تسجيل الدخول痛みに顔を歪め、必死に裕司の手から逃れようとする紗那の姿も、両親の目には、子どもを失ったことによる取り乱し方にしか映っていなかった。
泣くことも、叫ぶこともできる。
なのに、自分が受けた仕打ちだけは、どうしても言葉にならない。
大きな事故や強い精神的衝撃を受けた人間が、一時的に言葉を失うことがある――そんな話を、紗那はどこかで聞いたことがあった。
けれど、自分がまさにその状態なのだとは理解できない。
伝えたいのに伝わらない。
焦れば焦るほど、紗那は錯乱した狂人のように見えていった。
裕司が沈痛な顔を作る。
「紗那、大丈夫だ。落ち着け。子どものことは……君のせいじゃない。俺たち、きっとまた子どもを授かれる。だから、まずはちゃんと元気になろう」
「ぁああああっ……!! ああっ……!」
涙を流しながら、紗那は腕を振り回して裕司を叩こうとした。
だが、弱り切った体ではほとんど力が入らない。指先がかすかに触れる程度だった。
裕司は傷ついたように目を伏せ、そのまま背を向ける。
正則から見えない位置で、彼の口元がわずかに吊り上がった。
同時に、紗那の手を握る力がさらに強くなる。
針の刺さった箇所を押し潰すように圧迫され、滲んだ血がじわりと広がっていく。その赤さは、裕司の掌の中へ巧妙に隠されていた。
紗那は声にならない。
だから叫ぶしかない。
怒りも、苦しみも、絶望も。
すべてを、獣のような悲鳴に変えるしかなかった。
何より耐え難かったのは、子どもを殺した張本人――その父親である裕司が、平然と父の前に立ち、“子どもを失った可哀想な夫”を演じていることだった。
正則でさえ、裕司へ向ける目には歉意と同情を滲ませている。
やがて千代子が看護師を連れて戻ってきた。
紗那の絶叫と取り乱した様子を見た看護師は顔色を変え、すぐに病室を出て医師を呼びに行く。
ほどなくして白衣の医師が二人の看護師を伴って現れた。
医師は紗那の状態を確認すると、看護師に片腕を押さえさせ、そのまま素早く上腕へ鎮静剤を打ち込む。
薬液が体内へ流れ込んでいく。
しばらくすると、全身が深い水の底へ沈んでいくようだった。
手足が重い。
持ち上がらない。
頭の中には濃い霧がかかったように意識がぼやけ、ベッドに横たわっているだけなのに激しい眩暈がした。
世界がぐるぐると高速で回転しているようで、吐き気さえ込み上げる。
霞む視界の最後に映ったのは、裕司の目だった。
冷え切った眼差しで、昏睡へ落ちていく紗那を見下ろしている。
正則に名前を呼ばれた瞬間だけ、彼はすぐ悲痛な表情へ戻った。
「お義父さん……紗那も、こんなことがあって精神的に不安定なんです。俺がちゃんと支えますから」
「……すまないな、裕司さん。お前だってつらいだろうに、紗那の面倒まで……」
「そんなこと言わないでください。紗那は、俺が一番大切にしている妻ですから。こんな姿を見ていると……俺も本当につらいんです」
*
鎮静剤のせいで、紗那は深い眠りへ落ちていた。
散っていた意識が少しずつ浮かび上がってくる。
そのとき、耳元で誰かの話し声がした。
甲高く、耳障りな笑い声。
「裕司、すぐ離婚できるって言ってたよね? 私、あなたが結婚した時からずっと待ってるんだけど。あとどれくらい待てばいいの?」
甘えるような女の声だった。
やけに近い。
頬がひりひりと熱い。
けれど半分眠ったままの頭では、その理由をうまく理解できない。
「千織……仕方なかったんだ。当時は……俺も、あいつと結婚するしかなくて……それに……」
男の声は途切れ途切れで、はっきり聞き取れない。
「わかってるよ。裕司が苦労してるの、私ちゃんと知ってる。こんな女と毎日一緒にいるなんて、本当に可哀想。……ねえ、一緒に寝てて、気持ち悪くならないの?」
裕司が低く笑った。
「気持ち悪いよ。毎回、千織のことを考えないと耐えられないくらいにはな」
痛みに顔を歪め、必死に裕司の手から逃れようとする紗那の姿も、両親の目には、子どもを失ったことによる取り乱し方にしか映っていなかった。 泣くことも、叫ぶこともできる。 なのに、自分が受けた仕打ちだけは、どうしても言葉にならない。 大きな事故や強い精神的衝撃を受けた人間が、一時的に言葉を失うことがある――そんな話を、紗那はどこかで聞いたことがあった。 けれど、自分がまさにその状態なのだとは理解できない。 伝えたいのに伝わらない。 焦れば焦るほど、紗那は錯乱した狂人のように見えていった。 裕司が沈痛な顔を作る。「紗那、大丈夫だ。落ち着け。子どものことは……君のせいじゃない。俺たち、きっとまた子どもを授かれる。だから、まずはちゃんと元気になろう」「ぁああああっ……!! ああっ……!」 涙を流しながら、紗那は腕を振り回して裕司を叩こうとした。 だが、弱り切った体ではほとんど力が入らない。指先がかすかに触れる程度だった。 裕司は傷ついたように目を伏せ、そのまま背を向ける。 正則から見えない位置で、彼の口元がわずかに吊り上がった。 同時に、紗那の手を握る力がさらに強くなる。 針の刺さった箇所を押し潰すように圧迫され、滲んだ血がじわりと広がっていく。その赤さは、裕司の掌の中へ巧妙に隠されていた。 紗那は声にならない。 だから叫ぶしかない。 怒りも、苦しみも、絶望も。 すべてを、獣のような悲鳴に変えるしかなかった。 何より耐え難かったのは、子どもを殺した張本人――その父親である裕司が、平然と父の前に立ち、“子どもを失った可哀想な夫”を演じていることだった。 正則でさえ、裕司へ向ける目には歉意と同情を滲ませている。 やがて千代子が看護師を連れて戻ってきた。 紗那の絶叫と取り乱した様子を見た看護師は顔色を変え、すぐに病室を出て医師を呼びに行く。 ほどなくして白衣の医師が二人の看護師を伴って現れた。 医師は紗那の状態を確認すると、看護師に片腕を押さえさせ、そのまま素早く上腕へ鎮静剤を打ち込む。 薬液が体内へ流れ込んでいく。 しばらくすると、全身が深い水の底へ沈んでいくようだった。 手足が重い。 持ち上がらない。 頭の中には濃い霧がかかったように意識がぼやけ、ベッドに横たわっているだけなのに激しい眩暈がした。 世界がぐるぐると
痛みがあまりにも激しく、紗那は何が起きたのか理解する前に、意識が突然電源を落とされたテレビのようにぷつりと途切れた。 次に目を覚ましたとき、そこは病院だった。 全身が殴られた後のように重く、少しも動かせない。 右手は固定され、点滴の針が刺さっている。透明な薬液が一滴、また一滴と規則正しく落ちて、彼女の体内へ流れ込んでいた。 紗那は真っ先に、自分の腹へ手を伸ばした。 言葉にできない痛み。 空虚。 絶望。 すべてが一瞬で押し寄せてくる。確かめなくても、体の中で何が変わってしまったのか、紗那にははっきりとわかった。 口を大きく開けた。 泣きたいのに、なぜか声が出ない。 結局、彼女はただ真っ白な病院の天井を見つめたまま、涙だけをぼろぼろとこぼし続けた。涙はこめかみを伝い、髪の中へ、枕へと落ちていく。 一生分の涙を、ここで流し尽くしてしまうかのようだった。 それでも涙は、少しも枯れなかった。 どれほど時間が経ったのか。 病室の外から物音がした。涙に濡れた視界の中で、紗那は両親が慌ただしく入ってくるのを見た。 知らせを受けてすぐ駆けつけたのだろう。涙を流す紗那と目が合った瞬間、母の千代子の目にも悲しみが移ったように涙が浮かび、彼女はベッドのそばへ駆け寄るなり、点滴の刺さっていないほうの手を握った。「ああ……かわいそうな子……。裕司さんから聞いたわ。階段から落ちたんですって? どうしてそんなに不注意だったの……」 千代子は涙ぐみながら、紗那の手を痛いほど強く握りしめた。「かわいそうに……赤ちゃんまで……。裕司さんも、子どもは駄目だったって……あなたが思い詰めないよう、ちゃんと支えてあげてほしいって言っていたのよ」 千代子は、昔から裕司の言葉ばかりを信じていた。 裕司が、紗那は自分で階段から落ちたのだと言えば、疑いもしない。 紗那を見る目には深い痛ましさがあった。けれど同時に、どうしてそんなに不注意だったのかという責める色も混じっていた。「まだ小さな命だったのにね……私たちは、その子がいたことさえ知らないまま、お別れすることになってしまったなんて……」 紗那が流産した子どものことを、千代子はひどく惜しんでいた。 紗那が結婚して三年になる。千代子はずっと、娘が母親になる日を待ち続けていた。 ようやく授かった最初の子が
妊娠がわかったのは、ほんの数日前のことだった。 ここ最近ずっと体調に違和感があった。生理もなかなか来ず、もしかして……と、うっすら予感はしていた。 そして検査薬を使った結果、本当に妊娠していると知った。 あの瞬間、紗那は心から嬉しかった。 結婚後も、裕司は彼女に仕事を辞めろと言ったことはない。自由を制限したこともなかった。 結婚式の日、彼は紗那にこう誓ったのだ。 ――結婚しても、君の人生を縛ったりはしない。 紗那には、紗那自身の人生と自由がある。 その言葉に、紗那は感動して泣いた。 裕司は、紗那が仕事を好きなことも、キャリアを手放すつもりがないことも理解していたのだと思う。 だから三年間、夫婦として身体を重ねることは少なくなかったが、彼は徹底して避妊をしていた。 避妊薬は身体に負担がかかるからと、紗那には飲ませなかった。いつも自分で避妊具を使い、万が一を避けるよう慎重にしていた。 それでも紗那は、もし子どもができたとしても構わないと思っていた。 愛する人との子どもなら、産みたいと願っていた。 妊娠を知ってから、紗那は一人で何度もお腹に触れた。 嬉しくて、幸せでたまらなかった。 すぐには裕司へ伝えなかったのは、もっと特別なタイミングで驚かせたかったからだ。 まさかその前に、こんな地獄を見せられるとは思わなかった。「子ども……っ、う……痛……っ……」 床の上で苦しそうに身を縮める紗那を見ても、裕司はまるで動じなかった。 同情も、憐れみも、欠片すら浮かばない。 まるで彼女が、三年間連れ添った妻ではなく、赤の他人であるかのように。「子ども?……何を馬鹿なこと言ってる」 下半身から血を流している紗那を見ても、男は眉ひとつ動かさない。 千織が不安そうに裕司の袖を引いた。「裕司……紗那お姉さん、すごく血が……もしかして……」「見るな。目が汚れる」 吐き捨てるように言ってから、裕司は冷たく嗤った。「……それに、仮にこの女が妊娠してたとしても、俺の子なわけがないだろ。俺の子を産みたい? こいつが? 笑わせるな。身の程を知れ」 紗那の呼吸が止まる。 あまりにも非情な言葉だった。 全身の血が凍りつくような感覚に襲われ、紗那は目を見開いたまま動けなくなる。 目の前にいるのは、本当に自分の夫なのか。 それとも、人の皮を被っ
紗那が裕司を愛していた分だけ、今の彼女は壊れそうなほど泣いていた。 結婚してからの三年間、裕司は一度たりとも、彼女をこんな絶望に突き落としたことはなかった。 彼の演技が上手すぎたと言うべきなのだろうか。この三年間、紗那は彼を愛し、そして心の底から、裕司もまた自分を愛しているのだと信じていた。 たとえ裕司が口数の少ない人でも。 あまり笑わない人でも。 それでも、自分を見る彼の眼差しには確かに愛情が宿っていた。 今朝だってそうだ。 出勤前、まだ寝ぼけていた紗那に、裕司はベッドの上で軽くキスをしてくれた。あの口づけはあまりにも優しくて、今でもはっきり思い出せる。 なのに、どうして。 ほんの数時間で、こんなことになってしまったのだろう。 どうして裕司は、まるで別人のようになってしまったのだろう。 紗那にはわからなかった。「裕司……!どうして……どうして他の女と……!しかも、妹同然の女と……!あなた、自分の妹と寝てるの!?気持ち悪くないの!?」 涙で声を震わせながらも、紗那は必死に問い詰める。 その取り乱した叫びに、裕司は不快そうに眉を寄せた。 顔色は険しく、向けられた声音は、紗那がこれまで一度も聞いたことのないほど冷たい。「紗那。言葉には気をつけろ」「裕司……紗那お姉さん、そんなふうに私たちのこと言うなんて……ひどい……」 千織もまた、絶妙なタイミングで裕司へ甘えるように身を寄せる。 その声を聞いた瞬間、紗那は吐き気を覚えた。 以前の彼女は、千織を本当に妹のように思っていた。可愛くて、才能もあって、どこか放っておけない子だと。 まさかその女が、自分の夫にまで手を伸ばしていたなんて。「最低……っ、この女……!」 煮えたぎる憎悪のまま、紗那は千織へ向かって駆け出した。 だが、その手が千織に届くことはなかった。「きゃっ……!」 千織の悲鳴が響いた直後、腹部に強烈な衝撃が叩き込まれる。 次の瞬間、紗那の身体は軽々と吹き飛ばされ、そのまま床へ激しく叩きつけられた。 下腹部から全身へ、焼けるような激痛が駆け巡る。 声も出せないまま、紗那は呆然と目の前の男を見上げた。 ――今、自分を蹴ったのは裕司だった。 愛する女を庇うために。 その腕の中の女を守るために。 彼は、自分の妻へ向かって一切の躊躇なく蹴りを入れたのだ。
三年前、紗那は最も愛する人と結婚した。 表向きは家同士の政略結婚。 少なくとも彼女自身は、それが愛による結婚だと信じていた。家の利益のためではなく、自分は愛されているのだと。 白府裕司。 彼は結婚式で、彼女に永遠の幸福を約束した。 生涯を共にすると誓った。 あのときの誓いの言葉は、あまりにも誠実で、愛に満ちていた。だからこそ三年後、裕司が別の女性とホテルにいると知った今でも、紗那はあの日彼が口にした一言一句を思い出してしまう。 ホテルの柔らかな絨毯の上を歩きながら、紗那の心もまた足元と同じようにふわふわと沈み、どこにも着地できずにいた。 裕司が浮気をしている兆しは、今日に限ったことではない。それでも、こうして現実として突きつけられたのは、今日が初めてだった。 見知らぬ相手から送られてきた写真――裕司のベッドでの姿を目にした、その瞬間から。 写真の中で、裕司は優しく微笑んでいた。まるで春風のような穏やかな笑み。それが、紗那には吐き気を催すほどに嫌悪感を抱かせた。 これまでずっと、紗那は裕司のことを、無口で感情を表に出さない、どこか冷たい人間だと思っていた。 結婚式でもあまり笑わず、ただ誓いの言葉を読むときだけ、目元を潤ませ、声をわずかに震わせていた。 あのとき、彼も感動しているのだと、紗那は信じていた。 だが今になって思う。 あの誓いは、本当に自分に向けられたものだったのだろうか。 紗那の中で、その確信が崩れていく。「あなたの夫、本当にあなたのことを想っていたと思う?」 今朝、突然そんなメールが届いた。 画像が表示された瞬間、紗那は眠りから叩き起こされたかのように目を見開いた。 写真は何枚もあった。場所も服装も違う。つまり、異なる時期に撮られたものだ。 ただ一つ共通しているのは、そこに映っている女性が常に同じ人物であること。 そして、裕司が彼女に向ける視線も、笑みも、紗那が一度も向けられたことのないものだった。 その女性の顔に、紗那は見覚えがあった。 白府千織――裕司の名目上の妹。白府家の養女であり、血の繋がりはない。 祖父の旧友が亡くなり、その遺された子どもを不憫に思って引き取った――そんな話を聞いたことがある。 千織が白府家に来たのはすでに小学生の頃だったため、養