INICIAR SESIÓN紗那が目を覚まさないと思っているのだろう。二人は病室の中で遠慮することもなく言葉を交わしていた。
まさか紗那の意識が戻っているとは思いもしない。
ただ、まぶたが開かないだけだった。
声も出せず、指一本動かせないまま、紗那は二人の会話をすべて聞いていた。
かつて心から愛した夫が、本当は毎晩嫌悪を押し殺しながら自分に触れていたこと。
抱くたびに、千織の顔を思い浮かべなければ耐えられなかったこと。
その一つひとつの言葉が、刃物で心臓を削られるように胸へ突き刺さる。
先ほど殴られた頬よりも、ずっと痛かった。
――どうして。
どうして、ここまで残酷になれるの。
どうして、こんなにも平然と私を踏みにじれるの。
耳元では、互いを慰め合い、恋人同士のように想いを囁き合う二人の声が続いていた。
聞きたくない。
けれど目は開かず、意識も再び闇へ沈んではくれない。
紗那はただ、その声を聞き続けるしかなかった。
「千織。俺たちのこともバレたし、こいつの実家の会社に送り込んでいた連中も、そろそろ引き上げさせるか。もうこいつと仲睦まじい夫婦を演じるのも限界だ。会社も十分力をつけたし、あとはあの会社を取り込むだけだ」
「一番目障りだったのは、この女の兄だったけどね。でも――」
「ああ。まさかここまで時間がかかるとは思わなかった。光晴さえいなければ、とっくに実権は俺たちのものだった。それでも……ふっ。結局、あいつも俺たちの手のひらの上で踊らされていただけだった」
「今頃もう息をしてないかもしれないな。裕司、あんたの作戦は完璧だった。海外へ誘い出してしまえば、こっちも動きやすかったし。あいつさえいなくなれば、会社なんて時間の問題だった」
光晴――。
兄の名前を耳にした瞬間、紗那の心臓が大きく跳ねた。
兄・光晴は、一か月前に海外へ向かった。
工場でトラブルが起きたと聞き、慌ただしく出発したため、まともに別れを告げる時間もなかった。ただ一本のメッセージだけを残し、その日の便で飛び立っていった。
海外支社を任されていた兄にとって、それは決して珍しいことではない。
毎年、何か月かは海外で過ごしていた。
だから紗那も、今回もいつもの出張なのだと思っていた。
この一か月、ほとんど連絡がなくても。
両親にさえ連絡していなくても。
忙しいのだろうとしか思わなかった。
まさか――それすら、この二人の仕組んだことだったなんて。
胸が激しく締めつけられる。
いつも優しく笑ってくれた兄の顔が脳裏に浮かぶ。
「息をしていないかもしれない」
その言葉の意味を理解した瞬間、全身から血の気が引いた。
兄まで。
兄まで、この人たちに奪われてしまうの――。
悲しみと恐怖で胸が張り裂けそうだった。
声を上げたいのに、体は恐怖に凍りついたように動かない。涙だけが止めどなくあふれ、大粒となって頬を伝い続ける。
その涙に気づいたのか、千織がわざとらしく大きな声を上げた。
「あら、裕司。見て。この女、泣いてるわ。もしかして、私たちの話が聞こえてるんじゃない?」
「はは、本当だ」
二人は顔を見合わせ、面白がるように笑った。
次の瞬間、頬に鋭い衝撃が走る。
一度ではない。
何度も、何度も容赦なく叩かれる。
パンッ、パンッ――乾いた音が病室に響くたび、焼けるような痛みが頬へ広がり、意識が遠のいていくようだった。
裕司はそんなことなど少しも気にせず、ゆっくりと紗那へ顔を近づけた。
生ぬるい吐息が頬にかかる。
それだけで吐き気が込み上げる。
「紗那。聞こえてるんだろ?」
耳元で囁く声に、ぞっと背筋が粟立った。
「はは……お前が一番大事にしてた兄貴な。もう息はしてねぇよ。俺たちがちゃんと始末してやった」
堪え切れないように笑い声を漏らす。
その笑いは、狂気そのものだった。紗那は初めて、自分が選び、心から愛したはずの男に、本当の恐怖を覚えた。
そして同時に、この身が焼き尽くれるほどの底知れない憎しみが、胸の奥深くからとめどなく湧き上がってくるのを感じていた。
紗那も自分と同じような出来事を経験していたのかもしれない――そう思った瞬間、光晴は再び堪えきれず、紗那を強く抱きしめた。 腕の中の紗那は、あまりにも小さく、あまりにも細い。 ウェディングドレスを少しでも綺麗に着こなきたいと、何か月もかけてダイエットを続けていたことを光晴は覚えている。 もともとふっくらとしていた頬はさらに痩せ細り、その華奢な体には、骨しか残っていないのではないかと思うほど肉がついていなかった。 紗那は、今日という日を誰よりも大切に思っていた。 この結婚式を、誰よりも心待ちにしていた。 頬を伝う温かな感触に気づき、光晴はようやく自分も泣いていることを知る。 涙は次から次へと溢れ出し、その様子に紗那も気づいた。 それでも紗那は何も言わなかった。 ただ同じように光晴を強く抱きしめ返す。 この瞬間、二人の隣にいられるのは、お互いだけだった。 互いが味わった苦しみを誰よりも深く理解し、傷ついた魂を寄せ合いながら、そのぬくもりだけを支えに生きていた。 それから丸二日間。 紗那と光晴は携帯電話の電源を切り、何もせず、眠っては食事をするだけの日々を過ごした。 二人には、すべてを一度忘れ、心を休める時間が必要だった。 しかし、眠りさえ安らぎにはならない。 あの日々の悪夢は、今世に戻ってきても二人を追いかけてきた。 眠るたびに悪夢にうなされ、飛び起きては涙を流す。 そして何度も何度も、お互いが生きていること、自分自身も生きていることを確かめ合った。 互いの記憶だけが、前世と今世が確かに存在したことを証明できる、唯一の証だった。 三日目。 悪夢に耐え切れなくなった紗那は、光晴の手を握り、真剣な表情で口を開いた。「お兄ちゃん。逃げることも大事。でも、私たちにはもっと大事なことがある」 光晴は何も言わず、小さく頷いた。 まだたった二日しか経っていない。それなのに、光晴は別人のように痩せていた。 頬はこけ、目元には隠しきれない疲労が滲み、赤く腫れた瞳だけが、この二日間どれほど涙を流してきたのかを物語っている。 そんな兄の姿を見ているだけで、紗那の胸は締めつけられるように痛んだ。「紗那。どうしたい? 兄ちゃんは、何があっても紗那の味方だ」「……あの人たちに死んでほしい、お兄ちゃん。白府裕司と、白府千織に」 紗那は歯を食
あの頃の光晴には、もう声を出す力すら残っていなかった。 舌は潰され、何を叫ぼうとしても言葉にならない。 血で滲んだ視界はぼやけ、最愛の妹の姿さえ、はっきりとは見えなかった。 それでも、裕司の笑い声だけは嫌というほど耳に焼きついていた。『見ろ。お前の大事な妹だ』 そう嘲るように笑いながら、紗那の亡骸を映し続ける。自分が作り上げた最高傑作でも鑑賞しているかのように。 あの瞬間、光晴の中に残っていたものは、憎しみだけだった。 全身の血が煮えたぎり、骨の髄まで憎悪に焼き尽くされる。 声にならない咆哮を最後の力で絞り出した瞬間、光晴の意識は深い闇へ沈んでいった。 紗那と同じだった。 最後の最後まで残っていたのは、消えることのない憎しみと、どうしようもない悔しさだけ。 そして――。 次に目を覚ましたとき、光晴は自分の車の運転席に座っていた。 窓の外に見えたのは、見慣れた教会。身にまとっていたのは、妹の結婚式のために誂えたスーツ。 一瞬だった。 光晴はすべてを悟った。 自分はもう一度、この日へ戻ってきたのだと。 今日が妹の結婚式だと気づいた瞬間、光晴は車のドアを乱暴に開け、そのまま教会へ駆け出した。 焦りで足はもつれ、何度も転びそうになりながら、それでも構わず走り続ける。 何としてでも、妹を止めなければならない。 そう思っていた。 だが、教会で目にした光景は、前世とはまるで違っていた。 紗那が燭台を高々と振り上げ、光晴自身も骨の髄まで憎み抜いたあの男――裕司の頭へ、容赦なく振り下ろしていたのだ。 光晴の口元から、思わず笑みがこぼれた。 一か月以上に及ぶ地獄のような拷問を受けて以来、光晴が心の底から笑ったのは、あれが初めてだった。 ――よかった。紗那も、戻ってきてくれた。 けれど、その喜びと安堵はすぐに胸を締めつけるような痛みへと変わっていく。 紗那も戻ってきたということは――。 あの地獄で味わった苦しみも、絶望も、恐怖も。そのすべてを、紗那も鮮明に覚えているということだった。 自分と同じように。 いや、自分以上に。 最愛の人に裏切られ、愛した子どもまで奪われ、最後には誰にも救われることなく命を落とした。 そんな地獄を、紗那はたった一人で耐え抜いたのだ。 そう思った瞬間、光晴は込み上げる感情を抑えきれず、もう一度
紗那は、自分がどうやって教会を出たのか覚えていなかった。 あまりにも場は混乱していた。 あちこちから悲鳴が上がり、その一つひとつが耳を打ち、冷静に物事を考えることさえできなかった。 最後に目に映ったのは、気を失った裕司を庇うように駆け寄った千代子と正則の姿。 二人は裕司の容体を気遣いながら、紗那の暴挙を責め続けていた。 そのとき、光晴は迷うことなく紗那を抱き寄せる。「大丈夫だ」 そう囁くように告げると、人混みを押しのけるように教会を飛び出し、誰にも紗那を触れさせないよう、そのまま彼女を連れてその場を離れた。 光晴が紗那を連れて帰ったのは、新婚生活のために用意された新居ではなかった。 光晴が一人暮らしのために借りているマンションだった。 柔らかなソファへ腰を下ろしても、紗那はまだ呆然としたまま、身じろぎ一つできずにいた。 人を殴ったのは、あれが生まれて初めてだった。 千代子の言葉にも、一つだけ間違っていないことがある。紗那は幼い頃から家族に大切に育てられ、惜しみない愛情を注がれてきた。 裕福で、温かな家庭。 少しくらいお嬢様気質になってしまうのも無理はないほど、何不自由のない人生だった。 欲しいものは望めば手に入り、好きになった相手とさえ、家同士の縁談という形で結ばれることができた。 人生はあまりにも順風満帆だった。 だからこそ、人の心があれほど醜く、恐ろしく、底知れない悪意を隠せるものだとは、一度も考えたことがなかった。 裕司を殴っている最中は、怒りしか感じなかった。 だが時間が経つにつれ、人を傷つけたという恐怖と、その現実が、遅れて波のように押し寄せてくる。 紗那は震える手を、そっと自分の平らな腹へ重ねた。まだ、一度も新しい命を宿したことのないお腹。 前世で妊娠を知ったあの日、自分がどれほど嬉しく、どれほど幸せだったのかを、今でも鮮明に覚えている。 だからこそ、その小さな命を失った絶望も、耐え難いほど深かった。「……っ」 喉の奥から、小さな嗚咽が漏れる。 憎い。 悔しい。 苦しい。 悲しい。 胸の奥には、憎しみも、悔しさも、悲しみも、抱えきれないほど渦巻いていた。「紗那。もう大丈夫だ」 温めたミルクを持ってきた光晴が、静かに隣へ腰を下ろす。泣き続ける紗那をそっと抱き寄せ、その頭を優しく撫でた。 世
前世、裕司が紗那に「愛している」と告げたことがあったのか、紗那にはもう思い出せなかった。 肌を重ね、互いの熱に溺れるような夜でさえ、裕司は一度として「愛している」と口にすることはなかった。 あの結婚生活で積極的に想いを伝え、よく話しかけていたのは、いつも紗那だった。 裕司は仕事に追われ、複雑な家庭の問題を抱えながらも、余計な付き合いをせず、交友関係も乱れてはいなかった。 酒場へ通うことも、夜の街へ繰り出すこともない。 どれほど帰りが遅くなっても、最後には必ず家へ戻ってくる。 そんな裕司を見て、紗那はずっと信じていた。 愛とは、言葉ではなく、行動で示すものなのだと。 あの頃の彼女は、愚かなほど純粋だった。 だからこそ、現実はあまりにも残酷だった。 言葉も。 行動も。 人は、そのすべてを偽ることができる。 愛でさえも。 裕司が口にした「愛している」という一言を、紗那はもう信じない。光晴もまた、その言葉に惑わされることはなかった。 しかし、その場にいる誰もがそうだったわけではない。 裕司の演技に心を動かされ、その言葉を本物だと受け止める者は、確かに存在していた。「紗那! もういい加減にしなさい。結婚は子どもの遊びじゃないのよ。結婚したいから結婚する、離婚したいから離婚するなんて、そんな勝手が通ると思っているの? これは二つの家の問題なの。これ以上わがままを言うんじゃありません」「そうだぞ、紗那。お前は昔から少しわがままなところがあった。たとえ裕司君が何かしたとしても……悪気があったわけじゃないだろう。もう夫婦なんだから、一番大切なのは互いに理解し、支え合うことだ。いきなり手を上げるなんて、許されることじゃない」 正則も千代子も、まるで裕司こそが実の息子であるかのように、彼ばかりをかばっていた。 その言葉の一つひとつが、鋭い刃となって紗那の胸へ突き刺さる。 気づけば、再び瞳には涙が滲んでいた。 裕司を指差す紗那の手は、小刻みに震えていた。力を入れすぎたからではない。 骨の髄まで、この男を憎んでいたからだ。「お父さん! お母さん! この最低な男が、私たちに何をしたのか……何も知らないくせに……!」 あの日々を思い出しただけで、息がうまくできなくなる。 激しく込み上げる感情に全身が震え、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
裕司は、紗那が何も言えないと確信していた。そして実際、紗那には裕司の罪を証明する術などなかった。 紗那の胸に刻まれた憎しみのすべては、まだ訪れていない未来で起きた出来事なのだから。 三年前の裕司は、誰の目にも非の打ちどころのない好青年であり、理想的な夫そのものだった。 紗那は唇を強く噛み締める。 何も言えない。 言ったところで、誰も信じてはくれない。 そんな紗那を見て、裕司の口元には「やはり」と言わんばかりの笑みがゆっくりと浮かんだ。 紗那がなぜ突然こんな真似をしたのかは分からない。 だが、少なくとも今の自分には、紗那に責められるような覚えは何一つなかった。 ましてや、人前で責め立てられるような証拠を残すはずもない。 裕司はそう確信していた。 口を開こうとした、そのときだった。 光晴が一歩前へ踏み出し、紗那を自分の背中へとかばう。 その背中は、誰が相手であろうと妹だけは絶対に守り抜くという強い意志を物語っていた。「白府裕司。貴様がどんな卑劣なことを企み、どんな卑劣なことをしたのか、一番よく分かっているのは貴様自身だろう。紗那はもう十分傷ついている。それなのに、まだその傷をえぐり、皆の前で話せと言うのか」 光晴の口調はあまりにも断定的だった。 まるで裕司が何かをしたことを最初から知っているかのようなその言葉に、周囲の招待客たちも次第にざわめき始める。「本当に裕司さんが何かしたのか……?」「だからあんなに取り乱したのかもしれない……」 そんな疑念が、少しずつ周囲へと広がっていく。 光晴の背中を見つめながら、紗那は驚きを隠せなかった。 三年前の光晴は、裕司に対して決して悪い印象を抱いてはいなかった。 特別親しい間柄ではなかったものの、妹の夫となる相手として認めていたはずだ。 それどころか、新婚祝いとして子会社の株式まで贈ったほどだった。 それなのに今は――。 紗那が何も説明していないにもかかわらず、事情を尋ねることも、理由を問いただすこともなく、ただ無条件に彼女を守ってくれている。 そこでようやく、紗那の脳裏に、先ほど光晴が抱きしめながら囁いた言葉がよみがえった。 ――今度こそ、兄ちゃんが紗那を守る。もう二度と、誰にも紗那を傷つけさせない。 まさか……。 お兄ちゃんも、戻ってきたの……? その考えが胸をよぎっ
光晴の優しい慰めの声に包まれながら、紗那はようやく少しずつ落ち着きを取り戻していった。 光晴の胸にしがみついて泣きじゃくった紗那の涙で、彼の胸元はぐっしょりと濡れ、アイメイクまで白いシャツに付いてしまっていた。 ひとしきり泣き終え、その白いシャツがすっかり汚れてしまっていることに気づいた紗那は、申し訳なさそうに俯く。「お兄ちゃん……服、汚しちゃった」「そんなこと気にするな。服なんかより、紗那のほうが大事なんだから」 光晴は優しく紗那の頭を撫でた。 幼い頃から変わらない、その温かな手つきだった。 紗那は何度見ても見飽きることのない兄の顔を見つめ、口を開こうとした、そのとき――。「紗那。説明してもらえるか」 背後から聞こえた声に、胸の奥から嫌悪感が込み上げた。 裕司だった。 珍しく怒りを滲ませてはいたが、その口調はいつも通り冷静だった。 先ほどは頭を何度も殴られ、頭の中が真っ白になっていたが、このときようやく我に返ったのだ。 千代子は痛ましそうにハンカチを取り出し、裕司の額から流れる血をそっと押さえる。 そして紗那へ向ける視線には、責める色が浮かんでいた。「紗那。女の子なんだから、あんな乱暴なことをしちゃだめでしょう。それに、相手はあなたの夫になる裕司さんなのよ」 千代子は紗那のしたことを到底受け入れられなかった。 裕司という婿に、不満は何一つない。 千代子たちの前では、いつだって物腰が柔らかく、礼儀正しい青年だったからだ。 それに対して紗那は、小さい頃から家族に大切に育てられ、少しお嬢様気質なところがある。 その裕司が今では顔中を血で染めるほどの怪我を負っている。千代子には、どう考えても悪いのは紗那だとしか思えなかった。 紗那の表情は一瞬にして冷え切る。 目の前にいる千代子と、黙ったまま何も言わない正則を見つめても、胸に込み上げるのは無力感ばかりだった。 正則は何も口にしない。 それでも、紗那へ向ける視線には、はっきりと不満の色が浮かんでいた。 この結婚は、表向きこそ政略結婚だった。 けれど、その縁談を望んだのは紗那自身だった。 裕司のことが好きだと父へ打ち明け、正則は長い間悩んだ末、自ら裕司との縁談をまとめてくれたのだ。 それなのに、結婚式はこんなことになってしまった。 父が不満を抱くのも無理はない。「
三年前、紗那は最も愛する人と結婚した。 表向きは家同士の政略結婚。 少なくとも彼女自身は、それが愛による結婚だと信じていた。家の利益のためではなく、自分は愛されているのだと。 白府裕司。 彼は結婚式で、彼女に永遠の幸福を約束した。 生涯を共にすると誓った。 あのときの誓いの言葉は、あまりにも誠実で、愛に満ちていた。だからこそ三年後、裕司が別の女性とホテルにいると知った今でも、紗那はあの日彼が口にした一言一句を思い出してしまう。 ホテルの柔らかな絨毯の上を歩きながら、紗那の心もまた足元と同じようにふわふわと沈み、どこにも着地できずにいた。 裕司が浮
痛みに顔を歪め、必死に裕司の手から逃れようとする紗那の姿も、両親の目には、子どもを失ったことによる取り乱し方にしか映っていなかった。 泣くことも、叫ぶこともできる。 なのに、自分が受けた仕打ちだけは、どうしても言葉にならない。 大きな事故や強い精神的衝撃を受けた人間が、一時的に言葉を失うことがある――そんな話を、紗那はどこかで聞いたことがあった。 けれど、自分がまさにその状態なのだとは理解できない。 伝えたいのに伝わらない。 焦れば焦るほど、紗那は錯乱した狂人のように見えていった。 裕司が沈痛な顔を作る。「紗那、大丈夫だ。落ち着け。子どものことは……君のせいじゃない。俺たち
痛みがあまりにも激しく、紗那は何が起きたのか理解する前に、意識が突然電源を落とされたテレビのようにぷつりと途切れた。 次に目を覚ましたとき、そこは病院だった。 全身が殴られた後のように重く、少しも動かせない。 右手は固定され、点滴の針が刺さっている。透明な薬液が一滴、また一滴と規則正しく落ちて、彼女の体内へ流れ込んでいた。 紗那は真っ先に、自分の腹へ手を伸ばした。 言葉にできない痛み。 空虚。 絶望。 すべてが一瞬で押し寄せてくる。確かめなくても、体の中で何が変わってしまったのか、紗那にははっきりとわかった。 口を大きく開けた。 泣きたいのに、なぜか声が出ない。 結局
妊娠がわかったのは、ほんの数日前のことだった。 ここ最近ずっと体調に違和感があった。生理もなかなか来ず、もしかして……と、うっすら予感はしていた。 そして検査薬を使った結果、本当に妊娠していると知った。 あの瞬間、紗那は心から嬉しかった。 結婚後も、裕司は彼女に仕事を辞めろと言ったことはない。自由を制限したこともなかった。 結婚式の日、彼は紗那にこう誓ったのだ。 ――結婚しても、君の人生を縛ったりはしない。 紗那には、紗那自身の人生と自由がある。 その言葉に、紗那は感動して泣いた。 裕司は、紗那が仕事を好きなことも、キャリアを手放すつもりがないことも理解していたのだと思う







