LOGINまるで紗那の心を徹底的に壊そうとするかのように、裕司は愉快そうな笑みを浮かべながら、自分がどのように仕組んで光晴の支社を混乱に陥れ、海外へ誘導したのかを一つひとつ語り始めた。
そして、現地の人脈を利用し、光晴を少しずつ逃げ場のない地獄へ追い込んでいった経緯を、誇らしげに話し続ける。
「紗那。光晴は一応、俺の義兄だからな。そんな簡単に死なせるわけないだろ? もちろん、じっくり苦しめてやったんだ」
裕司の口から語られる真実は、あまりにも残酷だった。
光晴は空港へ到着した直後、待ち受けていた男たちに拉致された。
意識を失わされたまま、あらかじめ用意されていた監禁部屋へ運び込まれ、十数日にわたって想像を絶する拷問を受け続けたという。目的はただ一つ。
会社の実権と株式を裕司へ渡すこと。
しかし、光晴は最後まで首を縦には振らなかった。
「紗那。この結婚生活にはもううんざりしてたんだ。だから、お前の兄には少し犠牲になってもらった。でも、本当に驚いたよ。骨を何本折っても、指を潰しても、あいつは株式譲渡書類に一度もサインしなかった」
裕司が笑いながら語る隣で、千織もくすくすと笑っている。
人の命など、二人にとっては暇つぶしの話題でしかないと言わんばかりだった。「本当は光晴を殺すつもりなんてなかったんだ。俺だって恨みがあったわけじゃない。でも、あいつが会社を守りすぎた。隙なんて一つも見せなかったからな」
最後には、すべての罪を光晴へ押しつけるように言い放つ。
あまりにも理不尽なその言葉に、紗那の身体は怒りで小刻みに震え始めた。 その震えに気づいた裕司は、点滴の刺さった紗那の手をわざと強く握り締める。 次の瞬間、針先が肉をえぐるような鋭い痛みが走った。「まあ。紗那お姉さん、手から血が出ちゃってる」
千織は嬉しそうに覗き込みながら笑う。
「痛いでしょう? 紗那お姉さん、昔から痛いのが一番苦手だもんね」
裕司も口元を歪めた。
「そうだな。いっそ楽にしてやろうか?」
「もう、裕司ったら。そんなに紗那お姉さんに優しいなんて、私、妬いちゃう」
甘えるようにそう言った千織は、本当に嫉妬していることを証明するかのように、点滴針の刺さった箇所を何度も強く押し潰した。
紗那の顔が苦痛に歪む。
それを見た裕司は楽しそうに笑い、
「千織は本当に可愛いな」
そう囁く。
直後、二人が唇を重ねる音が病室へ響いた。
耳障りなほど濃密な吐息。互いを求め合う音だけが静かな病室を満たしていく。
紗那は耳を塞ぎたかった。
けれど、指一本動かせない。
目を閉じていても、その音だけは容赦なく耳へ流れ込み、逃げ場などどこにもなかった。
*
そんな日々が、何日も続いた。
裕司が何か細工をしているのか、紗那はほとんど眠らされたまま目を覚ますことができない。
ようやく意識を取り戻しても、裕司の姿を見た瞬間、恐怖で悲鳴を上げ、取り乱してしまう。
そのたびに裕司は「興奮している」と理由をつけ、当然のように鎮静剤を打った。
そして、最後に目を覚ました時だけは、裕司の姿がなかった。
紗那は震える身体を無理やり起こし、病室を見回す。
兄に電話をかけなければ。
せめて、光晴の無事だけでも確かめたい。
必死にスマートフォンを探し始めた途端、病室の扉が静かに開いた。
入ってきたのは裕司だった。
彼は紗那が起きている姿を見ても、予想していたかのように少しも慌てない。ゆっくりとベッド脇へ歩み寄り、サイドテーブルに置かれたテレビのリモコンを手に取る。
電源を入れ、慣れた手つきでニュース番組へ切り替えた。
画面には、旅客機墜落事故の速報が映し出されていた。
まだ犠牲者の名前は公表されていない。
裕司はわざと優しく声を落とす。
「紗那。神様って、本当に俺の味方なんだな」
その笑みは、ぞっとするほど穏やかだった。
「お前のご両親、光晴が行方不明になったって聞いて、すぐ海外へ向かったんだよ。でも、その飛行機が――」
そこで言葉を切り、画面へ視線を向ける。
「墜ちた」
裕司にとっても、それは予想外の出来事だった。
本来なら、海外へ到着した紗那の両親も、光晴と同じ方法で始末するつもりだった。
それなのに、神が手を下したかのように、計画するまでもなく命を奪ってくれた。
紗那には、その後の言葉はもう耳に入らなかった。
テレビ画面に映る炎上した機体。
黒煙。
救助活動。
繰り返される速報の文字。
頭の中が真っ白になる。
不意に身体を乱暴に掴まれた。
気づけば、窓際まで引きずられている。VIP病室は病院の最上階にあった。窓の向こうには、はるか下に地面が広がっている。
紗那は昔から、高い場所だけは苦手だった。
裕司がそれを知らないはずがない。
にもかかわらず、彼は紗那の身体を抱え上げるようにして、その半身を窓の外へ押し出した。
冷たい風が容赦なく全身を切り裂く。
「紗那」
耳元で囁く声だけが、ぞっとするほど冷たかった。
「両親を失ったショックで飛び降り自殺。悪くない筋書きだろ?」
さらにもう一歩。
身体が外へ傾く。
「お前は家族が大好きだったもんな。だったら、早く会いに行きたいだろ?」
「裕司……」
何日も声を出していない喉は焼けるように痛かった。それでも紗那は、残った力を振り絞る。
「……あなたは……絶対に……地獄へ落ちる……」
かすれた呪いにも、裕司は肩を揺らして笑うだけだった。
「いいよ、紗那」
愉快そうに目を細める。
「もし来世があるなら、その時は俺を殺しに来い。また遊んでやる」
来世――。
もし、本当にそんなものがあるのなら。
次の瞬間、裕司の手が紗那の身体を突き飛ばした。
足元が消える。
身体は一気に虚空へ投げ出される。
風が耳を裂き、景色が激しく流れていく。
落ちていく、その一瞬。
紗那は涙も流さず、ただ一つだけ強く願った。
――もし、もう一度人生をやり直せるのなら。
絶対に、裕司を許さない。
味わった苦しみも。
この身に刻まれた痛みも。
父と母から奪われた命も。
光晴が味わわされた絶望も。
そのすべてを――必ず、裕司に返してやる。
想像もできないほど深い地獄へ、自分の手で突き落としてやる。
紗那も自分と同じような出来事を経験していたのかもしれない――そう思った瞬間、光晴は再び堪えきれず、紗那を強く抱きしめた。 腕の中の紗那は、あまりにも小さく、あまりにも細い。 ウェディングドレスを少しでも綺麗に着こなきたいと、何か月もかけてダイエットを続けていたことを光晴は覚えている。 もともとふっくらとしていた頬はさらに痩せ細り、その華奢な体には、骨しか残っていないのではないかと思うほど肉がついていなかった。 紗那は、今日という日を誰よりも大切に思っていた。 この結婚式を、誰よりも心待ちにしていた。 頬を伝う温かな感触に気づき、光晴はようやく自分も泣いていることを知る。 涙は次から次へと溢れ出し、その様子に紗那も気づいた。 それでも紗那は何も言わなかった。 ただ同じように光晴を強く抱きしめ返す。 この瞬間、二人の隣にいられるのは、お互いだけだった。 互いが味わった苦しみを誰よりも深く理解し、傷ついた魂を寄せ合いながら、そのぬくもりだけを支えに生きていた。 それから丸二日間。 紗那と光晴は携帯電話の電源を切り、何もせず、眠っては食事をするだけの日々を過ごした。 二人には、すべてを一度忘れ、心を休める時間が必要だった。 しかし、眠りさえ安らぎにはならない。 あの日々の悪夢は、今世に戻ってきても二人を追いかけてきた。 眠るたびに悪夢にうなされ、飛び起きては涙を流す。 そして何度も何度も、お互いが生きていること、自分自身も生きていることを確かめ合った。 互いの記憶だけが、前世と今世が確かに存在したことを証明できる、唯一の証だった。 三日目。 悪夢に耐え切れなくなった紗那は、光晴の手を握り、真剣な表情で口を開いた。「お兄ちゃん。逃げることも大事。でも、私たちにはもっと大事なことがある」 光晴は何も言わず、小さく頷いた。 まだたった二日しか経っていない。それなのに、光晴は別人のように痩せていた。 頬はこけ、目元には隠しきれない疲労が滲み、赤く腫れた瞳だけが、この二日間どれほど涙を流してきたのかを物語っている。 そんな兄の姿を見ているだけで、紗那の胸は締めつけられるように痛んだ。「紗那。どうしたい? 兄ちゃんは、何があっても紗那の味方だ」「……あの人たちに死んでほしい、お兄ちゃん。白府裕司と、白府千織に」 紗那は歯を食
あの頃の光晴には、もう声を出す力すら残っていなかった。 舌は潰され、何を叫ぼうとしても言葉にならない。 血で滲んだ視界はぼやけ、最愛の妹の姿さえ、はっきりとは見えなかった。 それでも、裕司の笑い声だけは嫌というほど耳に焼きついていた。『見ろ。お前の大事な妹だ』 そう嘲るように笑いながら、紗那の亡骸を映し続ける。自分が作り上げた最高傑作でも鑑賞しているかのように。 あの瞬間、光晴の中に残っていたものは、憎しみだけだった。 全身の血が煮えたぎり、骨の髄まで憎悪に焼き尽くされる。 声にならない咆哮を最後の力で絞り出した瞬間、光晴の意識は深い闇へ沈んでいった。 紗那と同じだった。 最後の最後まで残っていたのは、消えることのない憎しみと、どうしようもない悔しさだけ。 そして――。 次に目を覚ましたとき、光晴は自分の車の運転席に座っていた。 窓の外に見えたのは、見慣れた教会。身にまとっていたのは、妹の結婚式のために誂えたスーツ。 一瞬だった。 光晴はすべてを悟った。 自分はもう一度、この日へ戻ってきたのだと。 今日が妹の結婚式だと気づいた瞬間、光晴は車のドアを乱暴に開け、そのまま教会へ駆け出した。 焦りで足はもつれ、何度も転びそうになりながら、それでも構わず走り続ける。 何としてでも、妹を止めなければならない。 そう思っていた。 だが、教会で目にした光景は、前世とはまるで違っていた。 紗那が燭台を高々と振り上げ、光晴自身も骨の髄まで憎み抜いたあの男――裕司の頭へ、容赦なく振り下ろしていたのだ。 光晴の口元から、思わず笑みがこぼれた。 一か月以上に及ぶ地獄のような拷問を受けて以来、光晴が心の底から笑ったのは、あれが初めてだった。 ――よかった。紗那も、戻ってきてくれた。 けれど、その喜びと安堵はすぐに胸を締めつけるような痛みへと変わっていく。 紗那も戻ってきたということは――。 あの地獄で味わった苦しみも、絶望も、恐怖も。そのすべてを、紗那も鮮明に覚えているということだった。 自分と同じように。 いや、自分以上に。 最愛の人に裏切られ、愛した子どもまで奪われ、最後には誰にも救われることなく命を落とした。 そんな地獄を、紗那はたった一人で耐え抜いたのだ。 そう思った瞬間、光晴は込み上げる感情を抑えきれず、もう一度
紗那は、自分がどうやって教会を出たのか覚えていなかった。 あまりにも場は混乱していた。 あちこちから悲鳴が上がり、その一つひとつが耳を打ち、冷静に物事を考えることさえできなかった。 最後に目に映ったのは、気を失った裕司を庇うように駆け寄った千代子と正則の姿。 二人は裕司の容体を気遣いながら、紗那の暴挙を責め続けていた。 そのとき、光晴は迷うことなく紗那を抱き寄せる。「大丈夫だ」 そう囁くように告げると、人混みを押しのけるように教会を飛び出し、誰にも紗那を触れさせないよう、そのまま彼女を連れてその場を離れた。 光晴が紗那を連れて帰ったのは、新婚生活のために用意された新居ではなかった。 光晴が一人暮らしのために借りているマンションだった。 柔らかなソファへ腰を下ろしても、紗那はまだ呆然としたまま、身じろぎ一つできずにいた。 人を殴ったのは、あれが生まれて初めてだった。 千代子の言葉にも、一つだけ間違っていないことがある。紗那は幼い頃から家族に大切に育てられ、惜しみない愛情を注がれてきた。 裕福で、温かな家庭。 少しくらいお嬢様気質になってしまうのも無理はないほど、何不自由のない人生だった。 欲しいものは望めば手に入り、好きになった相手とさえ、家同士の縁談という形で結ばれることができた。 人生はあまりにも順風満帆だった。 だからこそ、人の心があれほど醜く、恐ろしく、底知れない悪意を隠せるものだとは、一度も考えたことがなかった。 裕司を殴っている最中は、怒りしか感じなかった。 だが時間が経つにつれ、人を傷つけたという恐怖と、その現実が、遅れて波のように押し寄せてくる。 紗那は震える手を、そっと自分の平らな腹へ重ねた。まだ、一度も新しい命を宿したことのないお腹。 前世で妊娠を知ったあの日、自分がどれほど嬉しく、どれほど幸せだったのかを、今でも鮮明に覚えている。 だからこそ、その小さな命を失った絶望も、耐え難いほど深かった。「……っ」 喉の奥から、小さな嗚咽が漏れる。 憎い。 悔しい。 苦しい。 悲しい。 胸の奥には、憎しみも、悔しさも、悲しみも、抱えきれないほど渦巻いていた。「紗那。もう大丈夫だ」 温めたミルクを持ってきた光晴が、静かに隣へ腰を下ろす。泣き続ける紗那をそっと抱き寄せ、その頭を優しく撫でた。 世
前世、裕司が紗那に「愛している」と告げたことがあったのか、紗那にはもう思い出せなかった。 肌を重ね、互いの熱に溺れるような夜でさえ、裕司は一度として「愛している」と口にすることはなかった。 あの結婚生活で積極的に想いを伝え、よく話しかけていたのは、いつも紗那だった。 裕司は仕事に追われ、複雑な家庭の問題を抱えながらも、余計な付き合いをせず、交友関係も乱れてはいなかった。 酒場へ通うことも、夜の街へ繰り出すこともない。 どれほど帰りが遅くなっても、最後には必ず家へ戻ってくる。 そんな裕司を見て、紗那はずっと信じていた。 愛とは、言葉ではなく、行動で示すものなのだと。 あの頃の彼女は、愚かなほど純粋だった。 だからこそ、現実はあまりにも残酷だった。 言葉も。 行動も。 人は、そのすべてを偽ることができる。 愛でさえも。 裕司が口にした「愛している」という一言を、紗那はもう信じない。光晴もまた、その言葉に惑わされることはなかった。 しかし、その場にいる誰もがそうだったわけではない。 裕司の演技に心を動かされ、その言葉を本物だと受け止める者は、確かに存在していた。「紗那! もういい加減にしなさい。結婚は子どもの遊びじゃないのよ。結婚したいから結婚する、離婚したいから離婚するなんて、そんな勝手が通ると思っているの? これは二つの家の問題なの。これ以上わがままを言うんじゃありません」「そうだぞ、紗那。お前は昔から少しわがままなところがあった。たとえ裕司君が何かしたとしても……悪気があったわけじゃないだろう。もう夫婦なんだから、一番大切なのは互いに理解し、支え合うことだ。いきなり手を上げるなんて、許されることじゃない」 正則も千代子も、まるで裕司こそが実の息子であるかのように、彼ばかりをかばっていた。 その言葉の一つひとつが、鋭い刃となって紗那の胸へ突き刺さる。 気づけば、再び瞳には涙が滲んでいた。 裕司を指差す紗那の手は、小刻みに震えていた。力を入れすぎたからではない。 骨の髄まで、この男を憎んでいたからだ。「お父さん! お母さん! この最低な男が、私たちに何をしたのか……何も知らないくせに……!」 あの日々を思い出しただけで、息がうまくできなくなる。 激しく込み上げる感情に全身が震え、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
裕司は、紗那が何も言えないと確信していた。そして実際、紗那には裕司の罪を証明する術などなかった。 紗那の胸に刻まれた憎しみのすべては、まだ訪れていない未来で起きた出来事なのだから。 三年前の裕司は、誰の目にも非の打ちどころのない好青年であり、理想的な夫そのものだった。 紗那は唇を強く噛み締める。 何も言えない。 言ったところで、誰も信じてはくれない。 そんな紗那を見て、裕司の口元には「やはり」と言わんばかりの笑みがゆっくりと浮かんだ。 紗那がなぜ突然こんな真似をしたのかは分からない。 だが、少なくとも今の自分には、紗那に責められるような覚えは何一つなかった。 ましてや、人前で責め立てられるような証拠を残すはずもない。 裕司はそう確信していた。 口を開こうとした、そのときだった。 光晴が一歩前へ踏み出し、紗那を自分の背中へとかばう。 その背中は、誰が相手であろうと妹だけは絶対に守り抜くという強い意志を物語っていた。「白府裕司。貴様がどんな卑劣なことを企み、どんな卑劣なことをしたのか、一番よく分かっているのは貴様自身だろう。紗那はもう十分傷ついている。それなのに、まだその傷をえぐり、皆の前で話せと言うのか」 光晴の口調はあまりにも断定的だった。 まるで裕司が何かをしたことを最初から知っているかのようなその言葉に、周囲の招待客たちも次第にざわめき始める。「本当に裕司さんが何かしたのか……?」「だからあんなに取り乱したのかもしれない……」 そんな疑念が、少しずつ周囲へと広がっていく。 光晴の背中を見つめながら、紗那は驚きを隠せなかった。 三年前の光晴は、裕司に対して決して悪い印象を抱いてはいなかった。 特別親しい間柄ではなかったものの、妹の夫となる相手として認めていたはずだ。 それどころか、新婚祝いとして子会社の株式まで贈ったほどだった。 それなのに今は――。 紗那が何も説明していないにもかかわらず、事情を尋ねることも、理由を問いただすこともなく、ただ無条件に彼女を守ってくれている。 そこでようやく、紗那の脳裏に、先ほど光晴が抱きしめながら囁いた言葉がよみがえった。 ――今度こそ、兄ちゃんが紗那を守る。もう二度と、誰にも紗那を傷つけさせない。 まさか……。 お兄ちゃんも、戻ってきたの……? その考えが胸をよぎっ
光晴の優しい慰めの声に包まれながら、紗那はようやく少しずつ落ち着きを取り戻していった。 光晴の胸にしがみついて泣きじゃくった紗那の涙で、彼の胸元はぐっしょりと濡れ、アイメイクまで白いシャツに付いてしまっていた。 ひとしきり泣き終え、その白いシャツがすっかり汚れてしまっていることに気づいた紗那は、申し訳なさそうに俯く。「お兄ちゃん……服、汚しちゃった」「そんなこと気にするな。服なんかより、紗那のほうが大事なんだから」 光晴は優しく紗那の頭を撫でた。 幼い頃から変わらない、その温かな手つきだった。 紗那は何度見ても見飽きることのない兄の顔を見つめ、口を開こうとした、そのとき――。「紗那。説明してもらえるか」 背後から聞こえた声に、胸の奥から嫌悪感が込み上げた。 裕司だった。 珍しく怒りを滲ませてはいたが、その口調はいつも通り冷静だった。 先ほどは頭を何度も殴られ、頭の中が真っ白になっていたが、このときようやく我に返ったのだ。 千代子は痛ましそうにハンカチを取り出し、裕司の額から流れる血をそっと押さえる。 そして紗那へ向ける視線には、責める色が浮かんでいた。「紗那。女の子なんだから、あんな乱暴なことをしちゃだめでしょう。それに、相手はあなたの夫になる裕司さんなのよ」 千代子は紗那のしたことを到底受け入れられなかった。 裕司という婿に、不満は何一つない。 千代子たちの前では、いつだって物腰が柔らかく、礼儀正しい青年だったからだ。 それに対して紗那は、小さい頃から家族に大切に育てられ、少しお嬢様気質なところがある。 その裕司が今では顔中を血で染めるほどの怪我を負っている。千代子には、どう考えても悪いのは紗那だとしか思えなかった。 紗那の表情は一瞬にして冷え切る。 目の前にいる千代子と、黙ったまま何も言わない正則を見つめても、胸に込み上げるのは無力感ばかりだった。 正則は何も口にしない。 それでも、紗那へ向ける視線には、はっきりと不満の色が浮かんでいた。 この結婚は、表向きこそ政略結婚だった。 けれど、その縁談を望んだのは紗那自身だった。 裕司のことが好きだと父へ打ち明け、正則は長い間悩んだ末、自ら裕司との縁談をまとめてくれたのだ。 それなのに、結婚式はこんなことになってしまった。 父が不満を抱くのも無理はない。「
痛みに顔を歪め、必死に裕司の手から逃れようとする紗那の姿も、両親の目には、子どもを失ったことによる取り乱し方にしか映っていなかった。 泣くことも、叫ぶこともできる。 なのに、自分が受けた仕打ちだけは、どうしても言葉にならない。 大きな事故や強い精神的衝撃を受けた人間が、一時的に言葉を失うことがある――そんな話を、紗那はどこかで聞いたことがあった。 けれど、自分がまさにその状態なのだとは理解できない。 伝えたいのに伝わらない。 焦れば焦るほど、紗那は錯乱した狂人のように見えていった。 裕司が沈痛な顔を作る。「紗那、大丈夫だ。落ち着け。子どものことは……君のせいじゃない。俺たち
痛みがあまりにも激しく、紗那は何が起きたのか理解する前に、意識が突然電源を落とされたテレビのようにぷつりと途切れた。 次に目を覚ましたとき、そこは病院だった。 全身が殴られた後のように重く、少しも動かせない。 右手は固定され、点滴の針が刺さっている。透明な薬液が一滴、また一滴と規則正しく落ちて、彼女の体内へ流れ込んでいた。 紗那は真っ先に、自分の腹へ手を伸ばした。 言葉にできない痛み。 空虚。 絶望。 すべてが一瞬で押し寄せてくる。確かめなくても、体の中で何が変わってしまったのか、紗那にははっきりとわかった。 口を大きく開けた。 泣きたいのに、なぜか声が出ない。 結局
妊娠がわかったのは、ほんの数日前のことだった。 ここ最近ずっと体調に違和感があった。生理もなかなか来ず、もしかして……と、うっすら予感はしていた。 そして検査薬を使った結果、本当に妊娠していると知った。 あの瞬間、紗那は心から嬉しかった。 結婚後も、裕司は彼女に仕事を辞めろと言ったことはない。自由を制限したこともなかった。 結婚式の日、彼は紗那にこう誓ったのだ。 ――結婚しても、君の人生を縛ったりはしない。 紗那には、紗那自身の人生と自由がある。 その言葉に、紗那は感動して泣いた。 裕司は、紗那が仕事を好きなことも、キャリアを手放すつもりがないことも理解していたのだと思う
紗那が裕司を愛していた分だけ、今の彼女は壊れそうなほど泣いていた。 結婚してからの三年間、裕司は一度たりとも、彼女をこんな絶望に突き落としたことはなかった。 彼の演技が上手すぎたと言うべきなのだろうか。この三年間、紗那は彼を愛し、そして心の底から、裕司もまた自分を愛しているのだと信じていた。 たとえ裕司が口数の少ない人でも。 あまり笑わない人でも。 それでも、自分を見る彼の眼差しには確かに愛情が宿っていた。 今朝だってそうだ。 出勤前、まだ寝ぼけていた紗那に、裕司はベッドの上で軽くキスをしてくれた。あの口づけはあまりにも優しくて、今でもはっきり思い出せる。 なのに、どうして







