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第5話

Author: 饅頭
奈津美は、ぼうぜんとして何も言えなかった。

母の入院費は、毎日とんでもない金額になる。自分が倒れるわけにはいかない。仕事も辞められない。母は病気だし、哲也はまだ若いし、この家は自分ひとりが支えるしかないんだから。

「わかった。なるべく早く戻る」

奈津美は電話を切ると、画面をスライドさせ、哲也の名前で指を止めて、そのまま発信した。

「お姉さん」電話の向こうから聞こえる哲也の声は、無理に抑えたようなかすれ声だった。

「哲也、病院に来てくれないかな」奈津美の声はなんの感情も読み取れなかった。「私は会社に行かなくちゃいけなくなったから」

「昨日の夜、僕を無理やり帰したよね。ひとりでお母さんの看病してたのに、今度は会社って……体、大丈夫?」

「大丈夫」奈津美は彼の言葉をさえぎった。その口調は、有無を言わせない響きを持っていた。「お母さんのそばに、誰もいないわけにはいかないでしょ」

電話の向こうは、数秒間黙り込んだ。

「わかった、すぐ行く。お姉さん、無理しないでね」哲也の声には、心からの心配がこもっていた。

奈津美は「うん」とだけ返事して、電話を切った。

冷たい壁に寄りかかって、ほんの少し力を振り絞るように立ち尽くした。30分ほどして、真っ赤な目をした哲也が駆けつけると、奈津美は、「何かあったらすぐ電話して」とだけ告げて、その場を後にした。

病院を出ると、太陽の光が目に染みて、じんわりと痛んだ。

タクシーを拾い、「鈴木グループまで」と告げると、運転手はバックミラー越しにじろりと奈津美の方を見た。

鈴木グループの社長夫人が、まさかタクシーで移動するなんて、誰も思わないだろう……奈津美は心の中でつぶやいた。

タクシーは、鈴木グループの立派な高層ビルの前で停まった。

お金を払って車を降りた奈津美は、まだ少し足元がふらついていた。やっと立ち直った時、見慣れた赤いマセラティが、ビル正面の専用スペースに滑り込んできた。

ドアが開いて、先に降りてきたのは圭太だった。今日は仕立てのいいスーツを着こなしていて、すらりと背が高く、気品にあふれている。彼はすぐには歩き出さず、助手席側に回ると、紳士的な仕草でドアを開けた。

銀色のハイヒールを履いた脚が、すらりと伸びてくる。続いて現れたのは、理恵の華やかで美しい顔だった。

彼女はにこやかに笑いながら、圭太に寄り添う。二人は肩を並べ、楽しそうに話しながらビルの中へと入っていった。

美男美女。まるで、絵に描いたようなお似合いの二人だった。

奈津美の視線は、理恵が着ているシャネルの最新作、白いワンピースに釘付けになった。

先週末、圭太と珍しく一緒に買い物に行った時、奈津美もこのワンピースに目を奪われたのだ。鏡の前で何度も体に当ててみたけれど、結局、値札の金額を見て、そっと元に戻した。

その時、彼女は圭太にこう言ったんだ。「ちょっと派手すぎるかな。普段着る機会もなさそうだし、もったいないよ」

圭太は何も言わず、ただ淡々と「うん」と相槌を打っただけだった。

と言うことは、彼にはとっくに、この服を誰に着せるか決まっていたんだ。

奈津美の口の端が、ゆっくりと弧を描いた。でもその笑みは氷のように冷たいのだ。

彼女は視線をそらし、すっと背筋を伸ばすと、二人の後を追った。

今日の取引先との大事な会議は、南区のプロジェクトに関するものだ。自分が半年も担当して、何度も徹夜した。こんな正念場で、問題を起こすわけにはいかない。

このプロジェクトも、この仕事も、絶対に手放せない。

最上階の会議室に入ると、長いテーブルにはすでに何人もの人が座っていた。奈津美は、圭太の隣にある、本来なら自分の席であるはずのプロジェクト責任者の席に、今は理恵が座っているのを目に留めた。

理恵は奈津美に気づいても、気まずそうなそぶりは少しも見せない。それどころか、まるで勝利を宣言するかのように微笑みかけてきた。

取引先の原田社長は奈津美を見ると、少し驚いた顔をした。「おや、いらしたんですね。てっきり……」彼は理恵にちらりと視線を送り、圭太に尋ねた。「鈴木社長、このプロジェクトは、これまでずっと鈴木部長が担当でしたよね?」

圭太が口を開く前に、理恵がやわらかな口調で割り込んできた。

「原田社長、ご存じないかもしれませんが」彼女は奈津美を見て、わざとらしい「同情」のまなざしを向けた。「彼女は最近、ご実家が大変みたいなんです。社長が、彼女が無理をしてプロジェクトに影響が出るのを心配して、私が一時的に引き継いで、彼女の負担を軽くしてあげます」

その言い方はとても思いやりにあふれて聞こえた。まるで理恵こそが、すべてを理解している優しい社長夫人みたいだった。

奈津美は彼女を無視して、全員を通り越し、まっすぐ正面の席に座る圭太を見つめた。

彼に、何か言ってほしかった。

たとえそれが、「奈津美がプロジェクトの責任者だ」という一言だけでもいいから、と。

でも圭太は、黙って手元の資料をめくるだけ。奈津美の方を見ようとすらしなかった。

その沈黙が、すべてを認めているということだった。

会議室にいる全員の視線が、なんだか気まずいものに変わっていく。同情、好奇心、軽蔑。無数の細い針みたいに、奈津美の体に突き刺さった。

胸に、鋭い痛みが走る。

奈津美は深く息を吸い込んで、辛さを押し殺し、そして、自ら口を開いた。「南区のプロジェクトは私が最初から最後まで担当し、すべての内容は頭に入っています。私個人の事情で仕事に影響を出すことはありません。きちんとやり遂げられる自信があります」

声は大きくなかったけど、はっきりと響いた。それは、トップクラスのプロジェクトの責任者としての、彼女の最後のプライドだった。

それを聞いた理恵は、たちまち目を赤くした。かわいそうに唇を噛み、圭太を見つめながら震える声で言った。「私、何かまちがったこと言っちゃったかしら?奈津美さんの力になりたかっただけで、手柄を横取りするつもりなんて……」

その可憐で悲しそうな姿は、誰が見ても同情したくなるだろう。

圭太が、ようやく顔を上げた。その深く黒い瞳には何の感情も浮かんでおらず、ただ冷ややかに奈津美を見つめていた。

その声は、まるで氷のように冷たかった。「理恵もお前のためを思って言っているんだ。今のお前の状態では、こんな重要なプロジェクトは任せられない。今後の仕事は、彼女をサポートしてくれ」

彼女をサポートしてくれ。

たったその一言が、まるで重いハンマーのように、奈津美の最後の淡い期待を完全に打ち砕いた。

なんだか、急におかしくなってきた。

自分は一体、何を期待していたんだろう?理恵のためなら、母が集中治療室で苦しんでいても平気なこの男に、自分が何を期待できるというの?

奈津美はもう何も言い返さなかった。誰の顔も見なかった。

彼女は会議テーブルに歩み寄り、徹夜して作った、書き込みでびっしりのプロジェクト資料を、そっとテーブルの上に置いた。

そして、くるりと背を向けて、部屋を出て行った。

いつものオフィスフロアに戻った奈津美は、思わず立ちすくんだ。

そこにあるはずの、彼女の広々としたデスクが、きれいさっぱりなくなっていた。パソコンも、書類も、長年愛用していたマグカップさえも、すべて消えていた。

周りの同僚たちは奈津美を見ると、複雑そうな顔を向ける。何か言いたそうだけど、誰も口を開けない。

中でも、奈津美と仲の良かった女性社員が、ためらいながら近づいてきて、小声で言った。「奈津美さん、あなたの席……後藤さんのものになったの」

奈津美はうなずいて、わかったとだけ示した。

そして尋ねた。「じゃあ、私の荷物はどこ?」

女性社員は、もっと気まずそうな顔になった。彼女は廊下の突き当りを指さして言った。「物置に運ばれちゃった」

物置。

奈津美は、自分をあざ笑うかのようにフッと笑った。

プロジェクトの責任者から、誰かのサポート役へ。そして今度は、自分のデスクすらなくなり、物置に追い出されるなんて。

圭太、あなたは本当に冷酷な人ね。

奈津美は何も言わず、同僚たちの同情するような視線を背中に浴びながら、一歩一歩、古びたデスクや掃除用具が置かれた物置へと向かった。

ドアを開けると、ほこりとカビの臭いがぷんと鼻をついた。

見慣れた彼女のデスクが、隅っこに無造作に押し込まれていた。机の上には捨てられた段ボールやゴミ袋が山積みになっている。黒いビニール袋が破れて、食べかけのお弁当や汁がこぼれだし、デスクの上に置いてあった書類を汚していた。

その時、ポケットのスマホが突然鳴り出した。

取り出して画面を見ると、そこにはずいぶん見ていなかった番号が表示されていた。鈴木家の屋敷からだった。

奈津美は深く息を吸い込んでから、通話ボタンを押した。

「奈津美か?」電話の向こうから、圭太の祖父・鈴木龍之介(すずき りゅうのすけ)の力強いけれど少し厳しい声が聞こえてきた。

「おじいさん」

「今すぐ、家に戻って」龍之介の口調は、有無を言わせぬものだった。

奈津美は電話を切ると、ゴミ捨て場のような物置を最後に一瞥して、部屋を出た。

30分後、彼女は鈴木家の屋敷に戻っていた。

リビングでは、龍之介と彼の妻・鈴木葵(すずきじ あおい)が、改まった様子で座っていた。二人とも、あまりいい顔はしていない。

「座って」龍之介が、向かいのソファを指さした。

奈津美は言われた通りに腰を下ろした。

「お母さんの容態は、どうなんだ?」龍之介は、単刀直入に尋ねた。

「まだ集中治療室です。先生は、あまり良くない、と言っていました」奈津美は、淡々とした声で事実だけを伝えた。

それを聞いた葵は、すぐに目を赤くした。彼女は立ち上がって奈津美の隣に座ると、その冷たい手を握り、いたわるように言った。「かわいそうに。つらかったでしょ。でも安心して。圭太には、江川市で一番の先生を探させるから。きっと治るわ」

奈津美はうつむいて、葵の、しわくちゃだけどとても温かい手を見つめた。鼻の奥がつんとして、涙がこぼれそうになった。
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