FAZER LOGIN佳緒は、紬の指輪を食い入るように見つめながら言った。「四年くらい前だったかな。お父さんと一緒にフランスのオークションに行ったとき、この指輪がトリを飾る目玉商品だったの」紬は、すぐ隣に座る慎を見た。慎は全員の視線を受けても、涼しい顔のまま微動だにしなかった。佳緒は興奮気味に続けた。「すごく気に入って、世界中のたくさんの人が狙っていたの。最終的な落札価格が確か……日本円で二十一億だったと思うわ」紬は、あやうくむせそうになった。手元の指輪をもう一度見てから、慎に視線を戻した。どこか呆然とした顔で。い、いくら……?「この指輪は、すごい由来があるのよ。百年前のスペインの最高峰の宝飾デザイナーが作った一点物で、とにかく高価だったから、オークション会場で紹介されたとき、最終的にどこかの博物館が収蔵することになったって言っていたの。そのデザイナーが『至上の愛』をテーマに作ったもので、意味も特別で、当時は数々の逸話を生んだって。数年前になって、やっと『唯一無二』という名を冠してオークションに出品されて、天文学的な値段がついたのよ」佳緒は、あのときのことを鮮明に覚えていた。育ちが良く、父と一緒に世界中を飛び回ってきた。数年前はまだ十代で、宝石に夢中になっていた頃だったが、値段が高すぎて競い合う余地すらまったくなかったのだ。あんな大金を出して一枚の指輪を手に入れようとする人間など、世界中探してもそうそういない。「長谷川代表、奥様をとても大切にされているんですね」世羅が、心からの憧れを滲ませた顔で言った。紬は、指輪をつけた左手が火のように熱くなってくる気がした。信じられないといった目で慎を見た。「……本当に?」慎はちらりと彼女を見た。「本当だ」あの年、自分でフランスへ飛び、直接競り落とした。紬と入籍のために役所へ行こうと決めた、その一週間前のことだった。紬は言葉を失った。慎はそんなこと、ただの一言も言っていなかった。この指輪が競売に出された世界にひとつの一点物だとすれば——慎の薬指にある、同じモチーフの結婚指輪はどういうことになるのか。佳緒のその一言で、場の空気が一変した。みんなが静かに感嘆のため息を漏らしていた。どれほどの情熱と執念だろうか。世羅は理斗をちらりと見て、向かいの笑美を見て
佳緒は、思ったことをすぐ口にしてしまう性質だった。ふん、と鼻を鳴らして言う。「あなたが妬いてどうするのよ。他の女の子の隣に平気で座ってる『婚約者』のことは、なんで気にしないの?」「…………っ!」それは、笑美にとって急所を突く残酷な一撃だった。笑美の体が、ぴたりと固まった。無理に作っていた笑顔まで、氷のように固まった。佳緒も、自分の口が先走りすぎたことに後から気づいた。頭が追いつく前に、つい口が滑ってしまうのだ。慌てて、紬と笑美の顔を交互に見た。「ちょ、わざとじゃないから……」さっきから隣で一部始終をじっと観察していた佳緒には、なんとなく場の雰囲気が読めていた。世羅が「婚約者」と言った一言から、複雑な状況を整理していたのだ。ずっとこの件には口を挟んでいなかった承一も、わずかに手元の動作を止めた。視線が自然と、傷ついた笑美の顔に落ちる。笑美はどんなことも中途半端にしかできないくせに、強がることだけは昔から得意だった。手をひらひらと振って笑い飛ばす。「気にしてないさ。大したことじゃないんだから」紬は唇をきゅっと引き結び、無言で向かいの二人を冷ややかに一瞥した。その後、機体のいくつかの性能についての本格的な話し合いが始まった。先々の方向性と、パイロットたちの具体的なニーズについて、三十分ほど突き詰めた専門的な議論が続いた。様々な立場の人間が真剣に意見を出し合い、先ほどのような個人的な感情の話は、もう誰も持ち出さなかった。途中で、部屋の扉が再び開いた。上質なスーツを纏った慎が、静かに入ってきた。身なりは完璧で隙がなく、重傷の傷がまだ癒えきっていないことなど、微塵も感じさせない立ち姿だった。その場にいた全員の視線が、一斉に慎へと集まった。慎は大勢の中から、すぐに紬の姿を見つけた。一瞬だけそこに視線を止め、ゆっくりと歩きながら、その場にいる人たちへ軽く頷いた。そして迷いなく、紬の隣へと向かう。佳緒はこの人たちの複雑な事情までは知らないが、慎が紬の夫だということはわかっていた。不承不承席を詰めて場所を空けた。慎は佳緒をちらりと見た。「……どうも」慎が腰を下ろしてから、紬が困惑した顔で小声で聞いた。「……何しに来たの?」慎は少し紬の方へ体を傾け、同じく小声で返す。「研究
世羅は嬉しそうに目を細めると、心を込めて選んだ贈り物を両手で大切に抱えるようにして差し出しながら、受け取ってもらうのを待っていた。しかし、その無邪気な一言は——笑美の胸の奥を鋭くえぐった。笑美は、思わず世羅の後ろに立つ理斗を見た。忘れていたのか……?しかも、世羅に代わりにプレゼントを用意させているなんて。笑美はショックで、しばらく手を伸ばせなかった。世羅は少し戸惑い、周囲の視線を感じながらそっと聞いた。「……気に入らなかった?」理斗は、世羅がばつが悪そうな様子に気づいた。あれだけ心を込めて準備したのに受け取ってもらえない妹を庇うように、理斗は笑美に目を向けた。「世羅が、お前のために一生懸命選んでくれたんだ。受け取れ。俺からの分でもある」世羅に恥をかかせたくなかった。ただそれだけだった。その無神経な言葉を聞いて、紬はほんの少し眉を曇らせた。理斗の動機が、笑美を気遣っての言葉ではないことが、声のトーンでわかってしまったからだ。笑美にそれがわからないはずがない。理斗は、笑美が誕生日を忘れられたことで深く傷ついているとは、少しも気づいていない。でも、理斗がそう言った以上、受け取らないわけにはいかない。世羅だって悪意があったわけではないし、大勢の前で場の空気を壊したくもなかった。笑美はこくりと頷き、プレゼントを受け取った。「……ありがとう」世羅はほっとして振り返り、理斗に向かって「ほら、大丈夫だったでしょ」とでも言いたげな、小さな得意そうな笑みを向けた。言葉は笑美に向けながら、その視線は理斗を見ていた。笑美はぎこちなく頷いた。その場には大勢の人がいた。笑美も察していた——婚約者の誕生日をすっかり忘れ、義妹に代わりにプレゼントを買わせる。みんなの前でそれを見せつけられれば、理斗が笑美を大切にしていないことなんて、誰の目にも明らかだ。自分が周りからそう思われていると感じるだけで、いたたまれなくなり、惨めだった。紬は笑美の心の揺れを敏感に感じ取り、静かに笑美の手を握った。そのまま引っ張るようにして席へ向かい、笑美をその場から連れ出した。笑美はされるがままについていった。横目で見ると、理斗も世羅を連れて着席していた。世羅が気づいたように振り返り、理斗に言った。「お兄ちゃん、笑美のそばに
そう、今日は笑美の誕生日だった。仕事が積み上がっているから先に片付けて、夜に改めて——と思って頷きかけたが、笑美は何かを思い出したのか、目の中に淡い期待を滲ませた。紬はふとひらめいて、意地悪く眉を上げた。「そうか、婚約者さんが戻ってきてるんだものね。何かデートの約束でもしてるの?」笑美はしゅんと肩を落とし、首を振った。「……まだ電話もないよ。覚えてるかどうかも怪しいけど……」以前、理斗がまだ国を出る前は、誕生日には必ず一緒にいてくれたのだ。紬は、笑美の頭に優しく手をのせた。「きっと大丈夫よ。もう戻ってきてるんだから、もし覚えていなくても、素直に言えばいいじゃない。一緒に過ごしたいって」笑美はぱっと顔を輝かせた。「そうだよね!日曜だし、絶対に時間あるはずだもん!」弾けるような笑顔を見て、紬もつられて口の端を上げた。「みんな、もう揃ってる?」歩きながら紬は聞いた。笑美は首を振った。「ううん、まだ。でも承さんはもう中で仕事の話をしてるみたい」今日は研究基地からも数名、協力してくれる人間が来る予定だった。これから先は、フライテックとの仕事のやり取りも増えていくだろう。三階の貸し切りフロアへ上がると、いかにも屈強な男たちが何人か集まっていた。体格も均整が取れ、立ち姿だけでも目を引く面々だ。紬はそのうちの二人をすぐに見分けた。基地から来た特戦飛行士、尾崎聖也(おざき せいや)と片岡瑛太(かたおか えいと)だった。佳緒も来ていた。紬が入ってくるとすぐに立ち上がり、紬の腕にくっついている笑美をちらりと見てから、少し不満げな顔をした。承一は紬が来たのを見ると、まずさっと彼女の体の具合を確認した。思ったより顔色がいい。それを確かめてから安心し、一人ひとりを紹介し始めた。ひととおり挨拶を終えたところで、入口から声がした。「すみません、渋滞で遅れてしまって」その声を聞いた瞬間——笑美の体が、紬の腕の中でびくっと固まった。紬は笑美の顔をちらりと見た。呼吸すら止まっていた。目に見えて緊張しているのがわかる。笑美はいつだって大らかで、社交的で、冗談が好きで騒がしい女の子だ。なのに、たった一人の人間に、こうも簡単に感情を振り回されてしまう。笑美は静かに深呼吸をして、顔に精いっぱいの笑みを作り
先日の取締役会でのクーデター未遂の一件は、長谷川グループ内に大きな波紋を呼んでいた。誰もが、これで終わりではなく、必ず続きがあると察していた。慎が来社したとき、ちょうど光貴も公務で本社に顔を出していた。二人は当然のように、ロビーで顔を合わせることになった。光貴は探るような視線を向けた。「慎、体の方はもう良くなったのか?」慎は静かにエレベーターに乗り込んだ。「お気遣いなく。だいぶ戻った」「この間は色々あって、見舞いにも行けなかった。許してくれ」まるで何事もなかったかのような白々しい顔だった。慎は落ち着いた手つきで、左手の薬指にはめられた結婚指輪をくるりと回しながら、淡々と言った。「ご多忙のようだし、無理をする必要はない。俺がいる限り、兄さんが直接手を出せるような仕事もそうそうないだろうから」光貴の口元から、すっと笑みが消えた。目の奥に、冷たく険しい光が滲む。慎はそれを感じ取っていないかのように、変わらぬ静かな口調で続けた。「兄さんは海外に長くて本社の内情をご存じないかもしれないが、あの取締役たちの中にも、地位だけ占めて何もしない者が少なからずいる。そういう人間は、一度厳しく対処して整理すべきだろうね」その言葉を聞いた瞬間、光貴の表情がわずかに動いた。取締役会には当然、分家の息がかかった人間が潜り込んでいる。慎の言う意味は——慎は口の端をわずかに持ち上げた。「俺は、表向きだけ味方のふりをして裏で立ち回るような人間が嫌いでね。靴の中に入った砂を、そのまま放っておける性分でもない。兄さんなら、どうする?」その言葉は、光貴の神経を真っすぐに貫いた。これは提案でも相談でもない。釘を刺している。脅している。そして——粛清の宣告だ。エレベーターが目的の階に近づいた。慎はディスプレイの数字を見上げた。「イタリアの会社も何かと忙しいだろう。そろそろ、あちらへ戻られた方がいいんじゃないか」穏やかな口調の裏に隠された、容赦ない刃。光貴の顔色が瞬時に変わった。「慎……祖母ももう年だ。長年海外にいるのも辛いだろう。何も、そこまでしなくてもいいんじゃないか」慎はそこで初めてゆっくりと振り返り、無感情な氷のような目で光貴を見た。「戻りたくないと?そういえば一つ、聞いた話がある。
紬は枕元の小さなナイトランプの光をぼんやりと眺めながら、頭の中で、まだ見ぬ娘の姿を一生懸命に思い描いていた。自分似なのか、それとも慎似なのか。娘は父親に似ることが多いと、どこかで聞いた気がする。そこまで考えて、紬はそっと顔を上げ、慎の静かな寝顔を盗み見た。薄暗い光の中でも、その顔立ちの輪郭は際立っていた。鼻筋は高く通っているが、冷たい印象は与えない。目頭の脇にある一粒のほくろが、どこか妖しく退廃的な色気を添えている。二重のラインも端正で、冷たいほど白い肌に映える唇は、健康的な赤みを帯びていた。整いすぎているほどに、非の打ち所のない顔だった。慎の容姿が人並み外れているのは、出会った頃からずっとわかっていた。もしも娘が、この顔に似たなら——それはもう、文句のつけようがないほど可愛らしいに違いない。そんなことをぼんやり考えているうちに、気づけば視線が彼の薄い唇にじっと止まっていた。数秒ほど。はっとして、紬は慌てて目を逸らした。耳の先まで火がついたように熱くなった気がした。もうさっさと目を閉じて、この余計な考えを全部追い払ってしまおう。紬がぎゅっと目を閉じた瞬間。慎はゆっくりと目を開け、腕の中で居心地悪そうにしている紬の愛おしい様子を、しばらく眺めていた。声を立てることなく、唇の端が柔らかく上がる。……翌朝。目が覚めると、隣はもう空だった。紬は目を擦りながら起き上がった。「……慎?」洗面所からも返事はない。先に身支度を済ませることにした。着替えようと姿見の前に立ち、服をめくって腹部を確かめる。腹腔鏡手術の傷口は、ほぼ塞がっていた。傷跡が完全に消えるには、まだ時間がかかるだろう。この先しばらくは、処方された薬を飲み続けなければならない。抗菌薬と、エストロゲンを補うための薬だ。内分泌に関わる治療にも一定の期間が必要だった。もう少しの辛抱だ。着替えを終えて階段を下りると、家政婦の山谷がすでに下で立ち働いていた。紬の姿を見て、山谷は目を細めて優しく笑った。「若奥様、よく眠れましたか?」紬は頷いた。「慎は?」壁の時計を確認すると、もう朝の九時だった。自分がこんなに長く眠るのは珍しい。山谷は、温かい朝食を一品一品テーブルに並べながら答えた。「若旦那様が、若







