「自分が何を言っているか分かってるのか?」晴の父の顔色は急に険しくなった。「俺は本気で言っている!」晴は真顔で答えた。「俺と一緒にならなかったら、佳世子はあんな風にならずに済んだ!誰がどう言おうと、彼女を手放すつもりはない!」「このまま意地を張ったら、どうなるか分かってるのか?」晴の父は厳しい声で尋ねた。「分かっていなかったら、今日こんな相談をしにくることはなかった!」晴は答えた。「女一人の為に、健康な体が薬漬けに成り下がってもいいのか?」「本当に愛し合っていたら、苦難派ともに乗り越えるものだ!」晴は真剣に言った。「たとえお前がそう考えているとしても、相手は分からないだろ?」そう言われると、晴は黙り込んだ。そして、彼はあざ笑いをした。「佳世子がどう思っているとしても、俺は彼女を裏切らない!」晴は言った。「彼女は俺の元に戻ってきたくないと言っているが、俺はこんなことで彼女を手放すつもりはない!」「だからお前は愛と言う名の鎖で彼女を束縛し、彼女を一生苦しめるつもりか?」その話を聞いて、隣の鈴木隆一は驚いた。晴の父の言い分に、反論の余地はなかった。とても理にかなっているように聞こえる!隆一は心配して晴を見た。もう終わりだ……「晴、彼女は家を出て随分経っているよな?」晴の父は持っている茶碗を置いて尋ねた。晴は何も言わなかった。「彼女の勇気と決心は認める。たとえお前のせいで彼女が加藤藍子に陥れたのだとしても、彼女にはお前を道連れにする考えがなかったと言うことだ。それならお前も彼女の意見を尊重すべきだ、違うか?」「俺は今日、藍子のことだけを相談しにきたんだ!」晴は両手に拳を握りしめ、話を逸らそうとした。「加藤家に刃向かうつもりか?」晴の父は尋ねた。「お前、加藤家の帝都での地位を知らないのか?」「知ってる!」晴は答えた。「地位が高いからって、犯人を野放しにするのを黙ってみろというのか?」「お前はその女の為に田中家を巻き込むつもりか?」晴の父の顔は真っ青になった。「どうやらあんたたちには、助けてくれる気がないんだな?」晴はがっかりして言った。「俺は、何を優先すべきかが分からないほど老いぼれてはいない!」「分かった」晴
「もし加藤家が塚原のヤツを助けようとしたら、絶対に放ってはおけない!」田中晴は叫んだ。「本当にそうなったら、きっとお前は手を出せないよ」鈴木隆一はため息をついた。「どういう意味だ?」「放っておけないと言ったが、お前は一体どうするつもりだ?」隆一は聞き返した。「彼らが塚原と手を組むなら、俺は加藤家が100年かけて守ってきた加藤家の名を潰してやる!」晴は答えた。「覚えてるか?俺たちはまだ、藍子の汚い裏の顔をメディアにばらしていない!」「無駄だ。それくらいで加藤家が動揺するはずがない」「なぜそう言い切れるんだ?」晴は焦った。「藍子は加藤家の人間だぞ!」「お前、忘れてないか?藍子が警察に連れていかれる前、加藤家と縁を切ると言ってたじゃないか。そうなると、お前がその事実を公表しても加藤家には何の影響もないだろう」「でも塚原はどうやって加藤家を利用して地位を固めるんだ?」「メンツだよ」隆一はそう言うと表情を暗くした。「つまり、たとえ藍子が加藤家と関係を断っても、加藤家の顔に免じて塚原の面子を立てる人もいる、ということか?」「そういうことだ」隆一は頷いた。「なんと言っても、藍子は彼らが一番可愛がっていた子さ!血は水よりも濃い!彼らが塚原の肩を持てば、塚原も自然的に藍子を支援してくれるだろうからな」そこまで言うと、2人は目を合わせた。「まさか!悟は政略結婚を考えているのか?」2人は同時に言った。「最悪、藍子は塚原の力を借りてお前に手を出すかもしれない!」隆一は少し震えた。「俺が彼女に手を出す前に彼女が何か手を打ってくるとでも?」晴は怒りで目を大きくい開いた。「可能性はゼロではない」隆一は冷静に言った。「お前は藍子にあんなに薄情な態度をとったからな。彼女は仕返しをしてくるだろう」そこまで聞くと、晴はまるで喉に綿を詰められたかのように、息が苦しくなった。「佳世子にいうかどうかを決める前に、まずは藍子をどうするかを考えるべきだ」隆一は言った。「彼女が塚原と結託した後はきっと、塚原は自分の地位を固める為に、絶対真っ先に田中家を潰しにくる!」「それがうちとどんな関係があるんだ?」晴は怒ってきた。「うちの両親は、藍子に親切だったじゃないか」
「分かった、佳世子と相談してくる」田中晴は言った。マンションに戻って随分と躊躇ってから、杉浦佳世子にメッセージを送った。「今忙しい?」「ううん、何で?」暫く待つと、佳世子が返事してきた。「加藤藍子は、塚原悟の働きかけで釈放されるらしい」メッセージを読んだ佳世子は、思考が止まった。そして、怒りや憎しみ、悲しみが混ざった複雑な気持ちになった。佳世子は文字を打つのがめんどくなり、そのまま晴に電話をかけた。晴はすぐ電話にでた。「誰から聞いたの?」佳世子は厳しい声で尋ねた。「紀美子が教えてくれたんだ。このこと、君はどう思う?」「もし塚原がそんなことをしたら、私は絶対に彼らを許さない!!」佳世子は思わず携帯を握りしめた。晴は暫く黙り込み、先ほど鈴木隆一と相談した内容を彼女に伝えた。「佳世子、俺は君を守り抜くつもりだが、万が一のことがある。やはり君を完璧に守れるのは世論だ」「ならば、私自ら暴くわ!」佳世子は言った。「もうどうせ、ここまで来たからには、人にどう見られようと私は気にしない!加藤藍子にだけ、代価を払わせるわ!そして……塚原悟にも!」「俺を無能だと思ったりしない?」晴は目玉を動かして尋ねた。「しない。あんたは藍子を刑務所に送り込んでくれた。それでもう十分だわ」佳世子は言った。「しかも今回のことは、私自身のうっかりだったし」晴は深くため息をついた。「注意しなければならないのは、塚原が藍子と政略結婚をした後だ。君が藍子に手を出すと、塚原が君を許さないだろう」「私を殺すとでも?こんなタイミングで私に手を出したら、帝都での地位を固めることなどできないわ!」「君は、戻ってくると決めたのか?」「帰るけど、今じゃない。藍子への復讐について真剣に計画を立てなきゃ。チャンスを見つけないと」急がば回れだ。特に復讐は。「佳世子、違法なことだけはやめろよ」晴は眉をひそめた。「そんな奴の為に、命をかけるつもりはないわ!」佳世子の返事を聞くと、晴はほっとした。「分かった、待ってる」「晴、まだよりを戻すことを考えてるの?」佳世子は間をおいて尋ねた。晴は脳裏に父の話を思い浮かべた。「佳世子、俺は強引によりを戻そうだなんて思っていない。だが俺は
入江紀美子は思い出した。そうだ、露間朔也は華国の出身じゃないから、ここに埋葬されるわけがなかった。墓参りに行けないことを知り、彼女は寂しい気持ちになった。「なら、紙銭を用意して」エリーは眉をひそめた。彼女は、すぐには紙銭が何なのか理解できなかった。隣の沼木珠代が代わりに説明をした。「これは華国の風習で、亡くなった方が死後の世界に使うためのお金を送るんです」「そんな意味の無いことをやるのはくだらなすぎる!」エリーはドイツ語で貶した。紀美子はドイツ語が分からないが、彼女の口調から大体意味が分かった。「それと、もう一つ」紀美子は続けて言った。「要件を一回で全部話せないの?」エリーはイラついて尋ねた。「塚原に言って。私は会社に戻るから、携帯を返してって」エリーは暫く紀美子を見つめ、そしてまた塚原悟に報告しに行った。しかし、エリーが通話ボタンを押した途端に、庭から車のエンジンの音が聞こえてきた。悟の車を見て、エリーは通話を取り消し、迎えに出ていった。すぐ、2人が別荘に入ってきた。紀美子はソファに座って待っていた。悟は紀美子の横に座り、優しい声で口を開いた。「まだ体が完全に回復していないのに、もう会社に行くのか?」「うん」紀美子は悟と目も合わせず、ついてもいないテレビ画面を見つめて返事した。「もう何日か休んでから行ってもいいんじゃないか?」「会社の副社長が亡くなって、私も長い間顔を出していないし、もし何かあったら、あんたに責任が取れるの?」「私が、もっといいパートナーを見つけてやる」悟は紀美子の冷たい横顔を見ながら言った。「要らないわ!」紀美子は厳しく悟の話を打ち切った。「これ以上会社のどんなことにも関わらないで!」「もし君がどうしても会社に行きたいなら、私はこれ以上止めない」悟は言った。「でももう2日だけ休んでからだ。エリーの同行が必須条件だ」エリー!またエリー!紀美子は怒鳴った。「一体いつまで私を監視し続ける気なの?晋太郎はもういない!兄ももういない!今は全てがあんたの手の内だって言うのに、私にこれ以上何を求めるの?」「私は君の安全を案じている」悟は落ち着いた声で説明した。「私はこのポジションについたばかりだ。沢
「会社のことはご心配なく。私達は計画通りに進めていて、社長がすべきは、前四半期の統計をチェックすることだけです」「露間社長のことは残念ですが、社長もあまり悲しみすぎませんように」竹内佳奈はついでに一枚の画像を送ってきていた。入江紀美子が開くと、社員達が露間朔也の事務所に白い菊の花を供えた写真だった。それを見ると、紀美子は思わず目元が潤んだ。涙がぽろぽろと携帯画面にこぼれ落ち、紀美子はそれを拭いてからすぐに佳奈に返信した。「待っていてくれてありがとう。明日会社に行くわ」彼女はその返信を会社のグループチャットにも転送した。メッセージを読んだ社員達は、一瞬で騒ぎ出した。「社長!お体はもう大丈夫ですか?ネットのトレンドトピックを読んで皆心配していましたよ!」「社長、無事に戻って来られて本当に嬉しいです!」「社長、今月の売上がまた記録を更新しました!社長が戻って来られたら皆でお祝いしましょう!」……皆のメッセージを読んで、紀美子は心が温まった。社員達は全員揃って悲しいことについて一言も触れてこず、まるで事前に口裏を合わせたようだった。グループチャットを閉じ、紀美子は携帯画面をスクロールしてメッセージをチェックした。杉浦佳世子からのメッセージも届いていた。何通も届いているが、殆どが数日前のものだった。佳世子は殆ど数時間置きに、紀美子の状況を尋ねてきていた。紀美子はすぐにでも佳世子に返事したかったが、携帯に何らかのウィルスを仕込まれているのは分かっていた。万が一のことを考え、まだ返信しない方がいいと考えた。続けてスクロールすると、あの名前が見えたーー森川晋太郎。彼女は息が止まりそうになりながら、晋太郎からのメッセージを開いた。メッセージの内容はそれほど多くなかったが、たった数通で彼の全ての気持ちが全て手に取るように伝わってきた。「紀美子、婚約式のことは悪かった。戻ってきたら必ず償うよ」「紀美子、君の怒りと失望はそう簡単に収まるものではないと分かっているが、少しでも気持ちの整理ができたら、返事をくれ」「翔太さんから君が体調が悪いと聞いたが、無理をするな。このメッセージを読んだらすぐ電話してくれ!」そう、3通のメッセージが届いていた。たったこれしかないが、紀美子はまた心が折
「社長!」女性社員が声をかけてきた。「やっと戻ってこられたんですね!」紀美子は社員に微笑みかけた。「ええ、戻ってきたわ」女性社員は興奮しながらカードを手に持ち、紀美子と一緒にエレベーターの方へ向かった。エレベーターを待ちながら、女性社員は紀美子に尋ねた。「社長、お体の具合は良くなりましたか?」「安心して」紀美子は穏やかに微笑んで答えた。「もうほとんど治ったから」「それは良かったです」「社長、どうぞ」エレベーターのドアが開くと、女性社員は言った。紀美子は頷き、エリーを連れてエレベーターに乗り階数ボタンを押した。上階。紀美子が戻ってきたと聞いた佳奈は、すぐにエレベーターの前に駆けつけた。彼女は緊張しながら服装を整え、上昇してくるエレベーターを見つめた。「ピン——」エレベーターが到着すると、佳奈は深く息を吸い込み、顔に笑顔を浮かべ、ドアが開くと、佳奈はすぐに声をかけた。「社長、お帰りなさ……い……」話の途中で、佳奈は驚いて言葉を止め、視線は紀美子の後ろに立つ女性に釘付けになった。紀美子はエレベーターから降りながら、佳奈に笑顔で言った。「昨日、迎えに来なくていいと言ったでしょう?」佳奈は視線を戻し、紀美子に付き従いながら答えた。「どうしても我慢できませんでした、社長。しばらく会えていなかったので」「もう社員に知らせてある?後で会議を開くよ」佳奈は深く頷いた。「はい、準備は万全です」オフィスの扉の前まで来ると、佳奈は率先して扉を開けた。紀美子が中に入ると、エリーも続いて入ろうとしたため、佳奈はすぐに彼女を呼び止めた。「ここは社長のオフィスです。許可なしでは入れません」その声を聞いて、紀美子が振り返り佳奈を見た。エリーは冷たい視線で佳奈を見つめた。「どいて」「いいえ。社長の許可がなければ、絶対に通しません」佳奈は言った。エリーは仕方なく紀美子の方に視線を向けた。紀美子は彼女に答えず、佳奈に向かって言った。「よくやったわ。関係ない人は入れないでね」紀美子の同意を得ると、佳奈は少し顎を上げ、エリーを見て言った。「関係ない人は入っちゃダメですからね!」エリーは不機嫌そうに紀美子を睨み返した。「影山さんから、あなたに
とはいえ、晋太郎が帝都で築いた広大な人脈と影響力を、悟が一気に掌握するなんて到底無理な話だ。彼が自分の地位を安定させるためには、人を頼る以外他に選択肢などないだろう。紀美子は胃の中がムカムカとするのを感じた。佳世子がこれを知ったらどんな気持ちになるのか、想像し難かった。アパートの中。このニュースを目にした晴は、すぐさま佳世子に電話をかけた。電話はすぐにつながった。晴は低い声で話し始めた。「佳世子、悟が藍子と婚約した」佳世子はしばらく沈黙した後、「……やっぱり、クズ男と安い女はいつもペアね」と冷たく言い放った。その口調は冷静だったが、晴は彼女の声から燃え上がる怒りを感じた。「佳世子……」晴は心配そうに呼びかけた。「私は大丈夫」佳世子は落ち着いた声で言った。「晴、紀美子のもう一つの電話番号を教えて」晴はすぐに紀美子の別の番号を佳世子の携帯に送った。「送ったよ。他に何か手伝えることはある?」晴が尋ねた。佳世子は深くため息をついてから言った。「藍子を見張れる人を何とか探して。私は紀美子と話してくる」「……分かった」佳世子は電話を切ると、すぐに紀美子にメッセージを送った。ちょうどコメントを見ていた紀美子は振動に気づき、ポケットからもう一つの携帯を取り出した。番号を見た瞬間、紀美子は驚いた。佳世子だ。長年の付き合いで、紀美子は佳世子の番号をしっかり記憶していた。この数日間、佳世子に連絡を取ろうとか迷っていたが、どう切り出せばいいか分からなかった。まさか佳世子が先にメッセージを送ってきてくれるなんて。佳世子と晴は会ったのだろうか?でなければ、この番号をどうして知っているはずがない。そう考えながら紀美子はメッセージを開いた。「紀美子、私よ、佳世子」紀美子はすぐに返信した。「分かってるわ。佳世子。元気だった?」「元気よ。あなたはどう?体調は大丈夫?」紀美子は鼻の奥がツンとした。「体調には問題ないけど、心が空っぽになったみたい」画面越しでも、佳世子には紀美子の痛みが伝わってきた。彼女は慰めた。「紀美子、大変なのは分かってる。本当にごめんね、そばにいてあげられなくて。本当はもっと早く連絡するべきだったけど、最近は藍子をどうするか考
二人は、部屋の扉の鍵をかけ楽しそうにキーボードを叩いていた。念江は冷静になり、パソコンに夢中の佑樹を見つめながら言った。「佑樹、そろそろ始める時間だよ」佑樹は頷いた。「そうだね。もう時間を無駄にはできない」念江はパソコンの電源を入れ、起動を待ちながら窓の外に目をやった。「ゆみ、今どうしてるんだろう。全然連絡がないけど」佑樹は手を止め、呆れたように念江を見つめた。「あの子、昨夜もメッセージを送ってきたよ。まだ一日も経ってない」念江は少し驚き、気まずそうに笑った。「そうだったのか?いないと時間が長く感じるよ」「僕ら二人とも何もしていなかったからだよ」佑樹は言った。「学校にも行けないし」「こんな日々、いつ終わるんだろうな」「後でママに連絡して、悟に学校のことを相談してもらうよう頼んでみる」佑樹は言った。「うん、でもそれは後にしよう。まずは無線のログイン記録を消しておくよ」「その辺は任せる。僕はエリーという人物を調べるよ」佑樹は言った。「了解」三時間後。佑樹のパソコンにエリーの情報が表示された。念江は画面をちらっと見てから、再び自分のパソコンに目を戻した。「見つかったか?」佑樹は眉をひそめながら、見つけた資料をじっと見つめていた。読み進めるにつれ、体中が寒気に襲われるのを感じた。「見つけたよ」佑樹はごくりと唾を飲み込んで言った。「この女、世界殺し屋ランキングで第5位に入っている。悟がこんな人間と知り合いだなんて、信じられない!」「そんなあり得ないことでもないさ。彼は医者だろ?もしかしたら彼女を助けたことがあるのかもしれない」「その可能性も否定できないね」佑樹はさらに資料を読み進めながら言った。「でも、彼女がママのそばにいるのは危険だと思う」「一旦パソコンを閉じよう、佑樹」念江は注意を促した。佑樹はすぐにパソコンを閉じ、念江も最後のIPの記録を消した後、パソコンを閉じた。「彼女がママに手を出すことはないと思う」念江は言った。「でも、悟が本気でママを狙うつもりなら、エリーがいる限り、ママは完全に彼らの手の内だよ」念江は困ったように言った。「それもそうだね」「事実だよ」佑樹は真剣な表情で言った。「でもエリー
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く
「それは――龍介さんが自分で瑠美とちゃんと話すしかないんじゃない?」紀美子は微笑みながら言った。「紀美子、今夜は瑠美を呼んでくれてありがとう」龍介はグラスを持ち上げた。紀美子もグラスを上げて応じた。「龍介さんにはお世話になりっぱなしなんだから、こんな簡単なことでお礼言われると困るわ」夜、紀美子と晋太郎は子供たちを連れて家に戻った。紀美子が入浴を終えたちょうどその時、ゆみから電話がかかってきた。通話を繋ぐと、ゆみはふさぎ込んだ声で聞いてきた。「ママ、明日お兄ちゃんたち行っちゃうんでしょ?」紀美子はぎょっとした。「ゆみ、それは兄ちゃんたちから聞いたの?」「うん」ゆみが答えた。「ママ、お兄ちゃんたち何時に行くの?」浴室から聞こえる水音に耳を傾けながら、紀美子は言った。「ママも正確な時間わからないの。パパがお風呂から出たら聞いてみるから、ちょっと待っていてくれる?」「わかった」ゆみは言った。「ママ、それまで他の話しよっか」紀美子はゆみと雑談をしながら、十分ほど時間を過ごした。すると、晋太郎がバスローブ姿で現れた。ゆみの元気な声が携帯から聞こえてきたため、晋太郎は髪を拭きながらベッドの側に座った。「もう11時なのに、まだ起きてるのか?」紀美子が体を起こした。「佑樹たち明日何時に出発するのか知ってる?」晋太郎は紀美子の携帯を見て尋ねた。「ゆみはもう知ってるのか?」「知ってるよ!」ゆみは即答した。「パパ、私お兄ちゃんたちを見送りに行きたい」「泣くだろう」晋太郎は困ったように言った。「だから来ない方がいい」「嫌だ!絶対に行くの。だって次に会えるのいつかわからないんだもん」ゆみは強く主張した。その声は次第に震え始め、今にも泣き出しそうな顔になった。晋太郎は胸が締め付けられる思いがした。「分かったよ……専用機を手配して迎えに行かせる」そう言うと彼はベッドサイドの携帯を取り上げ、美月に直ちにヘリコプターを手配するよう指示した。翌日。紀美子は早起きして、子どもたちのために豪華な朝食を用意した。子供たちは、階下に降りてきてテーブルいっぱいに並んだ見慣れた料理を目にすると、驚いたように紀美子を見つめた。「これ全部、ママが一人
龍介は瑠美に笑いかけて言った。「瑠美、この前は助けてくれてありがとう」彼がアシスタントに目配せすると、用意してあった贈り物が瑠美の前に差し出された。「ささやかものだけど、受け取ってほしい」瑠美は遠慮なく受け取り、龍介に聞いた。「開けていい?」「どうぞ」瑠美は上にかけられていたリボンを解き、丁寧に箱のふたを開けた。中身を目にした瞬間、彼女は驚いて目を見開いた。「えっ!?これどうやって手に入れたの?!瑠璃仙人の作品でしょ!?」「前に君が玉のペンダントしてたから、好きなんだろうと思って」「めっちゃ好き!!」瑠美は興奮して紀美子に言った。「姉さん!これ梵語大師の作品よ!前に兄さんに探させたけど全然ダメだったのに!」紀美子は玉のことには詳しくないため、梵語大師が誰なのかもわからなかった。彼女はただ穏やかに微笑んで言った。「気に入ってくれて良かったわ」一方、晋太郎の視線は龍介に留まった。龍介の目には、かすかな熱意のようなものがある。紀美子を見る時には決して見せたことのない眼差しだ。もしかして、龍介は瑠美に気があるのか?晋太郎は探るように口を開いた。「吉田社長の狙いがこんなに早く変わるとはな」龍介は瑠美の笑顔から視線を外し、晋太郎の目を見つめて言った。「森川社長、それはどういう意味だ?」晋太郎は唇を歪めて冷笑した。「吉田社長、新しい対象ができたのに、なぜまだ紀美子に執着してるんだ?」それを聞いて、瑠美は驚いて顔を上げ、龍介と紀美子を交互に見た。紀美子は瑠美の視線を感じ取って、説明した。「私と吉田社長は何もないから、誤解しないで」「誤解なんてしてないよ」瑠美は言った。「でも晋太郎兄さんが言ってた『吉田社長の狙い』って、私のこと?」紀美子も、晋太郎のその言葉の真意はつかめていなかった。龍介のような、感情を表に出さず落ち着いていて慎重なタイプが、活発で明るい瑠美に興味を持つのだろうか。もしかすると、あの時瑠美が龍介を助けたことがきっかけなのか?二人の年齢差は10歳ほどあるはずだ。でも、性格が正反対なほど惹かれ合うって話もある。もし瑠美が龍介と結婚したら、みんな安心できるだろう。「もしよければ、瑠美さん、連絡先を教えてくれないか?」
そう言うと、晋太郎はさりげなく紀美子から車の鍵を受け取った。佑樹が傍らで晋太郎をじっと見て言った。「パパ、違うよ。ママが誰かとお見合いするわけじゃん」晋太郎は生意気な佑樹を見下ろしながら聞き返した。「じゃあ、何だって言うんだ?」佑樹は笑いながら紀美子を見て言った。「ママみたいな美人、お見合いなんて必要ないじゃん。ママに告白したい人を並ばせたら、地球を一周できるよ」念江も付け加えた。「前におばさんから聞いたけど、ママの会社の重役や課長さんたちもママに気があるらしい」晋太郎の端整な顔に薄ら笑いが浮かんだが、その目には陰りがあった。「ろくでもない奴らだ。君たちのママはそんなやつらに興味ない」重役と課長か……晋太郎は鼻で笑った。計画を早める必要がありそうだな。「そろそろ時間よ。遅れちゃうわ。三人とも、もう出発できる?」紀美子は腕時計を見て言った。一時間後。紀美子と晋太郎は二人の子供を連れてレストランに到着した。龍介が予約した個室に入ると、彼はすでに待っていた。紀美子を見て龍介は笑顔で立ち上がった。「紀美子、来たね」紀美子が前に出て謝った。「龍介さん、ごめん。渋滞でちょっと遅れちゃった」「気にしないで」龍介は晋太郎を見上げて言った。「森川社長、久しぶりだな」晋太郎は鼻で嗤い、皮肉をこめて言った。「永遠に会わなくてもいいんじゃないか」龍介はその言葉を無視し、子供たちにも挨拶してから席に着いた。紀美子が子供たちに飲み物を注いだ後、龍介に尋ねた。「今日は何の用?」「じゃあ単刀直入に言うよ」龍介の表情が急に真剣になった。「紀美子、瑠美は君の従妹だよね?一度彼女に会わせてくれないか?」紀美子は驚き、晋太郎と視線を合わせてから龍介を見た。「この前の件で瑠美に会いたいの?」龍介は頷き、率直に答えた。「ああ、命の恩人に対して、裏でこっそり調べたり連絡するのは失礼だと思ってね」「紹介はできるけど、彼女が会ってくれるかどうかはわからないよ」「頼むよ。あれからずっと、ちゃんとお礼も言えてなかったから」紀美子は頷き、携帯を取り出して瑠美の番号を探し出した。「今連絡してみる」電話がつながると、瑠美の声が聞こえた。「姉さん?どうした?
どっちみち焦っているのは晋太郎の方で、こっちじゃないんだから。これまで長い年月を待ってきたのだから、もう少し待っても構わない。2階の書斎。晋太郎はむしゃくしゃしながらデスクに座っていた。紀美子が龍介と電話で話していた時の口調を思い出すだけで、イライラが募った。たかが龍介ごときに、あんなに優しく対応するなんて。あの違いはなんだ?ちょうどその時、晴から電話がかかってきた。晋太郎は一瞥してすぐに通話ボタンを押した。「大事じゃないならさっさと切れ!」晋太郎はネクタイを緩めながら言った。電話の向こうで晴は一瞬たじろいだ。「晋太郎、家に着いたか?なぜそんなに機嫌が悪いんだ?」晋太郎の胸中は怒りでいっぱいになっており、必然と声も荒くなっていた。「用があるなら早く言え!」「はいはい」晴は慌てて本題に入った。「さっき隆一から電話があってな。出国前にみんなで集まろうってさ。あいつまた海外に行くらしい」「無理だ!」晋太郎は即答した。「夜は予定があるんだ」「午後、少しカフェで会うだけなのに、それも無理か?」午後なら……夜の紀美子と龍介の待ち合わせに間に合う。ついでに、あの件についても聞けるかもしれない「場所を送れ」30分後。晋太郎は晴と隆一と共にカフェで顔を合わせた。隆一は憂鬱そうにコーヒーを前にため息をついた。「お前らはいいよな……好きな人と結婚できて」晴はからかうように言った。「どうした?また父親に、海外に行って外国人とお見合いしろとでも言われたのか?」「今回は外国人じゃない」隆一は言った。「相手は海外にいる軍司令官の娘で、聞くところによると性格が最悪らしい」晴は笑いをこらえながら言った。「それはいいじゃないか。お前みたいな遊び人にはぴったりだろ?」「は?誰が遊び人だって?」隆一はムッとして睨みつけた。「お前みたいなふしだらな男、他に見たことないぞ!」「俺がふしだらだと?!」晴は激しく反論した。「俺、今はめちゃくちゃ真面目だぞ!」隆一は嘲るように声を上げて笑った。「お前が真面目?笑わせんなよ。佳世子がいなかったら、まだ女の間でフラフラしてたに決まってるだろ!」「お前だってそうだったじゃないか!よく俺のことを言える
晋太郎は思わず唾を飲み込んだ。言葉に詰まる彼を見て、紀美子は笑いながら頬の髪を耳にかけた。「晋太郎、隠してもね、ふとした瞬間に本心は漏れるものよ。言いたくないなら無理強いはしない。いつかきちんと考えがまとまったら、また話しましょう」そう言うと、紀美子は先を行く子供たちの手を取って笑いながら歩き出した。紀美子の後姿を見ながら、晋太郎は考え込んだ。……翌日。一行は荷物をまとめ、帝都に戻った。別荘に着くとすぐ、紀美子は龍介から電話を受けた。彼女はスピーカーをオンにし、子供たちのためにフルーツを準備しながら応答した。「龍介さん」そう言うと、電話の向こうから龍介の心配そうな声が聞こえてきた。「紀美子、大丈夫か?」ちょうどキッチンに入ってきた晋太郎は、はっきりとその言葉を聞いた。彼は眉をひそめ、テーブルに置かれた紀美子の携帯を不機嫌そうに睨みつけた。「相変わらず情報通だね。大丈夫だよ、心配しないで」「いや、情報通ってわけじゃない」龍介は言った。「今、トレンド一位が悟の件だ。まさか自殺するとは」紀美子はリンゴの皮をむく手を止めた。「もうその話はいいよ。過去のことだし」「悪い。今晩、空いてる?食事でもどうだ?」「無理だ!」突然、晋太郎の声が紀美子の背後から響いた。びっくりして振り向くと、彼はすでに携帯を奪い取っていた。龍介は笑いながら言った。「森川社長、盗み聞きするなんて、よくないね」「陰で俺の女を誘う方がよほど下品だろ」「森川社長、俺と紀美子はビジネスパートナーだ。食事に誘うのに許可が必要か?」晋太郎は冷笑した。「お前みたいなパートナー、認められない」「森川社長と紀美子はまだ何もないはずだ。『俺の女』って言い方、どうかしてるぞ」「……」紀美子は言葉を失った。この二人のやり取り、いつまで続くんだろう……「龍介さん、何か急ぎの用?」紀美子は携帯を取り返し、呆れた様子で晋太郎を一瞥した。「相談したいことがある。家族連れでも構わない」「わかった。後で場所と時間を教えて」「ああ」電話を切ると、紀美子は晋太郎を無視してリンゴの皮むきを続けた。晋太郎は腕を組んでキッチンカウンターに寄りかかり、不機嫌そうに聞いた。「俺とあいつが同
「お前の両親は納得したのか?」晋太郎がさらに尋ねた。「俺はあいつらと縁を切ったのさ。だから何を言われようと、俺は気にしない」晴は肩をすくめた。「子供たちを海外に送りだしたら、準備する」晋太郎は視線を紀美子と子供たちに向けた。「そう言えば、佑樹たちはいつ出発するんだ?」晴はハッと気づいた。「明日、まず彼らを帝都に連れ帰る。明後日には隆久と一緒に出発する予定だ」晋太郎は日数を計算した。「ゆみには言わないのか?兄たちを見送らせてやらなくていいのか?」晴は軽くため息をついた。「必要ない」晋太郎は即答した。「ゆみを泣かせたくない」「お前のゆみへの態度、日に日に親バカ度が上がってるように感じるよ。昨日佳世子と話してたんだ。『もう一人産んで、その子を譲ってくれ』って」晴は眉を上げた。「寝言は寝てから言え」晋太郎は足を止め、不機嫌そうに彼を見た。「お前と紀美子はまだ産めるだろうが、俺は無理なんだよ!」晴は言った。「今の医療技術なら、子供への感染を防ぐ方法も試せる」晋太郎は彼をじっと見た。「『試せる』って言ったろ」晴は落ち込んだ。「もし運が悪くて子供に感染したらどうする?」「たとえお前が俺の子供を自分の子のように育てられても、お前たちには大きな悔いが残るだろう」晋太郎は言った。「もういい。佳世子に毎日苦しみと自責の念を味わわせたくない。病気だけでも十分辛いんだ」晴はため息をついた。「俺は子供をやるつもりもない」そう言うと、晋太郎は紀美子たちの後を追った。「晋太郎!酷いこと言うなよ!金は弾むよ。少しは人情を持てよ!」晴は目を見開いた。晴の見えないところで、晋太郎の唇がかすかに緩んだ。夕食後。紀美子と晋太郎は、二人の子供を連れて外を散歩した。「会社の合併について考えたことはあるか?」しばらく歩くと、晋太郎は傍らの紀美子に尋ねた。「合併ってどういう意味?」紀美子は彼を見上げた。「文字通りの意味だ」晋太郎は、もし紀美子がまた妊娠したら、彼女に産休を取らせるつもりだった。「あんたの力に頼って会社を発展させる気はないわ。全てが無意味になる」「MKを見くびっているのか?」晋太郎は足を止めて彼女を見た。「MKの実力を馬
遠くのスナイパーも急いでライフルの安全装置を外したが、悟は自分のこめかみに銃を向けた。晋太郎は呆然とした。言葉を発する間もなく、悟は笑みを浮かべながら引き金を引いた…………紀美子が目を覚ました時、自分が元の部屋にいないことに気づいた。佳世子が傍らに座り、二人の子供たちと話していた。彼女がゆっくりと体を起こすと、その音に三人が一斉に振り向いた。「紀美子!」佳世子が駆け寄った。「目が覚めたんだね!」「どうやって戻ってきたの?」紀美子は尋ねた。「晋太郎が連れ帰ってくれたの。もう全部終わったわ」佳世子は明るく笑った。「終わったって……?」紀美子は理解できずに聞いた。「悟は?自首したの?」「彼、自殺したの」佳世子の瞳が少し潤んだ。自殺……紀美子は凍りついた。「晋太郎と二言三言交わした後、自分のこめかみに銃を向けて、みんなの目の前で死んだらしいわ。あの時彼があんたを再び部屋に連れ戻した理由が分かる気がする。自分の死に様を見せたくなかったんでしょうね」佳世子は続けて言った。紀美子は、ホテルのロビーで大河が撃たれた後、悟が彼女の目を覆ったことを思い出した。悟の結末を聞いて、紀美子は複雑な心境になった。悲しい?悟は数々の非道なことをしたのに、なぜ悲しいのか分からなかった。少しも嬉しい気持ちになれない。目が次第に赤くなっていく紀美子を見て、佳世子は心の中でそっとため息をついた。二人は、長年共に過ごした仲間だ。たとえ悟がどれほど冷血なことをしたとしても、紀美子は彼が優しくしてくれた日々を思い出さずにはいられないだろう。だって、あの優しさは本物だったから。「晋太郎は?」紀美子は長い沈黙の後、ようやく息をついて話題を変えた。「隣の部屋で会議中よ。会社の用事で、晴も一緒だわ」佳世子は答えた。紀美子は頷き、視線を子供たちに向けた。「この二日間、怖い思いをさせちゃったね」彼女は両手を広げ、微笑みながら言った。二人の子供は母の懐に飛び込んだ。「お母さん、怪我はない?」念江が心配そうに尋ねた。「うん、とくに何もされなかったわ」紀美子は首を振って答えた。「あの悪魔はもういないし、僕と念江も安心して出発できる」「うん、外でしっか
悟は紀美子をじっと見つめた。まだ語り尽くせない思いは山ほどあったが、全ては言葉にできなかった。長い沈黙の後、悟は紀美子の手を離し、立ち上がってドアに向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、彼は再びベッドに横たわる彼女を振り返った。淡い褐色の瞳には純粋で、ただ未練と後悔だけが満ちていた。ゆっくりと視線を戻すと、悟は決然とドアを開けた。ドアの外で、ボディガードは悟が出てくるのを見て一瞬たじろいだ。「お前は私の部下ではない。何もしなくていい。私が自分で行く」悟は彼を見て言った。「悟が降りてきます!」悟の背中を見送りながら、ボディガードは美月に報告した。報告を受け、美月は晋太郎を見た。悟が紀美子にかけた言葉をはっきりと聞いていた晋太郎は、端正な顔を険しくした。次に……彼は唇を強く結び、ドアを開けて車から出た。美月も続いて降りてきた。晋太郎たちがホテルの入り口で立ち止まると、悟が中から出てきた。「あんたと俺は同じ汚れた血が流れている。たとえあんたが認めたくなくても、これが事実だ」悟は平静な笑みを浮かべた。「上で紀美子に何をした?」晋太郎は怒りを抑え、冷たい声で詰め寄った。「私が彼女に本当に何かしたとして、あんたの出番などないだろう」悟は反問した。「だが心配するな。彼女はただ眠っているだけだ」「お前は自分で自首するか、俺がお前をムショに送るか選べ」「刑務所だと?」悟は嘲笑った。「私があの男と同じ場所に行くと思うか?」「それはお前が決めることじゃない!」「降りてきたのは、ただ一つ聞きたいことがあったからだ」悟は一歩踏み出し、ゆっくりと晋太郎に近づいた。二人の距離が縮まるのを見て、美月は慌てて止めに入ろうとした。「来るな」背後からの気配に、晋太郎は軽く振り返って言った。美月は焦りながらもその場で止まった。社長は目の前の悟がどれほど危険か分かっているのか?本当に傲慢で思い上がりも甚だしい!!「最後のチャンスだ。聞きたいことは一度で済ませろ」晋太郎は視線を戻し、悟の目を見据えた。「貞則があんたの母親にあんなことをしたのを知って、彼を殺そうと思ったことはあるか?」「お前があの老害を始末してくれたおかげで、俺は手を汚さずに済んだ。礼を言