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第9話

Author: 葉子
蓮斗は志乃の言葉など一切気にも留めず、視線を私から逸らすことはなかった。

その声は懇願に満ちていた。

「佳織ちゃん、お願いだから聞いて。俺は本当に後悔してる。俺が間違ってた、君を大事にしなかった……お願いだ、もう一度チャンスをくれないか」

「チャンス?」

私は冷たく笑い、鋭い目で彼を見つめ返した。

「蓮斗、今さら自分にそんな資格があると思ってるの?」

「わかってる、全部俺が悪い。君を無視したこと、他人の言葉に耳を貸したこと……全部俺のせいだ。変わるから、許してくれ……」

彼の声はだんだん掠れ、まるで懇願するように続けた。

「君が望むなら、俺は何だってする」

その姿に焦りを覚えた志乃が、堪えきれず割り込んできた。

「蓮斗、あなたは私だけを愛してるって言ったでしょ?私に……」

「黙れ!」

蓮斗は冷たくその言葉を遮った。

その目にはこれまで見たことのない冷酷な光が宿っていた。

「お前には何度も言ったはずだ。俺とお前はもう終わった。何を言おうが、俺には関係ない」

その一言は、志乃の心を容赦なく叩き潰した。

彼女は顔面蒼白になり、歯を食いしばって叫ぶ。

「どうしてよ!蓮斗、あなたは私を裏切るの?私たちが一緒に過ごした時間を忘れたの?それに……あんた知らないの?

彼女はもう別の男と……!」

その言葉に、私の心は一瞬ざわめいた。

けれどすぐに気持ちを落ち着かせ、静かに口を開いた。

「蓮斗、私は一度死んだの。そう思ってくれた方がいい。私たちはもう終わった。お互いに解放されるべきよ」

「いやだ!」

蓮斗は激しく首を振り、絶望の色を浮かべた目で私を見つめた。

「佳織ちゃん、お願いだ。君が俺を憎んでも、嫌っても、罵倒しても構わない。でも、いなくならないでくれ。お願いだから戻ってきてくれ!」

その声に胸が痛んだ。

けれど、私は冷静に答えた。

「蓮斗、あなたが欲しいのは私じゃない。私たちの始まりそのものが、最初から間違いだった」

「違う!俺が馬鹿だったんだ。君がいなくなって、ようやく君がどれほど大切だったか気づいたんだ!」

彼の必死の訴えも、私の心にはもう届かなかった。

そんな中、蓮斗が自分を無視し続けることに耐えられなくなった志乃が、突然椅子を掴み、私に向かって突進してきた。

「佳織、死ね!!」

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    彼は過去を振り返り始めたが、私は少しずつ、その記憶から遠ざかっていた。「先生、何見てるの?」隣で描いていた小さな男の子――中村駿人(なかむら しゅんと)が、好奇心いっぱいに覗き込んでくる。私は慌ててスマホの画面を閉じ、静かに答えた。「何でもないよ。駿人くん、線画まだ終わってないでしょ?続いて」「先生……」 彼は首をかしげ、不思議そうに問いかけた。 「なんか、悲しそう」私は一瞬戸惑ったが、すぐに微笑んだ。「そんなことないよ。気にしすぎ」駿人は素直に頷いて、また絵を描き始めた。 私はスマホを握りしめたまま、しばらく目を伏せていた。そう、私は悲しかった。けれど、それは彼らのせいじゃない。 むしろ、そのニュースが私を裏切りと嘘に満ちた過去へ引き戻す――そのことが苦しかったのだ。ある日、私は教室で子どもたちに絵を教えていた。 そこに一人の若い男性が訪ねてきた。大きな花束を抱えて、入口で立ち止まる。「こんにちは、駿人の叔父の中村洋介(なかむら ようすけ)です」彼は名乗り、少し遠慮がちな声で続けた。「これは先生に……駿人が先生の授業をとても楽しんでいるので、そのお礼に」私はその花をちらりと見て、軽く首を振った。「私は贈り物は受け取らないんです」彼は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに苦笑いを浮かべた。「そうでしたか……知らなくてごめんなさい」「大丈夫です」 私は画架に戻り、淡々と続けた。 「次からは手ぶらで来てください」彼はそれ以上何も言わず、静かに駿人と授業を受け、終わるとそのまま帰っていった。その後も彼は教室に顔を出すたび、何かしら持ってきた。 果物だったり、お菓子だったり。「駿人が好きなんです」 そう言って笑うけれど、私は気づいていた。 それが私への気遣いだということを。私はそれを一度も受け取らなかった。けれど彼は、無理に押し付けたりしなかった。 ただ、穏やかにそこにいるだけだった。彼は静かに、駿人が絵を描くのを見守り、時には私が教えている様子をそっと後ろから見つめていた。ある日、彼がぽつりと呟いた。「本当に素敵な絵ですね」私は手を止めて、彼を振り返った。「どうしてそう思うんですか?」

  • 佳織の渡し   第5話

    誰にも知られずに、私はこの街に身を隠している。 そして誰も知らない――私はとっくに、孤独に生き抜く覚悟を決めていたことを。この街に越してきたばかりの頃、私は誰とも関わろうとしなかった。 買い物、部屋の契約、公共料金の支払い――すべて、できるだけ最小限の言葉で済ませた。人々は私を冷たくて変わった人間だと思ったらしい。次第に誰も話しかけなくなった。 それでよかった。 私はそれを望んでいたのだから。貯金を使い、小さな絵画教室を開いた。 対象は子どもたちだけ。純粋な瞳で、ただ絵を楽しむ子どもたちに、私は絵を教えている。かつて私は、自分の才能はスポットライトの下に立ち、大勢の喝采と賞賛を浴びるためにあるのだと信じていた。 けれど今は、ただ静かに、シンプルな線を描き、無垢な子どもたちと穏やかな時間を過ごしたいと思うだけだった。一ヶ月が過ぎたころ、偽装死サービスの担当者が私に伝えた。「蓮斗さんが、あなたを探しています」「探してる?」私は小さく笑い、冷ややかに言った。「私はもう死んだのに。何を探すっていうの?」「彼はあなたの画廊を訪ね、昔の知人たちにも接触しようとしています。でもご安心ください。私たちの保護体制は万全です。彼には何一つ掴めません」担当者は続けた。「こちらの情報によると、彼は事件の後、深い罪悪感と後悔に苛まれているようです。警察からは、あの海域での生還は不可能に近いと説明されています。彼は何度も現場へ足を運び、あなたの痕跡を探しているようですが、何も見つかっていません」私は静かに耳を傾け、指先で机を軽く叩きながら、まるで他人事のように聞いていた。「佳織さん」担当者は一拍置いてから、さらに言葉を続けた。「あなたが投稿した動画やSNSの内容は、今や彼にとって最大の悪夢です。 あの定時アップロードされた証拠は、彼の冷酷さと無関心を白日の下に晒し、世間の信用を完全に失墜させました。 彼の名声は地に落ち、誰もが知っている――彼の心は最初からあなたではなく、志乃さんにあったのだと」私はふっと笑みを浮かべ、視線を窓の外へと向けた。名声が失われた? それは当然の報いだ。彼はこの結婚を、ただの遊びにしてしまった。 今ようやく、その代償を支払っているだけのこ

  • 佳織の渡し   第4話

    蓮斗は呆然とし、かすれた声で絞り出すように問い詰めた。「そんなはずない!俺はちゃんと彼女と約束してたんだ。もうすぐ誕生日だったのに、元気だった彼女がどうしてこんなことに……」秘書は複雑な表情を浮かべ、低く静かに告げた。「九条社長、船員によると、奥様は一人で船に乗り込んだそうです。そのとき、明らかに心ここにあらずといった様子だったと……その後は……」「ありえない!」蓮斗は秘書の言葉を遮り、声を荒げた。「信じない!どうして一人で乗ったんだ?船員はなんで俺に連絡しなかった?」秘書は少し口ごもり、慎重に言葉を選んで続けた。「九条社長……船員は夜通し何度もあなたに電話したそうです。でも……その、携帯の電源がずっと切れていたと」蓮斗はハッと我に返り、手元のスマートフォンを見下ろした。画面は真っ黒。慌てて電源を入れ直すと、すぐに志乃に視線を向け、その目に冷たい光を宿した。「お前が切ったのか?」志乃は一瞬だけ怯んだが、すぐに取り繕うように弁解した。「蓮斗、そんなことするわけないじゃない。多分、間違って触っちゃったとか、バッテリーが切れただけよ。私のせいじゃないわ」その声には、いかにも無邪気を装った無実の色が滲んでいた。蓮斗はそれ以上何も言わず、港へと走り出した。その顔には、隠しきれない焦りと罪悪感が浮かんでいた。不安に駆られ、全身を突き動かされるように。港に到着すると、クルーズ船はすでに戻っており、警察が船員たちと話をしていた。一人の警官が蓮斗に歩み寄り、重い口調で伝えた。「九条さん、船内に奥様の姿は確認できませんでした。船員の証言と監視カメラの映像から、奥様が自ら海に飛び込んだことがわかっています。しかし、あの海域は潮流が複雑で、捜索は難航する見込みです」「なぜ……どうして彼女がそんなことを……」蓮斗は呆然とつぶやき、焦点の合わない目で海を見つめた。「そんなはずがない……」「最近、奥様の様子に何か変わったことはありませんでしたか?」警官が問いかけるが、蓮斗は首を振った。「ずっと穏やかだった……何も変わらなかった……」その時、秘書がそっと耳打ちする。「九条さん、奥様のSNSを確認してみてください」蓮斗は震える指でスマートフォンを開き、妻のアカウントにアクセスした。

  • 佳織の渡し   第3話

    蓮斗は私の異変に気づいたのか、一瞬表情を曇らせ、そして自ら提案してきた。「今すぐ帰ろうか?どこかで少し気分転換でもしよう」私は彼を見上げ、ゆっくりと微笑んだ。「じゃあ、クルーズに行こう。夜の海を眺めて、そのまま朝日も見に行きたいな」車に乗り込むと、彼は明日の計画について話し始めた。「君の誕生日、ちゃんとサプライズを用意してあるんだ。それが落ち着いたら、子どものことも考えようか」私はただ静かに耳を傾け、窓の外へ視線を向けたまま何も答えなかった。車が動き出した瞬間、彼のスマートフォンが鳴り始める。彼は電話を取り、少し困ったように眉をひそめ、低い声で話し始めた。私はそんな彼を見つめながら、静かに言った。「用事があるなら、そっちを優先していいよ」彼は少し迷った様子で言葉を詰まらせた。「佳織……」「大丈夫。私は先にクルーズで待ってるから」来電の相手は見なかったが、誰なのかはもうわかっている。彼にこんな顔をさせる相手は、一人しかいない。私は一人でクルーズ船に乗り込み、スマートフォンを取り出して志乃のSNSを開いた。そこには投稿されたばかりの写真があった。【成功の瞬間を一緒に過ごし、夜食まで届けてくれて、わざわざ話し相手にもなってくれる。いつも私を支えてくれて本当にありがとう】コメント欄には称賛の声が並ぶ。【本当に愛されてるね!】 【理想の夫婦だわ!】だが、私の視線は写真の中に写る一つの手に釘付けになった。その手首には見覚えのある菩提樹の数珠。蓮斗のものだった。私はそのまま彼に電話をかけた。だが応答したのは、志乃だった。「こんな夜遅くに、お姉さんが私に電話してくるなんて。もしかして、蓮斗を探してるの?」その声は、あからさまな嘲笑に満ちていた。「諦めたら?今夜、彼は帰らないわ。男を繋ぎ止められない女の末路ね。せっかく譲ってあげたのに、あなたはそれすら掴めない」私は静かに通話を切り、振り返ってクルーズのスタッフに告げた。「出航して」「他の方は待たなくていいんですか?」「ええ、私一人で」クルーズ船は静かに動き出し、夜の海を切り裂くように沖へと進んでいった。私は船首に立ち、星空を見上げた。冷たい海風が容赦なく肌を刺し、波間に映る星明かりが揺れて

  • 佳織の渡し   第2話

    数珠を拾い上げたとき、私はその表面に違和感を覚えた。微かな灯りの下でじっと見つめると、珠一つ一つに文字が彫られているのがわかった。――志乃。その瞬間、私は完全に諦めがついた。翌朝、私は蓮斗に言った。「一緒に江原家に帰りましょう」彼は一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐに平静を装い、淡々と返す。「いいよ。着いたら贈り物を渡して、すぐ帰ろう」彼が私に来てほしくないのはわかっている。志乃の邪魔になるのが怖いのだ。でも、私はただ最後に家族の顔を見ておきたかった。だって、明日にはすべてを終わらせる準備を始めるのだから。江原家に着くと、家は賑やかな祝賀ムードに包まれていた。志乃の妊娠と国際画展への出展、二重の喜びを祝うために大勢の賓客が集まっている。人々に囲まれ、まるで星のように輝く志乃。その姿を見て、皆が口々に賞賛する。「今回のあの絵、きっと大賞を取るよ!」「しかも書道家・藤原玄道(ふじわら げんどう)の題字まで添えられてるなんて、まさに完璧な組み合わせだ!」私が足を踏み入れた瞬間、志乃の表情が一瞬だけ変わった。しかしすぐに作り笑顔に戻り、嘲るような声で話しかけてくる。「お姉さんも来たの?最近そんなに暇なの?」私はその挑発に乗らず、ただ展示されている一枚の絵に目を向けた。――それは、私が数年前に描き上げ、ずっと大切にしまい込んでいた絵だった。誰にも見せたことのない、私だけの作品。どうしてここにあるの? どうしてこれが、彼女の出展作品になっているの?志乃はにやりと笑いながら、そっと私に近づく。その声は甘く柔らかいのに、奥底には鋭い棘が潜んでいた。「お姉さん、この絵そんなに気に入った?」私は冷たい視線を投げた。その瞬間――「やめて!」志乃が突然叫び、体を大きく仰け反らせた。彼女はお腹を抱え、苦しげな表情を浮かべながらよろめく。「志乃!」誰かが叫び、周囲は一気に騒然となった。「どうしたんだ!?」「妊娠してるんだぞ、ぶつかっちゃダメだろ!」「早く医者を!」混乱の中、私はその声を聞いた。「志乃!」その声――どんなに取り繕っても、私にはすぐにわかった。蓮斗の声だった。彼の目に浮かぶ深い憐憫、その感情を私は見逃さなかった。最後の一抹の

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