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人生は駆け足で
人生は駆け足で
Author: 君の瞳と僕のあいだ

第1話

Author: 君の瞳と僕のあいだ
別れて5年。俺――松本直哉(まつもと なおや)は、整備工場で石田奈緒(いしだ なお)と顔を合わせた。

奈緒は「うちの旦那、本当に情けないわ。運転ひとつ満足にできないんだから」と愚痴をこぼしながら、車のドアにもたれ、不機嫌そうな声で保険会社に電話をかけていた。

車体の下からすっと滑り出ると、作業着も顔も油まみれで、頬まで黒く汚れていた。

奈緒はそれに気づいて、しばらく固まった。

それから、ぎこちなく言葉を絞り出した。

「直哉……ちゃんと見て。工賃は上乗せするから」

「いらない。相場どおりでいい。うちは評判で食ってる、ぼったくりはしない」

断ったあと、レンチを取り、下回りのボルトに手を伸ばした。

ところが奈緒が呼び止めてくる。視線はやけに複雑だった。

「昔さ……高いところ苦手だったよね。電球替えるのも怖がってた」

頬の油を拭い、営業用の笑顔だけ作って、奈緒を少し下がらせた。

「仕方ないよ。仕事だから。

食っていくには、な」

……

奈緒は唇を動かしたが、結局何も言わなかった。

沈黙は放っておき、ポルシェの周りを一周して、淡々と言う。

「見た感じ、フロントバンパーは交換だな。左のヘッドライトも割れてる。ラジエーターもやってるかもしれない。細かいところは、外してみないと分からない。

見積もりは、だいたい16万〜24万ってとこだ」

見積書を差し出しても、奈緒は受け取らず、こちらの顔だけを食い入るように見つめた。

油に汚れたこの顔から、昔の面影でも拾い上げようとしているみたいに。

目を逸らした先、奈緒の体にはきっちり仕立てたスーツが収まっていた。

5年前は、大学にいくらでもいるような、ありふれたカップルだった。

それが今は、勢いのあるエリート弁護士。

一方俺は、街の片隅でレンチ一本で食っている整備士にすぎない。

雲泥の差だ。

「この数年……元気にしてた?」奈緒が、重たい視線をこちらに向ける。

「仕事はまあまあだ。気にかけてくれてありがとう」軽く首を縦に振って答えた。

「石田さん、修理で進めるなら、ここにサインを。問題なければ、あとはこっちで手配する」

「私が聞きたいのは……あなた、ずっと……ひとりで……」

「奈緒!」

途切れかけた会話は、奈緒の夫・石田誠司(いしだ せいじ)の声に遮られた。

「何してんだよ。まだ来ないのか?俺が運転下手だからって、置いてくつもりか?」

男は俺を睨みつけたまま、次の一歩を踏み出そうとはしない。

顔についた油汚れのせいで、俺だとは気づいていないらしい。

胸を撫で下ろしたのも束の間、奈緒の顔色はみるみる悪くなり、彼女は無言のまま一歩身を引いて、誠司の視線を俺から遮った。

苛立ちを押し殺し、奈緒は書類に自分の名前を書き入れる。

「修理して。部品は、いちばんいいもので」

そう言い残すと、奈緒は踵を返し、足早に誠司のもとへ向かった。

店の古株で、俺の叔父でもある松本健(まつもと けん)が、別の車の下から体を起こし、氷水のボトルを無造作に放ってよこす。声は、低く抑えられていた。

「ポルシェだって聞いて、どんな大物かと思えば……あいつか。

着るもんだけは立派だが、腹の中は真っ黒だ。五年も経って、あの恩知らずが、まだお前の前に顔を出すとはな」

その言葉に、腕の傷跡がじわりと疼いた。

大学三年のときだ。無免許の金持ちのドラ息子に撥ねられ、母さんは路面に血を流して倒れた。

ハンドルを握っていたのは――誠司だった。

石田家は金に物を言わせ、母さんを「当たり屋だ」と一方的に決めつけ、若桜市では誰も弁護を引き受けないとまで言いふらした。

追い詰められた末、父が遺してくれた結婚資金の四百万円を、一円残らず、恋人だった奈緒に差し出した。

「奈緒……頼む。法学部だろ。助けられるのは、お前しかいない!

母さんを、このまま泣き寝入りさせるわけにはいかない。これが俺の全部だ。勝てるなら……俺にできることなら、何でもする!」

洗いざらしで色の抜けたTシャツ姿の奈緒は、俺の手を強く握り返し、差し出した金を押し戻してきた。

「直哉、大丈夫。大丈夫だよ。私が、必ずこの裁判を勝たせる!

お母さんが元気になったら、結婚しよう。誓う。お母さんに濡れ衣なんて着せないし、あなたに、悔しい思いもさせない」

あのときの奈緒の瞳は、やけに明るかった。

本気で――命を懸けるつもりなんじゃないかと、そう思ってしまうほどに。

「親方!整備伝票、サインお願いします!」

後輩の藤森紗弥(ふじもり さや)の声に、俺は記憶の底から引き戻された。

手についた油を拭いながら歩み寄り、伝票にサインを入れる。

顔を上げると、いつの間にか奈緒が、再び入口に立ち、じっとこちらを見つめていた。
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