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第176話

Author: 無敵で一番カッコいい
明日香が言葉を発しようとしたその瞬間、樹の声がそれを遮った。

「明日香さん......僕は、ただ君のことが心配なだけなんだ。もし僕のことで気になることがあったら教えて。何だって直すから......!」

刺青のある手が、そっと明日香の頭に触れた。明日香を見つめる視線に、ほんの一瞬だけ揺れるような動揺が浮かんだ気がした。いや、気のせいだったかもしれない。

その表情を見た途端、明日香の中で張り詰めていたものが緩んでいく。こんなふうに優しい彼に、冷たく突き放すようなことを言ってしまってもいいのだろうか。胸の奥で、ふとそんな迷いが芽生える。

視線をどこに置けばいいのか分からず、樹の言葉に対する自分の反応が過敏すぎるのではないかと、そんな自分自身を責める気持ちまで湧いてきた。

「ご......ごめんなさい......」

明日香は取り乱れたように髪をかき上げた。

「私、もう帰らなきゃ。あなたも早く休んで......おやすみ」

どう伝えればいいのか分からなかった。悪いのは、樹じゃない。彼は誰よりも優しくて、素敵な人だ。

悪いのは、他でもない自分。そのことが、痛いほどわかっていた。

樹も「おやすみ」の言葉をかけそびれたまま、まるで傷ついた野生の動物のように逃げるように立ち去る明日香の背中を、ただ見送っていた。黒いドレスの裾が夜風の中で静かに弧を描き、揺れていた。

明日香は深く息を吸い込み、乱れた感情を何とか鎮めようとした。気づけば、まだ樹の上着を羽織ったままだった。そこには、彼のいつもの清潔感のあるミントの香りが染みついていて、鼻先をかすめるたびに心がざわめいた。

手にした携帯をぎゅっと握る。あの言葉で彼をどれだけ傷つけたかと思うと、どうすれば少しでも慰められるのか分からなくなっていた。

ほどなくして、携帯が小さく震えた。

画面を見ると、樹からの短いメッセージが届いていた。

【おやすみ】

たったひと言。それだけなのに、胸がぎゅっと締めつけられる。

樹が優しくすればするほど、自分がひどい人間に思えてならなかった。

明日香の車を、黒いカイエンが適度な距離を保ちながらゆっくりと追いかけていた。車内で樹は携帯を見つめながら、次の通知をじっと待っていたが、画面が再び光ることはなかった。

唇をきつく結び、気持ちは重く沈んでいく。あの、何もかもを押しつぶすよう
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