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6.蘇る感情

last update Last Updated: 2025-05-10 15:54:00

「どう、今日は楽しかった?」

「……」

「もうすこし生きてみようと思った?」

「……」

 初回面接の日から、私は平日の14時に、欠かさずあの無機質な面接室を訪れていた。

 相談とかヒアリングとか、そういったやり取りもするのかと思っていたが、すこし違う。

 日々野先生とのやり取りは、当初想像していたような〝相談〟や〝ヒアリング〟ではなかった。

 ただ、決まって同じ質問が繰り返されるだけ。

「楽しかったか?」

「生きようと思ったか?」

「趣味は見つけたか?」

 まるで、壊れたラジオかのように。

 先生は、毎回それらの言葉を、同じトーンで、同じ順番で問いかけてくる。

 私はいつも俯き、黙り込むだけだった。

 返事をする気力も意味も、どこにも見いだせなかったから。

 そして、私の沈黙に対して日比野先生は決まって――

「ほんとうに人生が楽しくなさそう。僕は黒磯さんみたいな人生を送りたくないわ」

 と、小声で暴言を吐く。

 普通なら、傷ついたり、反発したりするだろう。

 でも、やはり私は、何も感じなかった。

 怒ることも、悲しむこともできない。

 そもそも、感情というものをどうやって出すのか、それすらももう忘れてしまっていた。

 ただ淡々と、言われて、黙って、終わって、また次の日。

 それを繰り返していた。

 たった〝それだけの面接〟を、延々と。

 けれど、季節が変わりかけたころ。

 日比野先生の面接が始まって、3か月が経過したある日。

 ほんの小さな変化が、私の中に生まれた。

「……おなかが、空いた?」

 これ以上の言葉にならない、小さな違和感。

 その違和感を確かめるように、自分の体に手を当ててみる。

 ——あぁ、これはきっと、空腹というやつだ。

 この感覚を、私はどのくらい忘れていたのだろう。

 思い出せないくらい久しぶりで、すこしだけ戸惑った。

「どう、今日は楽しかった?」

「……いいえ」

「お?」

 小さく答えた瞬間、日比野先生は書類から顔を上げて私を見る。

 目を見開いたその表情は、すこしだけ新鮮だった。

 驚いたような顔をしたまま、先生はすぐに次の質問を投げる。

「もうすこし、生きてみようと思った?」

「……いいえ」

「おっ」

 先生は口角をほんのすこし上げながら、カルテに何かを書き込む。

 さらっとした筆跡が紙を滑る音が、やけに耳に残る。

「まだ、生きるのを止めたいと思う?」

「……はい」

「ふーん……つまり、死にたいくらい辛いっていう解釈でいい?」

「……はい」

「うん、すこし改善だ。感情がすこしだけ戻ってきたね」

 先生は軽く頷きながら、ペンを走らせ続けた。

 ——改善?

 それがほんとうに〝良い変化〟なのかは分からなかった。

 けれど、ただ、先生のニヤッとした表情に、なぜかモヤモヤっとした何かが心の奥に生まれた。

「……」

 それは、怒りでもなく、戸惑いでもなく、ただ〝反応〟のようなものだった。

 ——あれ。

 もしかして、私、今なにか思った? と自分でも驚いた。

 長いあいだ忘れていた、いろんな感情。

 喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。

 それらの輪郭が、ぼんやりと、すこしずつ戻ってきている気がした。

 冷酷で無表情な産業医、日比野先生が『何か』をしてくれたとは、到底思えない。

 けれど、この面接という奇妙な時間を通じて――

 私は、ほんのすこしだけ、〝人間らしさ〟を取り戻し始めていた。

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