目の前にいるその人は私の腕をぐっと掴むと、そのまま唇を塞いで強引にキスをしてきた。
「ちょ、ちょっと……。何するのっ!?」
な、なんでキスなんてするの……!
「これが俺の妻になる君への、愛の誓いだ。 まだ何か文句でも?」
「………っ、最低っ!」
こうして私は、鷺ノ宮グループの御曹司、鷺ノ宮棗(さぎのみやなつめ)と愛のない、偽りの結婚することとなった。
✱ ✱ ✱
「棗さん、おかえりなさい」
「ただいま、聖良」「カバン、預かります」
「ありがとう」
帰宅した棗さんからカバンを受け取った私は、リビングにカバンを置いた。
そしてふと目にする、私たちの結婚式の写真。 白いドレスに身に纏った私と、タキシード姿の棗さんが、二人で微笑んでいる。
だけどその笑顔だって偽物なんだ。 だって私たちは、偽りの夫婦だ。
これはウソで固められた、偽りの結婚生活なのだから……。
こんな生活を、誰が望んだのだろうか……。その写真に映っている笑顔も、全部ウソで固められている。
「……聖良」
「はい。……んっ」
棗さんはなぜか、愛のない結婚をした私に、毎日キスをしてくれる。 どうしてキスをするのかなんて、分からない。
だけど夫婦となった今、それを拒むことさえ私は許されない。 私は鷺ノ宮グループに、支配されているのだから。
そんなことをしたら、この結婚をした意味がない。 あわよくば彼の子供をいつか産んで、跡取りを残すことだって、彼はきっと考えているだろう。
棗さんは私よりも五歳年上だ。 結婚した以上、私は棗さんの言うことに逆らえる訳はないのだ。
「聖良、何を考えている?」「……いえ、別に。 夕飯に、しましょうか」
「ああ」
棗さんがいつも私に対してそう言うんだ。 何を考えているかなんて、絶対に教えてあげない。
そんなこと教えたら、私は鷺ノ宮グループから去ることになってしまうだろうから。 そんなことは絶対に出来ない。
この結婚だって、棗さんが私の父を説得してくれたから出来ただけで、私一人だけなら絶対に説得はムリだった。
結局私は、彼と結婚してもコンシェルジュに戻ることはなかった。 コンシェルジュに戻りたいというよりも、こんなにもいい環境を与えてもらって申し訳ないくらいだし。
主婦ではないけど、そのまま家のことに尽力を尽くそうと思った。 仕事のことを忘れて、家事に集中しようっている。
「聖良、風呂に入ってくる」「はい。着替えは、洗面台に置いておきますね」
「ありがとう。助かるよ」
「はい」
鷺ノ宮棗、彼は私の夫。 いくら偽りであっても、ウソであっても、戸籍上私たちは夫婦だ。
私は鷺ノ宮グループの御曹司、鷺ノ宮棗の妻なのだ。 妻として認められたのかなんて分からないけど、それなりに懸命にやっていくつもりだ。
結婚して夫婦になったんだから、中途半端なことは出来ないと分かっている。
着替えを洗面台に置き、私は一旦部屋へ戻った。 彼がお風呂を出たら、私もお風呂に入ろう。
この家は鷺ノ宮グループの社長、つまり棗さんのお父さんが用意してくれた家だった。 私たち二人が暮らすための家だ。とても広くて、迷いそうなくらい広い家で、私も時々困惑する。 夫婦の寝室は偽りであっても一緒だ。
大きなキングサイズのベッドに夫婦二人、毎日並んで寝ている。
もちろん、結婚したから夫婦の営みだってきちんとある。 彼から求めてきた時は、その合図だ。もちろん好きな相手ではないけど、夫婦としてみるなら、彼とベッドの中で愛し合う行為は普通のことだと思う。
その普通は、私たちにとっては普通じゃない。 だって愛し合ってる訳じゃないから……。
そんなこんな考えているうちに、彼がお風呂から出てきたみたいで、濡れた髪をタオルで拭いている。
でもその程よい筋肉のついた身体、目の横に付いているホクロとぷるっとした唇が美しく見える。
すらっとした身体と長身の彼は、私と身長差が20cmもある。 身長差があるけど、我ながら彼はすごくカッコイイなと思う。
彼の左手の薬指に付いた、そのキラリと光るその結婚指輪が、私たちが夫婦だと物語っている証だ。 私の左手の薬指にも、同じデザインの結婚指輪が付いている。
彼も私も、お互い夫婦になっても何も変わらない。 私も彼のことをほんの少ししかまだ知らない。
あの結婚式の時、彼は私と永遠の愛を誓いあった。 だけどそんな偽りの愛が長く持つなんて、私には到底思えない。
だって私たちは所詮、偽りの夫婦なのだから。 そんな簡単に夫婦生活が、うまく行くとも思えない。
そう思ってるのはきっと、私だけじゃない。……彼もきっと同じだと思う。
そんなことを知らずにいた私は、ちょっとだけ棗さんにドキッとしてしまった。だけどそれは、棗さんには言わない。……言いたくない。「棗さん、ごちそうさまでした。 とても美味しかったです」「それはよかった。また来よう、二人で」「……はい」棗さんは駐車場に着くまで、私の手をギュッと握りしめてくれていた。だけど棗さんの気持ちを知ってしまった私は、その手を離すことも出来ないのだ。棗さんが私のことを好き……。そんなこと言われても、まだ信じられない。 棗さんは私のどこが好きなんだろう……。人を好きになったことは、私ももちろんある。 だけどその好きを、まだ棗さんに感じてる感じはないと思うんだ。……いっそのこと、棗さんのことをこのまま好きになれたら、楽なのにな。「……聖良、どうした?」「え? あ、いえ……」また車に乗り込み、私たちは自宅へと運転手さんの運転でまた戻った。 相変わらずカッコいい横顔だな、肌もキレイだし。「聖良」突然名前を呼ばれて、棗さんの方へと振り向く。 「はい?何でしょうか?」 「今日は嬉しかった」 「……えっ?」急にそう言われて、びっくりしてしまった。「聖良と一緒に食事が出来て、嬉しかった。 たくさん話も出来たしな」「……はい」確かに今日は、棗さんとたくさん話をしたな。 色々と話して、楽しかった。「これからも、なるべく時間がある時は二人で話をしよう。お互いのことを知るために」私は棗さんにそう言われたので「……はい。そうですね」と答えた。「俺も聖良のことを、もっとよく知りたい。……妻としてではなく、俺の好きな女性として、聖良のことをもっとよく知っておきたい」「はい。私も、あなたのことをよく知っておきたいです。……棗さん、あなたは私が永遠の愛を誓いあった人ですから。 旦那さんのことをよく知ることは、当然のことだと思います」「そうか。 まあ、それもそうだな」「……はい。そう思います」そんな私に、棗さんは「なら、俺から一つ提案がある」と言い、私の方を向いた。 「……なんでしょうか?」「今週の日曜日に、二人でデートをしよう」「へっ?」デート……? 私と棗さんが、二人でデート……?そう言われれば確かに、結婚してからもする前も、私は棗さんとデートしたこともなかった。そもそも、デートする前に結婚してしまった
「そんなことはない。聖良は俺の妻として、よくやってくれている。洗濯だって、洗った後ちゃんとアイロンを掛けてくれているだろう?」「まあ……はい」棗さん、気付いてくれていたんだ……。「アイロンも掃除も手間が掛かるというのに、部屋だっていつもキレイだ。……俺は君に、本当に感謝しているよ」「……ありがとうございます。そんなこと言ってもらえて、私も嬉しいです」この気持ちは本当に本心だった。 やっぱりそう言ってもらえると、とても嬉しい。「俺は聖良、君が俺の妻でよかったと思っている。 この気持ちはウソではない」「……ありがとうございます。 そう言って頂けるのは、本当に光栄です」なぜ棗さんがそんなことを言うのかは分からなかったけど、その気持ちは純粋に嬉しかった。「君はどうだ?」それは、棗さんからの突然の問いかけだった。「……え?」私は棗さんを見つめる。「聖良、君は俺のことをどう思っている?」「……どう、とは?」 「君の俺への気持ちだ。……結婚してニヶ月が経ったが、俺への気持ちは少しでも変わったか?」「…………」私はその問いかけにすぐに答えることが出来なかった。 気持ちが変わったかどうか聞かれると、確かにあの頃に比べたら、変わったと思う。だけどその気持ちの変化が、あまり自分でも分からないんだ。 どう変わったのか、うまく答えることが出来ない。「聖良、確かに俺たちは、好き同士で結婚した訳じゃない。 だけど俺は、結婚する時に君に誓った。君を幸せにすると」「……はい」私も、棗さんと一緒に誓い合った。「だから君が少しでも幸せだと思えるように、心から笑えるような、そんな結婚生活にしていきたいと思っている」「……はい。それは、私も同じです」結婚しても笑える日々が少ないのなら、笑えるように少しでも努力をしていきたいと思ってる。「……よかった」「えっ……?」よかったって……何がよかったのだろうか?「ようやく、気持ちが通じ合ったみたいだから。……俺と同じ気持ちなら、嬉しいなと思って」「……そう、ですか」私たち、通じ合っているのだろうか? それもよくわからない。「それと、この前のことだが…」「……え? この前?」この前のことって、もしかして……好きだと言ったこと?「……俺はこの前、君を好きだと言った」「はい」「その気持ちは、
「聖良?」「あ、すみません……。では、失礼します」椅子に座ると、棗さんは椅子を戻してくれるし、荷物も隣の椅子に置いてくれた。「……ありがとうございます。棗さん」「気にするな。お酒は飲めるか?」「あ、はい」「じゃあシャンパンで乾杯しよう。シャンパンを持ってきてくれ」「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」ウェイターさんが出ていった後、棗さんはお絞りで手を拭きながら、私に話しかけてきた。「この店も、鷺ノ宮グループの傘下に入ってるんだ。だから今日はこうして、君と食事をしたくてVIPルームを貸し切った」「そ、そうなんですね……」こんなVIPルームを貸し切ったなんて、私はただの一般人だから全然VIPじゃないのに。 私は妻という立場なだけ。 それ以外は何もない。あるのは、鷺ノ宮家の御曹司の妻という肩書きだけ。「まあこうして二人きりにしたのも、君と距離を縮めたくてなんだけど」「……え?」「俺たちはお互いにお互いを、何も理解出来てないと思った。 だから少しでも、距離を縮めたいと思った」少しでも、距離を縮めたい……?「……そんな。なんか、すみません」私が棗さんに対しても、鷺ノ宮家に対しても、あまり心を開こうとしないから……?なんとなく、そんな考えが頭に浮かんだ。「気にするな。お前のせいじゃない。……ずっと考えていたことだ」「……はい」「さ、まずは乾杯しよう」 「はい」棗さんは小さく微笑むと、運ばれてきたシャンパンをグラスに注いでくれた。 お互いにグラスを交わして乾杯をして、シャンパンに一口口を付けた。シャンパンのほのかな香りと、風味が口いっぱいに広がった。 それは今まで飲んできたのものと全然違くて、こっちのほうが断然美味しかった。「どうだ?」「美味しいです。……こんなに美味しいシャンパン、初めて飲みました」「そうか。それはよかった。最高級品のシャンパンをセレクトしてもらったんだ」「……そうだったんですね」だからこんなにも美味しいのか……。「喜んでもらえた?」「……はい。とても」「この後の料理も、もっと喜んでもらえると思うよ」「それは……楽しみです」優しく微笑む棗さんの顔を見て、私はなんだか心がホッとした気がした。「お待たせ致しました。前菜のサラダと、真鯛のグリルでございます」「えっ、すごいっ……」
「こんな姿、他の誰にも見せたくない」棗さんがそう言うなんて、思ってもみなかった。 でもそれでも、それが棗さんの本心なのか、私には分からなかった。「……棗さん。ムリして褒めなくても、大丈夫ですよ?」本当はすごく嬉しい。すごく嬉しいと思ってる。だけどその言葉に甘えてしまったら私は本当に彼のことを……。え? なんで私、こんなこと思ってるんだろう……? どうして……? どうして……?「聖良、君はどうしていつもそういうことを言うんだ」「どうしてって……それは……」 私はそれ以上、口をつぐんでしまって、何も言えなくなってしまった。「……聖良、俺はお前のことを大事にすると言ったし、幸せにするとも約束した」確かに棗さんは、私を大事にすると言ってくれた。 幸せにすると、確かに約束してくれた。「聖良お前は何か勘違いをしてるようだろうから、これだけは言っておくが」「……はい?」棗さんは私の頬に手を伸ばすと、「俺は……お前のことを嫌いな訳じゃない」と言ってくれる。「……すみません」「謝るな。……そろそろ予約の時間が来る。行こう、聖良」「……はい」 少し気まずい雰囲気の中、私たちは棗さんが予約してくれたレストランへと向かった。 車は運転手さんが運転してくれている。しばらくの間、車の中では無言が続いた。気まずさを感じながらも、ちらりと棗さんの顔を見ると、棗さんは社内の窓ガラス越しに横を向いていた。……棗さんの横顔、カッコいいな。「ん?」「あ、いえ……」確かによく見ると、棗さんはカッコいい。 イケメンの枠に入ると思う。棗さんが私の夫だなんて、まだ信じられない時がある。 こうやって隣に並んで歩くだけで、私は恐れ多いくらいだ。でも不釣り合いなのをわかっていて、隣を歩きたいとはどうしても思えないのだけど。「……聖良、どうした?」「いえ……なんでもないです」「そうか。もう少しで店に着くからな」「はい」車が信号待ちをしている間、棗さんは私の右手をギュッと握っていた。 だけど私は、その手を振り払うことも出来ずにいた。握られた私の手は、ほんのりと温かくて優しい温もりがあった。そして棗さんの手は温かい。 この温もりは、すごく好き。 レストランの駐車場に車を停めた運転手さんは、助手席のドアをどうぞ開けた。そして棗さんはわたしの手を取り、そのままエ
翌朝、目が覚めると、棗さんはすでに仕事で出かけていていなかった。リビングに行くと、リビングに置き手紙が置いてあった。【起こすと悪いと思ったから、先に仕事に行く。今日は定時で帰る。外で夕食でも食べよう】 「え……?」外で夕食を……? 外食なんて、久しぶりだな……。「でも……ちょっと楽しみかも」そんなことを考えながら家事をこなしたり、花に水を上げたりしながら過ごしたりした。普段の日なら午後になってから、夕飯の買い物に行くのだけど、今日はそれがないから何をしようか考えてしまう。またネコの動画でも見ようかなとか思いながらも、今日着る服を決めようと思い、寝室へ行った。 クローゼットを開けて自分の服を選ぼうとしたけど……。「……なんで私、服を選ぶのにこんなに時間がかかってるんだろう」いつもなら簡単に決められるのに、なぜだか決めることが出来ない。だって……頭から離れない。 昨日の夜、棗さんが言ったあの好きという言葉が。棗さんがなぜ好きだと言ったのか分からない。 それに今まで一度もそんなことを言ってくれたこともないし、言ったこともない。あの「好きだ」という言葉は、どういう意味で言ったのだろうか……?私にはまだ分からなかった。 あの言葉を信じてもいいのかさえ、分からないままだ。本当なら夫に好きって言われたら、普通は嬉しいはずだよね……。だけど私には、その言葉の意味が分からないから、信じてもいいのか分からない。とりあえず私は、適当に服を選びすぐに出掛けられるようにナチュラルメイクをほどこす。そういえば……棗さんと結婚してから、あまり化粧をしなくなったのは自分でも分かっていた。 コンシェルジュとして働いていた時は、毎日メイクをしていたし、コンシェルジュとして働いている時はとても楽しかった。お客様の喜ぶ顔が見れるたびに、この仕事をしていてよかったって思った。今はメイクをしなくなった分、肌の調子はいい方だと思うけれど。だけど私は、棗さんからキレイだと言われたこともない。……きっと私を、妻として見てくれている訳ではないということだと思う。きっと私を抱くのだって、夫婦としての儀式みたいなもので……。夫婦になったんだから、私は棗さんに抱かれるのが当たり前なんだろう。きっと私のことを好きで抱いているわけじゃない。 夫婦として当たり前の行為だから、
「ただいま」 「おかえりなさい、棗さん」 棗さんを玄関で出迎えると、棗さんは私に「聖良?まだ起きていたのか? 先に寝てていいと言ったのに」と言ってくる。「……いえ。 お仕事で忙しい棗さんよりも先に寝るなんて、おこがましいですから」棗さんにそう話すけど、棗さんは私の頭をぽんと撫でると「何を言っている。お前も毎日、家のことをやってくれているだろう? 家でも家事で忙しいのは、お前も一緒だ」と言葉をくれた。「……ありがとうございます」棗さんはそうやって優しい言葉を時々くれるけど、その言葉だって私が妻だから言ってるに違いないと、心のどこかでは思っていた。私が妻だから、優しい言葉をかけてくれる。 例え偽りの夫婦でも、妻だから。優しくしておこうとか、思われてたりしてないだろうか……。なんて色々と考えてしまう。私の悪い癖だ。すぐマイナスなことを考えてしまう。出来ることなら、今すごく聞きたいことがある。 棗さんに。 私と結婚して、幸せなのかどうか。 ずっと聞きたいと思っていた。だけど怖くて、そんなこと聞く勇気がないのが私なのだ。 私は臆病だ……。「聖良?どうした?」「え? あ、いえ……。なんでもないです」そんなこと、聞ける訳がない……。「そうか。……シャワーを浴びてくる。先に寝室に行ってててくれ」「はい。分かりました」私は先に寝室に行き、ベッドに入った。 そしてスマホを開き、猫の動画を見ていた。最近猫の動画を見るのにハマっていて、とても可愛いネコたちに癒やしをもらっている。疲れた体と心を癒やしてくれるネコちゃんたちは本当に可愛いな〜。ネコはほしいと思うけど、飼うのって大変だから、見ているだけで充分だ。ずっと可愛いお気に入りのネコたちを見ていた時、お風呂から上がった棗さんが寝室に入ってきた。「お待たせ、聖良。……ん?何を見てるんだ?」 「ネコの動画です。 ネコが好きなので」「そうなのか。……もしかしてネコ、飼いたいのか?」不思議そうに棗さんは聞いてきた。「いえ! 飼うのは大変なので……。見てるだけで充分です」「そっか。……聖良がネコが好きだったなんて、知らなかったよ」「……そういえば、言ってませんでしたね」ネコが好きなことを特に言ってなかったことに、この時初めて気付いた。「俺はまた一つ、聖良のことを知れてよかったけ