FAZER LOGINスパイスと安酒、そして欲望が焦げたような独特の匂いが混ざり合う歓楽街の裏路地。
石畳には前夜の乱痴気騒ぎの痕跡である割れた酒瓶が転がり、建物の隙間からは薄汚れたドブネズミがこちらの様子を窺っている。 ここは神の加護が届かない自由自治領、歓楽都市ゴルベガス。 華やかな歓楽街の裏では、金と暴力が全ての秩序の街。俺たちはその最奥に向かっていた。「……まとわりつくような視線ね。まるでこちらを試しているみたい」
薄暗い路地の奥から向けられる、値踏みするような、あるいは劣情の視線。
ラナンが心底嫌そうに顔をしかめ、ローブの襟元をかき合わせた。 無理もない。 血と暴力、そして安っぽい欲望が渦巻くこの街の裏側は、まともな神経の持ち主なら数分で頭痛を引き起こすほどだ。「ヒョッヒョッ! 我慢して下され、お嬢ちゃん。このゴルベガスじゃあ、その下劣な欲望こそが『金が動いている証拠』なんでさァ」
先導する闇商人のモヤネロが、ジャラジャラと金ピ
背後にあるバルザットの広大な屋敷からは赤黒い業火が夜空を焦がしていた。 太い柱や梁が焼け落ちてパチパチと爆ぜる音が絶え間なく響いている。 庭園を彩っていた美しい夜咲きの花々……。 先ほどの激しい戦闘とゼイクが放った真空の刃によって無惨に散り果て、焦げた土の匂いとむせ返るような血の匂いが立ち込めていた。 熱を帯びた空気に混じって、時折ひどく冷たい夜風が吹き込み、戦闘で火照った俺達の頬を撫でていく。「アハハ……痛いじゃない。少しは手加減というものを知らないの?」 片翼を根元から斬り落とされ、地に伏したベルタ。 彼女は自身の流した血で深紅のコルセットドレスをさらに濡らしながらも、艶然と笑ってみせた。 千切れた翼の断面からは絶え間なく鮮血が溢れ、夜露に濡れた庭園の石畳をどす黒く染め上げている。 誰の目から見ても致命傷に近い状態であるにもかかわらず、彼女は痛みを隠すように妖艶な仕草を作っていた。「黙れ、妖魔め。貴様の戯言を聞く耳は持たん」「あら、怖い顔。私をこんなにして、ただで済むとでも思っているのかしら? 私が本気を出せば、お前たちなんて一瞬で灰になるわよ」 上辺だけの空虚な挑発だった。 俺は太刀を握り直したゼイクを横に制止するように、ゆっくりと一歩前に出た。「虚勢を張るのはやめろ、ベルタ」「……何のこと?」「お前、さっきから反撃の魔法を一つも撃っていないじゃないか」「っ……それは……」「あれだけの膨大な魔力がありながら、お前は上空へ逃げ回るだけだった。俺たちを殺す気なんて、最初から無かったんだろう?」 俺の問い詰めるような声に、ベルタの余裕の笑みがピクリと引きつった。 剣を交え、命のやり取りをしたからこそ嫌でも分かるのだ。 ベルタの魔力には、俺たちを害そうとする決定的な殺意が完全に欠け落ちていた。 強力な精神干渉も、焼き尽くすような炎の魔法も、
沙帝夢楼の誰もいない食堂。 レッサーデーモンのマージルが、白いテーブルに置かれたグラスに静かにワインを注いでくれる。 その白い椅子に座っているのは、他でもないボクだ。「イオ様、ワインをお持ち致しました」「ありがとう」 マージルに笑顔で礼を述べ、ワインの入ったグラスを口に運ぶ。 今日は黒いフィッシュテールのドレスを着込み、藤色の髪も後ろで上品にまとめてみた。 偶には正装もいいものだ。いつまでも、この物語の役者を演じているがボクはボクさ。「これが魔王城周辺に自生する、ディアボログレープで作ったワインか」「なかなか甘美な味わいでしょう?」「うん、酸味も効いているね」 対する席に座っているのは、異形の魔物――サッドだ。 狼のような顔に水牛の角を生やし、深い青いの毛並みを持つ、悪魔族の上位に当たる高位魔族『グレーターデーモン』である。「サッドのその姿を見るのは久しぶりだね」「勇者様……いや、魔王様の鎧以外の姿を見るのは初めてです」「そりゃあボクだって女の子だもの、オシャレくらいはするよ」 サッドの言葉にボクは肩をすくめてみせた。 かつて勇者と呼ばれたボクは、今や魔王としてここにいる。「上手くやっているかな」「ガルアの他にも、ゼイク氏もいるのです。ご安心下さい」「ダミアン……彼は強く、優しかった」「昔のお仲間のことですか」 ボクの昔の仲間だった戦士ダミアン・ヒバート。 彼のことを思い出すと、自然と懐かしさが込み上げてくる。「ああ……彼は頼もしい仲間だった」*** まだ、ボクが勇者としての使命に燃えていた頃のことだ。 ――武闘家シンイー・イェン。 ――賢者クロノ・マクスウェル。 そして――戦士ダミアン・ヒバート。 彼らと共にパーティを組み、冒険していた時のことだった。
俺たちが武器を構えて歩みを止めると、ベルタは余裕に満ちた妖艶な微笑みを浮かべ薄い唇を開いた。「ボス戦には相応しい場所でしょ?」 ボスセン? 漆黒の翼を広げたベルタの口から出た妙な言葉の意味は分からなかったが、その表情はどこか余裕に満ちており自信ありげだった。 背後で燃え盛る屋敷から吹き付ける熱風が、彼女の金色の髪を妖しく揺らしている。「このときを待ちかねていたぞ」 俺の隣でゼイクが深緑の片刃剣をゆっくりと構えた。 ギリ、と柄を握りしめる音が静まり返った夜の庭園に異様に響く。 刀身から溢れ出す淡い緑色の魔力オーラが、彼の抑えきれない怒りに呼応するように明滅していた。「あら、貴方はあのときに集めた冒険者の一人よね? 私の誘惑の甘息が効かなかったのかしら。何か『高耐性』のアイテムでも装備しているのか……それとも……」 ベルタはゼイクの装備を値踏みするように眺めながら、憮然とした顔で言う。 まるで目の前の命のやり取りすら、盤上のゲームか何かのように捉えているような人工的で不気味な響きがあった。「黙れ……! 我が息子ダミアンの仇、ここで取らせてもらうぞ!」「ダミアン……?」 その名を聞いた瞬間、ベルタはピクリと眉をひそめた。 だが、ほんの一瞬見せた動揺の影をすぐに振り払い冷酷な妖魔の笑みを浮かべた。「ふふっ、そんなお人好しのバカな人間もいたわね。私を救うなんて『イベント』でもないのに」「貴様……ッ! ダミアンを侮辱する気かッ!」 全身を怒りに震わせ、首筋に青筋を立てて激昂するゼイク。 対してベルタは意に介す様子もなく、ピンヒールで庭園の石畳をコツ、と鳴らして淡々と続ける。「ええ、彼はいい男だったわ。私の見せる『夢』に溺れて……楽しい人だった。そんなお人好しだからこそ『ルール』を破って早死にしたわね。勇者
燃え盛るベルタの私室から、俺はラナンを抱え上げて窓を蹴破った。 鼓膜を打つ爆音と砕け散るガラスの雨を抜け、夜の庭園へと飛び降りる。 着地の衝撃を曲げた膝で殺して地面に降り立ち、背後を振り返った。 ゴルベガスの夜闇の中、豪奢なバルザットの屋敷は地下から噴き上がった業火に包まれ、赤々と燃え上がっていた。 熱風が頬を焼き、焦げた木材の匂いが鼻を突く。 火元がどこからかは分からない。 しかし、そんなことは俺にはどうでもよかった。今は逃げたベルタを追うのが先だ。「……いつまで抱き抱えてるのよ。さっさと離して」 腕の中にいるラナンが、俺の胸板を押しのけながら抗議してきた。 見れば、不機嫌そうに顔を背けるその白い頬が僅かに桜色に染まっている。燃え盛る火の熱で火照ったのだろうか。「すまんな。怪我はないか?」「気安く触らないでよね。人間ごときに心配される筋合いはないわ」 俺が腕を解くと、ラナンはそっぽを向いてローブの埃を払いながら急いで距離を取った。 怒ったような口調なのは、やはり俺が不用意に触れたからだろうか。「痴話喧嘩はそこまでにしておけ。ベルタを追うぞ」 不意にため息混じりの声が聞こえ、視線を向けると少し離れた場所にゼイクが立っていた。 燃え盛る炎を背にしながらも、彼の態度はベテランらしくひどく落ち着いている。 腰に手を当て、ヤレヤレといった表情を浮かべていた。「ベルタはどこへ逃げた? 飛んで逃げられたら、暗闇じゃ追いきれないぞ」「簡単なこと推理を展開しよう。あそこに足跡を追えばヤツに会える」 ゼイクが顎でしゃくった先。 手入れの行き届いた庭の芝生に、ベルタが履いていたヒールの足跡がはっきりと残されていた。 その足跡は屋敷の奥に広がる大庭園へと真っ直ぐに続いている。 空を飛べるはずのサキュバスが残した、わざとらしいまでの痕跡。 これは罠か、それとも誘い込んでいるのか――。「ところでゼイク。追う前に一つ聞いておきた
ベルタの私室を目指し、薄暗い屋敷の中を急ぐ俺たち。 屋敷内の使用人に擬態した魔物や操られた警備兵との戦闘を覚悟し、最大限に警戒していたが――。「おかしい。屋敷内にまるで人がいないぞ」「……ええ。私が『薄暮の催眠』で眠らせた衛兵以外、人の気配がすっかり消え失せているわ。地下の騒ぎに気づいて逃げ出したのかしらね」「――薄暮の催眠。催眠呪文か」「色々と魔法は覚えてるからね」 ラナンが油断なく周囲を見渡しながら、冷静に状況を分析する。 俺たちは微かな違和感を抱きつつも、目的の部屋の重厚な扉を勢いよく蹴り開けた。 そこには、グラスに注がれた赤いワインを静かに揺らすベルタの姿があった。「いらっしゃい、殿方たち。随分と騒がしい夜ね」 ベルタは特に慌てる様子も見せず、妖艶な微笑を浮かべている。 そして、先頭に立つゼイクを見据えて言った。「あなた……私の『誘惑の甘息』に掛かっていなかったの?」「ああ。これのお陰でね」 ゼイクは胸元から引きずり出した銀のチェーン――『蒼月鉱の首飾り』を見せつけた。「それは……ッ!」 洗練された双翼の銀細工を見た瞬間、ベルタの顔から余裕が消し飛んだ。 これまで冷徹だった妖魔が、明確な動揺を露わにする。「これは俺の息子、ダミアンの遺品だ……お前が甘い言葉で弄び、破滅させて殺した男の片割れだ」「……息子ですって?」 ゼイクの息子。そして、ベルタによる過去の凶行。 思いもよらない因縁に、俺とラナンは息を呑んだ。 ――ガチャ……ガチャ……ッ! 突如、重々しい金属音が部屋に響いた。 壁際に飾られていた黄金の甲冑が、自らの意志を持ったように動き出したのだ。「鎧が動いたぞ!」「……ふふっ。おしゃべりはここまでよ。こいつらを肉塊に変えなさい!」「グルオオオォォ!!」 黄金の兜の奥から覗いたのは、斑点模様の毛皮を持つ獣の顔――ジャガーマンだ。 ベルタが洗脳した眷属の魔物らしい。 鎧兵が立ちはだかる隙に、ベルタは素早く部屋の大きな窓を開け放った。「あなた、逃げる気?」 ラナンが鋭い声を飛ばす。「逃げるが勝ちって言うでしょ? ごきげんよう!」 ベルタは嘲笑を残し、暗い夜の窓の外へと身を躍らせた。「あっ……逃げたわよ!」「貴様らの相手はこの俺
屋敷の最奥にある、ひどく露悪的で豪勢な部屋。 足元には北方の雪山でしか狩れないという希少なスノータイガーの毛皮が敷き詰められ、壁際には悪趣味な黄金の甲冑がずらりと並んでいる。 天井から下がるシャンデリアは魔光石を惜しげもなく使い、夜の闇を真昼のように白々と照らし出していた。 この過剰なまでの贅沢はバルザットが、私の歓心を買うために貢いだものだ。「本当に……人間はバカよね」 ため息混じりに唇から漏れた声は、広すぎる部屋に虚しく吸い込まれていく。 黒檀の分厚い机には、山のような宝石や装飾品が無造作に積まれている。 ジェダイトの首飾り、アメジストのブローチ、大粒のダイヤモンドをあしらったティアラ。 ……どれもこれも……。 彼が領民から搾取し、地下の闇カジノで敗者たちの血と肉をすり潰して得た、汚い欲望の結晶。「こんな血生臭い石ころで、私の心が縛れるとでも思っていたのかしら」 血のように赤いシングルソファに腰を下ろした私は足を組み、頬杖をつきながら、それら宝石をひどく退屈な気分で眺めていた。 バルザットは本当に愚かな男だった。 私のような妖魔が『誘惑の甘息』を本格的にかけるまでもなかった。 少し上目遣いで微笑みかけ、潤んだ瞳で見つめるだけで勝手に理性を手放し、破滅への階段を喜んで転げ落ちていった。 彼が私に捧げた愛の言葉も、狂気じみた執着も、すべては滑稽で吐き気がする。 だが、その滑稽な人間を裏で操り、闘技場で魔物の餌食にして|嬲《なぶ》り殺しにさせていた私自身もまた……等しく滑稽な操り人形に過ぎない。「……ふぅ……」 私は吐き出した紫煙を見つめる。 そう、この世界に『配置された』存在にすぎない。 この世界は絶対的な造物主が、自らの慰みとして作った巨大な箱庭。 私はその盤上に置かれた、ただの駒。 勇







