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第6話

Author: 葉子
彼は過去を振り返り始めたが、私は少しずつ、その記憶から遠ざかっていた。

「先生、何見てるの?」

隣で描いていた小さな男の子――中村駿人(なかむら しゅんと)が、好奇心いっぱいに覗き込んでくる。

私は慌ててスマホの画面を閉じ、静かに答えた。

「何でもないよ。駿人くん、線画まだ終わってないでしょ?続いて」

「先生……」

彼は首をかしげ、不思議そうに問いかけた。

「なんか、悲しそう」

私は一瞬戸惑ったが、すぐに微笑んだ。

「そんなことないよ。気にしすぎ」

駿人は素直に頷いて、また絵を描き始めた。

私はスマホを握りしめたまま、しばらく目を伏せていた。

そう、私は悲しかった。

けれど、それは彼らのせいじゃない。

むしろ、そのニュースが私を裏切りと嘘に満ちた過去へ引き戻す――そのことが苦しかったのだ。

ある日、私は教室で子どもたちに絵を教えていた。

そこに一人の若い男性が訪ねてきた。

大きな花束を抱えて、入口で立ち止まる。

「こんにちは、駿人の叔父の中村洋介(なかむら ようすけ)です」

彼は名乗り、少し遠慮がちな声で続けた。

「これは先生に……駿人が先生の授業をとても楽しんでいるので、そのお礼に」

私はその花をちらりと見て、軽く首を振った。

「私は贈り物は受け取らないんです」

彼は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに苦笑いを浮かべた。

「そうでしたか……知らなくてごめんなさい」

「大丈夫です」

私は画架に戻り、淡々と続けた。

「次からは手ぶらで来てください」

彼はそれ以上何も言わず、静かに駿人と授業を受け、終わるとそのまま帰っていった。

その後も彼は教室に顔を出すたび、何かしら持ってきた。

果物だったり、お菓子だったり。

「駿人が好きなんです」

そう言って笑うけれど、私は気づいていた。

それが私への気遣いだということを。

私はそれを一度も受け取らなかった。

けれど彼は、無理に押し付けたりしなかった。

ただ、穏やかにそこにいるだけだった。

彼は静かに、駿人が絵を描くのを見守り、時には私が教えている様子をそっと後ろから見つめていた。

ある日、彼がぽつりと呟いた。

「本当に素敵な絵ですね」

私は手を止めて、彼を振り返った。

「どうしてそう思うんですか?」

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