LOGIN琴葉の笑みを見て伊吹が首を傾げたので、真面目な顔に戻した。
「これを見てください」
伊吹は論文の一部を指差した。
「東欧のマイナーな金属工学のカンファレンスで発表された論文です。ここに記載されている特殊合金の配合比率と温度管理のプロセスは、相手が主張している特許の請求項と完全に一致しています」
「……本当ね。見事な先行技術(プライアー・アート)だわ」
琴葉は論文の数値を追いながら、確信した声で言った。
特許というものは、出願した時点で世の中に知られていない新しい技術(新規性)でなければ認められない。
出願日よりも前に、世界中のどこか1つでも同じ技術を公表した文献が存在すれば、その特許は根底から無効となる。「これで、彼らの主張は完全に崩れます。特許庁に無効審判を請求すれば、あの特許は紙くずになる。製造差し止めどころか、彼らのビジネスモデルそのものが破綻します」
伊吹は冷静に言う。
冷たいようでいて、その声には琴葉の笑みを見て伊吹が首を傾げたので、真面目な顔に戻した。「これを見てください」 伊吹は論文の一部を指差した。「東欧のマイナーな金属工学のカンファレンスで発表された論文です。ここに記載されている特殊合金の配合比率と温度管理のプロセスは、相手が主張している特許の請求項と完全に一致しています」「……本当ね。見事な先行技術(プライアー・アート)だわ」 琴葉は論文の数値を追いながら、確信した声で言った。 特許というものは、出願した時点で世の中に知られていない新しい技術(新規性)でなければ認められない。 出願日よりも前に、世界中のどこか1つでも同じ技術を公表した文献が存在すれば、その特許は根底から無効となる。「これで、彼らの主張は完全に崩れます。特許庁に無効審判を請求すれば、あの特許は紙くずになる。製造差し止めどころか、彼らのビジネスモデルそのものが破綻します」 伊吹は冷静に言う。 冷たいようでいて、その声には強い意志が込められていた。 叔父・峻嗣を決して許さず、今度こそ破滅に追い込むという意志が。 琴葉はファイルを閉じて、正面から伊吹を見つめ返した。 彼が用意した証拠は完璧である。 データの上では、すでに勝負はついている。 しかし。「よくやってくれたわ。証拠としては申し分ない。でも、油断はできないわよ」 琴葉は伊吹に人差し指を突きつけた。「どういうことですか」 伊吹が眉を寄せる。「相手は法律の抜け穴を這い回るプロよ。素人の裁判官を相手に『論文の技術と自社の特許は異なる』と詭弁を弄して、論点をずらしてくる可能性が高い。紙の上の論理だけで、技術に疎い人間を完全に納得させるのは難しいわ」 琴葉はデスクの上にあった高排熱特殊合金の端材を手に取り、軽く放り投げた。 ずしりとした金属の重みが手に伝わってくる。 彼女の愛する鉄の重みが。「だから、私が法廷に行くわ」「琴葉さんが公聴会に?」
「僕に少しだけ時間をください。必ず盤面をひっくり返します」「もちろんよ。信じているからね、CEOさん」 冗談めかして琴葉が言えば、伊吹は少し照れたように笑う。 頭を軽く振ると、清潔感のある髪がさらりと揺れた。「ふふ。琴葉さんの信頼は裏切れませんね。必ず信頼に応えてみせますよ」 伊吹はそう言い残し、通信を切った。◇ それから3日後の夕方。 土井精機の工場の前に、黒塗りの専属車が滑り込んできた。 敷地内の砂利を踏む音が響き、車体の影が夕日に伸びる。 町工場に不似合いな高級車だが、土井精機の人々にとっては慣れたものだ。「お、また世良の若旦那が来たぞ」「うちのお嬢に会いに来たんだろ。離婚したってのに、仲のいいことで」「そのうち再婚するんじゃないか? ははは」 職人たちは口々に言って、軽く会釈していた。 助手席から降りてきた伊吹は、迷いのない足取りで事務所のドアを開けた。 ノーネクタイのシャツ姿だが、その身のこなしには洗練された華やかさと、獲物を追い詰めた後の鋭利な気配が漂っている。「琴葉さん。少し時間をいただけますか」「随分と早かったわね。手ぶらで来たわけじゃないんでしょう?」 琴葉がデスクから立ち上がると、伊吹は鞄の中から分厚いファイルと、大容量のポータブルストレージを取り出して机の上に置いた。「法務部の人間はアテにならないので、僕自身で動きました。相手の特許を無効化するための証拠です」「あなたが自分で?」 琴葉は驚きと共にファイルを開いた。 そこには、英語で書かれた数十ページに及ぶ学術論文のコピーが綴じられていた。 発行年月日は、特許ゴロが問題の特許を出願するよりも7年も前の日付になっている。「はい。世界中の特許文献、過去の学術論文、技術誌、さらには大学のデジタルアーカイブまで、数百万件のデータを自動で収集・解析するクローラーのプログラ
「これはちょっと、私じゃ手に負えないかも」 実態のない組織相手では、技術的な正当性を主張する話し合いなど通じない。 もちろん5億円を支払うつもりはない。 琴葉は即座に世良グループの専用回線を立ち上げて、伊吹へと通信を繋いだ。 数回のコールの後、モニターに伊吹の顔が映し出された。 本社のCEO執務室に座る彼は、すでに事態を把握している様子だった。 手元には琴葉に届いたものと同じ警告書のコピーが置かれている。「琴葉さん。そちらにも内容証明が届きましたね」 伊吹は前置き無しに話を切り出した。 琴葉は頷く。「ええ、たった今読んだところよ。典型的な特許ゴロの架空請求みたいなものだけど、相手は本気で製造差し止めの仮処分を狙ってきているわ。もし仮処分が通れば、うちは工作機械を動かせなくなる。政府の半導体プロジェクト全体がストップするわよ」「分かっています。彼らの狙いも、まさにそこですから」 伊吹の冷徹な眼差しには、一切の動揺がない。 彼は手元の資料を1枚めくり、画面越しに琴葉へ向けて話し始めた。「相手の知財管理機構について、裏の資金の流れを調べさせました。ダミー会社をいくつか経由していますが、大元のスポンサーは世良本家から追放された峻嗣派の残党たちです」「峻嗣の……。ビジネスの表舞台から引きずり降ろされた腹いせに、法律の網の目を使って報復してきたというわけね」「はい。自立した僕たちを逆恨みし、国策事業を停滞させることで世良グループの株価を暴落させようという魂胆でしょう。自らは手を汚さず、特許ゴロに資金を渡して鉄砲玉にしている状態です」 琴葉は小さくため息をついた。 モノ作りの現場で必死に技術を磨く人間を、机上の法律論で足止めしようとするやり口は、技術者として最も嫌悪するものだった。「厄介な連中に目をつけられたわね。世良の法務部はどう言っているの?」 琴葉の問いに対し、伊吹の表情がわずかに険しくなった。「先ほどまで法務部のトップと会議をしてい
オライオン・システムズの買収劇を退けて、政府プロジェクトのセンサーハウジング量産が本格的に軌道に乗り始めた初夏のことだった。 土井精機の事業は好調で、本格的な夏に向かいつつある中、工場では活気があふれている。 時折吹き込む夏の風が、熱気のこもる工場に涼しさを届けていた。 そんなある日のこと。 土井精機の事務所に、一通の分厚い封筒が届いた。配達員から直接受け取る必要のある、内容証明郵便だ。「何かしら。内容証明だなんて」 琴葉は作業着のポケットからカッターを取り出し、封を切る。 中には、何枚にもわたる難解な法律用語で埋め尽くされた書面が入っていた。 送り主は『総合知財管理機構』という、まったく聞き覚えのない株式会社だ。 書類のタイトルには「特許権侵害に基づく製造差し止めおよび損害賠償請求の事前警告」と物々しい文字が並んでいる。 琴葉はデスクの椅子に座り直し、書面の詳細に目を通した。 彼らの主張はこうだ。 土井精機がセンサーハウジングの加工に使用している「高排熱特殊合金」の成分配合、ならびにその切削時の冷却プロセスが、自社の保有する特許権の範囲を完全に侵害している。 直ちに該当部品の製造を停止し、解決金として5億円を支払え、という内容だった。「……何これ。5億円ですって? 言いがかりにも程があるわ」 琴葉は手元のタブレットを開くと、書面に記載されていた特許番号を特許庁のデータベースで照会した。 表示された明細書を読み進めるにつれ、琴葉の眉間のシワが深くなっていく。 その特許は、特定の製品を生み出すための具体的な技術ではなく、「金属の配合比率の一定範囲」や「切削時の温度管理の一般的な概念」を網羅するような、極めて広範で抽象的な書き方がされていた。 これではどんな製品や技術であっても、言いがかりをつけられてしまう。 土井精機の独自技術を、言葉遊びのように強引に枠内に当てはめようとしているのは明白だ。「総合知財管理機構…&hellip
政府の高官もまた、目の前のデータに言葉を失っていた。 彼は何度も眼鏡をかけ直し、世良グループが提示した「鉄壁の回答」を凝視している。 伊吹はその沈黙を破るように、再び口を開いた。 口元には穏やかな微笑みさえ浮かべている。 しかしその立ち姿は華麗でありながら、獲物を確実に仕留める冷酷なチェスプレイヤーのようだった。「政府高官殿。我々は期限内に、完璧な解決策を提示しました。それも当初の計画を上回る、高性能な部品と共に」 伊吹は高官へと視線を向ける。「土井精機のこの技術をプロジェクトから外せば、日本の半導体戦略そのものが根本から遅れることになります。強度が3倍の装置をオライオン社は作れますか? 排熱効率が1.5倍のラインを、彼らは提供できますか? ……できませんよね。ならば政府の下すべき決断は、自ずと明らかのはずです」 伊吹の論理は完璧である。逃げ道などどこにもない。 彼は24歳の若造として見下されていた場所で、政府と外資の巨大な権力を圧倒的な技術の裏付けを持ってねじ伏せたのだ。 高官は深く息を吐き出すと、ようやく絞り出すように声を上げた。「……分かりました。世良グループより提示された代替部品の性能、および調達計画を承認します。本プロジェクトの主導権は、引き続き世良グループが継続するものとします。オライオン社はメーヤー社の件に関して、独占禁止法に抵触しないよう、直ちに是正勧告に従ってください」 高官の言葉に、オライオンの役員たちは顔を青白くして黙り込むしかなかった。「感謝いたします。政府の賢明なご判断に」 伊吹は優雅に一礼して、オンライン会議の通信が終了した。 オライオン側と政府の接続が切れた直後、画面には伊吹と琴葉だけが残された。「……お疲れ様。見事なチェックメイトだったわね」 琴葉がマイク越しに声をかけると、伊吹はCEOの執務室で柔らかく目を細めた。 その表情は先ほどまでの冷酷な支配者のものではない。 土井家の居間で茶白の猫を撫でていた時の、あの青年のものだった。「琴葉さん
オライオンの役員たちは、勝ち誇った顔で伊吹を見つめた。「法務部を使った姑息な時間稼ぎも、ここまでですな。諦めて、我々に盤面を明け渡しなさい。子供には荷が重すぎたのですよ」 画面の中で、伊吹は瞬きをした。 外資の圧力も政府の冷遇も、年齢に対する侮りも、彼の心にはわずかの動揺も与えていないようだった。 彼はデスクの上に置かれた資料を、エレガントな仕草で横へ除けた。「メーヤー社からの部品供給停止。……ええ、確かに一時的な騒ぎにはなりました」 伊吹の声は驚くほど静かなもの。しかし部屋の隅々にまで行き渡るような通る声だった。「ですが、結論から申し上げましょう。それは、本プロジェクトにおいて些細な問題に過ぎません」「些細な問題……? 強がりも大概にしなさい。センサーハウジングがなければ、装置は完成しない!」 オライオンの役員が、苛立ちを隠さずに声を荒らげた。 伊吹はその役員を冷徹な瞳で見つめ返した。 その眼差しはお飾りなどではない。 数万人の従業員を束ねて巨大グループの頂点に君臨する、本物の支配者のものだ。「ええ。ですから、作りました」「……何?」「メーヤー社が供給を止めたなら、我々の技術力でそれを上回るものを作ればいいだけのこと。高官殿、お手元の端末に土井精機より提出された最新の性能評価レポートを共有いたしました。ご確認ください」 伊吹が操作盤をタップすると、高官とオライオン側の画面に、琴葉が作成したデータが全画面共有された。「性能評価……? 代替部品だと?」 オライオンの役員たちが、怪訝な顔で画面のデータを見つめる。「ここからの説明は、本プロジェクトの技術提携先である、土井精機の土井琴葉責任者に委ねます。琴葉さん、お願いします」 伊吹に発言権を促され、琴葉はマイクをオンにした。「土井精機の副社長、土井琴葉です。政府高官、そしてオライオン社の皆様。今画面に表示されているのは、弊社が保有する五軸加工機と、独自開発の『高排熱特殊合金』を用いて内製化した、セン







