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「――ねえ。君、泣かないの?」
豪奢な長椅子に寝そべったまま、青年は退屈そうに目を細めた。
帝都・ 高くそびえる
部屋の主である青年、
雪を透かしたように色素の薄い、滑らかな髪。纏っている特務軍の軍服は、彼の特権を示すようにすべて霜を思わせる色合いで統一されている。彼の存在そのものが、まるで凍てつく冬の冷気を実体化させたかのようだった。
飄々とした態度とは裏腹に、細められた双眸の奥には、人ならざる者特有の冷酷な光が揺らめいている。
彼の視線の先には、たった今重い扉を開けて入ってきた一人の少女が立っていた。「泣く理由がありませんから」
凛とした声が、静寂に包まれた広大な部屋に響き渡る。
年齢は十四。まだ幼さを残す柔らかい輪郭に、夜の帳を溶かし込んだような深い藍色の髪が肩口で揺れていた。細身の身体には、彼女のために仕立てられた特務軍の制服が少しだけ大きく見える。そして何より目を引くのは、彼女の瞳だった。
鮮血よりも深く、燃え盛る炎よりも強い意志を宿した紅の瞳。 それこそが、この国において特異な運命を背負う証だった。「
部屋を案内してきた軍の大人たちは、怯えるようにして早々に扉の向こうへと消えていったというのに。丁寧にお辞儀をして見せた緋依の顔には、微塵も恐怖の色がなかった。
白玖は小さく息を吐き出し、ゆっくりと長椅子から身を起こした。彼が動くたびに、上質な軍服の生地が微かな衣擦れの音を立てる。
「調子が狂うねえ……。僕の前に立つ奴は、大抵もっと顔を青くして、震えて、自分の不運を呪って泣き喚くものなんだけど。君、自分がこれからどうなるか、本当に分かってる?」
「はい。存じております」緋依はまっすぐに白玖を見つめ返した。その深紅の瞳には、一切の淀みがない。
「私は生贄です。十五歳を迎える満月の夜、最も魔力が満ちたこの身体を、神様であるあなたに捧げる。それが、私の役目です」
淡々と紡がれる言葉に、白玖はわずかに眉を動かした。
この
そして、その軍の最強の矛であり、唯一の決戦兵器こそが、巨大な狐の姿をとる神――白玖であった。
だが、神がその絶大な力を振るうためには、代償が必要だった。深紅の瞳を持つ少女が宿す、莫大な魔力。それを血肉ごと取り込むことで、彼は初めて神としての威容を保ち、異形を跡形もなく祓うことができる。
生贄となる少女は、毎年一人だけ、国中から探し出される。十四歳でこの部屋に連れてこられ、一年間だけ神と寝食を共にし、戦いの度に自らの血を与え続ける。
そして十五歳になる夜、儀式と称して完全に命を喰われるのだ。 それは数百年以上も前から続く、この国の残酷で絶対的な掟だった。「知っていて、どうして笑えるのかな?」
白玖は音もなく床に降り立つと、緋依との距離をゆっくりと詰めた。足音が全くしないその身のこなしは、彼が人間ではないことを雄弁に物語っている。
「君の血も肉も、最後には全部僕の胃袋に収まるんだよ? 骨の髄まで啜られて、この世から消え去る。自分の命が、僕というただの兵器を動かすための燃料に過ぎないって、悔しくないわけ?」
白玖の顔が、緋依の目の前まで迫る。
端正な顔立ちの裏側に潜む、捕食者としての本能。背筋が凍るような威圧感が部屋の空気を重く沈めた。普通の人間であれば、このプレッシャーだけで膝から崩れ落ち、呼吸すら忘れてしまうだろう。事実、彼がこれまで喰らってきた少女たちは皆そうだった。死への恐怖に顔を歪め、命乞いをし、最後は絶望に染まって死んでいった。白玖はそれに心を痛めることすらとうの昔にやめていた。彼にとって生贄は、ただの食事であり、国との契約でしかなかったのだ。
しかし、緋依は一歩も下がらなかった。
それどころか、彼女の唇は微かに弧を描いた。「悔しくなんてありません。だって、私はこの世界が大好きですから」
「……は?」予想外の言葉に、白玖の動きが止まる。
「美味しいお菓子を売ってくれる街のパン屋さんも、綺麗なお花が咲く公園も、行き交う人々の笑顔も、全部私の宝物です。でも、異形が現れれば、そんな大好きな世界が壊されてしまう」
緋依は胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、窓の外に広がる帝都の街並みへと視線を向けた。彼女の目には、薄汚れた灰色の空ではなく、その下で懸命に生きる人々の営みが映っているかのようだった。
「私一人の命で、大好きな世界を守れるなら。特務軍の皆さんが、そして白玖様が、異形を祓ってくださるのなら……私の命には、十分すぎるほどの意味があります。だから、悲しくなんてありません」
それは、強がりでも何でもなく、心の底からの本心だった。彼女の深紅の瞳は、未来の希望だけを映してキラキラと輝いている。
自己犠牲という言葉では片付けられない、ある種の狂気すら孕んだ純粋さ。
白玖は、長い年月を生きてきて初めて、どう反応していいか分からなくなった。「君……本物の変わり者だね」
「よく言われます。でも、前向きな餌の方が、きっと味も美味しいと思いますよ?」ふふっ、と鈴を転がすように笑う緋依を見て、白玖は思わず天を仰いだ。
「勘弁してよ。そんな風に笑う餌なんて、食欲が湧かないだろ」
「あら、残念です。私、白玖様のために魔力を高めてきたのに」 「そういう問題じゃないんだけどね……」白玖は頭を掻きながら、再び緋依に向き直った。
「まあいい。君がどんなに変わっていようと、掟は掟だ。僕が戦うためには、君の魔力が要る。……挨拶代わりに、少しだけ貰うよ」
白玖の手が、緋依の細い首筋に伸びる。氷のように冷たい指先が、彼女の脈打つ肌に触れた。
緋依の肩が微かに跳ねたが、彼女は逃げようとはしなかった。むしろ、自ら首を傾け、白玖が牙を立てやすいように無防備な肌を晒す。「……っ」
白玖の顔が近づく。彼の口元から覗く鋭い牙が、白く滑らかな肌に押し当てられた。
チクリとした鋭い痛みの後、緋依の体から熱が奪われていく感覚があった。彼女の血に溶け込んだ莫大な魔力が、白玖の体内へと流れ込んでいく。甘く、そして濃密な魔力の匂い。
神としての本能が、極上の獲物を前にして歓喜に震える。もっと深く牙を立て、このまま一滴残らず啜り尽くしてしまいたいという衝動が湧き上がる。しかし、白玖はすぐに顔を離した。唇の端についた血を、親指で無造作に拭い去る。
「……上等な血だ。これなら、一年は十分に戦えそうだね」
「お口に合って良かったです」首筋を押さえながら、緋依は少しだけ顔を赤らめて微笑んだ。吸血による疲労感よりも、自分が役に立てたという喜びの方が勝っているようだった。
その無防備な笑顔に、白玖の胸の奥で、ほんの小さな棘のようなものが引っかかった。
これまでは、ただ与えられるままに命を奪ってきた。そこに感情など存在しなかった。だが、目の前で嬉しそうに笑うこの少女の命を奪う時、自分は本当に今までと同じように、何も感じずにいられるのだろうか。「これから一年間。私の血も、力も、全部白玖様のために使ってください」
「……勝手にすれば。でも、途中で泣き言を言っても知らないからね」 「はいっ! 覚悟の上です」元気よく返事をする少女を見下ろしながら、白玖は深くため息をついた。
こうして、決して交わってはいけない兵器たる神と、それに捧げられた生贄の、あまりにも短く、残酷な一年間が幕を開けた。
その先に待つのが、世界を揺るがすほどの狂おしい愛と、逃れられない絶望の運命であることなど、この時の二人はまだ知る由もなかった。
ただ、窓の外から吹き込んだ冷たい風が、二人の間を通り抜け、これから始まる過酷な日々を予感させるように、緋依の藍色の髪を大きく揺らしていた。
あれから、数年の月日が流れた。 厚い雲に覆われ、常にどこか重苦しい空気が漂っていた帝都の空は、今では嘘のように高く澄み渡っている。 暖かな春の陽射しが、復興と発展を続ける白嶺の街並みを優しく照らし出していた。 特務軍本部の最上階。総帥室の大きな窓際に立ち、鷺原は平和を取り戻した帝都の景色を静かに見下ろしていた。「鷺原総帥……」 背後から静かな足音が近づき、鷺原の銀色の長髪に舞い込んでいた一枚の桜の花びらが、そっと取り払われた。 振り返ると、そこには火野が立っていた。 彼女の右腕の袖からは、特注で作られた精巧な機械仕掛けの義手が覗いている。あの日、命と引き換えに失われた腕の代わりだった。「彼らは……まだ、どこかで生きているのでしょうか」 火野の問いかけに、鷺原は再び窓の外へと視線を戻し、ふっと目を細めた。「せっかく平和な世界になったんだ。……生きていてもらわないと困る」 ――あの日。 ジェネシスという強大な悪意が打ち倒され、すべてが終わった直後。 菫川の手配した特務軍の特別救護班が、崩落の危険が迫る海底研究所の最深部へとついに突入を果たした。 しかし、血の海と化した研究室に残されていたのは、意識を失い倒れていた鷺原と火野の二人だけだった。 絶対的な力を持っていた白玖も、彼を最期まで支え抜いた緋依の姿も、そこにはなかった。 ひび割れた冷たい金属の床には、緋依が流したであろう絶望的な量の血痕が広がっていた。 そしてその中心には、薄紅色のガラス細工の桜の破片と、雪のように白い獣の毛がいくつか落ちているだけだった。 どれほど部隊を動員して瓦礫を退けようと、二人の遺体はどこにも見つからなかった。 ただ一つ、鷺原たちが決して公にはせず、特務軍の極秘記録にも残さなかった事実がある。 研究所から地上へと続く、長く薄暗い連絡通路。 その冷たい床には、血に濡れた巨大な獣の足跡が点々と残されていた。 その足跡は途中から、もう一匹分の小さな足跡と並んでいたのだ。 巨大な獣の歩幅に合わせるように、そして、互いに寄り添いかばうように歩く、一回り小さな獣の足跡が。 その事実だけが、二人が人間という枠組みを超えて生き延びているという、鷺原たちの唯一の希望だった。 特務軍の技術研究局。 ひっそりとした個室の研究室で、菫川は分厚い資料の山に囲まれな
腹部を貫かれた緋依の小さな身体が、無慈悲に宙へと持ち上げられた。 ジェネシスの異形化した強靭な腕が、血に染まった緋依の首根っこを乱暴に掴み上げている。「あーあ。君は次の母体にするつもりだったのに。抵抗するもんだから……致命傷になってしまったかな?」「ぐっ……うう……ッ」 緋依の口から、ごぼりと赤黒い血が溢れ落ちる。ジェネシスはつまらなそうに目を細め、血の海に沈む床を見下ろした。「出血が多いなぁ。これはダメかな? また次の母体を探さないと……」「緋依ッ!」 総帥が血を吐くような悲鳴を上げ、満身創痍の身体を引きずって駆け寄ろうとする。 だが、ジェネシスが煩わしそうに指先を振ると、亜空間から射出された二本の骨の槍が、総帥の右腕と左足を容赦なく床へと縫い留めた。「がはっ……!!」「鷺原総帥……ッ!」 動けない火野が絶望の声を上げる。 最高戦力である白玖は操られ、他の三人は瀕死の重傷。 もはや万事休す――誰もがそう死を覚悟した、まさにその時だった。『……申し訳ありません。少々、手間取ってしまいました』 突然、研究室に設置されたスピーカーから、聞き慣れた青年の声が響き渡った。 ――技術研究局の菫川主任だ。 直後、壁一面を覆っていた巨大なモニター群が激しく明滅を始め、白玖を縛っていた赤い命令コードが次々とエラーを吐き出して崩壊していく。「なんだ……? 外部からのハッキングだと!?」 ジェネシスが驚愕の声を上げたのと同時に、白狐の氷のような瞳に、確かな理性の光が戻った。 白玖がハッと息を呑み、周囲の惨状を見渡す。 右腕を失い血だまりに伏す火野。四肢を貫かれ倒れる総帥。そして、ジェネシスに首を掴まれ、腹部から絶望的な量の血を流している愛しい少女の姿。 床には、彼が贈ったガラス細工の桜の髪飾りが、無残に砕け散っていた。『こ、これは……ッ!』『白玖様! そちらの惨状はモニター越しに確認しています。ですが、今は創造主を倒すことを最優先でお願いします!』 菫川の悲痛な叫びが、白玖の脳髄を叩き起こした。 次の瞬間、白玖の全身から、これまでとは比べ物にならないほど禍々しく、そして純粋な殺意を帯びた魔力の暴風が吹き荒れた。『お前っ……よくもッ!!』 怒髪天を衝くとはこのことだった。 激昂した白玖の巨体が、一瞬で音を置き去りにした。 ジ
「緋依……ッ!」 おぞましい骨の触手によって空高く吊るし上げられた緋依の姿に、総帥の悲痛な叫びが研究室に響き渡った。 今すぐにでも助けに向かいたい。だが、総帥の目の前には自我を奪われた白玖の容赦ない猛攻と、異形と化したジェネシスの長大な鉤爪が立ちはだかっていた。 二体の規格外の化け物を相手に、剣の達人である総帥でさえ、ギリギリのところで致命傷を躱すのが精一杯という絶望的な状況だった。(このままでは、ジリ貧だ……っ!) 総帥は歯を食いしばり、大太刀を大きく振りかぶった。 狙うのは――白玖。 総帥は心を鬼にして白狐の巨体の懐へと潜り込むと、その太い前脚を非情にも両断した。 白玖が痛みに身をよじり、体勢を崩す。〝異形〟の細胞を持つ白玖の肉体は瞬時に修復を開始するが、完全に元通りになるまでにはほんのわずかなタイムラグが生じる。 総帥が作り出した、一瞬の隙。 それを逃さず、総帥は標的をジェネシスへと切り替え、床を蹴って肉薄した。 しかし、ジェネシスは発達した両腕を使って信じられないほどの敏捷さで後退し、虚空に無数の黒い穴を開いた。 亜空間から、鋭く研ぎ澄まされた槍のような骨が次々と射出され、総帥を串刺しにしようと襲いかかる。 総帥は神速の太刀捌きで飛来する骨を弾き落としていくが、その動きを制限された隙を突き、ジェネシスの巨大な鉤爪が横薙ぎに振り抜かれた。「ぐっ……!」 間一髪で身を反らして回避したものの、鋭い爪の先端が総帥の胸元を掠めた。分厚い軍服が引き裂かれ、空中に鮮血が散る。 わずかに体勢が崩れたその絶対的な死角から、ひときわ太く鋭い骨が、総帥の無防備な喉笛めがけて突き出された。「……ッ!」 吊るし上げられていた緋依は、その光景に息を呑んだ。 助けなければ。しかし、首元を骨の触手にきつく締め付けられているため、声が出せず魔法の詠唱ができない。視界が涙で滲む中、緋依はただ絶望することしかできなかった。 だがその時、鼓膜を劈くような銃声が室内に轟いた。 ドガァンッ! という炸裂音と共に、総帥の喉を貫く寸前だった極太の骨が粉々に砕け散る。「火野……!」 総帥が視線を向けた先には、右腕を失い血溜まりの中に倒れ伏しながらも、残された左手一本で大型拳銃を構える火野の姿があった。 激痛と失血で顔面は蒼白になり、息も絶え絶えでありながら、
ひときわ重厚な金属の扉。 総帥と白玖が力を合わせてその鋼鉄をこじ開けた先に広がっていたのは、先ほどまでの無機質な通路とは打って変わった、広大な研究室だった。 壁一面を埋め尽くすほどの無数の巨大なモニターが、血のような赤い光や昏い緑のデータを明滅させている。 空調の低い稼働音だけが響くその空間の中央に、一人の男が立っていた。 伸びきった黒髪を低い位置で無造作に纏め、口元には無精髭をたくわえ、着古してヨレヨレになった白衣を羽織っている。分厚い眼鏡の奥の瞳は、知性と狂気が入り混じった異様な光を放っていた。 彼こそが、すべての〝異形〟を生み出した元凶であり、白玖の父親――創造主だった。「やぁ。よく来たね。我が息子よ」 親が子を出迎えるような、ひどく穏やかで狂気に満ちた声だった。 白玖は無言のまま、氷のような瞳で男を睨みつける。「兄弟たちや、あまつさえ母さんまでも手にかけたか。実に、実に罪深い。……この私、父さんまで手にかけるつもりかい?」「……黙れっ!!」 白玖の怒りが臨界点を突破し、凄まじい魔力の風が吹き荒れた。 瞬時に巨大な九尾の白狐へと顕現し、殺意を剥き出しにして牙を鳴らす。 緋依、総帥、火野の三人もそれぞれ武器と魔力を構え、臨戦態勢をとった。 しかし、ジェネシスは微塵も怯えることなく、むしろ口元を歪めて嗤った。「くくっ。出来損ないと言えど、貴様も私の細胞を受け継いだ我が息子であることには違いないのだよ。……個体番号127」 ジェネシスが手元のコンソールを操作すると、壁一面のモニターに不気味な文字列が高速で流れ始めた。『――創造主の意志に従い、人類を殲滅せよ』 無機質な電子音声が研究室に響き渡った瞬間だった。 顕現していた白玖の巨体が、ビクンと大きく跳ねた。氷のような瞳から光が失われ、底なしの暗闇のように濁っていく。 次の瞬間、白玖の強靭な顎が、目の前のジェネシスではなく――真横にいた総帥へと猛スピードで襲いかかったのだ。「なに……っ!?」 総帥が咄嗟に大太刀を盾にして白玖の重い一撃をいなすが、その凄まじい衝撃に後方へと弾き飛ばされる。「白玖様!?」 突然の狂行に緋依は悲鳴を上げた。火野も絶望の色を浮かべ、瞬時に銃を構える。 白玖の意志とは無関係に、彼の肉体はジェネシスの命令コードに完全に支配されて
ゆっくりと上昇した防護壁の奥、昏い緑色の非常灯に照らし出されたその姿は、この世のあらゆる悪夢を煮詰めたような冒涜的な存在だった。 上半身は、真っ白な肌をした人間の女性の形を保っていた。床一面を這い回るほど長い白い髪の隙間から覗く顔立ちは、恐ろしいほどに整っている。 しかし、その顔の半分を占めるような氷の色をした大きな瞳は今にも零れ落ちそうに見開かれ、絶え間なく黒い涙を流し続けていた。 だが、真に悍ましいのはその下だ。 女性の腹部は、極限まで風船を膨らませたかのように異様に張り裂けそうに膨れ上がっており、薄い皮膚の下で複数の〝異形〟の胎児たちが、ボコボコと不気味に蠢いているのが透けて見えた。 そして、腰から下は人間ではなく、赤黒い甲殻に覆われた巨大なムカデのような節足の群れへと変貌していたのだ。「キィィィィィィィィィィッ!!」 それは言葉を紡ぐことはなく、ただ鼓膜を劈くような奇声を上げた。彼女の自我はすでに失われ、膨れ上がった腹の中の〝子供たち〟を守り、近づく者を敵味方構わず排除するという原始的な本能だけで動くマザーと化していた。「うわ……っ」 想像を絶するおぞましさに、白玖が思わず後ずさった。 海への恐怖に加え、極度の虫嫌いである彼にとって、実の母親が巨大な多足の化け物になり果てているという現実は、視覚的にも精神的にも致命的なダメージだった。「臆したか、白玖! それでも貴様は神か!」 鷺原総帥の鋭い一喝が、凍りついた空気を叩き割った。「嫌だよ、あんな気持ち悪いの……!」「泣き言をほざく暇があるなら、さっさと顕現しろ!」 総帥に容赦なく叱咤され、白玖は顔を引き攣らせながらも膨大な魔力を解放し、嫌々ながら九尾の巨大な白狐へと姿を変えた。 その直後、マザーの無数の脚が床を削りながら、凄まじい速度で襲いかかってきた。巨大な外見からは想像もつかないほどの俊敏さだ。『狭いってばっ!』 白玖が狭い通路で巨体を翻して回避しようとした瞬間、その太い尻尾が背後に並んでいた巨大な培養槽に激突してしまった。 ガシャンッ、と分厚いガラスが砕け散り、緑色の液体と共に、まだ未成熟の〝異形〟の幼体たちが大量に床へとこぼれ落ちる。「おい、敵を増やしてどうする!」『うるさいなぁ! わざとじゃないしっ!』 総帥の呆れたような声に反論しながら、白玖は強靭な顎
冷たい潮風が吹きすさぶ崖にカモフラージュされていた岩肌の奥。巨大で錆び付いた昇降機は、酷く嫌な軋み音を立てながら、昏く冷たい海底へとゆっくりと下っていく。 海への異常な恐怖を抱える白玖は、昇降機の壁に寄りかかりながら、あからさまに顔色を悪くしていた。緋依は彼の大きな手にそっと自分の手を重ね、静かに互いの体温を分け合う。「へぇ……こんなところ、よく見つけたねぇ」 白玖が気を紛らわすように、努めて普段通りの飄々とした口調で言った。すると、昇降機の真ん中で腕を組む鷺原総帥が、銀色の長髪を揺らしながらジロリと白玖を睨む。「……お前たちが、逢瀬にいそしんでいる間も探し続けていたからな」「ぼ、僕たちも一応は探してたんだけどね」 気まずそうに視線を逸らす白玖。 これから世界の命運を懸けた最終決戦だというのに、緊迫感のかけらもない軽口を叩き合う男性陣を見て、緋依は思わず大きなため息をついた。 隣に立つ赤髪の火野参謀官も、愛用の大型拳銃の弾倉を確認しながら「まったく、うちのトップは……」と呆れ果てた顔をしている。 やがて、ガコンという重い衝撃と共に昇降機が停止した。 分厚い鉄の扉が、鈍い音を立てて左右に開く。 その先にある光景を見て、緋依は息を呑んだ。 そこは、不気味なほどに真っ白な研究施設だった。 ガラス張りの無機質な実験室、緑色の液体で満たされた巨大な培養槽、そしてどこまでも続く長い無人の廊下。数百年前からこの海底に沈んでいるはずなのに、まるで昨日まで稼働していたかのように保存状態が良い。 だが、誰もいない。ただ空調の音だけが響く、静かすぎる空間だった。「気味が悪いですね……」 緋依が呟いたその時。 警戒しながら白玖が施設内の床へ一歩足を踏み入れた途端、冷たい電子音が廊下に響き渡った。『──生体反応を確認。排除プロセスに移行します』 ガシャンッ! と背後の昇降機の扉が完全にロックされ、同時に天井のパネルが次々と吹き飛んだ。 落ちてきたのは、気配を持たない改良型の〝異形〟の群れだ。 一瞬にして戦闘態勢に入った白玖は、膨大な魔力を解放し、巨大な九尾の白狐へと姿を変える。しかし。『っ、せまっ! 動きにくっ!』 野外戦を得意とする白玖の巨体にとって、この閉鎖された無機質な廊下はあまりにも戦いづらかった。壁に尻尾が激突し、思うように身動きが







