LOGINオフィスにはアロマディフューザーから淡いモミの香りが漂っていた。だが、その香りさえも、室内を覆う張り詰めた緊張を和らげることはできなかった。奈穂はモニターに映し出された複雑な株式保有構造図を見つめながら、親指と人差し指の間を強くつねる。襲ってくる眩暈と疲労を、無理やり意識の外へ押しやろうとしていた。取調室での北斗の叫びには決定的な証拠こそなかった。それでも、その言葉は一つの鍵となり、秦家を調べるための扉を完全に開いたのだった。「調査結果が出た」正修がドアを開けて入ってくる。シャツの袖は肘までまくられ、いつも乱れのない髪もわずかに崩れていた。目の下には隠しきれない疲労の影が落ちている。彼は印刷した資料を奈穂に差し出し、低く冷たい声で言った。「伊集院北斗は嘘をついていなかった。秦音凛は海外に極めて秘匿性の高い資金ルートを持っている。秦グループ名義の慈善基金を二つ利用し、ランシア国で違法薬物の越境取引を行っていた。その資金は最後に、賀島若菜がすでに閉鎖した海外口座を経由し、美術品オークションのプレミアム代金として資金洗浄されている」奈穂は資料を受け取ると、並ぶ数字に鋭い視線を走らせた。「……なるほど」冷たい笑みが口元に浮かぶ。その笑みには嫌悪が滲んでいた。「賀島若菜みたいな没落した元令嬢が、どうして裏社会の殺し屋を雇えるほどの資金を持っていたのか不思議だった。そういうことだったのね。秦音凛は九条グループを潰したいだけじゃない。違法薬物で稼いだ金で、ああいう命知らずの連中まで抱えていた」正修は彼女の後ろに回ると、ごく自然に肩に手を置いた。今の奈穂にとって、その温もりだけが心を支える唯一の拠り所だった。「秦音凛は自分を過信しすぎた」正修は画面を見つめながら静かに言う。「使い捨ての番号と海外のマネーロンダリングを使えば、痕跡は消せると思っていた。だが、どんな取引にも必ず相手がいる。取引が存在する以上、痕跡は必ず残る」奈穂は顔を上げた。その瞳には強い意志が宿っていた。「この前北斗が自供したって情報を流したことで、彼女は今頃、完全に動揺しているんじゃない?」「警察の監視によれば、三十分前、秦音凛の個人口座で不自然な資金移動が確認された。殺し屋への残金を急いで送金し、賀島若菜と
取調官は手を止めることなく記録を取り続けながら尋ねた。「違法薬物の供給ルートは?誰が国際輸送を手引きした?」北斗は一瞬口をつぐみ、身を乗り出す。手錠の鎖が金属製の椅子を擦り、不快な音が取調室に響いた。「……君たち、捕まえる相手を間違えてる。たかが伊集院家に、海外の違法ルートを自由に動かせる力があると思うか?」彼は声を落とし、どこか復讐めいた悔しさを滲ませながら続けた。「本当に九条グループを潰そうとしていたのは、俺じゃない」取調室の外で見守っていた奈穂は息をのみ、掌に食い込んだ指先が白くなる。「秦音凛だ」その名を口にした瞬間、北斗は奥歯をきしませた。「秦家のお嬢様だよ。あの女は九条正修を愛しすぎて、ほとんど狂ってた。なのに、奈穂があいつの隣にいるのを見ていることしかできなかった。手に入らない愛は、やがて憎しみに変わるんだ」取調官は眉をひそめた。「秦音凛だという証拠は?書類、送金記録、通話の録音――何でもいいです」北斗の笑みがぴたりと止まる。彼はテーブルをじっと見つめたまま、長い沈黙の末、喉の奥から絶望を絞り出すように叫んだ。「……ない!」勢いよくテーブルを叩く。「秦音凛って女は毒蛇みたいに狡猾なんだ!連絡は毎回使い捨ての番号。金も全部、海外のマネーロンダリング経由。文字は一切残さない!俺だって……最後には俺一人を切り捨てるつもりだったなんて、思ってもみなかった!」北斗はゆっくりと顔を上げ、防犯カメラを睨みつける。まるで画面の向こうにいる奈穂に宣戦布告するように。「奈穂!本当に君たちを殺そうとしてる奴は、まだ外でのうのうと生きてる!秦音凛だ!秦音凛なんだよ!ハハハハハッ!」……取調室を出ると、朝の冷たい空気が胸いっぱいに流れ込み、混乱していた奈穂の思考をわずかに落ち着かせた。肩に掛けられたスーツを握り締めながら、彼女の瞳に嫌悪の色が濃く浮かぶ。「やっぱり、彼女だった。北斗本人が認めた。こんな陰で糸を引くような、腐ったやり方をするのは……秦音凛以外に考えられない」隣に立つ正修は拳を固く握り締め、その指の関節は白く変色していた。「秦音凛は、この数年で京市に盤石な地位を築いている。伊集院北斗の証言だけでは足りない。物証がない以上、警察でさえ事情聴取に踏み切れないだろう」「賀島若
西郊の旧冷蔵倉庫の外では、赤いパトライトが深い夜の闇を切り裂くように回転し、長年廃墟となっていたこの場所を照らし出していた。北斗は二人の特殊部隊員に泥の中に押さえつけられていた。使い物にならなくなった右脚は無理やり危険な角度にねじ曲げられ、額には太い青筋が浮かび上がる。泥水にまみれたその顔には、かつての知的な面影はすでになく、今の彼は追い詰められ、尊厳すら失った獣そのものだった。「水戸奈穂!九条正修!君たちは絶対にろくな死に方をしない!」怒号には激しい憎悪がこもり、声は掠れ、途切れ途切れになっていた。少し離れた場所では、奈穂が正修の胸にもたれていた。極限まで張り詰めていた緊張が解けた途端、胃を締めつけるようなあの不快感が、これまで以上に激しく襲ってくる。血の気を失った唇をきつく結び、彼女は正修のスーツの胸元を強く握り締めたまま、泥の中でもがく男を黙って見つめていた。「連れて行け」正修が短く告げる。その一言には、氷のような冷たさが宿っていた。「待て!」北斗は瀕死の虫のように上半身を激しくよじり、突然首を振って、隅に停められていた黒いセダンを見た。もともと自分が乗るはずだった車だ。だが、窓は固く閉ざされ、中には誰もいなかった。「ニナは!?ニナはどこに行った!?」充血した目には、困惑と怨毒が入り混じっている。「船で俺を迎えるはずだっただろ!?」正修は冷笑すると、二郎から通話中のスマートフォンを受け取り、スピーカーに切り替えた。受話口から聞こえてきたのは、喉を引き裂くようにかすれたニナの笑い声だった。その向こうには、波が船体に打ちつける重い音が絶え間なく響いている。「ニナ……君だな!?この裏切り者が!こいつらを連れてきたのは君だろ!」ニナの声を聞いた北斗は歯を食いしばり、今にも噛み砕きそうな勢いで叫ぶ。「俺は十分世話してやっただろ!金も渡した!住む場所だって用意した!一緒に遠くへ逃げようと約束までしたじゃないか!」「『十分世話してやった』ですって?」ニナの声は電話越しでもぞっとするほど冷たかった。「北斗、あなたの言う『世話』って、地下室に犬みたいに閉じ込めること?それとも薬が切れるたびに私の首を締めながら、水戸奈穂の名前を叫ぶこと?」北斗は言葉を失い、一瞬だけ視線を泳がせた。「それは……」「
北斗が姿を現した。彼はひどく体に合っていない、ぶかぶかの黒いコートをまとい、痩せ細ったその姿はまるで亡霊のようだった。なかでも目を引いたのは、完全に機能を失った右脚だった。歩くたびに体は大きく上下に揺れ、右足は感覚を失ったように地面を引きずっていた。数歩進むごとに体は勝手に片側へ傾き、重く単調な擦過音が辺りに響いた。歩くことさえ苦痛のようだった。数メートル進むたびに、ひび割れ、塗装が剥げた壁に手をついて体を支える。その錆びつき、荒れ果てた景色の中で、彼はまるで行き場を失った野良犬のように惨めな姿をさらしていた。やがて、黒い改造高級バンがゆっくりと倉庫の前に停まる。その瞬間、北斗の陰鬱な顔に狂気じみた歓喜が弾けた。彼は不自由な脚を引きずりながら必死に車へ近づき、車の窓までたどり着くと、ストラップを神経質に何度も指先でもてあそんだ。「兄貴……全部ここにあります。九条グループの急所も、水戸家の致命傷も」かすれた声には、すべてを賭ける狂信的な熱が宿っていた。「奈穂が地面にひざまずいて俺に許しを請う姿を見たいです!泥沼でもがき苦しむ姿を、この目で見てやる!」ゆっくりと車の窓が下がる。姿を現したのは、彫りの深い横顔だった。黒いコートをまとったその姿は、正修と驚くほどよく似ている。モニター越しにその光景を見つめていた奈穂は、瞳をわずかに見開いた。握り締めた拳に、爪が深く食い込む。「始めろ」正修が低く命じた。その一言を合図に、静まり返っていた倉庫周辺が一瞬で騒然となる。サイレンが鳴り響き、無数の足音と突入音が重なり合う。冷蔵倉庫街の薄暗い闇を、赤色の警光灯が激しく切り裂き、無数のレーザーサイトが二人の体へと一斉に照準を合わせた。「動くな!警察だ!」北斗の体が固まった。驚愕のあまり、力の入らない右脚が完全に崩れ、彼は泥の上へ無様に転倒した。鈍い音とともに泥水が跳ね上がる。必死にバンの陰へ這い込もうとするものの、壊れた右脚はまったく力が入らない。芋虫のように泥の中を這いずるしかなく、その拍子にブリーフケースが手から離れ、中に入っていた偽造書類が辺り一面に散乱した。「兄貴っ!俺を連れて行ってくれ!助けてくれぇっ!」彼は絶叫した。しかし、車のドアが静かに開く。降りてきた男は、
マイバッハは静かに九条グループの本社ビルの正面玄関に滑り込んだ。ドアが開く。隙間から吹き込んだ冷たい風が、無数の針のように肌を刺した。奈穂が車を降りる。ハイヒールの先が冷え切ったコンクリートに触れた瞬間、体が思わず小さく震えた。遠くでフラッシュが激しく瞬く。白い閃光が網膜を焼きつけ、その陰には貪欲で冷えきった視線がいくつも潜んでいた。正修が手を伸ばし、彼女の腰にそっと添える。掌はしっかりと腰を支え、その熱が薄いシルクのワンピース越しに伝わってきた。背中を這っていた冷気が、その温もりによって無理やり押し返される。「行こう」低く囁く声が耳元をかすめた。奈穂はブリーフケースを強く握り締める。爪が革に食い込み、深い三日月形の跡を残した。二人は人気のないエントランスホールを横切る。ハイヒールが大理石を打つ乾いた音だけが、静まり返った空間に幾重にも反響していく。やがてエレベーターの扉が静かに閉まり、外からの視線は完全に遮断された。数字がゆっくりと上昇する。――68階。扉が開く。奈穂は迷いなく一歩を踏み出し、社長室の重厚なマホガニーの扉を押し開けた。「ニナから預かった証拠を整理したわ。これが北斗の計画、その全容よ」そう言って、埠頭の湿り気をまだ残したUSBメモリを執務デスクに放る。金属製の筐体がデスクにぶつかり、鈍い音を響かせた。奈穂は右手で肋骨の下を強く押さえる。錆びた刃物で胃を何度もかき回されるような痛みが再び襲い、額には冷や汗が滲んだ。奥歯を食いしばる。口の中に鉄錆のような血の味が広がった。正修は何も言わない。席に着くと、長い指でキーボードを高速に叩き始めた。ディスプレイの冷たい光が眼鏡に映り込み、その奥で燃え上がる殺意を覆い隠している。「北斗は西郊の旧冷蔵倉庫に雷管を隠してる。それだけじゃない。第三工区の検査員まで買収して、完全に偽造した品質検査報告書を用意していた。明日の説明会で九条グループが廃材の鉄筋を違法使用したと告発するつもりよ」奈穂は掠れた声で、一気に言葉を吐き出した。正修は画面に流れ続ける極秘通信の履歴を見つめたまま、低く言った。「九条グループだけじゃない。水戸グループまで踏み台にする気だ。水戸グループが違法な資金調達を行ったという偽の株主名
奈穂は後部座席で掌を開いた。そこには超小型のUSBメモリと、蝋で封印されたSDカードが一枚。ルームランプの光を受け、どちらも氷のような冷たい光を放っていた。彼女はウェットティッシュを一枚取り出し、無表情のまま指先を丁寧に拭いていく。皮膚がほんのり赤くなるまで拭き続けて、ようやく手を止めた。USBメモリを車載システムに接続すると、画面いっぱいに暗号化されたファイルが次々と表示される。ニナが録音していた音声が車内に流れ始めた。周囲が騒がしかったため、背景には重い何かが壁に叩きつけられるような鈍い衝撃音まで微かに混じっている。「……西郊の建設中断ビルの奥にある古い冷蔵倉庫。防犯カメラもないし、普段は誰も近寄らない。北斗はずっとそこに潜んでる……」録音の中のニナの声は震えていた。「そばにいる四人のボディガードも、あいつの部下じゃない。九条正景が付けた監視役よ。ボディガードなんて名目だけ。本当は逃がさないために見張ってるの……」奈穂は本革のシートに体を預け、左手薬指のダイヤモンドリングを親指で何度もなぞる。――九条正景。その名前は、払い落とそうとしてもまとわりつく暗雲のようだった。「明日のストライキは、ただの口実にすぎない」録音は続く。恐怖で裏返ったニナの声が車内に響く。「第三工区を担当する第三者検査機関はもう買収されてる。偽造した品質検査報告書まで用意してあるの。明日の説明会で九条グループが廃材の鉄筋を違法使用したって告発して、それだけじゃなく、中核医療機器の性能データまで改ざんしていたって騒ぎ立てるつもりよ……あれは完全に息の根を止めるための一手。九条グループを二度と立ち上がれなくする気なの」奈穂は小さく鼻で笑った。あまりにも周到で、あまりにも容赦がない。北斗の頭で、ここまで幾重にも仕掛けられた策を思いつくはずがない。十数年もの間、闇の中で研ぎ澄まされてきた正景という毒刃。その一撃に違いなかった。だが、それ以上に彼女の瞳を冷たくしたのは、フォルダの中で赤く表示された一つのファイルだった。――【水戸グループ株式インセンティブ制度・改訂版】北斗という狂人は、水戸グループの内部資料までバックアップしていた。九条家を潰すだけでは飽き足らない。混乱に乗じて水戸家まで違法資金調







