Share

4食目

Author: はるくぼ
last update publish date: 2026-08-10 18:20:28

 スーパー『サニー』を出ると、駅前の明るさは少しだけ薄れ、夜に近い空気がレジ袋の持ち手越しに指先へ染み込んできた。

 右手に食材の詰まった袋を提げた蓮の隣で、椿も自分の荷物を持ち直す。店内では気にならなかった重さが、外に出た途端にはっきりと腕にかかり、二人の足取りは自然と急ぎすぎないものになった。

「……それにしても」

 信号待ちで足を止めたところで、椿が横目で蓮のレジ袋を見た。

「あなた、サッカー以外だと意外と危なっかしいのね」

「危なっかしい?」

「鶏むね肉とブロッコリーだけで練習後の夕飯を済ませようとしていた人に、他にどんな言い方があるの?」

 穏やかな声ではある。

 ただ、言っている内容はまったく穏やかではなかった。

 蓮は少しだけ視線を逸らし、レジ袋の中で揺れるバナナと小松菜を見る。

「効率を考えたつもりだった」

「効率って、減らせばいいわけじゃないから。必要なものを、必要なタイミングで入れることまで含めて効率よ。削った結果、回復が遅れたら意味がないでしょう?」

「……それは、そうだな」

 言い返す材料はなかった。

 ピッチの上なら、蓮は何を削って何を残すかを判断できる。触る回数を減らすのか、相手を引きつけるのか、味方が走る時間を作るのか。目的があれば、選択は自然と絞られる。

 だが、食事になると違った。

 身体に良いとされるものを並べたはずなのに、椿の言葉を聞いた後では、必要なものを落としたまま満足していたように見えてくる。

「まあ、最初から全部分かってたら、スポーツ栄養科なんていらないもの」

 椿はそう言って、信号が変わるのを見た。

「これから覚えていけばいいんじゃない?」

「橘さんは、そういうのをずっと勉強してるのか」

「昔から少しずつね。管理栄養士になりたいって決めてからは、特に」

 横断歩道を渡り、駅前の通りから住宅街へ入る。

 人通りは少しずつ減り、店の明かりよりも街灯の方が目立つ道になった。歩道の脇には低い植え込みが続き、車が通るたびに二人の影がアスファルトの上で伸びたり縮んだりする。

 椿は先ほどより少し歩幅を落としていた。

 荷物が重いのかと思ったが、表情を見る限り、ただ急いでいるわけではないらしい。時々レジ袋の中を確認し、魚の切り身が傾かないように持ち手の位置を直している。

(几帳面だな)

 蓮はそう思い、それからすぐに、昨日の廊下で見た彼女の指先を思い出した。

 書類を折れないように揃えていた手。

 ファイルを胸元で押さえていた仕草。

 そして今、レジ袋の中の食材まで、崩れないように扱っている。

「どうかした?」

 椿が横を見る。

「いや。袋の持ち方まで気にするんだなと思って」

「魚が傾いたら嫌でしょう」

「そういうものか」

「そういうものよ」

 短い会話が落ちる。

 そのまま数分歩いたところで、前方に新しいマンションが見えてきた。

 白とグレーを基調にした、周囲の建物より少しだけ背の高い建物。エントランスには控えめな照明が灯り、植え込みの横にはまだ新しいプレートが取り付けられている。

 蓮はその建物へ向かって足を進めた。

 隣で、椿も同じ速度のまま歩いている。

 最初は、偶然同じ方向なのだと思った。

 駅の反対側にある住宅街は広い。同じ道をしばらく進むくらいなら、不自然ではない。

 マンションの前を通り過ぎる人もいる。

 その先にも、住宅は続いている。

 だが、エントランスへ続くスロープの前で蓮が足を止めた時、椿も同じように足を止めた。

「「……」」

 二人の間に、短い沈黙が落ちる。

 車の走る音が、少し離れた道路から聞こえていた。

 蓮はエントランスを見て、それから椿を見る。

 椿もまた、エントランスを見て、蓮を見ていた。

「……橘さん」

「……何?」

「俺、ここなんだけど」

 蓮がエントランスを指す。

 椿は数秒ほど固まった後、ゆっくりと瞬きをした。

「……私も、ここなんだけど」

「やっぱりか......」

 会話だけを聞けば落ち着いている。

 けれど、椿の視線は明らかに落ち着いていなかった。蓮の顔、エントランス、手元のレジ袋、自分の持っている荷物。その順に何度も行き来している。

 蓮も似たようなものだった。

 同じ方向へ帰っていることには気づいていた。

 同じ住宅街なのだろうとも思った。

 だが、まったく同じマンションだとは考えていなかった。

「……い、一応確認だけど」

 椿が少し声を落とす。

「ついてきたわけじゃないわよね?」

「まさか。それはこっちの台詞だ。

 ......ほら」

 二人はほぼ同時にポケットへ手を入れた。

 蓮が取り出したのは、黒い電子キー。

 椿が取り出したのも、同じロゴの入った電子キーだった。

「……同じ」

「……みたいだな」

 認めざるを得なかった。

 エントランスの自動ドアが開き、二人はどちらからともなく中へ入る。明るいロビーに足を踏み入れると、外の空気より少しだけ暖かく、床にはまだ新築らしい匂いが残っていた。

 椿は受付横の掲示板をちらりと見てから、エレベーターの前で立ち止まる。

 蓮もその隣に立った。

 表示灯は一階。

 すぐに扉が開く。

 二人で乗り込むには十分な広さの箱の中で、蓮は階数ボタンへ手を伸ばした。

「何階?」

「……四階」

 椿の返答は、わずかに警戒が混じっていた。

 蓮は何も言わず、四階のボタンを押す。

「……あなたも?」

「四階」

「......そう」

 エレベーターの扉が閉まる。

 わずかな浮遊感とともに箱が上がり始め、表示が一から二へ、二から三へと変わっていく。その数字の移動を、二人とも必要以上に真剣に見つめていた。

 四階に着いた電子音が鳴り、扉が開く。

 内廊下は静かだった。

 足音が壁にやわらかく反響する。

 蓮はレジ袋を持ち直し、自分の部屋へ向かって歩いた。後ろから椿の足音が続いている。廊下の途中で分かれる可能性も、まだ残っている。

 そう思った。

 だが、蓮が四〇一号室の前で立ち止まった時、椿はその隣、四〇二号室の前で足を止めた。

「「……......」」

 今度の沈黙は、さっきより長かった。

 蓮は自分の部屋番号を見て、隣の部屋番号を見る。

 四〇一。

 四〇二。

 間違えようがない。

「......まさか、隣か」

 蓮が呟くと、椿は持っていたレジ袋を落としそうになり、慌てて両手で持ち直した。

「……え、嘘でしょ?」

「俺も今知った」

「本当に?」

「本当に」

「知ってたかどうじゃなくて。

 本当に、ここの四〇一?」

「鍵を出しただろ。それにほら、鍵開いたし」

「それはそうだけど……」

 椿は電子キーと蓮の顔を交互に見て、深く息を吸い、それでもまだ納得しきれない様子で隣の扉を見た。

「まさか、隣だとは思わないでしょう」

「同じマンションまでは、まだ分かる」

「......そこから分からないわよ」

 椿の返しは早かった。

 その早さが、余計に彼女の動揺を隠しきれていなかった。

 蓮も落ち着いているわけではなかった。ただ、驚いた時に声が大きくなるタイプではないだけだ。ドイツ帰りの一年生として注目されるより、スーパーで食事を指摘されるより、同じ高校の同級生が隣の部屋だったことの方が、よほど処理に時間がかかる。

「橘さんも、一人暮らしなのか?」

 ようやく出てきた問いは、それだった。

「そうよ。実家、ここからだと通いづらいから。あなたは?」

「俺も。一人で生活を管理するために」

「……その結果が、鶏むね肉とブロッコリーだったわけね」

「それは、今日修正した」

「私が修正したの」

「......ごもっともで」

 蓮が素直に頷くと、椿は一瞬だけ言葉に詰まり、それから少しだけ肩の力を抜いた。

 廊下の静けさが戻ってくる。

 偶然としては出来すぎている。

 けれど、鍵も、部屋番号も、手元の荷物も、どれも現実だった。

 蓮は自分の部屋のドアノブに手を掛け、それから隣の椿を見る。

 椿はまだ少し落ち着かない様子で、四〇二号室のドアに電子キーを近づけるでもなく、手元で持ち替えていた。

「……橘さん」

「な、何?」

「今日の話、納得した。だから、またスーパーで会ったら教えてくれると助かる」

「……今、その話に戻るの?」

「今じゃない方がいいのか?」

「そういう意味じゃないけど」

 椿は小さく息を吐き、レジ袋を持ち直した。

「別に、スーパーで会った時くらいならいいわよ。あんなかごを見せられたら、また口を出すと思うし」

「助かる」

「ただし、私はあなたの専属じゃないから。そこは勘違いしないで」

 少しだけ、椿の声が戻った。

 先ほどまでの動揺が完全に消えたわけではない。けれど、食事の話になると、彼女の足場はすぐに戻ってくるらしい。

 椿は四〇二号室の鍵を開け、扉に手を掛けた。

「じゃあ、また。魚、今日中に使った方がいいわよ」

「分かった」

「あと、バナナは練習後でも朝でも使えるから」

 椿はそう言い残し、まだ少し信じられないという顔のまま部屋の中へ入っていった。

 扉が閉まる。

 廊下に一人残された蓮は、隣のドアをしばらく見た。

 日本の部活動。

 一人暮らし。

 自分で選ぶ食事。

 そして、隣に住んでいたスポーツ栄養科の同級生。

 ドイツにいた頃なら、どれも想像していなかったことばかりだ。

 蓮は自分の部屋のドアを開ける。

 レジ袋の中では、鶏むね肉とブロッコリーの隣に、椿が選んだ白身魚とバナナと小松菜と豆腐が収まっていた。

 ピッチの上では、正解が見える。

 ピッチの外では、まだ見えないことばかりだ。

 けれど、その見えないものを教えてくれる相手が、案外すぐ近くにいるのかもしれない。

 蓮は食材を一つずつ冷蔵庫へ移しながら、明日の朝のことを考えた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜   72食目

    「じゃあ、今日から少し負荷を上げていこうか」 立った状態で揺れが出ないのを見て、賢崇は短く言った。  蓮はマットの中央に立ち、足幅を整える。骨盤と肋骨の位置を揃えたまま呼吸を通すと、腹部の奥に圧が残り、体の内側だけで支えが立ち上がる。「そのまま、片脚に乗ってみようか」 蓮は重心を右へ移し、左足をわずかに浮かせる。支点が片側に寄るが骨盤は傾かず、呼吸の流れも崩れない。吐き終わりでも圧は抜けないまま残る。 数呼吸維持するが、揺れない。 賢崇が一歩近づく。「少しだけ押してみるよ」 肩口に指が触れる。押すほどの力ではないが、外へ逃げる方向が一瞬だけ生まれる。蓮の体がわずかに揺れる。 だが、崩れない。  呼吸を止めず、圧を残したまま支点を戻す。「……今の、外に逃げかけたね」「はい」「でも戻した。力で固めてない」 蓮は何も言わず、そのまま維持する。  賢崇は反対側に回り、今度は背中側に指を当てる。わずかに強く後方へずらす。体が一瞬だけ遅れるが、呼吸を合わせるとすぐに戻る。骨盤は落ちず、支点も崩れない。「いいね。戻れるようになってる」 蓮はゆっくりと足を戻し、もう一度同じ姿勢に入る。今度は最初から揺れが小さく、外へ逃げる前に内側で収まる。  賢崇は腕を組む。「支えるだけじゃなくて、戻せてる。ここからが使える状態だね」 蓮は短く頷く。 壁際では椿がノートに視線を落とし、ペンを走らせている。視線を上げるのは、揺れが出て戻るその瞬間だけで、記録のタイミングに無駄がない。「反対もやってみようか」 蓮は続いて左脚に乗る。わずかに揺れが出るが、呼吸を合わせるとすぐに収まる。  賢崇は間を置き、同じように肩へ触れる。今度は内側へ崩す。膝がわずかに内へ入るが、そのまま戻る。足裏で踏ん張るのではなく、骨盤の位置だけで修正が入る。「……左右差はまだあるね。でも問題ない範囲だ」 蓮は姿勢を戻し、呼吸を整える。

  • 俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜   71食目

    「じゃあ、今日から少し負荷を上げていこうか」 立った状態で揺れが出ないのを見て、賢崇は短く言った。  蓮はマットの中央に立ち、足幅を整える。骨盤と肋骨の位置を揃えたまま呼吸を通すと、腹部の奥に圧が残り、体の内側だけで支えが立ち上がる。「そのまま、片脚に乗ってみようか」 蓮は重心を右へ移し、左足をわずかに浮かせる。支点が片側に寄るが骨盤は傾かず、呼吸の流れも崩れない。吐き終わりでも圧は抜けないまま残る。 数呼吸維持するが、揺れない。 賢崇が一歩近づく。「少しだけ押してみるよ」 肩口に指が触れる。押すほどの力ではないが、外へ逃げる方向が一瞬だけ生まれる。蓮の体がわずかに揺れる。 だが、崩れない。  呼吸を止めず、圧を残したまま支点を戻す。「……今の、外に逃げかけたね」「はい」「でも戻した。力で固めてない」 蓮は何も言わず、そのまま維持する。  賢崇は反対側に回り、今度は背中側に指を当てる。わずかに強く後方へずらす。体が一瞬だけ遅れるが、呼吸を合わせるとすぐに戻る。骨盤は落ちず、支点も崩れない。「いいね。戻れるようになってる」 蓮はゆっくりと足を戻し、もう一度同じ姿勢に入る。今度は最初から揺れが小さく、外へ逃げる前に内側で収まる。  賢崇は腕を組む。「支えるだけじゃなくて、戻せてる。ここからが使える状態だね」 蓮は短く頷く。 壁際では椿がノートに視線を落とし、ペンを走らせている。視線を上げるのは、揺れが出て戻るその瞬間だけで、記録のタイミングに無駄がない。「反対もやってみようか」 蓮は続いて左脚に乗る。わずかに揺れが出るが、呼吸を合わせるとすぐに収まる。  賢崇は間を置き、同じように肩へ触れる。今度は内側へ崩す。膝がわずかに内へ入るが、そのまま戻る。足裏で踏ん張るのではなく、骨盤の位置だけで修正が入る。「……左右差はまだあるね。でも問題ない範囲だ」 蓮は姿勢を戻し、呼吸を整える。

  • 俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜   70食目

     トレーニングを始めて三日目の朝、橘家に隣接されたトレーニングルームで、蓮は足裏を合わせて膝を外へ落とす。骨盤を立てたまま呼吸を通すと、初日と前回に途中で触れていた引っかかりが手前で消え、そのまま関節が一段奥で収まって角度が揃う。 吐くたびに膝がわずかに沈む。だが、落ちる先はぶれない。  蓮は数呼吸そのまま保ち、ゆっくり戻してからもう一度同じ体勢に入る。今度は探る間がなく、最初から止まる位置が決まっている。 正面に立つ賢崇は何も言わず、膝の高さと骨盤の角度、それに呼吸の流れだけを追っていた。「……いいね。そのまま、もう一回入ってみようか」 蓮は短く頷き、同じ位置まで膝を落とす。吐き終わりでさらに数ミリ沈んでも、そこで形が崩れない。  賢崇が横へ回る。前回は膝の外へ手を添えて止まりやすい位置を探っていたが、今日は触れる前に動きが収まっていた。「……押さなくても入るね」 蓮は視線を落とし、自分の膝の位置を見る。「昨日より深くなってますかね?」「うん。しかも無理がない」 賢崇は軽く膝の外に手を置き、逃げる方向だけ塞ぐ。蓮はそのまま呼吸を続け、関節の奥に残っていた抵抗を探るようにわずかに沈むが、初日にあった詰まりは戻ってこない。「可動域が広がってきているだけじゃないね。止まる位置も揃ってる」 蓮は姿勢を戻し、そのまま股関節から折るように前へ倒れる。背中のラインを崩さずに角度を保つと、腿の内側に入る張りが途中で散らず、前より深いところで均一に伸びる。 賢崇が視線を向けると、壁際からフォームローラーが転がってくる。賢崇が示した位置に内ももを当て、蓮は体重を預ける。鈍い圧が一点に入るが、前回のように逃げるような硬さは続かず、数呼吸で奥の抵抗がほどけた。「そこ、抜けるの早いな」 蓮は返事をせず、角度だけを微調整する。圧が抜ける位置を探る動きに迷いがなく、乗せ直したあとも同じところへ戻る。 壁際では、椿がノートに視線を落としたままペンを走らせている。途中で一度だけ手を止め、蓮の膝の落ちる位置と呼吸の長さを見てから、また記録

  • 俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜   69食目

     翌朝、橘家に隣接されたトレーニングルームに3つの影があった。 畳に敷いたマットの上で、蓮は脚を伸ばし、片膝を抱え込むように引き寄せると、骨盤が後ろへ倒れない位置で止める。呼吸を整え、吐くたびに腿の付け根に残る抵抗がわずかにほどけていくのを確かめる。足先の角度と重心の位置を崩さないまま保つと、動かさなくても関節の収まりだけで姿勢が安定する。 正面から視線が落ちる。「そのまま、少しキープしてみて」 膝を抱えた位置で静止し、腹部に軽く力を残して背中のラインを崩さないまま、吸って吐く流れに合わせて関節の奥を探る。足首は自然に可動域を保ったまま余計な緊張がなく、支えようとしなくても角度が揃う。「……足首、よく動くね」「ボール触る中で、使ってました」「うん、いいと思う」 視線が膝を越えて上がる。「ただ——」 横に回り、膝の外側に手が添えられる。そのまま外へ誘導され、開きかけた角度が途中で止まり、関節の奥で引っかかる感覚だけが残る。「ここ、少し止まりやすいかな」 蓮は視線を落とし、止まった位置を確かめる。「……股関節、ですか」「うん。足首に対して、少しだけ可動域が足りない」 反対側も同じように押される。左右とも、似た位置で止まる。「大きく崩れてるわけじゃないけど、このままだと上で詰まりやすいかな。踏み込みも切り返しも、下で吸収してる分だけ、上の動きが出し切れない」 脚を解いて軽く動かす。ターンのときに感じていたわずかな引っかかりと、今の位置が重なる。「ターンのときに、引っかかる感じはあります」「だろうね。そのままでもプレーは成立するけど、しなやかさを出すなら股関節も動かしておきたい」 蓮は短く頷く。「そのまま、両脚開いてみて」 足裏を合わせ、膝を外へ落とす。骨盤を立てた位置を保ちながら姿勢を整えると、背後から軽く押される。「呼吸、止めないで」 吐く。力を抜く。わずかに沈む。だが途中で止まり、それ

  • 俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜   68食目

     部屋に荷物を置いて扉を閉めると、蓮はジャージに着替え、そのまま部屋を出た。  廊下に出て、リビングへと向かう。 リビングでは既に椿と橘母が調理を始めていた。「……もういいの?」「ああ、着替えるだけだったから」 それだけ聞いた椿は、皿への盛り付けを再開する。  橘母がある程度進めていたらしく、準備はほとんど終わっていた。「橘さん、なんか手伝うことは……」「大丈夫よ」 「あら、お客さんなんだからゆっくりしてて頂戴」 「お気遣いありがとう。二人に任せてもらって大丈夫だよ」 三人が揃って反応し、顔を見合わせる。  橘母が愉快そうに告げる。「ここ、みんな橘だからややこしいのよね。名前で呼んで頂戴?」「わかりました。えっと……」「そういえば、自己紹介がまだだったわね。  椿の母、橘 梓です。娘がいつもお世話になっています」「梓さん、改めてお世話になります。賢崇さんも、よろしくお願いします」「ええ、こちらこそよ」 「トレーニング外では、実家だと思って過ごしてもらっていいからね」「ありがとうございます。  椿、やっぱりなんか手伝おうか?」「なっ……あなた躊躇いってもんがないの…?」「なにが?」「名前を呼ぶことに関してよ。あっさり呼び方変えちゃって」「別に、そんな気にすることじゃないだろう?」「これだから海外帰りは……  はぁ。とりあえず準備は大丈夫だから座ってていいわよ」「そうか、わかった」 蓮は大人しく席に着いた。 ぶつぶつと頬を赤らめながら文句をこぼす椿の隣で、梓が頬に手を当てながらため息をつく。「この子ったら、名前呼びくらいでこんな動揺しちゃって」「うるさい、慣れないもんはしょうがないでしょ」 梓は「先が思いやられるわぁ」と言いながら、がよそった皿を手際よく食卓へ運ぶ。「さぁ、冷めないう

  • 俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜   67食目

     終業式の後、校門を出たところで蓮は一度だけ足を止め、グラウンドから断続的に響いてくるボールの音と掛け声に短く視線を向けた。  ボールの音が、一定の間隔で響いている。もう、部活は始まっているらしい。 しばらくそのまま見てから、何も言わずに視線を外し、そのまま歩き出した。 自宅に戻ると玄関には既にスーツケースが置かれていた。  リビングの扉の向こうからは、「遅い」と椿の声が飛んでくる。「準備は?」「終わってる」 短く返してそのまま自室に入り、あらかじめ用意していた服に着替え、シューズとノートをバッグに詰めて口を閉じる。 余計な確認はせず、そのままリビングに戻った。「行くわよ」「ああ」 二人はそのまま家を出た。キャリーケースの車輪が路面を擦る乾いた音だけを背後に引きながら、駅までの道を並んで歩く。  会話らしい会話は交わさないまま改札を抜けて電車に乗り込み、空いた席に並んで腰を下ろすと、流れていく景色の中で見慣れた街並みが少しずつ切り替わっていくのを黙って眺めた。「ここからどれくらいかかるんだ?」「2回乗り換えして、3時間半くらいね」「そこそこ遠いな」「まあね」 それ以上は続かず、電車の揺れと車内アナウンスだけが時間の経過を知らせた。 やがて降車駅に着くと二人は無言のまま立ち上がって改札を抜けた。  肌に当たる空気の温度と乾きが明らかに変わったのを感じながら、人通りの少ない駅前を抜けて住宅街へ入ると、舗装の状態や建物の配置を横目に見ながら奥へ進んでいく。 やがて椿が足を止めた先には、住居とそれに連なる別棟が同じ敷地内で機能を分けるように並んでおり、外観に派手さはないものの動線の整理された造りが一目で分かる。「ここよ」 そう言うと椿は、鍵を使って扉を開ける。  いつものマンションとは、違う鍵。「ただいま」 すぐに奥から足音が近づき、「おかえり」と明るい声が返ると女性が姿を見せ、椿の後ろに立つ蓮を一度で見

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status