未央は口元が緩み、喜びを隠しきれない様子だった。河本教授はかなりの高齢で、高度な催眠を終えると、こめかみを押えながら疲れ切った表情を浮かべた。未央はすぐに近寄り、慎重に河本教授の腕を支えながら、柔らかいソファへ導き、優しく言った。「教授、ゆっくりお休みください。私はもうやり方が分かりましたから、後の催眠は私に任せてください」河本教授はゆっくりと頷き、仕方がないように嘆いた。「はあ、本当は認めたくないけど、もう年だね。他の用がなければ、私は先に帰るよ」未央は河本教授を外まで見送り、運転手に彼を家まで安全に送るよう注意した。車が見えなくなると、彼女は家のリビングに戻った。ソファに横たわっていた博人が突然起き上がり、目を見開いた。一瞬、鋭い光が彼の深い瞳を走ったが、すぐに困惑した表情になった。彼は未央を見つめ、優しく声をかけた。「未央?」その声に未央の体が僅かに震え、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。その瞬間、かつての博人が戻ってきたかと思い、複雑な感情が込み上げてきた。しかし、その親しんだ呼び方に、すぐに我に返った。ほっとした一方、彼女は胸に何とも言えない感情が渦巻いた。あと一カ月もすれば、目の前の子供のように甘え、嫉妬し、時に厚かましく自分にべったりとした博人がいなくなる……未央の笑顔はだんだんと消えていき、瞳にあった光も暗くなっていった。さっきまでの喜びがまるで、霧の幕に覆われてしまったかのようだった。「未央?どうしたんだ」すぐに未央の変化に気付き、博人は眉をひそめ、心配そうに尋ねた。「何もないわ。もう遅いから、部屋に戻って早く休みましょう」未央は少し首を振り、無理やり笑みを作り、博人の手を取り、階段を上がった。部屋に入ると、博人はさっそく未央を胸に引き寄せ、腰をしっかりと抱きしめながら、甘えたように顔を彼女の首筋に埋めた。「未央、約束のご褒美は?嘘をついたんじゃないよね?」その瞬間、未央の顔が一気に熟したトマトのように真っ赤になった。彼女は俯き、睫毛が僅かに震えて、声を小さくして言った。「急かさないで」博人の胸を押し返そうとした手には力が入らず、拒みながらも、誘っているように見えた。博人は勝ち誇ったような笑みを浮かべ俯いて、熱い吐息を未央の耳元に吹きかけた
普通なら、催眠術師にはそれぞれ独自のやり方と技術があり、他人に教えないものだ。しかし。未央は彼の最も優秀な教え子として、現場で直接に見て、真似して習うことが許されていた。その時、リビングは水を打ったように静まり返った。そして、緊張感がどんどん込み上げてきた。未央は息を殺し、じっと河本教授と博人を見つめ、唾を飲み込んだ。「リラックスしてください」河本教授の表情はこれまでにないほど厳しく、低い声で言った。博人は眉をひそめ、面白くないと思っていた。未央の恩師とはいえ、自分に敵意を向けてきたこのじいさんに彼は本能的に抵抗感を感じていた。その時、優しい女性の声が耳に届いた。「博人……」未央は彼を見つめた。その澄んだ瞳には切なる願いが込められていた。博人は確かに河本教授が好きではないが、未央を心から信じていたから、目を閉じ、徐々に自分をリラックスさせた。催眠は続けられた。未央は傍で静かに見守り、一瞬も目を離さなかった。細かい部分を見逃すまいと必死だった。無意識に両手をにぎりしめ、手のひらに汗が滲んできた。時間が少しずつ過ぎていった。静かなリビングには河本教授の低い催眠を誘導する声だけが響いていた。突然、未央は河本教授が眉をひそめ、険しい顔をしたのを見た。「教授、どうしましたか」焦った未央は思わず声をかけた。河本教授は一旦止まって、眼鏡を取り出し、こめかみを押さえながら、疲れた様子で言った。「彼に催眠をかけたのは相当に腕のいい催眠術師なんだ。やり方が極めて巧妙で複雑だ。通常の方法では解けなかった。まず催眠をかけた人を特定し、その弱点を突く必要があるな」彼はため息をつき、残念そうに続けて言った。「催眠に長ける専門家は多くない、世界中には十数人しかいないんだ。だが、一人ずつ試すのは時間がかかりすぎるし、彼の精神に再びダメージを与える可能性もある」その時、未央は突然口を開いた。「博人に催眠をかけた人物は誰なのか、分かっています」「誰だい?」河本教授も興味深そうに未央をじっと見つめた。未央の目はきらりと光った。学術交流会でアンドレが見せた動揺と彼女を見た時の慌てぶりを思い出した。それに、彼が絵里香と知り合いだということも怪しかった。未央は表情を引き締めて断言した。「アンドレです
聞かれた問題には、河本教授自身も答えられない難問が含まれていた。しかし。未央は微動だにせず、マイクを手にして、臆することもなく自分の見解を述べた。交流会が終わる頃、参加者たちがとても勉強になったと感じ、彼女の実力に心から感服していた。終始静かに隣にいた博人は未央の輝かしい姿を見て、顔に隠せない誇らしい色を浮かべていた。この女性は彼の妻なのだ!一方、アンドレだけは背中を棘に刺されたように居心地が悪く、気付いた時、冷や汗で背中がびっしょりになっていた。ようやく、司会者が交流会の終了を告げると、彼は待ちきれないように立ち上がり、未央が呼び止める前に急いでその場を離れた。あっという間に、アンドレの姿は視界から消えてしまった。未央は眉をひそめ、追いかけようとしたが、次の瞬間に熱心なファンたちに囲まれてしまった。「Yさん、以前あなたの論文を読んだことがあるんです。いくつか質問があります」「わたくしは立花毎日新聞社の記者です。インタビューをしてもよろしいでしょうか」「Yさん……」次々と人々に声をかけられてしまった。未央は質問に答えざるを得ず、ようやく人混みを抜け出して、博人を連れて会場を後にした。この時、外はすっかり暗くなっていた。未央は胸を撫でて、息を整えながら、ようやく落ち着いた。そのままアンドレを逃がしてしまったことを悔やんでいた。彼女は頭を高速で回転させて、急いで挽回の策を立てていた。その時、博人の声が耳に届いた。「未央、あの人は君の指導教授じゃないか」未央が顔を上げると、ちょうど河本教授も会場から微笑みながら出て来ていた。彼女は目を輝かせ、すぐに近づいた。「教授、こちらです」交流会後に河本教授に博人を見てもらう約束をしていたのだ。すると。三人が再び顔を合わせると、河本教授の未央を見る目には賞賛と誇りの色が隠せなかった。「素晴らしかったよ。さすが私の教え子。まさか君がYさんだとは」未央は褒められて頬を赤らめ、頷きながら話題を変えた。「河本教授、もう遅いですので、早く帰りましょう」「ああ、彼の状況が一番重要だね」河本教授は博人を一瞥し、意味ありげに言った。間もなく。三人は屋敷の前に到着し、ゆっくりとドアを開けると、理玖がリビングでテレビを見ていた。
アンドレは未央の姿を見て、思わす眉をひそめ、不快感を覚えた。こいつ本当にどこまでも付き纏ってくる女だ。彼女が自分に向かって歩いてくるのを見て、アンドレは顔色が暗くなり、手をあげて警備員を呼ぼうとした。次の瞬間。伊能の声が耳に届いた。アンドレが理解できるよう、流暢なイギリス訛りのある英語で言った。「アンドレ先生。こちらはYさんです。彼女の論文をお読みになったことがあるでしょう」それから。彼はまた未央に向かって、紹介した。「こちらはアンドレ先生。最近海外で活躍されて、ベストセラーも何冊か出版されているんですよ」未央は頷き、意味深に彼をチラッと見た。「ありがとうございます。紹介しなくてもいいですよ。私たちはすでに知り合いですから」体が強張ったアンドレは目を見開き、信じられないように彼女を見つめた。「あ……あんた、Yなのか」彼は思わず大きい声を出した。その声が僅かに震えていた。未央は頷き、アンドレを見ながら口元に嘲るように弧を描いた。「これで教えを請う資格が私にあるでしょうか」その言葉を聞いたアンドレは口をパクパクして、一言も話せず、顔色がますます青白くなった。「もちろんです」彼は歯を食いしばり、ようやく言葉を出した。視線を未央の隣の博人へ向け、不安がどんどん込み上げてきた。Yの発表した論文のうちに、催眠に関する部分があるのをアンドレは覚えていた。未央は催眠術にも精通していることは明らかなのだ。博人がずっと彼女の傍にいるということは、遠くないうちに催眠が解け、記憶が戻る可能性が高い。アンドレは瞼がピクッとつり、強い衝動に駆られた。今すぐ学術交流会を抜け出し、母国に帰るのだ。しかし。多くの目があるところで、アンドレは軽率に動けず、おずおずしながら席に着くしかなかった。周囲の人々もここの騒ぎに気付いたようで、一斉に未央の方へ視線を向けた。騒ぎ声が響き渡った。「何ですって?彼女がYさんですか」「こんなに若いとは、まさに、まさに青は藍より出でて藍より青し、ですね」「Y先生がついに公の場に来たんですね。業界の有名な先生が新たなペンネームを使って論文を投稿したと思っていましたが、まさか見たことのない顔ですね」……その頃。河本教授も審査員の席に座っていた。周
アンドレは言い訳を見つけ、次第に落ち着きを取り戻し、未央を蔑むように見つめた。「あんた、催眠する方法は一体いくつあるかも知らないだろう。帰った後何年か勉強しろ。質問があれば自分の先生に聞きなさい。一人前になってからまた私のところに来るんだ」アンドレはそう言い終わると、振り返りもせず立ち去った。その後ろ姿にはいくつか慌てた様子が見えるのだ。未央はその場に立ち、目を細めながら、心の中の確信が強くなっていった。博人の記憶喪失は、おそらくアンドレの仕業に違いない。その時、背後から弱々しい声がした。「あのう、Yさんでしょうか」伊能は周りを探し回って、ようやく白と黒のカジュアルな服を着た女性を見つけた。しかし、そのあまりにも若すぎる顔を見ると、自信がなくなったのだ。人を間違えたのではないか。だが、次の瞬間。未央は携帯の画面を見せた。そこには二人のチャット記録が表示されていた。彼女は頷きながら挨拶した。「はじめまして、私がYです。本名は白鳥未央と申します」伊能は目を見開き、呆然と立ち尽くした。信じられないという表情を浮かべていた。この若すぎる女性が、まさか本当に学界で有名なYさんだとは。「し……白鳥さん」伊能は唾を飲み込み、この事実を努力して消化しようとしながら笑顔を作った。「失礼しました。まさかこんなに若い方なんて思わなかったんです……いやはや、将来が計り知れないほど有望じゃありませんか!」未央は微笑みながら、謙遜して口を開いた。「ただいくつかの論文を発表しただけですよ。大したことありません」伊能は口元を引きつらせ、心の中で叫んでいた。いくつかの論文を発表しただけって?それらは全て核心論文で、コアジャーナルに掲載され、心理学界に大きな影響を与えたものだ!その時。廊下の照明が暗くなった。伊能は学術交流会が始まるところだとすぐに悟った。彼は未央を見つめ、若いからといって軽んじるどころか、ますます尊敬し始めた。「まだ席を決めていらっしゃらないんですよね?審査員の席を手配しましたので、ご案内します」未央は少し意外だったが、頷いて博人を連れて伊能の後ろについて行った。一方。すでに審査員の席に着いていたアンドレは先ほどの出来事を思い返していた。瞼がピクッとつり、不安が
未央は少し離れたところにいる二人を見つめながら、瞳に疑問の色が浮かんだ。絵里香はどうしてアンドレと一緒にいるのだろうか?残念ながら、距離が遠すぎて、二人の会話が全く聞こえなかった。未央は彼らに気付かれるのを恐れて、ただ影に身を潜めながら、静かに向こうの動きを黙って観察していた。すると。絵里香とアンドレは何か言い争い始めたようで、激しい口論になっていた。主に、絵里香が自分のイメージに構わず、アンドレの鼻を指しながら大声で罵倒していたのだ。これほど激怒する彼女の様子を、未央は今まで見たことがなかった。以前会った時の絵里香はいつも高飛車そうな態度で、偽善ぶっていたのだ。こんなに感情的になった彼女は初めてかもしれない。目の前に繰り広げられるシーンを不思議そうに見ながら、気付かれないようにじっとその場で動かなかった。暫くして。二人は話が合わなかったからか、絵里香は怒りに任せて去っていったが、アンドレはまだその場に立ち尽くしていて、顔色がひどく悪かった。一瞬、空気が凍り付いたようになった。未央は目を細め、博人を連れて何事もなかったようにアンドレに近づいて行った。廊下には軽い足音が響いた。「アンドレ先生、はじめまして、私は白鳥未央と申します」その澄んだ声が流暢な英語を使ってその場に響いた。アンドレは我に返り、一瞬驚いて顔を上げると、何か言おうと口を開いた。次の瞬間。その視線は未央の隣にいる博人に移った。その見覚えのある顔を見ると、数日前の記憶が蘇った。アンドレは目を大きく見開き、息を呑んで無意識に二歩下がった。「アンドレ先生、どうしましたか」未央はおかしそうに彼を見つめた。この過剰な反応が理解できなかった。そう聞かれると、アンドレはようやく落ち着きを取り戻し、無理やりに笑顔を作って言った。「何かご用でしょうか」しかし、話しながら、彼の視線は時々博人の方へチラチラと移っていた。未央は最初は気に留めていなかったが、アンドレの反応があまりにも不自然なので、思わず警戒し始めた。彼女は微笑みながら、わざと軽い口調で言った。「特にありません。私は催眠術師です。アンドレ先生がこの方面にお詳しいと知って、少しご教授を頂きたいんです」未央はそう言いながら、目を細め、密かに目の前の人を