「紀美子」塚原悟は入江紀美子を呼び止めた。紀美子は足を止め、振り返って淡々と返事した。「何しに来たの?」「学校まで送ってあげる」学校?紀美子の目つきは一瞬で冷たくなったが、素直に悟の方へ近寄っていった。会社の前なので、彼女は社員達の注意を引きたくなかった。紀美子は車に乗り込み、悟も乗り込んだのを確認してから厳しい声で問い詰めた。「何で私が今日学校に行くのを知ってんのよ!学校にまで子供達の監視役を付けたの?」悟はエンジンをかけながら淡々と説明した。「監視役など付けていない。ボディーガードがそれを聞いて私に報告してきたのだ」「それって監視と変わらないじゃない」紀美子は怒りを抑えながら尋ねた。「あんたが子供達に私へと同じことをしていたら、彼らは他のクラスメイトに差別されるわ!」「紀美子、考えすぎだ」悟は説明した。「ボディーガード達はただ、学校の入り口で彼らを見守っているだけだ」「もういいわ!そうだとしても、あんたはどうして私と一緒に行こうとしてるの?子供達は既にあんたがやらかしたことを知っているのに、よく行く気になったわね!それとも、私が子供達に会って、あんたに不利なことを計画するとでも疑ってるの?」悟は口を閉じたまま何も言わなかった。彼自身にも、なぜ今日突然紀美子と一緒に学校に行こうとしたのか分からなかった。あの2人の子供が自分のことをどう見ているかなど、彼は気にしたことはなかった。確かに、彼らの能力は気になった。彼らはいつもインターネットという仮想の世界を駆け巡っていたので、もしかしすると、ネットを介してとんでもないスキルを持つ人に出会ってしまうかもしれない。しかし、懇談会があることを聞いた瞬間から、悟の脳裏にはたった一つの考えしか思い浮かんでいなかった。自分が紀美子と一緒に行かなければ、彼女が自分の目の前から消え去る、と。その不安の気持ちが彼を自然とTycの前に導いたのだった。皮肉なことに、彼にはそんな考えを言い出す勇気はなかった。悟が返事してくれないのを見て、紀美子はあざ笑いをした。「エリーに監視を辞めさせたら、あんたが直々尾行しに出向いてくるとはね。本当にいい迷惑よ!」悟は軽く眉を顰めた。「紀美子、それはどういうことだ?」「どうやら、藍
「たかが紀美子のことで、あなたは私を見捨てるつもりなの?」藍子は信じられないという様子で問いかけた。悟は冷たく言い放った。「お前、自分を何か大したものだとでも思っているのか?」「あなた……」藍子は驚きの声を上げた。「どうしてそんなひどいことが言えるの?」悟は言った。「加藤家の力を除けば、俺にとってお前なんて価値はない」藍子は悟の侮辱的な言葉に耐えられなかった。「それならもう婚約を解消しましょう!」彼女は冷静さを次第に失っていった。「この話は俺が最初に切り出したんだ。だから、お前に終了を決める権利はない」「どうして私には権利がないの?!」藍子は怒りに任せて反論した。「私だって、家族にあなたが紀美子と浮気していることを公表させて、婚約を完全に解消させることだってできるわ!」「やれるもんならやってみろ。ただし、お前がどうして刑務所から出られたか、忘れるなよ」そう言い残し、悟は電話を切った。藍子は驚きのあまり、携帯の画面を見つめたまま固まった。彼は自分を脅しているのか……?藍子は呼吸を整えようと必死に深呼吸をした。こんなにも卑屈な、誰かの思い通りにされるような人生は、彼女のプライドが許さなかった。彼女はすぐに美知子に電話をかけた。しばらくして、電話がつながった。美知子は気だるそうな声で笑いながら言った。「藍子か。今日は珍しくおばあちゃんに電話をくれるのね」藍子は感情を抑え、静かに頼んだ。「おばあちゃん、一つお願いがあります」美知子は優しく答えた。「言ってごらん。おばあちゃんにできることなら、力になるわ」「悟との婚約を解消したいんです」藍子は真剣な口調で言った。「だめよ!」美知子の声が急に鋭くなった。「そんなことは許さない!」藍子は一瞬言葉を失った。「おばあちゃん、今日悟があの女のために私をどんな風に中傷したか知ってる?」「悟が何を言ったかは関係ない。あなたはそんなことを考える資格はない!」「どうして?」藍子は声が震えながら尋ねた。「悟があなたを助けてくれたこと、あれは私たち加藤家が彼に借りた大きな恩義よ!感謝しないどころか、婚約を解消したいなんて……あなた、自分が加藤家の名にどれだけ泥を塗ったか、どれだけ恥をかかせた
一方、学校にて。紀美子は二人のボディーガードを伴い、子どもたちの教室の前に到着した。多目的ホールでの保護者会が始まるまでまだ時間があったため、先に子どもたちの様子を見に来たのだ。入口の少し離れた場所に立った紀美子の目には、教室内の前後に座り真剣に授業を受けている佑樹と念江の姿を捉えた。その瞬間、彼女の目に宿っていた冷ややかさは消え、柔らかな表情に変わった。二人の子どもたちは、まるで何かを感じ取ったかのように同時に振り向き、教室の入り口を見た。そして紀美子を見つけた瞬間、二人の目は大きく見開かれた。「ママ!」佑樹は立ち上がるや否や、授業中の先生を無視して教室の外へと駆け出した。念江もすぐにその後を追い、普段では見せない焦りの表情を浮かべていた。先生は驚き、慌てて追いかけてきたが、紀美子の姿を見て安心したのか、再び教室内に戻っていった。佑樹は小さな両手で紀美子の服をぎゅっと掴み、涙を流しながら叫んだ。「ママ、会いたかったよ!!」念江も紀美子の前に立ち、赤くなった目で彼女を見つめていた。紀美子は心が痛みながら佑樹を抱きしめ、念江に目を向けて嗚咽混じりに言った。「念江、ママに抱っこさせてちょうだい」念江は唇をぎゅっと結び、足を動かして紀美子の腕の中へ飛び込んだ。「ママ……僕もすごく会いたかった……」二人の子どもを抱きしめ、その特有の柔らかいミルクの香りを感じると、紀美子の胸の中に渦巻く感情がさらに複雑になった。「ママも、すごくすごく会いたかった」念江が紀美子の胸元から顔を上げたその瞳は、晋太郎と瓜二つだった。「ママ、体調は良くなった?」紀美子はその目を見つめ、一瞬呆然とした。一瞬、彼女の目の前に晋太郎の姿が重なったからだ。もし彼がまだ生きていたら、きっと同じ表情で自分を見つめ、体調を気遣ってくれただろう。紀美子は晋太郎への思いを心の奥に押し隠し、そっと息を吐いて微笑んだ。「うん、ママはもうずっと元気だよ」佑樹も顔を上げ、涙を拭いながらボディーガードたちを冷たく睨みつけた。「ママ、会いに来てくれたのはいいけど、あの二人が悟に告げ口したりしないよね?」「大丈夫よ。彼にはもう話してあるから」その言葉を聞いて、二人の子どもたちは安心したように息をついた。だが、
紀美子は軽く頷き、優しく言った。「ええ、ママもわかってる。佑樹のプライドが高いところ、パパにそっくりなのよ」念江は紀美子の手をしっかり握りながら、言った。「ママ、僕が弟をちゃんと面倒見るから、ママも自分を大切にしてね。僕、教室に戻るよ」紀美子は名残惜しそうに念江を抱きしめた。「ママは必ず早くあなたたちを迎えに行くからね」念江は少し涙ぐみながら言った。「うん、ママなら絶対に僕たちを長く待たせないって信じてるよ!」子供たちが教室に戻ったのを見届けると、紀美子はようやくその場を後にした。……月曜日の午前中。会議中の紀美子に龍介からの連絡が届いた。彼女は携帯を手に取り、龍介から送られてきた資料を確認した。それは例の薬剤の解析説明書だった。資料にはこう説明されていた——この薬剤は、ゆっくりと五臓を蝕み衰弱させる毒薬である。通常の投与量を一週間続けると、内臓痛が顕著になり、高熱、吐血、下血といった症状が現れることがある。三か月以内に内臓の機能不全で死亡する可能性が高い。薬剤は吸収が早く、通常の検査では検出されない。説明を読み終えた紀美子は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。もし子供たちがエリーを監視していなかったら、自分はもう助からなかっただろう。龍介の分析とここ数日の探りから見る限り、悟はこの薬の存在を知らないようだ。しかし、万が一を考えて、さらに悟を探る必要がある。徹底的にやるためには慎重を期すしかない!夜。紀美子は自宅に戻った。珠代はすでに食事の準備を済ませ、食事の声かけをしてきたが、紀美子は食卓には向かわず、そのまま階段を上がっていった。少し戸惑いを見せた珠代は、後から入ってきたエリーに問いかけた。「入江さんは外で食べてきたんですか?」エリーはスリッパに履き替えながら言った。「いや、また何か機嫌でも悪いんじゃないか?」珠代はテーブルいっぱいの料理を見ながら、紀美子に言われて買ってきた血漿を握りしめた。「後で部屋に少し持っていってみます」エリーはテーブルにつきながら言った。「忘れずに薬を混ぜるよ」そう言うと、エリーは珠代を見上げて続けた。「まさか彼女に何か気づかれたんじゃないか?薬は?」珠代は慌ててポケットから偽物の薬を取り出し、
新しい服に着替えたばかりのところで、ノックの音が響いた。紀美子は扉を開けると、珠代が食事を持って立っていた。彼女の顔色を見た珠代は驚いて言った。「入江さん、顔色が……」紀美子は首を横に振り、ちらりとエリーの部屋のドアに目を向けた。珠代はその意図を察して小声で言った。「彼女は部屋にいます」それを確認すると、紀美子は言った。「食事は持ってこなくていい。食べる気にならないから」珠代は言い返した。「入江さん、私の仕事はあなたをお世話することです。あなたが食事をとらないと、先生に叱られてしまいます。私はただの使用人です。どうか私を困らせないでください」「じゃあ、そこに置いておいて。後で食べるから」珠代は食事を部屋に置き、ソファのクッションの後ろに血漿を隠した。「入江さん、例のものは置きました」珠代は声をひそめて言った。紀美子は軽くうなずいた。「わかった」珠代が部屋を出ようとすると、紀美子は彼女の手首をつかみ、小切手を手渡した。「これ、20万よ。とりあえず渡しておくわ。今夜は何度か私の部屋を見に来て、もし私が熱を出したらエリーに知らせて」珠代はすぐに受け取り、ポケットにしまいこんだ。「承知しました、入江さん。その時は先生にも連絡します」「ええ、お願いね」「それでは失礼します」二時間後。紀美子は再びエアコンの冷風を長時間浴びて、ついに高熱を出すことに成功した。彼女の咳が絶え間なく続いた。微かな物音が部屋から漏れると、待機していた珠代はすぐにエリーを呼びに行った。彼女は扉の前でノックしながら言った。「エリーさん、起きていますか?」間もなく、エリーが扉を開けた。「何?」「入江さんが咳をしているのを聞きましたが、薬を持って行ったほうがいいでしょうか?夕食を持って行った時、彼女の顔色が悪くて、どうやら体調が悪そうでした」エリーは眉をひそめながら言った。「それは病気だけど、薬の効果によるものよ」そう言いながら、エリーは紀美子の部屋の方向を顎で示した。「彼女が熱を出していないか確認して」珠代はすぐに応じ、紀美子の部屋へ向かった。何度かノックして、ようやく紀美子の弱々しい声が聞こえた。「入って」珠代が部屋に入ると、エリーが後ろから近づいてく
半時間後、紀美子はエリーに連れられ病院に到着した。悟もすぐに病院へ駆けつけた。紀美子は診察の順番を待ちながら入口付近で座っていた。悟の姿が見えても、彼女は弱々しく瞼を持ち上げるだけだった。悟の眉間には明らかな焦りの色が浮かんでいた。そして、彼は紀美子の前にしゃがみ込み、優しく声をかけた。「紀美子、どうして急に熱を出したんだ?」疲労困憊の紀美子は、瞼を重たげに閉じたまま悟の問いかけに答えなかった。悟もそれ以上問い詰めず、手を伸ばして彼女の額に触れた。手のひらに伝わる火照りに、悟の表情は瞬時に険しくなった。彼はすぐに立ち上がり、エリーに向けて命じた。「彼女を見ていてくれ。俺は検査の申請をしに行く」薬の効果を知っているエリーだが、この言葉に動揺する様子はなかった。「分かりました、先生」悟がその場を離れると、エリーは壁にもたれながら、椅子に座る紀美子の青ざめた顔をじっと見つめた。「辛いでしょう?」エリーは冷淡な声で紀美子に問いかけた。紀美子は目を開け、冷たい視線をエリーに向けた。「どういう意味?」エリーは薄く笑みを浮かべると、嘲るように言った。「今の苦しみなんて大したことない。本当の苦しみはこれから始まるんだから」紀美子の視線が鋭くなった。悟がいるときには何も言わなかったくせに、悟がいなくなった途端に喋り始めるなんて。慎重だわね。紀美子は怒りを装いながら問い詰めた。「一体何が言いたいの?」エリーは体を起こして彼女に近づき、腰をかがめながら一言ずつ切り出した。「これだけは覚えておきなさい。本当の苦しみはまだまだ先よ。この程度の発熱なんて、前菜に過ぎないわ」紀美子はエリーの腕を掴み、怒りに満ちた目で睨みつけた。「あなた、私に何かしたでしょう!?」エリーは眉をひそめ、紀美子の手を振りほどいた。「何を言っているの?証拠でもあるの?」「もしあなたが何か仕掛けたなら、検査ですぐに分かるはずよ!少しでも怪しいことがあれば、私は絶対に許さない!」「へぇ」エリーは軽く笑いながら応じた。「じゃあ、検査結果を楽しみにしていればいいわ」エリーの余裕を目にして、紀美子は心の中で冷笑した。検査では薬の成分が一切検出されないから、こんな余裕を見せているのだろ
来月末には株主総会が控えている。自分は何としても理事長の座を手に入れなければならない。荒唐な考えを振り払い、悟はすっと立ち上がった。紀美子に意味深な視線を投げかけると、そのまま急診病棟を後にした。その頃、州城――龍介は接待を終え、クラブから出てきたところだった。その時、彼の携帯が鳴り、アシスタントからの電話だと確認すると通話を繋いだ。「社長、悟がMKを引き継ぐ前の行動を調査しました。森川社長が事故に遭った後、彼は部下を連れて刑務所へ貞則さんに会いに行っていました。監視カメラの映像も手に入れましたので、後ほどお送りします」「わかった」通話を切った後、龍介は送られてきた監視カメラ映像を再生した。映像には、悟が貞則と会い、エリーがいくつかの書類を取り出して署名を強要する場面が映っていた。映像には彼らの行動が全て映っていたが、契約書に何が書かれているのかまでは読み取れなかった。龍介は携帯を閉じ、車窓の外に目を向けた。悟が貞則に会いに行ったのは、彼がMKを引き継ぐことになったことに関係しているだろう。しかし、悟と貞則は何の関係もないはずだ。彼が貞則を訪ねた目的は一体何なんだ?しばし考え込んだ龍介は、MKの株主たちに直接聞いてみる必要があると判断した。そう考えながら、携帯を取り出し、MKの株主の一人に電話をかけた。しばらくして電話がつながり、株主の石田が出た。龍介は直球で聞いた。「石田さん、お忙しいところ申し訳ありません。一つお伺いしたいことがあるのですが」石田は親しげに答えた。「吉田社長、何をおっしゃいますか!迷惑だなんてとんでもない。何でも聞いてください。知っていることはすべてお答えしますよ」「悟はMKでどのようにして社長の座を手に入れたのですか?」石田はため息をつきながら答えた。「彼は、遺言書とMKにとって非常に重要な二つのプロジェクト計画書を持ち出して話してきました」「遺言書?」龍介は聞き返した。「そうです、吉田社長」石田が続けた。「遺言書には、悟と貞則さんが血縁関係にあることが記されていました」龍介は眉をひそめた。「皆その内容を調査しなかったのですか?」「遺言書には貞則さん自身の指紋が押されており、私たちはそれを鑑定しました」「たとえ
「今夜彼女が目を覚ますことはなさそうです」エリーは目を閉じたままの紀美子を見下ろしながら言った。「彼女、高熱を出しているんです。用件があるなら明日にしてください。では」そう言うと、エリーは一方的に通話を切った。切れた電話の画面を見つめながら、龍介は眉をひそめた。紀美子が熱を出しただと?彼女に薬の作用について連絡したばかりなのに、どうして?冷静に考えた後、龍介は悟った。これは紀美子がわざとやったのだ。自分の体を犠牲にすることさえも厭わないのか。龍介は心中でため息をつくと、携帯で帝都行きの深夜便を予約した。翌朝。紀美子は病室のベッドでゆっくりと目を覚ました。目を開けると、すぐ隣に、じっと自分を見つめるエリーの姿が目に入った。紀美子の胸に一瞬、言葉にできない緊張感が走ったが、彼女は無理やり体を起こした。咳を二回ほどしてから、彼女は口を開いた。「まだ死んでないわよ。そんなにじっと見なくてもいいでしょ!」エリーは冷たい笑みを浮かべた。「どう?体の調子は?」紀美子は唇をきつく結び、無言で彼女を見つめ返した。「答えられないのなら、私が代わりに言いましょう。全身がだるくて、体のあちこちが痛む感じかしら?」紀美子は驚いたふりをし、それから冷たい目でエリーを睨みつけ、怒鳴った。「一体私に何をしたの!?」エリーは軽く笑いながら答えた。「別に何もしていないわ。ただの推測よ。そんなに慌てることないでしょう?昨日の検査結果だって、何も問題なかったじゃない」紀美子は震える手で布団を握りしめた。「私に何かしたんだったら、絶対悟に言うわよ!そのときは、あなたがどうなるか考えなさい!」エリーの目には一瞬動揺の色が見えたが、すぐに冷静さを取り戻した。「冗談でしょう?あなたみたいに力のない人間に、わざわざ手を出す暇なんてないわ」そう言うとエリーは立ち上がった。「もう十分休んだでしょう?さっさと起きて、別荘に戻るわよ!」紀美子は弱った体を引きずりながらエリーに連れられて別荘に戻った。部屋に入ると、携帯がメッセージを受信した音が響いた。画面をタップしてロックを解除すると、送り主は龍介だった。「調子はどうだ?」紀美子はソファに腰を下ろし、メッセージを打ち始めた。「どうい
「紀美子」「……うん」「結婚しよう」紀美子の身体はこわばり、返事もせずそっと晋太郎を押しのけた。俯いたまま晋太郎の目を避け、彼女は声をひそめた。「その…そんなに急がなくてもいいと思う……」そう言うと、彼女は慌てた様子で立ち上がった。「また今度ね!私、先にお風呂に入るから!」逃げるように去っていく紀美子の背中を見てから、晋太郎は目を伏せた。以前なら、喜んですぐに頷いてくれたはずなのに――なぜ今は躊躇するんだ?どういうことだ?家族への挨拶が済んでいないからか?浴室のドアをじっと見つめながら、晋太郎は考え込んだ。どうやら明日、渡辺家を訪ねなければならないようだ。翌日。晋太郎が会社の仕事を片づけ渡辺家に向かおうとしたところ、晴にランチに誘われた。時間にまだ余裕があったため、晋太郎は晴とレストランへ向かった。食事中、晋太郎は窓の外を見つめて黙っていた。晴は何度か彼を不思議そうに見てから、ようやく口を開いた。「晋太郎、何を考えてるんだ?」晋太郎は手に持っていたコーヒーを置き、晴を見ながら答えた。「佳世子に結婚を拒まれたことはあるか?」晴は呆然とした。「それって……紀美子に振られたってこと?」晋太郎が頷いた。「そんな経験ないか?」「ないな」晴は答えた。「むしろ毎日のように結婚を催促されてる」晋太郎は黙り込んだ。紀美子は一体どうしたのだろうか?晴も少し考え込んだ後、言った。「晋太郎、もしかしたら紀美子は前回の婚約の件でトラウマを負っているんじゃないか?なんていう症候群だったっけ?心理カウンセラーに診てもらった方がいいかもな」晋太郎は眉をひそめた。「そこまで深刻ではないだろう」「深刻に決まってるだろ!」晴は真剣な様子で言った。「お前が生きていることを知ったあと、彼女は必死で会社を守り、銃弾まで受けた。目が覚めたらまたお前たちのことが……俺だって耐えられないよ。どうして深刻じゃないなんて言えるんだ?間違いなくトラウマがあるに決まってる。じゃなきゃ拒む理由がないじゃないか」晋太郎はイライラして指でテーブルを叩いた。「佳世子に探りを入れさせろ」「任せとけ!」晴は言った。「でも、本当にそうなら早めにカウンセリングを受けさせた方
「事実的な関係はあるだろう。紀美子、君は俺の子供たちの母親だ。この事実は変えられない」「その関係だけで、私を縛ろうって言うの?」紀美子は冷笑した。「確かに電話に出なかったのは私が悪いわ……でも、それで私の自由まで奪わないで。母親って立場だけで、あなたに私の人生をコントロールされる筋合いはないわ!」紀美子の言葉で怒りが爆発しそうになった晋太郎は、ギアを入れ替えると潤ヶ丘へ猛スピードで走り出した。あまりのスピードに、紀美子は怖くなって黙り込んだ。潤ヶ丘に着くと、晋太郎は車を止め、降りて助手席側に回るとドアを開け、紀美子を担ぎ上げてそのまま別荘の玄関へ向かった。「晋太郎!下ろしなさい!」紀美子は必死にもがいた。しかし晋太郎は解放することなく、そのまま部屋まで運び込むと、ベッドに彼女を放り投げた。彼は暴れる紀美子の手足を押さえつけ、怒りに震える声で言った。「紀美子、言ったはずだ。君にちゃんとした立場を与えると」紀美子は不満げな目で彼を見つめた。「その立場と引き換えに会社を奪われるなら、いらない!誰かに依存して生きるなんて、一番嫌いなの」「依存させようとしてない。俺が欲しいのは君だけだ。他人の目が気になるなら、今日からMKがTycの子会社になっても構わない」紀美子は動きを止め、驚いた表情で見上げた。「何を……言ってるの?」晋太郎はベッドサイドの引き出しを開け、契約書を紀美子に投げつけた。紀美子はそれを拾い上げ確認し、目を見開いて尋ねた。「これって、どういう意味?」「この契約書、本当はプロポーズのあとで渡すつもりだったんだ。君が望まないことを無理やり押し付ける気はない。」そう言いながら彼は紀美子の隣に座り、表情に強い決意を宿して続けた。「紀美子、君は俺に何か聞きたいことがあるんだろう」紀美子は契約書を握る手に力を込めた。「ええ、あなたの口から直接聞かせてほしいの。私が頑固なのは認めるわ。でも……あなたの本心を言葉にしてほしい。これは、あなたが本当に私を気にかけていたかどうかの問題よ。からかいや隠し事は大嫌いなの」晋太郎は口元を緩めた。「記憶があるかないかが、そんなに重要か?」紀美子はぱっと顔を上げた。「重要よ!本気の愛と、責任だけの結婚、あなたはどっちが欲しい?」
「まあ、そう言うけど」佳世子はため息をついて言った。「でも、やっぱり形は必要でしょ。私だって、いつできるかわからないんだから」「晴の両親は……」「あーもう!」佳世子はイライラしながら紀美子の言葉を遮った。「そんな話はやめて!考えるだけで頭にくる!」「もうすぐお正月ね。今年のお正月は、いつものように賑やかにはいかないわ」紀美子は窓の外を見つめて言った。佳世子は頬杖をつき、紀美子と同じく窓外のネオンを見つめた。「寂しいなら、いつものように賑やかにすればいいじゃない」紀美子は佳世子の方に向き直った。「どんなに賑やかにしても、子供たちがいない寂しさは埋まらないわ」その言葉を最後に、二人の間に沈黙が流れた。しばらくして、佳世子は急に背筋を伸ばして言った。「紀美子、明日私たちで不動産を見に行かない?」紀美子は目を丸くした。「家?どうして?」「あなたも私も今住む家がないでしょ?」佳世子は目を輝かせながら続けた。「別荘じゃなくて普通のマンション!同じ階を買って、間取りを繋げちゃうの!」「まあいいけど……」紀美子はまだ佳世子の指す意味を完全には理解できていない様子だった。「でも何のため?」佳世子はニヤリと笑った。「もちろん楽しむためよ!例えばあなたが晋太郎と喧嘩した時とか、私が晴と揉めた時とか。私たちだけの家に逃げ込むの!」「それで?」紀美子が尋ねた。「そしたらパーティーよ!イケメンたちを大勢呼んで、一緒に騒いじゃうの!」話に夢中になっていると、いつの間にか背後に二人の男が立っていた。佳世子の言葉を聞いた瞬間、晴の顔は青ざめた。「佳世子!!」晴は我慢できず、佳世子の背中に向かって怒鳴った。佳世子はビクッとして振り向き、突然現れた二人を見て目を見張った。「あなたたち、どうしてここに!?」紀美子も慌てて振り返った。彼女はすぐに、顔をしかめた晋太郎が自分を睨みつけているのに気づいた。その目には明らかな怒りが見えた。紀美子が口を開く間もなく、晴は佳世子を肩に担ぎ上げた。「晴っ!お、おろしてよ!ちゃんと話し合えばいいじゃない。なんで担ぐのよ!?紀美子!助けて!」佳世子は叫んだ。叫びながら遠ざかっていく佳世子の姿を見送りながら、紀美子
晴は口をとがらせ、不満げな表情で視線を逸らした。「そんなんじゃないよ。彼女にブロックされたんだ」晋太郎は一瞬呆然としたが、すぐに嘲笑った。「お前、余計な干渉をしすぎたんじゃないか?」「お前だって紀美子にズカズカと干渉してるくせに、偉そうなこと言うなよ」晴は「ちぇっ」と舌打ちした。「だったらお前が紀美子に電話してみろよ」晋太郎はテーブルの上の携帯を手に取った。「少なくともお前のようにブロックはされてない」そう言うと、紀美子の番号をタップした。しかし、コール音が一度鳴ったところで、機械的な女性の声が流れてきた。「申し訳ありませんが、お掛けになった電話は現在通話中です……」「プッ…」晴は思わず吹き出した。「それでよく偉そうなこと言えたな!紀美子にまさかのワン切りされてるし!はははは……」晋太郎の端正な顔が、晴の笑い声とともに次第に険しくなっていった。彼は諦めず、再び紀美子に電話をかけた。今度は呼び出し音すら鳴らず、すぐに機械音声に切り替わった。「あははははは!」晴は涙を浮かべながら笑い転げた。「晋太郎、お前、さっき言ってたこと……どうしたんだよ?はははは!」晋太郎は携帯をしっかりと握りしめた。彼女は一体どこに行ったんだ?自分の番号をブロックするなんて!晋太郎は苛立ちながら、連絡先から肇の番号を探し出し、電話をかけた。つながると、彼は怒りを抑えながら言った。「肇、紀美子の位置を特定しろ!」肇が返答する前に、美月の声が聞こえてきた。「社長、奥様が見つからないからってアシスタントに頼むなんて、どうかしてますよ?」美月のからかい混じりの声が晋太郎の耳に飛び込んできた。その言葉を聞いて、晴はこらえきれずまた顔を赤くしながら笑い転げた。「お前、なんで肇と一緒にいるんだ?」晋太郎は眉をひそめ、冷たく問い詰めた。「彼は独身、私も未婚。一緒にいて何か問題でも?」美月が返した。「遠藤さん、私から晋様にお話しさせてください……」肇が慌てて割り込んできた。「ただ紀美子さんを探してほしいだけでしょう?他に用事はないわ」美月は言い放った。「奥様と喧嘩したからって、私たちまで巻き込まないでちょうだい」美月がそう言い終わらないうちに、通話が切られ
紀美子は翔太に事情を簡単に説明した。話を聞いた翔太は深くため息をついた。「あの子たちはみんなしっかりした子たちだ。自分で決めたことなら、無理に引き止めるわけにはいかない。尊重してやらなきゃな。だが……こんな場所で気分転換するべきじゃない」「そういえば、翔太さんはここで何を?」佳世子は話題をそらすように尋ねた。翔太はバーの入口を一瞥しながら答えた。「あの連中は舞桜の遠縁の親戚たちなんだ」二人は顔を見合わせ、紀美子は怪訝そうに聞いた。「どうして舞桜の親戚と一緒に?」翔太は苦笑し、鼻をこすりながら答えた。「実はな、舞桜と一週間後に婚約する予定なんだ」「えっ!?」二人は声を揃えて叫んだ。「そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったの?」紀美子は驚きを隠せなかった。佳世子は舌打ちした。「翔太さん、私たちより早いじゃない!」「彼らが帰ってから紀美子に話そうと思ってたんだ」紀美子は軽く眉をひそめた。「さっき見かけたけど、舞桜と同世代くらいの人たちみたいね。難しい人たちなの?」「なんというか……」翔太は小さくため息をついた。「茂の親戚と似たような連中だ。だから君には早く知らせたくなかったんだよ。彼らは本当に面倒を起こすから」「舞桜が止めないの?」佳世子は聞いた。「いつまでも我慢してばかりじゃダメよ!」「止めないわけじゃない」翔太は言った。「舞桜の父親からの試練のようなものだ。舞桜は彼らのことで父親と大喧嘩したんだ。でも、父親は自分だけでは決められないと言ったらしい。舞桜の祖父の意向もあるみたいで」紀美子は話の裏を読み取って聞いた。「もしかして、その祖父って……舞桜と兄さんの関係に反対してるの?」「そうだ」翔太は率直に認めた。「舞桜の祖父は、海軍の偉いさんでさ。我々のような商人のことを、なかなか認めてはくれない」「今どきそんな家柄を気にするなんて!」佳世子は呆れたように言った。紀美子はしばらく考え込んでから言った。「でも、そうでなければ、舞桜もここまで来て兄さんと出会うこともなかったわね」「うん、その通りだ。前に舞桜が俺に会いに来たことが、余計に彼女の祖父の反感を買ったらしい」「舞桜は良い子よ」紀美子は翔太を見つめて言った。
「結婚を発表する日に、この件も公表する」晋太郎はペンを置いてから答えた。今のところ、自分はまだ紀美子を正式に口説き落としていない。いきなりこんな話をしても、笑いものになるだけだ。夜。紀美子は佳世子に連れられ、帝都に新しくオープンしたバーに来ていた。入り口に入った瞬間耳をつんざくような音楽が聞こえてきて、紀美子は鼓動が早くなるのを感じた。彼女は佳世子の手を引き寄せ、耳元で叫ぶように言った。「佳世子、ここはやめようよ。あの人たちに知られたら、飛んでくるに決まってる」「どうしていけないの?」佳世子は紀美子の手を引っ張って中へ進んだ。「あの人たちはあの人たち、私たちは私たちよ。付き合ってるからって、こういう場所に来ちゃいけないルールでもあるの?正しく楽しんでるんだから、平気でしょ!」紀美子は佳世子が気分転換のために連れてきてくれたのだとわかっていた。だが、こういう騒がしい場所は苦手だった。理由は主に二つあった。一つは環境が乱雑なこと、もう一つは晋太郎の性格だ。彼が知れば、このバーごとひっくり返しかねない。自分でトラブルを起こすつもりもなければ、晋太郎に誰かに迷惑をかけさせるつもりもなかった。ボックス席に着いても、紀美子はまだ佳世子の手をしっかり握っていた。「佳世子、やっぱりここは嫌だわ。静かなバーに変えようよ?」「え、何?!」佳世子は聞き取れなかった。紀美子はもう一度繰り返し言った。「紀美子、まず座って落ち着いて話を聞いてよ」佳世子は言った。紀美子は彼女の意図を察し、しぶしぶ一緒に座った。佳世子は紀美子の耳元に寄った。「晋太郎、まだ記憶が戻ったって認めてないでしょ?」紀美子は彼女を見て尋ねた。「それがここに来ることと何の関係が?まさか、彼を刺激したいの?」佳世子は激しく頷いた。「男ってのはみんなそうよ。何か起こさないと本当のことを言わないのよ!」「だめだめ」紀美子は慌てて首を振った。「言わないのは彼の勝手よ。私がどうするかは私の自由。佳世子、本当にここにいたくないの」佳世子はまだ何か言いたげだったが、ふと目の端に映った人影に気づき、言葉を止めた。そしてじっとその見覚えのある姿を見つめながら言った。「紀美子、あの人……あなたのお兄
二人は涙を見せれば、ゆみがますます別れを惜しんでしまうことを恐れていたのだ。「ゆみ、待ってるから!毎日携帯見て、お兄ちゃんたちからの連絡を待ってるからね……ゆみはちゃんと大きくなるよ。ご飯もいっぱい食べて、悪さしないで……うう……早く帰ってきてね……」紀美子も、堪えきれず涙をこぼした。晋太郎がそっと近寄り、彼女を優しく抱き寄せた。この別れは、誰の胸にも重くのしかかっていた。ゆみは学校に行かなければならなかったので、佑樹と念江を見送った後、昼食を取るとすぐに急いで飛行機で帰って行った。紀美子は、がらんとした別荘を見回し胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われ、ソファに座ったまま呆然としていた。今にも、子供たちが階上から駆け下りてきてキッチンで牛乳を飲むような気がしてならなかった。そんな紀美子の様子を見て、晋太郎は携帯を取り出し佳世子にメッセージを送った。1時間も経たないうちに、佳世子が潤ヶ丘に現れた。ドアが開く音に、紀美子がさっと振り向いた。佳世子と目が合うと、一瞬浮かんだ期待の色はすぐに消えていった。佳世子は小さくため息をつき、紀美子の隣に座った。「紀美子、まだ子供たちのことで頭がいっぱいなの?」紀美子は微かに頷いた。「うん……なかなか慣れなくて。佑樹と念江も行っちゃったし、ゆみもすぐ帰っちゃったし……」「あの子たち、本当にあなたに似てるわ」佳世子は言った。「あなたが帝都を離れてS国に行った時も、こんな風に自分の目標に向かって突き進んでたもの」紀美子はぽかんとし、思わず苦笑した。「あれは状況に迫られてのことよ」「そんなこと言ったら、まるで子供たちがあなたから離れたくてたまらないみたいじゃない」佳世子は紀美子の手を握った。「そんな話はやめましょう。午後はショッピングに行くわよ!」「ちょっと!」紀美子は驚いたように彼女を見つめて言った。「どうして急に来たの?」佳世子はきょろきょろと周りを見回し、晋太郎の姿がないのを確認すると、小声で言った。「実は、あなたのご主人に頼まれて来たのよ!」紀美子は、ご主人様という言葉を聞いて顔が赤くなった。「え、え?ご主人なんて……私、彼とはまだそんな関係じゃないのよ……」「遅かれ早かれ、そうなるんだから!」佳
俊介は淡く微笑んだ。「晋太郎、子供たちは俺にとって実の孫同然だ。心配する必要はない」その言葉を聞いて、紀美子は少し安心した。一行は保安検査場の目の前まで来ると、紀美子は子供たちの前にしゃがみ込んだ。彼女は無理に笑顔を作りながら、子供たちの腕に手を置いて言った。「一時間後には搭乗よ。誰と一緒でも、自分のことはきちんと守って。無理しないでね」佑樹と念江は頷いた。「ママ、心配しないで。僕たち、できるだけ早く帰るから」佑樹は言った。「ママも体に気をつけてね」念江は笑みを浮かべて言った。「パパと一緒に、今度は妹を作ってよ」紀美子は一瞬固まり、念江の鼻をつまんで言った。「ママとパパはまだ何も決めてないの。その話はまた今度ね」ゆみを待っている晋太郎は、周囲を見回しながらふと紀美子の方を見た。口を開こうとした瞬間、背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。「お兄ちゃん!!念江お兄ちゃん!!」ゆみの声が響き、一同が振り返った。ゆみは小さな体で次々と乗客の間を縫うように駆け抜け、全力で佑樹と念江の元へ突進してきた。そして両手で二人の首にしっかりと抱きついた。「間に合ったよ!」ゆみは泣きながら二人の肩に顔を埋めた。「お兄ちゃんたちの見送り、間に合って良かった」佑樹と念江は呆然と立ち尽くした。まさかゆみがこんなに遠くまで見送りに来てくれるとは思ってもいなかったのだ。二人の目が一瞬で赤くなった。これ以上の別れの贈り物はないだろう。二人はゆみをしっかりと抱きしめ、必死に冷静さを保ちながら慰めた。「もう、泣くなよ!」佑樹はゆみの背中を叩いた。「人がたくさんいるんだぞ。恥ずかしくないのか」念江の黒く大きな目は優しさに溢れていた。「ゆみ、わざわざ来てくれてありがとう。大変だったろう」ゆみは二人から手を放した。「向こうに行ったら、絶対に自分のことをちゃんと気遣ってね。時間があったら、必ず電話してよ。分かった?」佑樹と念江は、思わず俊介を見た。その視線に気づいたゆみは、俊介を睨みつけた。「あなたのくだらない規則なんて知らないよ!お兄ちゃんたちを連れて行くのはいいけど、連絡を絶たせるなんてひどいよ!ゆみは難しいことは言えないけど、家族は連絡を取り合うべきだってわか
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く