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第2話

Author: あの頃の月を愛す
朝5時、研嗣は病院をあとにした。雨はまだ降り続いている。

車を走らせて街を抜け、雑炊専門店の前で1時間も並んだ。店員から温かいうちに食べたほうがいいと言われると、袋にそっと手を添え、温かさを確かめる。

「悪いけど、袋をもう一枚重ねてもらえますか」

助手席から、雨に濡れた彼の肩を見つめていた。

以前、私が残業を終えるたび、研嗣はこうして迎えに来てくれた。

日が落ちるのが早い冬の夜、街角を照らすヘッドライトを見るだけで、遠くからでもすぐに彼の車だと分かった。

あの頃の私は、信じて疑わなかった。私のために1時間も列に並んでくれるような男が、私を愛していないはずがない、と。

研嗣が雑炊を持って車に乗った瞬間、スマホが鳴った。登録されていない番号だ。

研嗣は画面を一瞥すると、そのまま電話を切る。またすぐ鳴ったので、ようやく通話ボタンを押す。

「もしもし、深沢研嗣さんでしょうか。こちらは市立中央病院の救急外来ですが、進藤安奈さんは……」

「お電話どうも」研嗣は相手の言葉を遮り、静かな声で言った。

「安奈に伝えてください。こんな小細工で俺を試す必要はないって。今日中には帰るから」

電話の向こうで、一瞬、言葉が途切れる。

「いえ、誤解なさっています。お電話したのは……」

言い終える前に、研嗣は容赦なく電話を切った。指でこめかみを押す。

「病院の人まで巻き込んで芝居をするとは……ずいぶん手が込んでるな」

7年前、急性胃腸炎で入院した時のことを、私は今でも覚えている。

研嗣は2晩続けてほとんど眠らず、ベッドのそばに座ったまま、ずっと私の手を握っていた。

医師から問題はないと説明されても、同じことを何度も確認した。病室へ戻ると私の手の甲に額を押し当てて言った。

「もしお前に何かあったら、俺も生きていけない」

縁起でもないと笑うと、彼は目を赤くしながら言った。

「お前がいなくなったら、俺はどうやって生きていけばいいのか分からない」

しかし今、その私の死を知らせる電話は、ただの意地の張り合いだと思われている。

朝7時、怜花が退院の手続きを終えた。助手席のドアを開けようとすると、研嗣がすぐに手を伸ばして制する。

「後ろに乗れ」

怜花の動きがぴたりと止まる。

「私、車酔いするの……」

「少しくらい我慢しろ」そう言って後部座席のドアを開けた。

「助手席は安奈の席だ。他の人が座ってるのを見たら、あいつは嫌がる」

車内には、私が好きだった穏やかなピアノ曲が流れている。シートの角度も、私がいつも調整していたままだ。

サンバイザーの裏には、研嗣と二人で撮ったチェキが挟まれている。それを見た怜花は、わずかに笑みを薄くした。

研嗣は気づかない。ただ、雑炊の袋が倒れないよう、置き直した。

まずは着替えを取りに怜花のマンションへと向かう。車を降りるとき、研嗣は雑炊と薬の袋を手に提げていた。

怜花がめまいを訴えると、彼女を支えるために手を空け、袋を床に無造作に置いた。床にはうっすらとほこりが積もっている。袋の底は、床のほこりで薄汚れていた。

まだ湯気を立てている雑炊を見つめて、温かいうちにという店員の声が頭をよぎる。

着替えを済ませた怜花が出てくる。その足先が、床に置かれた袋に軽くぶつかった。

袋が倒れ、中の容器が床に転がった。ふたが外れ、雑炊が床に広がる。その一部が怜花の足首にもかかった。研嗣はすぐにしゃがみ込んだ。

「火傷はないか?」

「ごめんなさい。わざとじゃないの。これ、安奈のために買ってきたよね……」

「気にするな」

ティッシュで怜花のスリッパについた雑炊を丁寧に拭き取る。責める言葉は、一つもなかった。

「火傷してなければいい。安奈なら、また明日買ってやればいい」

私は床に染み込んでいく雑炊を見つめている。1時間も並んで買ったものなのに、捨てるときは、たった一言で片付けられてしまう。

車に戻ると、怜花が寒いと言いながら、後部座席に置かれた白いコートへ手を伸ばす。

海外限定のもので、普段はもったいなくて着られず、急に寒くなった時のために車に置いていた私のお気に入りだ。

怜花の指が襟元に触れた時、研嗣がちらりとそちらを見る。きっと止めてくれると思いながら、私は彼の横顔を見つめている。

「着ればいい」

「でも、安奈が大事にしてるものじゃない?」

「一度くらい貸したって怒らない。あいつはそういうやつだ」

コートは怜花の肩に掛けられる。私よりも華奢な彼女には少し大きく、袖口が長く余っている。

研嗣は何のためらいもなく手を伸ばし、長すぎる袖を整えてやった。その仕草は、あまりにも自然だ。

そのとき、研嗣のスマホが鳴った。病院側が番号を変えてかけてきたのだ。研嗣が電話に出ると、看護師の切迫した声が車内に響き渡る。

「深沢さん、落ち着いて最後までお聞きください。

進藤さんは昨夜、急性心不全のため救命処置を行いましたが、残念ながら助かりませんでした。

現在、ご遺体は病院に安置されています。至急お手続きをお願いしたいのです」

車内が静寂に包まれる。怜花が私のコートをぎゅっと握りしめる。研嗣はふっと笑った。

「安奈。こういう冗談はもうやめろ」

その声は、驚くほど優しい。まるで、わがままな子どもを宥めるような響きを帯びている。

「すぐ帰るから、病院の人を困らせるな」

「深沢さん、進藤さんはもう……」

研嗣は電話を切り、そのまま番号を着信拒否にした。

「ただ俺を帰らせたいだけだ」

エンジンをかける。口元には、どこか勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。

「いいだろう、帰ってやる。お前の勝ちだ」

ワイパーが規則正しくフロントガラスの雨を拭い去っていく。

私は、私のために空けられていた助手席に座り、研嗣が私たちの新居へ向かうのを見つめている。

研嗣、今回は私の勝ちじゃない。あなたにはもう、負けを認める機会すら残されていない。

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