INICIAR SESIÓN二人目を妊娠して7か月目。私――高梨澄花(たかなし すみか)は、夫の榊原圭吾(さかきばら けいご)が幼なじみの倉田芹香(くらた せりか)と、リビングのソファで裸のまま絡み合っているところを目撃した。 早産を経て、私は迷わず離婚した。 日当たりの悪い古いワンルームを借り、飲食店で皿を洗いながら、娘の花音(かのん)を3歳まで育てた。 末期の胃がんだと告げられた日、圭吾はまた家の前で待ち伏せし、戻ってきてほしいと懇願した。 「理玖が、ママに会いたいって泣いてる。これだけ頼んでるんだ。もう一度、俺と一緒に暮らしてくれ」 余命はあと1か月。そう医師に告げられていた私は、すぐに荷物をまとめ、圭吾のもとへ戻った。 私が死んだあとも、花音が生きていけるようにしておかなければならなかったから。
Ver más圭吾は霊園を飛び出し、車のエンジンをかけた。ハンドルを握る指は白くなり、手の甲には血管が浮き上がっている。窓の外の景色が、猛烈な速さで後方へ流れていった。芹香の艶めいた顔。自分を崇拝するような目。「何もいらない。圭吾さんと一緒にいられれば、それだけでいい」という甘い言葉も、「澄花さんは気が強いから。圭吾さんが疲れているんじゃないかって、心配なの」と気遣うようにささやいた声も、もう愛おしいとは思わなかった。今となっては、すべてが周到な計算にしか見えない。母親も同じだった。偶然を装い、二人が顔を合わせるよう仕向けた。芹香は何気ないふりをして、澄花への不満を圭吾に吹き込んだ。自分は妻を裏切っただけではない。二人の女に操られた、ただの人形だった。二人が暗黙のうちに手を組み、背中を押し続けたせいで、自分は一歩ずつ妻を死へ追いやった。屋敷の門の前で待っている芹香を見つけた瞬間、圭吾の頭に狂気じみた考えが浮かんだ。芹香は遠くから圭吾の車に気づき、うれしそうに一歩前へ出た。車に乗り込もうとしたのだろう。だが次の瞬間、圭吾はアクセルを床まで踏み込んだ。速度計の針が一気に跳ね上がる。黒い車は弾丸のように芹香へ突っ込んだ。芹香は血だまりの中へ倒れた。最後まで理解できなかっただろう。邪魔者はいなくなったはずなのに、あれほど恋い焦がれていた圭吾が、なぜ自分を車ではねたのか。圭吾は車の向きを変え、母親の住む家へ猛スピードで向かった。途中で電話をかけ、玄関の外で待つように告げた。母親の姿が見えると、圭吾は再びアクセルを踏み込んだ。そして、そのまま母親へ突っ込んだ。すべてを終えると、圭吾は狂ったように笑った。やった。二人に、血で償わせた。最も信じていた相手に裏切られ、利用され、奈落へ突き落とされる苦しみを、あの二人にも味わわせたのだ。まだ足りない。そう考えながら、圭吾が乱暴にハンドルを切った、そのときだった。耳をつんざくブレーキ音が響いた。タイヤが雨に濡れた路面を滑り、長い黒い跡を残す。車は、前方で右折していたトラックの後部に激突した。激しい衝撃で、圭吾の体はハンドルに叩きつけられた。胸を押し潰されるような痛みに、息が詰まった。冷たい汗が背中を濡らし、額から流れた
葬儀は慌ただしく執り行われた。圭吾は感情を失ったように葬儀社へ連絡し、棺や骨壺を選び、火葬と納骨の手続きを進め、親族や知人からの弔意を受けた。顔には何の表情もなく、落ちくぼんだ目は赤く充血していた。泣きも笑いもせず、ただ面倒な事務を一つずつ片づけているように見えた。そんな圭吾の動きが止まるのは、時折、花音の姿が目に入ったときだけだった。花音は父親を怖がりながらも、その服の裾を強く握り、泣き腫らした顔で尋ねた。「ママは、お星さまになったの?」圭吾は、ほんの一瞬だけ動けなくなった。立ち止まるのが怖かったのだ。一度でも足を止めれば、恐怖にのみ込まれてしまう。澄花はいない。これで自分には、本当に帰る家がなくなった。澄花が家を出ていた3年間も、圭吾は屋敷の中をほとんど変えなかった。なぜ戻ってきた澄花は、そのことに気づいてくれなかったのか。最後まで、自分を許してはくれなかった。本当に、何も伝わっていなかったのだろうか。澄花が好きだった置物は、一つも場所を動かさなかった。二人の結婚式の写真も、毎日、自分で埃を払っていた。写真。置物。そこでようやく思い出した。大切に守ってきたはずの品々を、腹立ちまぎれにすべて自分の手で壊したことを。また激しい苦痛が圭吾をのみ込んだ。澄花がこの世に残したものは、もうほとんど残っていない。……夜になっても眠れず、圭吾は澄花が使っていた狭い部屋へ向かった。ベランダには、取り込まれないままの服が揺れている。ベッド脇の小さなテーブルには、鎮痛薬のボトルが残されていた。花音は部屋の隅に身を縮め、ほとんど口をきかなくなっていた。泣くか、眠るか。そのどちらかだった。母親に何が起きたのかを、まだ理解できる年齢ではない。「死」が永遠の別れだということも分からない。それでも、何かは感じ取っているのだろう。この数日、花音は圭吾を拒み続けていた。小さな声で母親を呼び、圭吾を見る目は他人を見るようによそよそしかった。理玖は以前と同じように、家じゅうに響く声で泣きわめき、母親を返してくれと訴えた。夜中に何度も悪夢で目を覚まし、家政婦が付き添わなければ眠ることもできなかった。理玖の年齢なら、母親が二度と帰ってこないことを、もう分かっているはずだった。
救急隊員は到着するなり、床に横たわる澄花のもとへ駆け寄った。「お気の毒ですが……」一通り状態を確認したあと、二人は沈黙したまま圭吾に向かって首を横に振り、器材を片づけ始めた。そのままストレッチャーを運び出そうとする。その動きが何を意味するのかは、あまりにも明らかだった。圭吾はとっさに救急隊員の腕をつかんだ。「いや、もう一度やってください!お願いします、もう一度だけ!病院へ……病院へ運んでください。お願いします、妻を助けてください……」救急隊員はなだめるように言った。「お気持ちは分かります。ただ、もう……」圭吾は勢いよくストレッチャーの前へ回り込んだ。声はかすれ、目は真っ赤になっていた。救急隊員の腕を、最後の望みにすがるような力でつかむ。「さっきまで……さっきまで話してたんです!ほんの数分前まで話してたんです!お願いします、病院へ連れていってください!」救急隊員は困ったように眉を寄せ、圭吾の手を外そうとした。その目には、感情を抑えたような色が浮かんでいた。結局、救急隊員は小さくうなずいた。そして床に横たわる澄花をストレッチャーに乗せ、そのまま救急車へ運び込んだ。圭吾も理玖と花音を連れ、狭い車内に乗り込んだ。だが、車内には救命処置を続けるような切迫感はなかった。救急隊員はやるせなさそうに首を振り、あとは機器の単調な電子音だけが響いていた。救急外来の白い照明が、目に突き刺さるほどまぶしかった。澄花はすぐに処置室へ運び込まれ、圭吾は外で待つよう告げられた。腕の中では、泣き疲れた花音がしゃくり上げながら眠っていた。小さな頬には何本もの涙の跡が残っている。一秒、一秒が、身を焼かれるように長かった。圭吾は冷たい壁にもたれ、頭の中で轟音が鳴り響いているようだった。花音の泣き声と、血を吐いた澄花が最後に向けた憎しみのこもった目が、交互に脳裏へ浮かぶ。ふと何かに気づき、圭吾は勢いよく壁から体を起こした。眠っている花音を廊下のベンチへそっと寝かせ、上着をかけた。そばにいる理玖へ、妹をよく見ているよう言い聞かせた。それから、何かに突き動かされるように救急受付へ向かった。「今、処置を受けている高梨澄花の夫です。妻はがんだったんですか?これまでどんな治療を受けていたのか、教えてくださ
気づくと、澄花は宙に浮かんでいた。圭吾が倒れた女のもとへ駆け寄り、その体を抱き起こす姿が見えた。澄花は、自分がもうこの世を離れたのだと悟った。「澄花……澄花!目を開けろ、澄花!」圭吾は何度も私の体を揺すり、声の限りに名前を呼んだ。けれど、その腕の中の女は少しも動かなかった。どうにか息を整えた圭吾は、改めて澄花の顔を見た。片方の手はみぞおちのあたりの服を固く握り締め、指の関節が白くなっている。顔は激しい苦痛にゆがみ、見開いた目は焦点の合わないまま天井を向いていた。圭吾は恐怖に顔を引きつらせ、数歩あとずさった。それでも再び近づき、震える指を鼻先へ寄せた。息は感じられなかった。「嘘だ……そんなはずない。澄花、澄花!」死んだ?なぜだ。どうして、こんなことに。圭吾はスマホをつかみ、119番へ電話した。「妻が息をしていません!早く来てください。お願いします!」電話を切って初めて、理玖が呆然と立ち尽くしていることに気づいた。花音はすでに声を上げて泣いていた。小さな体を震わせ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしている。氷水を頭から浴びせられたような恐怖が、圭吾を襲った。なぜ血を吐いた?これまで大きな病気をしたことなどなかったはずなのに。だが、床に広がった血も、目の前で動かなくなった澄花も、紛れもない現実だった。圭吾は花音を抱き上げた。「花音」必死に声を落ち着かせ、涙に濡れた娘の顔を両手で挟み、自分のほうへ向けた。「ママはどうしたんだ?どうして血を吐いた?」花音の目はうつろで、歯がかちかちと鳴っていた。「ママ、お薬を飲んでた……急に、ここを押さえて……それから、もっとお薬を飲んで……血を、いっぱい吐いてた……」花音は、母親がしていたようにお腹を押さえた。恐怖で小さな顔がゆがんだ。涙で言葉が途切れた。「パパ、ママ死んじゃったの?ママ、もう起きないの?」薬?何の薬だ。澄花は本当に病気だったのか。圭吾の脳裏に、いつか床へ転がった薬のボトルが浮かんだ。痛みに耐えるように眉を寄せた顔も、何度か見た気がする。だが圭吾は、そのどれについても深く考えようとはしなかった。澄花に腹を立てることしか頭になかったのだ。圭吾は使用人用の部屋へ飛び込み、わずかな荷物を手当たり次