DNA鑑定に向かう途中、唯花は理仁が携帯に百万円送金してきたのを受け取った。彼女が拒否するかもしれないと思い、メッセージも一緒に送ってきた。「唯花さん、もしこのお金を拒否するなら、それは君が俺を夫だと見てくれてないってことになるぞ。だって夫が稼いだお金は妻のために使うものなんだからね」唯花は彼のメッセージを読んで、にやりとしてしまった。理仁のやつ、こんな不器用な言い訳で脅してくるとは。彼女はこの時はまだその百万円の受け取りボタンをクリックせず、鑑定機関に行って神崎夫人と一緒に血液検査をしてから、その送金を受け取った。夫から百万円もらったものだから、唯花は贅沢に神崎夫人親子を五つ星ホテルに連れて行って食事ができる。星城市の五つ星ホテルと言えば、唯花が一番よく知るのはスカイロイヤルホテルだ。スカイロイヤルホテルは結城グループが経営するホテルだ。結城グループと神崎グループは敵対関係というか、ライバル社同士と言える。唯花は親子二人をスカイロイヤルホテルに連れて行ってから、やっとこのことを思い出した。その瞬間、彼女は少しすまなさそうに神崎夫人に言った。「おば様、やっぱり、他のお店にしましょうか?」神崎夫人はこの時、唯花がそう言う意味を理解し、笑って言った。「いいの、以前会社で働いていた時には、よくここに来てお客さんと商談をしていたんだから」そして彼女は自分の娘もちらりと見た。姫華も馬鹿ではない。すぐに母親が自分を見てきた意味を理解した。彼女は不機嫌そうに言った。「お母さん、そんなに偶然に彼に会うわけないでしょ?それに、会ったとしてもだから何だっていうの?」理仁が結婚指輪をつけているのを見た瞬間から、姫華は心理的ショックを受け、その事実に苦しむ中、彼への気持ちを無理やり捨て去った。兄の奥さんが彼女に言っていた。優秀な男性はなかなかいないが、普通の男性ならその辺に転がっている。しかし、神崎姫華なら、そんなに結婚相手のことで悩む必要もない。絶対に結城理仁と同じように優秀で、姫華のことだけを愛してくれる男性が見つかるはずだ。唯花はこの親子がそんなに気にしていないようなので、彼女たちを連れてホテルの中へと入っていった。この時、ロビーの責任者は唯花に気づいたが、彼は唯花を若奥様と呼ぶことなどもちろんできず、ただ丁寧に三人
「そうか、わかった。お前は仕事に戻ってくれ」辰巳は急いでグループに追いつき、兄の近くに寄って小声で教えた。「兄さん、日高マネージャーが数分前に義姉さんが神崎夫人と娘さんを連れてここに来たのを見たと言っていたよ。彼女達は今松の間にいるらしい」その部屋はスカイロイヤルでも最高級の個室だ。財布が心もとない人はその部屋を選ぼうともしない。しかし、唯花が神崎夫人にご馳走するのだとしたら、確実に最高級の松の間を選ぶだろう。「わかった」理仁はこれに関してはまったく意外には思っていなかった。「出くわすことはないさ」理仁は低く落ち着いた声でそう言った。彼は普通、顧客をホテルの最上階にあるペントハウスへと連れて行く。唯花のいる松の間は階が違うし、彼は専用エレベーターを使っている。ホテル客は彼が連れていかない限り、専用エレベーターに乗ることもできない。夫婦がエレベーターの前で出くわさない限り、決して会うことはないのだ。辰巳は兄が自信満々に言っているのを見て、それ以上は何も言わなかった。どのみち一般人を演じているのは兄だ。本当に義姉と出くわして、彼女に兄の正体がばれてしまったとしても、それは兄の事であって、他の人たちは面白いものを見させてもらえばいいだけの話だ。理仁たち一行は唯花たち三人と出くわすことはなかった。しかし、理仁がエレベーターに乗り込む時、ちょうど他のエレベーターから降りてきた佐々木俊介と成瀬莉奈の姿があった。俊介は理仁になんだか見覚えがあるような気がすると思ったが、はっきりと確認する前にエレベーターのドアが閉まってしまった。ボディーガードたちが上にあがる前に、俊介がエレベーターの前で覗き見ようとしているのに気づき、彼らは集まってきて俊介をじろりと睨んでいた。俊介は彼らに睨みつけられて、瞬時に萎縮し、すぐに莉奈を引っ張って去っていった。「俊介、さっき何を見てたの?」「さっきの男たちって、もしかして結城社長のボディーガードかな?」俊介は莉奈に尋ねた。「そんなの私にはわかるわけないでしょ。結城社長に会うチャンスだってないのに、彼のボディーガードなんてわかるわけないじゃないの」結城社長のボディーガードだと一目でわかる人は、絶対にいつも結城社長本人に会っている人だ。莉奈は自分も結城社長に出会えるような運
「彼女の夫がもし大富豪の結城家と関係があるなら、私たち二人が今頃こんなところで悠々としていられると思う?それなら、彼女がさっさと結城社長の力を借りて、私たちを地獄に叩き落としているわよ」俊介は自分がやった馬鹿な真似を考え、莉奈が言っている話も理にかなっていると思った。それで今回の件はもう気にしなくなった。あの結城家の御曹司のような身分から見ると、唯花が何回転生しても、結城家の若奥様という立場になれるような運命など持ち合わせてはいないだろう。二人はイチャつきながら、ホテルを出て行った。しかし、ちょうどホテルの入り口で唯月を見かけた。唯月は一人だった。彼女は陽が寝ている隙に、清水に陽のことを頼んで、俊介と莉奈を待ち伏せしていたのだ。彼女がここに待ち伏せしに来たのは、理仁からもらったあの資料と証拠を見て、俊介が莉奈を連れてスカイロイヤルホテルで食事するのが好きなのがわかったからだった。夫婦はもう修復不可能なほどに関係が壊れている。唯月は自分が佐々木俊介と結婚し、子供を産み育て家庭を守って来たことを考えていた。しかもいつも彼の両親や姉一家の世話もしないといけなかった。それなのに、俊介は彼女が稼ぐこともできずに浪費するばかりで、一日中家の中にいて怠けていると言ってきたのだ。ただ子供一人の世話をするだけなのに、いつも唯花に手伝ってもらって、彼女は役立たずで、食べることしかできないなどと罵った。唯月の心は依然としてズキズキと痛んでいた。彼女がたくさん食べなければ、母乳が足りずに、俊介はまた彼女が子供を餓死させる気かなどと言ってくるはずだ。だから、陽は1歳になるまで全て母乳だけで育てて来た。初婚相手の彼女に、俊介は非常にケチだった。たまに機嫌が良いと、彼女を連れて外食していたが、それでもただ居酒屋やファーストフード店などのたくさん食べてもあまり金のかからない店ばかりだった。それとは逆に、頻繁に莉奈をスカイロイヤルホテルに連れて来て食事し、彼女には至れり尽くせりの生活をさせ、プレゼントを贈ってはご機嫌取りをしていた。莉奈をまるでお姫様のように扱っている。唯月の姿を見た後、莉奈は挑発するかのようにしっかりと俊介の腕をきつく抱きしめた。唯月は彼女のその挑発する動作を見逃さなかった。俊介は立ち止まって、莉奈を連れて唯月の前まで行き
莉奈は俊介を引っ張って尋ねた。「あのデブ女、私たちと何を話し合うつもりなのかしら?」「俺が提示した離婚協議書にあいつは同意しなかった。たぶん離婚の件でまた話したいんだろ」離婚訴訟も時間がかかる。恐らく陽の一件で、唯月は一刻も早く離婚してしまいたいのだろう。俊介は莉奈を連れて彼の車のほうへと向かった。二人は車に乗り、彼は莉奈のほうに体を寄せて、辛そうな顔で莉奈の顔を撫でた。「痛む?」「あなたは?」俊介は自分の顔を撫でた。「めっちゃ痛えよ、陽の一件であいつ相当怒ってるらしい。まあ、このビンタであいつの気を晴らせるなら我慢してやるよ」莉奈は叩かれた自分の顔を触って言った。「俊介、あの女がそんなに離婚したがってるなら、離婚条件をもっと厳しくしてもいいと思うわ。一番はあの女に何にも渡さないことよ。彼女がもし嫌だって言ったら、さっさと離婚訴訟を起こさせちゃいましょ。私たちは耐えられるし」俊介はそれに同意した。「あいつについて行ってみよう。まずはあいつがどう出るのか見てみよう」二人は今、唯月が早く離婚したいと焦っていて、彼女をうまくコントロールして何も渡さず追い出せると思っていたのだった。唯月に財産を一切渡さず追い出せると思い、莉奈は叩かれた顔をさすりながら、口角を上げて勝ち誇ったような笑みを浮かべた。唯月はあるカフェをゲス男と泥棒猫の二人と話し合う場所に決めた。彼女は席に座ると、自分の分のジュースを注文した。そして冷ややかな目で莉奈が俊介の腕を引いてやって来るのを見ていた。彼らはわざと彼女の前でイチャついている姿を見せつけて、彼女を刺激しているのだ。唯月は冷たく笑った。彼女はただ成瀬莉奈が現れてくれたことに感謝していた。彼女に俊介の隠れた劣悪な本性を教えてくれたからだ。こんなゲス男など成瀬莉奈にくれてやる。俊介たちが唯月に近づくと、テーブルの上に黄色のファイルがあるのが見えた。それを見て俊介の瞳が揺らいだ。そして、何も気にしない様子で座って唯月に「それはなんだ?」と尋ねた。唯月はその黄色のファイルを駿介の前へとずらした。俊介はその中身は唯月が書いた離婚協議書だと思ったが、それを持ち上げてみると、とても重かった。その中は絶対に離婚協議書ではない。莉奈も興味津々で彼に近寄り、その中に何が入っているのか見
「私がどうやってそれを集めたのかなんてどうだっていいでしょ。俊介、もしも私がその不正で稼いでいた証拠を社長に密告したら、これからどうやってスカイ電機の部長でいられるかしらね?」唯花は姉に注意していた。俊介にその不正の証拠を見せずに、ただ言葉だけで彼を脅せと。しかし、唯月は俊介のことをよく理解していて、証拠がなければこの男を脅すことなどできないと思ったのだった。だから、彼女は理仁の友人が集めてくれた証拠を全てコピーして持ってきたのだ。俊介がそのコピーを破ってしまっても、彼女はまだいくらでもコピーすることができる。このような証拠があれば、俊介は自分の首を守るために、譲歩して彼女と離婚の話し合いに応じるだろう。この時の彼女は理仁がすでに九条悟に指示を出して、スカイ電機に全面的に圧力をかけているということは知らなかった。俊介と莉奈がどう足掻いても、どのみちクビになることには変わりはないのだった。俊介は怒りに歪んだ顔をしていた。彼はぎろりと唯月を睨み続けている。唯月も以前はスカイ電機で働いていた。さらに財務部長にまで昇進していて、当時の彼女は彼よりもずっと仕事ができたのだ。当時の彼のプレッシャーが大きく、自分は唯月には敵わないとプライドをズタズタに傷つけられて、自分よりよくできる彼女を部長の地位から引きずり降ろすために彼女にプロポーズしたのだ。彼らは知り合ってからもう十数年と長い時間が経っていて、またその中でも数年間付き合っていた。唯月の中では二人は深く愛し合っていると思っていた。唯月も彼と結婚する準備はしていた。彼がプロポーズしてきた時は大喜びしてそれを受け入れた。そして、結婚の準備をする時には、彼女がどのような要求をしてきても彼とその家族たちは全て応えてくれた。彼は彼女に対して今までよりももっと優しく、気配りしてくれるようになった。それでようやく結婚してから唯月に仕事を辞めて、子作りをしようと説得させることができたのだった。唯月が妊娠してから、俊介は子供が生まれるのを心待ちにしていた。そして、会社では唯月と比べられることもなくなり、プレッシャーも減って、だんだん社長に評価されるようになり、昇進していったのだった。それで今日の部長という肩書きがあるのだ。そして一方の唯月はと言うと、妻となり母親となり、毎日毎日この家
綺麗だった彼女は太ったことで全てが台無しになった。かつて幸せだった彼女の全てが、この男の手によって壊されてしまった。「唯月、どうしたいんだ?」俊介は少し口調を和らげて彼女に尋ねた。「お前の要求を言ってくれ。俺にできることなら、なるだけその要求を叶える。そして、俺たちはきれいさっぱり別れようぜ。そうしたら、この原本を俺にくれ」現在、彼には四千万近くの財産がある。しかし、もし彼が唯月とよく話し合えなかったら、彼女は離婚訴訟を起こすことだろう。彼女の手元には証拠が揃っているから、彼女のほうが有利で、彼は不利な立場だ。裁判所は当然半分の財産を唯月に分割するように判決を下すはずだ。唯月がもし彼が不正していた証拠を社長に渡せば、社長は彼をクビにしなくとも、部長という椅子から降ろされてしまうのは確実だ。しかも、彼は顧客からも不正に金をもらい、お金をもらった以上、顧客のためにいろいろなことをした。それに顧客を手伝って会社の不利益になるようなこともしていたのだった。社長がそれを調べれば、すぐにはっきりとわかり、怒りに触れて仕事を失ってしまうことだろう。もしかすると、社長が彼のこの行為を外部にも流し、今後、彼は新しい仕事を見つけるのが困難になるかもしれない。これは彼の将来に関わる。今後の自分の利益に関わる問題だから、たとえ俊介がこの時唯月を絞め殺したいくらい憎んでも、腰を低くして唯月としっかり離婚の話し合いをしなければならない。「あなた名義の全ての財産については別に多くもらおうとは思わないわ。半分ずつよ。それは私がもらう権利があるものだからね。家と車はいらないわ。だけど、お金にして払ってもらうわ」唯月は彼女の要求を提示した。「家のリフォーム代についてだけど、それはいらない。自分でお金を使ってリフォームしたんだもの、自分で取り返すわ」俊介が離婚に応じたら、離婚手続きをし、すぐに人を雇って家のリフォームした箇所を全て壊し、壁もはぎ取ってやるつもりだ。俊介が買ったばかりの家の状態に戻して返してやるのだ。「陽の親権は私がもらうわ。あんたは毎月六万円の養育費を払ってちょうだい。あんたの収入なら、これくらいちっぽけなものでしょう。あの子はあんたの子供なんだから、きっと問題ないわよね?陽が18歳になったら養育費は払ってもらう必要はない。
少し沈黙してから、俊介は言った。「唯月、俺がその財産分与に同意すれば、本当に手元にある証拠を俺にくれるんだな?絶対に社長んとこに伝えたりしないと?」「私がもらうべきものをもらえれば、私個人があんたに対して仕返しするような行為はしないと約束する」しかし、彼女の妹やその夫が何をするかは、彼女は保証できない。俊介はまた暫くじっくりと考えてから言った。「財産分与の件はいいだろう。だが、陽の親権に関してはお前にやることはできない。陽は我が佐々木家の子だ。うちの父さんも母さんも内孫である陽を重要視しているからな。だから、陽の親権は譲ることはできん」俊介は陽の親権を唯月に渡してしまい、家に帰った後、両親からひどく怒鳴られるのを恐れていた。しかも、陽はなんと言っても彼自身の息子だ。彼には今のところ陽一人しか息子がいないから、手放すことができないのだ。唯月はまだ飲み終わっていないジュースを持って、俊介の顔にぶちまけた。「俊介、よくも私と陽の親権争いができると思うわね?陽に佐々木家の血が流れていて、あんたの両親の孫だとか、そんなふざけたこと言わないでくれるかしら。あんた達が陽に何をしたか、もう忘れたって言うの?陽はね、今でもまだ急に泣き出すことがあるの。顔に残っている青あざはまだ消えていないわよ。あんた達が陽に与えるダメージがまだ足りないというわけ?陽があいつらに殺されたらようやく満足できるとでも?」俊介は唯月にジュースを顔にかけられて、そのありさまは、本当に散々なものだった。彼は唯月の行いにはもう腹が立ってしかたなかった。莉奈は急いでティッシュを取って、彼の顔にかかったジュースを拭きながら、唯月に言った。「ちゃんと話し合うんじゃなかったの?なんでこんなことするのよ。彼のスーツも濡れて汚れちゃったじゃないの、弁償できるわけ?」「成瀬さん、あなたはまだ状況を理解できていないみたいね」唯月は皮肉交じりに言った。「私とこいつがまだ離婚手続きをしていないのだから、こいつはまだ私の夫なのよ。こいつのスーツがどうなろうが、それは家庭内での問題よ。あんたに弁償しろと言われるような筋合いがあって?あんた一体何様よ?」莉奈は怒りで顔を赤くさせ、また青ざめさせた。「莉奈」俊介は優しく言った。「俺は大丈夫だから。この女のせいで怒って体を壊し
俊介は心配だった。彼がいなくなると、唯月が莉奈に何かするんじゃないかと思っていたのだ。唯月は彼と成瀬莉奈のホテルでの浮気現場を捕まえたあの夜、莉奈をひどく痛めつけたのだ。彼はあの後、あの夜のことを思い出しただけでも恐ろしくなる。唯月は冷たい声で言った。「この女を殴ったら私の手が汚れるだけだし。安心して、私は一切手出しをしないから」「唯月、これは俺ら二人の事だ。俺がここにいたらいけないのか?」俊介はやはり心配だった。唯月が彼から家庭内暴力を受けた時、包丁を振り回して彼を街中追いかけたのだ。だから、彼は唯月は一度キレると、本当に何をしでかすかわからない奴だと思うようになっていた。「これは妻である私と浮気相手の泥棒猫との話し合いよ。あんたみたいなゲス男には用はないわ」佐々木俊介「……」彼はぎろりと唯月を睨みつけ、しぶしぶと立ち上がってその場から離れた。俊介がいなくなってから、莉奈は髪の毛を整えながら唯月に尋ねた。「さあ、一体何の話?唯月さん、俊介が愛しているのはこの私なの。あまり大事にしたくないなら、さっさと彼と離婚したほうがいいわよ」「安心して」唯月は落ち着き払って言った。「別にあの男をあんたと争いたいわけじゃないから。あいつは私のことをなんとも思ってないし、争っても意味がないわけよ、だから、その必要はまったくないわね」彼女も別に俊介と離婚して生きていけないわけではない。離婚してもこの地球は普段と変わらず周り続ける。しかも俊介と離婚したほうが、彼女は幸せに生きていけるのだから。「成瀬さんって、私よりも若いでしょう。俊介と一緒にいる時は可愛がられるお嬢さんだわ。あんた、本気で2歳半の子供の継母になるつもり?」この時、莉奈の表情はこわばった。そして暫くしてからやっとどうにか口を開いた。「陽ちゃんは可愛いわ。努力して陽ちゃんと仲よくなれるようやっていくつもりよ。俊介のことを思えば、喜んで彼と一緒に陽ちゃんを育てていくわ」「成瀬さん、あまり無理をしないほうがいいんじゃないの。俊介はここにいないわ。あいつはあなたの本当の気持ちを知ることはないんだから」唯月は皮肉を交えて言った。「継母ってすごく大変よ。あなたが本心でも、取り繕ってやっていたとしても、他人はみんなあなたを悪い継母だって言うことになるわ。陽に厳しく
清水は自分が仕える結城家の坊ちゃんをかばった。「内海さん、私があなた方のところで働いてそう時間は経っていませんが、私の人を見る目には自信があります。結城さんと唯月さんの元旦那さんとは全く別次元の人間ですよ。結城さんは責任感の強いお方ですから、彼があなたと結婚したからには、一生あなたに対して責任を負うことでしょう。結城さんは女性をおだてるのが得意な方ではないですし、若い女性が自分に近づくのを嫌っていらっしゃいます。見てください、牧野さんに対しても会った時にちょっと会釈をする程度で、あまりお話しにならないでしょう。このような男性はとてもスペックの高い人ですけど、誰かを愛したらその人だけに一途です。内海さん、お姉さんの結婚が失敗したからといって、自分の結婚まで不安になる必要はないと思いますよ。愛というものは、やはり美しいものだと思います。結婚だって、幸せになれるものなんですよ。みんながみんな結婚してお姉さんのような結婚生活を送るわけではありませんでしょう。私は以前、結城さんの一番下の弟さんのベビーシッターをしていました。彼の家でもう何年も働かせてもらって、結城家の家風はとても良いということをよく知ってるんです。結城さんのご両親世代は愛や結婚というものに対してとても真剣に受け止めていらっしゃいます。とても責任感の強い方々ですよ。結婚したら、一生奥さんに誠実でいます。結城さんもそのようなご家庭で育ってらっしゃったから、責任感のあって、誠実な結婚というものをたくさん見て来られたでしょうし、彼自身も一途な愛を持っていることでしょう。今後、内海さんが結城さんと何かわだかまりができるようなことがあったり、結城さんが内海さんに何か隠し事をしていて、それが発覚したりした時には、しっかりと彼と話し合ってみてください。立場を逆にして、相手の立場に立ってみれば、それぞれの人にはその決断をした理由というものがあるんですから」唯花は理仁のあのプライドが高い様子を思い出し、確かに佐々木俊介よりも信頼できるだろうと思った。それに、結婚当初、彼女に何か困ったことがあった時に、彼女と理仁は一切の感情を持っていなかったが、彼はいつも彼女のために奔走して解決してくれた。今までのことを思い返してみれば、理仁が俊介よりも責任感が強いということがすぐ見て取れた。そして、唯花は言った。
夜十時半、唯花はやっと姉の家から自分の家に帰ってきた。玄関のドアを開けると、部屋の中は真っ暗だった。おばあさんは家にいないのだろうか?それとも、もう寝てしまったのか?唯花は部屋に入った後、明りをつけて玄関のドアを閉め、内鍵をかけた。そして少し考えた後、またドアを開け理仁のベランダ用スリッパを玄関の前に置いておいた。人にこの家には男がいるのだと主張するためだ。そうしておいたほうが安全だ。「内海さん、おかえりなさい」この時、清水が玄関の音が聞こえて、部屋から出てきた。唯花は「ええ」と答えて彼女に尋ねた。「おばあちゃんはもう寝ましたか?」「おばあさんはお帰りになりましたよ。お孫さんが迎えに来たんです。おばあさんは内海さんが今晩お戻りにならないかと思って、明日お話するよう言付かっていたんですが」唯花は驚いた。「おばあちゃん、家に帰っちゃったんですか?」清水は言った。「おばあさんが当初、ここに引っ越して内海さんたちと一緒に住むのは、息子さんと喧嘩したからだとおっしゃっていました。今、お二人は仲直りしたそうで、また家にお戻りになったようですよ」清水はおばあさんが神崎家にばれてしまうかもしれないと考え、先に自分の家に帰ったのだろうと思っていた。結城家の若奥様は神崎詩乃の姪であると証明されたのだから、今後、神崎家との関わりは多くなっていくことだろう。若旦那様が自分の正体を明かしていないので、おばあさんは神崎家を避けておく必要があるのだ。だから、おばあさんはさっさと姿をくらましたのだ。唯花は「そうですか」とひとこと返事した。彼女はおばあさんが彼女と一緒に住んでいて楽しそうにしていたので、こんなに早く自分の家に帰ってしまうとは思っていなかった。「内海さんは、伯母様のお家にお泊りにならなかったんですね?」唯花はソファのほうへ歩いて行き、腰を下ろして言った。「神崎家には行かなかったんです。佐々木家の母親と娘がまたお姉ちゃんのところに騒ぎに来て、警察署に行ってたんです。だから伯母さんの家には行かないで、明後日の週末、休みになってからまた行こうって話になって」それを聞いて清水は心配そうに尋ねた。「お姉さんは大丈夫ですか?佐々木家がどうしてまたお姉さんのところに?もう離婚したというのに」「姉が前住んでいた家の内装
俊介が母親を抱き起こすと、今度は姉のほうが床に崩れ落ち、彼はまたその姉を抱き起こして本当に困っていた。もう二度と唯月に迷惑をかけるなと二人には釘を刺していたというのに、この二人は全く聞く耳を持たず、どうしても唯月のところに騒ぎに行きたがる。ここまでの騒ぎにして彼も相当頭が痛かった。どうして少しも彼に穏やかな日々を過ごさせてくれないのか?彼は今仕事がうまく行っておらず、本当に頭の中がショートしてしまいそうなくらい忙しいのだ。仕事を中断してここまでやって来て、社長の怒りはもう頂点に達している。俊介は家族がこのように迷惑をかけ続けるというなら、唯月に二千万以上出してまで守った仕事を、家族の手によって失いかねない。陽はこんな場面にかなり驚いているのだろう。両手で母親の首にしっかりと抱きつき、自分の祖母と伯母には見向きもしなかった。そんな彼の目にちょうど映ったのが東隼翔だった。隼翔はこの時、唯月の後ろに立っていて、陽が自分の顔を母親の肩に乗っけた時に目線を前に向けると隼翔と目が合ったのだ。隼翔の陽に対する印象はとても深かった。彼はすごく荒っぽく豪快な性格の持ち主だが、実はとても子供好きだった。陽の無邪気な様子がとても可愛いと思っていた。彼は陽の頭をなでなでしようと手を伸ばしたが、陽がそれに驚いて「ママ、ママ」と呼んだ。隼翔が伸ばしたその手は気まずそうに空中で止まってしまっていて、唯月が息子をなだめた時にそれに気がついた。「お、俺はただ、お子さんがとても可愛いと思って、ちょっと頭を撫でようとしただけだ。しかし、彼は俺にビビッてしまったようだが」隼翔は行き場のない気まずいその手を引っ込めて、釈明した。唯月は息子をなだめて言った。「陽ちゃん、この方は東お兄さんよ、お兄さんは悪い人じゃないの、安心して」それでも陽はまだ怖がっていて、隼翔を見ないように唯花のほうに手を伸ばして抱っこをおねだりしようと、急いで彼女を呼んだ。「おばたん、だっこ、おばたん、だっこ」そして、唯花は急いで彼を抱きかかえた。唯月は申し訳なくなって、隼翔に言った。「東社長、陽は最近ちょっと精神的なショックを受けたので、あまり親しくない人は誰でも怖がってしまうんです」隼翔は小さな子供のことだから、特に気にせず「いいんだ。俺がお子さんを怖がらせてしまった
「母さん」俊介が警察署に駆けつけた時、母親が椅子から崩れ落ちているのを見て、すぐにやって来て彼女を支え起き上がらせようとした。しかし、母親はしっかり立てずに足はぶるぶる震えていた。「母さん、一体どうしたんだよ?」俊介は椅子を整えて、母親を支え座らせた。この時、彼の母親が唯月を見つめる目つきは、複雑で何を考えているのかよくわからなかった。それから姉の表情を見てみると、驚き絶句した様子で、顔色は青くなっていった。「おば様、大丈夫ですか?」俊介と一緒に莉奈も来ていて、彼女は心配そうに佐々木母にひとこと尋ねた。そして、また唯月のほうを見て、何か言いたげな様子だった。離婚したからといって、このように元義母を驚かすべきではないだろうと思っているのだ。しかし、姫華を見て莉奈は驚き、自分の見間違いかと目を疑った。彼女は神崎夫人たちとは面識がなかったが、神崎姫華が結城社長を追いかけていることはみんなが知っていることで、ネットでも大騒ぎになっていたから、莉奈は彼女のことを知っていたのだ。その時、彼女は姫華が結城社長を追いかけることができる立場にある人間だから、とても羨ましく思っていたのだ。「神崎お嬢様ですか?」莉奈は探るように尋ねた。姫華は顎をくいっとあげて上から目線で「あんた誰よ?」と言った。「神崎さん、本当にあの神崎お嬢様なんですね。私は成瀬莉奈と言います。スカイ電機の佐々木部長の秘書をしています」莉奈はとても興奮して自分の名刺を取り出し、姫華にさし出した。姫華はそれを受け取らず、嫌味な言い方でこう言った。「なるほど、あなたが唯月さんの結婚をぶち壊しなさった、あの不倫相手ね。それ、いらないわ。私はちゃんとした人間の名刺しか受け取らないの。女狐の名刺なんかいやらしすぎて、不愉快ったらありゃしないわ」莉奈「……」彼女の顔は恥ずかしくて赤くなり、それからまた血の気が引いていった。そして悔しそうに名刺をさし出した手を引っ込めた。俊介は母親と姉がひとこともしゃべらず、また唯月と姉が傷だらけになっているのを見て、二人がまた喧嘩したのだとわかった。見るからに、やはり母親と姉が先に手を出したらしく、彼は急いで唯月に謝った。「唯月、すまん。うちの母さんと姉さんが何をしたかはわからないが、俺が代わって謝罪するよ。本当に
神崎詩乃は冷ややかな声で言った。「あなた達、私の姪をこんな姿にさせておいて、ただひとこと謝れば済むとでも思っているの?私たちは謝罪など受け取りません。あなた達はやり過ぎたわ、人を馬鹿にするにも程があるわね」彼女はまた警察に言った。「すみませんが、私たちは彼女たちの謝罪は受け取りません。傷害罪として処理していただいて結構です。しかし、賠償はしっかりとしてもらいます」佐々木親子は留置処分になるだけでなく、唯月の怪我の治療費や精神的な傷を負わせた賠償も支払う必要がある。あんなに多くの人の目の前で唯月を殴って侮辱し、彼女の名誉を傷つけたのだ。だから精神的な傷を負わせたその賠償を払って当然だ。詩乃が唯月を姪と呼んだので、隼翔はとても驚いて神崎夫人を見つめた。佐々木母はそれで驚き、神崎詩乃に尋ねた。「あなたが唯月の伯母様ですか?一体いつ唯月にあなたのような伯母ができたって言うんですか?」唯月の母方の家族は血の繋がりがない。だから十五年前にはこの姉妹と完全に連絡を途絶えている。唯月が佐々木家に嫁ぐ時、彼女の家族はただ唯花という妹だけで、内海家も彼女たちの母方の親族も全く顔を出さなかった。しかし、内海家は六百万の結納金をよこせと言ってきたのだった。それを唯月が制止し、佐々木家には内海家に結納金を渡さないようにさせたのだ。その後、唯月とおじいさん達は全く付き合いをしていなかった。佐々木親子は唯月には家族や親族からの支えがなく、ただ一人だけいる妹など眼中にもなかった。この時、突然見るからに富豪の貴婦人が表れ、唯月を自分の姪だと言ってきたのだった。佐々木母は我慢できずさらに尋ねようとした。一体この金持ちであろう夫人が本当に唯月の母方の親戚なのか確かめたかったのだ。どうして以前、一度も唯月から聞かされなかったのだろうか?唯月の母方の親族たちは、確か貧乏だったはずだ。詩乃は横目で佐々木母を睨みつけ、唯月の手を取り、つらそうに彼女の傷ついた顔を優しく触った。そして非常に苦しそうに言った。「唯月ちゃん、私と唯花ちゃんがしたDNA鑑定の結果が出たのよ。私たちは血縁関係があるのあなた達姉妹は、私の妹の娘たちなの。だから私はあなた達の伯母よ。私のこの姪をこのような姿にさせて、ひとことごめんで済まそうですって?」詩乃はまた佐々木親子を睨
一行が人だかりの中に入っていった時、唯花が「お姉ちゃん」と叫ぶ声が聞こえた。陽も「ママ!」と叫んでいた。唯花は英子たち親子が一緒にいるのと、姉がボロボロになっている様子を見て、どういうわけかすぐに理解した。彼女はそれで相当に怒りを爆発させた。陽を姉に渡し、すぐに後ろを振り向き、歩きながら袖を捲り上げて、殴る態勢に移った。「唯花ちゃん」詩乃の動作は早かった。素早く唯花のところまで行き、姉に代わってあの親子を懲らしめようとした彼女を止めた。「唯花ちゃん、警察の方にお任せしましょう」すでに警察に通報しているのだから、警察の前で手を出すのはよくない。「神崎さん、奥様、どうも」隼翔は神崎夫婦が来たのを見て、とても驚いた。失礼にならないように隼翔は彼らのところまでやって来て、挨拶をした。夫婦二人は隼翔に挨拶を返した。詩乃は彼に尋ねた。「東社長、これは一体どうしたんですか?」隼翔は答えた。「神崎夫人、彼女たちに警察署に行ってどういうことか詳しく話してもらいましょう」そして警察に向かって言った。「うちの社員が被害者です。彼女は離婚したのに、その元夫の家族がここまで来て騒ぎを起こしたんです。まだ離婚する前も家族からいじめられて、夫からは家庭内暴力を受けていました。だから警察の方にはうちの社員に代わって、こいつらを処分してやってください」警察は隼翔が和解をする気はないことを悟り、それで唯月とあの親子二人を警察署まで連れていくことにした。隼翔と神崎夫人一家ももちろんそれに同行した。唯花は姉を連れて警察署に向かう途中、どういうことなのか状況を理解して、腹を立てて怒鳴った。「あのクズ一家、本当に最低ね。もしもっと早く到着してたら、絶対に歯も折れるくらい殴ってやったのに。お姉ちゃん、あいつらの謝罪や賠償なんか受け取らないで、直接警察にあいつらを捕まえてもらいましょ」唯月はしっかりと息子を抱いて、きつい口調で言った。「もちろん、謝罪とか受け取る気はないわよ。あまりに人を馬鹿にしているわ!おじいさんが彼女たちを恐喝してお金を取ったから、それを私に返せって言ってきたのよ」唯花は説明した。「あの元義母が頭悪すぎるのよ。うちのおじいさんのところに行って、お姉ちゃんが離婚を止めるよう説得してほしいって言いに行ったせいでしょ。あ
佐々木親子二人は逃げようとした。しかし、そこへちょうど警察が駆けつけた。「あの二人を取り押さえろ!」隼翔は親子二人が逃げようとしたので、そう命令し、周りにいた社員たちが二人に向かって飛びかかり、佐々木母と英子は捕まってしまった。「東社長、あなた方が通報されたんですか?どうしたんです?みなさん集まって」警察は東隼翔と知り合いだった。それはこの東家の四番目の坊ちゃんが以前、暴走族や不良グループに混ざり、よく喧嘩沙汰を起こしていたからだ。それから足を洗った後、真面目に会社の経営をし、たった数年だけで東グループを星城でも有数の大企業へと成長させ、億万長者の仲間入りをしたのだった。ここら一帯で、東隼翔を知らない者はいない。いや、星城のビジネス界において、東隼翔を知らない者などいないと言ったほうがいいか。「こいつらがうちまで来て社員を殴ったんです。社員をこんなになるまで殴ったんですよ」隼翔は唯月を引っ張って来て、唯月のボロボロになった姿を警察に見てもらった。警察はそれを見て黙っていた。女の喧嘩か!彼らはボロボロになった唯月を見て、また佐々木家親子を見た。佐々木母はまだマシだった。彼女は年を取っているし、唯月はただ彼女を押しただけで、殴ったり手を出すことはしなかったのだ。彼女はただ英子を捕まえて手を出しただけで、英子はひどい有り様になっていた。一目でどっちが勝ってどっちが負けたのかわかった。しかし、警察はどちらが勝ったか負けたかは関係なく、どちらに筋道が立っているかだけを見た。「警察の方、これは家庭内で起きたことです。彼女は弟の嫁で、ちょっと家庭内で衝突があってもめているだけなんです」英子はすぐに説明した。もし彼女が拘留されて、それを会社に知られたら、仕事を失うことになるに決まっているのだ。彼女の会社は今順調に行ってはいないが、彼女はやはり自分の仕事のことを気にしていて、職を失いたくなかったのだ。「私はこの子の義母です。これは本当にただの家庭内のもめごとですよ。それも大したことじゃなくて、ちょっとしたことなんです。少し手を出しただけなんですよ。警察の方、信じてください」佐々木母はこの時弱気だった。警察に連れて行かれるかもしれないと恐れていたのだ。市内で年越ししようとしていたのに、警察に捕ま
東隼翔は顔を曇らせて尋ねた。「これはどういうことだ?」英子は地面から起き上がり、まだ唯月に飛びかかって行こうとしていたが、隼翔に片手で押された。そして彼女は後ろに数歩よろけてから、倒れず立ち止まった。頭がはっきりとしてから見てみると、巨大な男が暗い顔をして唯月を守るように彼女の前に立っていた。その男の顔にはナイフで切られたような傷があり非常に恐ろしかった。ずっと見ていたら夜寝る時に悪夢になって出てきそうなくらいだ。英子は震え上がってしまい、これ以上唯月に突っかかっていく勇気はなかった。佐々木母はすぐに娘の傍へと戻り、親子二人は非常に狼狽した様子だった。それはそうだろう。そして唯月も同じく散々な有様だった。喧嘩を止めようとした警備員と数人の女性社員も乱れた様子だった。彼らもまさかこの三人の女性たちが殴り合いの喧嘩を始めてあんな狂気の沙汰になるとは思ってもいなかったのだ。やめさせようにもやめさせることができない。「あんたは誰よ」英子は荒い息を吐き出し、責めるように隼翔に尋ねた。「俺はこの会社の社長だ。お前らこそ何者だ?俺の会社まで来てうちの社員を傷つけるとは」隼翔はまた後ろを向いて唯月のみじめな様子を見た。唯月の髪は乱れ、全身汚れていた。それは英子が彼女を地面に倒し殴ったせいだ。手や首、顔には引っ掻き傷があり、傷からは少し血が滲み出ていた。「警察に通報しろ」隼翔は一緒に出てきた秘書にそう指示を出した。「東社長、もう通報いたしました」隼翔が会社の社長だと聞いて、佐々木家の親子二人の勢いはすっかり萎えた。しかし、英子はやはり強硬姿勢を保っていた。「あなたが唯月んとこの社長さん?なら、ちょうどよかった。聞いてくださいよ、どっちが悪いか判定してください。唯月のじいさんが私の母を恐喝して百二十万取っていったんです。それなのに返そうとしないものだから、唯月に言うのは当然のことでしょう?唯月とうちの弟が離婚して財産分与をしたのは、まあ良いとして、どうして弟が結婚前に買った家の内装を壊されなきゃならないんです?」隼翔は眉をひそめて言った。「内海さんのおじいさんがあんたらを脅して金を取ったから、それを取り返したいのなら警察に通報すればいいだけの話だろう。内海さんに何の関係がある?内海さんと親戚がどんな状況なの
その時、聞いていて我慢できなくなった人が英子に反論してきた。「そうだ、そうだ。自分だって女のくせに、あんなふうに内海さんに言うなんて。内海さんがやったことは正しいぞ。内海さん、私たちはあなたの味方です!」「こんな最低な義姉がいたなんてね。元旦那が浮気したから離婚したのは言うまでもないけど、もし浮気してなくたって、さっさと離婚したほうがいいわ、こんな最低な人たちとはね。遠く離れて関わらないほうがいいに決まってる」野次馬たちはそれぞれ英子を責め始めた。そのせいで英子は怒りを溜め顔を真っ赤にさせ、また血の気を引かせた。唯月が彼女に恥をかかせたと思っていた。そして彼女は突然、力いっぱい唯月が支えていたバイクを押した。バイクは今タイヤの空気が抜けているから、唯月がバイクを押すのも力を入れる必要があった。それなのに英子が突然押してきたので、唯月はバイクを支えることができず、一緒に地面に倒れ込んでしまった。「金を返せ。あんたのじいさんがお母さんから金を受け取ったのを認めないんだよ。じいさんの借金は孫であるあんたが返せ、さっさとお母さんに金を払うんだよ」英子はバイクと一緒に唯月を地面に倒したのに、それでも気が収まらず、彼女が持っていたかばんを振り回して力を込めて唯月を叩いた。さらには足も使い、立て続けに唯月を蹴ってきた。唯月はバイクを放っておいて、立ち上がり乱暴に英子からそのかばんを奪い、狂ったように英子を殴り返した。彼女は英子に対する恨みが積もるに積もっていた。本来離婚して、今ではもう佐々木家とは赤の他人に戻ったので、ムカつくこの佐々木家の人間のことを忘れて自分の人生を送りたいと思っていた。それなのに英子は人を馬鹿にするにも程があるだろう、わざわざ問題を引き起こすような真似をしてきた。こんなふうに過激な態度に出れば、善悪をひっくり返せるとでも思っているのか?この間、唯月と英子は殴り合いの喧嘩をし、その時は英子が唯月に完敗した。今日また二人が殴り合いになったが、佐々木母はもちろん自分の娘に加勢してきた。この親子は手を組んで、唯月を二対一でいじめてきたのだ。「警察、早く警察に通報して!」その時、誰かが叫んだ。「すみません警備員さん、こっちに来て喧嘩を止めてちょうだい。この女二人がうちの会社まできて社員をいじめてるんです」