございます。中宮さまが、尊き女医がおりますと奏上なされたとのこと」清涼殿のうちが凍てつくなか、煌仁の顎の筋がひとたび浮かび、沈んだ。皇太后の召しは、帝でも遮ることができぬ。遮れば、遮った由を、皇太后が先に問う。女房が退がると、煌仁が低く口を開いた。
医乃が紙から目を離さぬまま呼ぶと、無名の端を結んでいた蓮が顔を上げた。「灯明をもうひとつ運んでおくれ。今宵は、そなたの部屋にて眠ってくるがよい」「また、おひとりになさるおつもりですか」「骸の脇に居るのと同じじゃ。この紙にも、言い残したことがある」蓮は口を尖らせながらも、灯明をひとつ余分に点してから退がった。二つの灯明を紙の両脇に置くと、交わり合う光が紙の上の影をきれいに拭い去った。骸の前に座する折のように、彼女はひと息を整え、手を膝に置いた。まず、色味を見た。廃庶人 朝井の氏、その冒頭の画の先は、乾きながら青みを帯びていた。松を焚いて受けた煤で拵えた松煙(しょうえん)の墨が、そうなる。ところが罪目の行まで降りてくると、画の先が温かな光に褪せていた。油を焚いて受けた煤で拵えた墨が乾けば、必ずかく、茶に赤みの差す色となる。紙を斜めに傾ければ、冒頭の行は光を吸い込むようにしっとりと沈んだが、罪目の行だけ、漆を塗ったごとく照っていた。油煙に膠(にかわ)をたっぷり溶かさねば出ぬ艶であった。次に、折り目であった。蔵人所に入った草案は、半折にされ束に綴じられる。その縦の筋が通る冒頭の行の「廃」の字の真ん中は、墨が筋を追って細く裂けていた。先に乾いた墨の上を紙が折れ、墨の皮がはじけた跡であった。同じ筋が、罪目の行の「害」の字をも通っていた。ところが「害」の字の墨は、裂けるどころか、折れた谷を伝ってもったりと溜まり、ぷっくりと脹(ふく)らんでいた。すでに谷の付いた紙の上に筆を下ろしてこそ、墨はかく溜まるのである。冒頭の







