LOGINグリンパーマウンテン。
イリアサン王国を隔てる険峻な山脈であり、魔王城へ至るためには必ず踏破せねばならぬ難所である。 本来ならば、中級の冒険者たちが腕試しに訪れ、自然の厳しさと野性の魔物たちを相手に経験を積む場所だ。 だが、今のこの山を覆っているのは違った。 むせ返るような血の匂いと、どこか人工的で歪な気配だった。 今回のパーティはラナン、フサーム、ハンバルの三名。 そして、俺と魔王イオを加えた――総勢五名だ。「……静かだな。ラナン」
周囲を警戒しながら横を歩く彼女に小さく声をかけると、ラナンはわずかに肩を揺らした。
「静か?」
「言葉数が少ないと思ってな」「そうかしら? ……まあ、この山の空気が重いせいかもしれないわね」いつものような調子のいい軽口はなく、ぽつりと落とされた声はどこか頼りない。
「それだけか? ……あの館で『
大聖師は絶対的な詠唱を始める。 嫌な予感がするのに、体がまったく動かない。 これが『イベントの強制力』というやつなのかもしれない。 そう、バジリスクの魔眼に射すくめられたかのように石化状態さ。 ボクは指先一つ動かせず、ただ石像のように立ち尽くすことしかできなかったんだ。「消し飛べ! 『純白の審判』……!」 ヤツが最上位の聖属性呪文を放とうとした、その瞬間だった。 ――ズドォォォォンッ!! 空間全体を揺るがすような、凄まじい轟音が響き渡った。 ドラゴンやサイクロプスの咆哮ではない。 強大な呪文の爆発音。何か巨大なものが破壊されるときの音だ。「あ、あれは……?」 ボクが視線を向けると、先ほど大聖師が強引に弾き飛ばした『緋色の獄炎』が、遠くに見える巨大な建造物に直撃し、猛烈な炎を吹き上げていた。 それを見た大聖師の顔色が、一瞬にして蒼白になった。「……なッ! 弾いた魔力が直撃しただと!? あれはボクの最高傑作……未実装の『絶対の終焉兵器』を保管しているサーバーだぞッ!」 大聖師は頭を抱え、ワナワナと体を震わせている。 彼にとって、ボクたちなんかよりも遥かに重要なものが、あの炎の中に眠っているらしい。「あそこには膨大な工数を費やしたのだ。ここで失うわけにはいかん……ッ!」 大聖師はボクたちを完全に放置し、血相を変えて燃え盛る巨大倉庫へと飛んでいった。 奇跡的な偶然が重なり、ボクとブルーニアは何とか窮地を脱したのだ。「……信じられない強運ですね。どうやら、私たちに逃げるチャンスが巡ってきたようです」 大聖師が去った虚空を見つめながら、ブルーニアが静かに告げた。「う、うん……」
ボクの目の前に現れた女性は、ブルーニア・サファウダと名乗った。 彼女のまとう空気はどこか冷ややかで、底知れぬ深淵を覗かせるような静かな雰囲気があった。 だから、最初こそはボクは彼女に警戒心を持っていた。「体は大丈夫ですか?」「う、うん……」 その澄んだ声には、不思議と心安らぐ温かさがある。 まるで女神と会話しているかのように――。 だからこそ、ボクは少しづつ彼女に対する警戒の糸を緩め、無意識のうちにその言葉の奥へと引き込まれていくのを感じていた。 この異常な空間において、彼女の存在だけが唯一の確かな拠り所のように思えたからだ。「そ、それよりも……『エクスル』というのは?」「詳しく説明している時間はありません。まずはここから逃げることが先決です」「ま、待って!」「……どうしたのですか。時間は惜しいはずですが」「まだ、大事な仲間がいるんだ!」 そう、ボクにはクロノやシンイーという仲間がいる。 大聖師の悪意に呑まれた彼らを置いて、ボクだけが逃げ出すことなんて絶対に出来なかった。「彼らのことは諦めなさい。今はあなたの身を護ることの方が先決です」「で、でも……う……ぐッ!」 食い下がろうとしたボクの喉は、突如として降りた見えない恐怖によって強制的に塞がれた。 全身の血液が瞬時に凍りつくような悪寒。 肺に酸素を入れることすら許さない、這い寄るような死の気配が背後から立ち昇る。「……度し難いバグどもめ。僕の開発環境を汚すとは」 空間そのものを凍結させるような、大聖師の底冷えする声が頭上から降り注いだんだ。 見上げれば、静かな怒りを湛えた大聖師が恐るべき速度で降下してくるところだった。「あ、ああっ!」「削除を免れた旧世界の残骸め……この僕に牙を剥くか。身の程を弁えろ」 大聖師の顔は冷酷に歪み、その体からはおぞましい魔力が立ち昇っている。 空間そのものが彼を恐れ、歪んでいるかのように見えた。「もう一度……退きなさい!」 ブルーニアは静かに両手をかざし、二つの属性が入り混じった呪文を編み上げた。「――『灰銀のノイズ断頭刃』!」 彼女の掌から放たれたのは、激しいノイズを伴う鋭利な風刃と雷撃が交差する真空の刃。 その合成呪文が大聖師めがけて直進する。 ボクたちの世界
ボクは深く、どこまでも沈み込むような冷たい暗闇の中にいた。 あの薄暗い地下室で味わった死の冷たさがそのまま張り付いているかのように、激しい頭痛がガンガンと脳の奥底を揺さぶっている。 体を起こそうと力を込めたが無駄だった。 まるで分厚い粘液に全身を沈められ、四肢を拘束衣で縛り付けられているような、ひどく不快で息の詰まる感触――。 そうさ、ボクの自由は誰かに完全に奪い取られていたんだ。「物語の主役には『王道たる英雄』と『ヒロイン』が必要だ。予定外のイレギュラーは物語にはそぐわない」 その冷徹な声を聞いた瞬間、意識が急速に覚醒した。 間違いない、ボクの命を理不尽に奪ったあの男の声だ。 待って……ボクはあの薄暗い地下室で死んだハズではなかったのか。 いや、そうか……こうして思考し、痛みを感じている以上、ボクは間違いなく生きているんだ。 でも、ここは一体どこなんだろう? とそのときのボクは強く思っていた。「武闘家としてステータスや設定変更は完了した。残るは賢者クロノと……勇者イオ、お前だけだ」 ステータス? セッテイヘンコウ? ボクはこの時、その言葉の恐ろしい意味を完全には理解できていなかった。 兎に角、体を動かして現状を確認しなければ……。 そう思ってもがいたが、ダメだ。指先一つ、全く力が入らなかったんだ。「賢者は適当な街の|群衆《モブ》に降格させるとして……イオ、お前はどうするか?」「ぐっ……くゥ……」「運命は決まっている。お前の勇者としての権限は剥奪するのだ。新たな物語において、お前には魔獣を統べる役割を……そうだな『魔獣使い』をとして役割を与えよう」「や、やめろ……」「消されないだけマシと思え。お前はそれなりに『製作者』として気に入って
「イオ、その剣を渡すんだ」「ボクを知っているのか?」「ああ、とても。お前だけは、ボクの気まぐれで『女勇者』として作り上げたからね」 その小柄な男の第一声は、酷く平坦で感情の起伏が一切感じられないものだった。 サイネリア色の頭巾の奥で、そいつはにこやかに笑っている。 だが、その笑顔はどこまでも不自然だった。人間であるようで、人間ではないナニカ。 まるで精巧な作りの人形が、笑顔だけが顔面に貼り付けているだけのような異質で空虚な微笑み。 呼吸の気配すらない。瞬き一つしない。 圧倒的な魔力や闘気といった、強者が発するようなオーラとは根本的に異なる。 そこにあるのは、この世界のルールから完全に逸脱した『絶対的な法則』そのものだった。 その得体の知れない存在感。 ボクの全身の産毛が総毛立ち、即座に男の危険性を直感した。「来るなッ!」 魔剣アレイクの呪詛が、ボクの血管を這い回る毒のように生命力を啜り上げていた。 指先は氷のように冷たく、立っていることすら困難なほどに視界が明滅している。 だが、それ以上の――本能的な死の恐怖が、鉛のように重い肉体を無理やり突き動かした。 ボクは血を吐くような思いで何とか立ち上がり、手にした剣の柄を両手で固く握り直した。 冷たい石畳の床を蹴り、一切の躊躇なく、素早く、迅速に踏み込む。 それはお宝を奪う盗賊よりも、闇に潜んで標的を暗殺する忍者よりも遥かに速い斬撃。 勇者としての旅路の中、数多の死線を潜り抜けてきたボクが全てを懸けて放った必殺の剣閃。 空気を切り裂く鋭い風切り音が遅れて響くほどの、これ以上ない完璧な一撃だったはずだ。「そ、そんな!」 だけど……届かなかった。 いや、届くどころの話じゃない。まるで、住む次元そのものが違ったんだ。「だからァ、勝手に動かれちゃあ『シナリオ』が崩れるんだってば」 男はボクの刃が首筋に迫っても微塵の焦りも見せず、ひどく面倒くさそうにそう吐き捨てた。
ボクたちパーティから戦士のダミアンが抜け、次の目的地へ向かっていた。 そう『要塞都市バンガード』へと向かう道中でのことだった。 当時のパーティはそこにいる賢者クロノ、そして武闘家のシンイーを含めた三人だ。「……武闘家、だと?」 その言葉を口にした瞬間、ガルアの鋭い眼光が微かに揺らいだ。 何かをハッと思い出したように、彼は険しい顔で思わず声を漏らしたのだ。「どうかしたのかい?」「いや……アンタの仲間だったという、その『シンイー』という武闘家というのは?」 探るような彼の視線を受け、ボクは色褪せた記憶の中にある彼女の姿を思い浮かべた。「そうだね……凄まじい体術の使い手だったよ。真面目で正義感が強くて、敵に対しては一切の容赦がない、苛烈な闘気の持ち主だった」「……そうか」 ガルアは目を細め、何かを思案するように静かに息を吐き出した。 彼の様子に思うところはあったが、ボクは小さく目を伏せ、あえて深くは追求せずに再び過去の記憶の糸を紡ぎ始めた。「順調にいけば、次はバンガードだね」「いよいよ魔王城も近くなるってワケじゃの」 当時のやり取りを振り返りながら、ボクは言葉を切り、ランタンの揺らめく灯り越しにガルアを見つめた。 彼は真剣な眼差しで、ボクの紡ぐ過去の記録に耳を傾けている。「ガルア、キミは知らないだろうけど、バンガードは魔王城の目と鼻の先にある人間側の最後の砦だ。本来なら、明日の決戦に向けて悲壮な覚悟を固める場所のはずさ」「……ああ。魔王の脅威が迫る最前線だ、当然だろう」 ボクの問いかけに、ガルアは眉をひそめて重々しく頷く。 彼にとって、それはこの世界の『常識』なのだ。 だが、その常識こそが歪んでいるのだと、ボクは自嘲気味に笑って真実を告げた。「そのバンガードのメイン施設は命がけの闘いが行われる『巨大な地下闘技場』と、希少な素
――この世界と人々が、誰かに『作られたもの』だったとしたら。 それは『絶対的な神の存在』を暗示させるような言葉だった。 唐突に何を言うのか……。 イオが前置きした『現実を受け入れる勇気』とは、そのような戯言を直視しろという意味だったのか。 あまりにも受け入れがたい言葉に、俺は静かに間を置き、ひび割れた唇を開いた。「どういうことだ?」「この世界は、何度も何回も組み換えられ、作り変えられたものなんだよ」「ッ!」 冷たい電撃が全身を駆け巡った。 荒唐無稽な話である。 だが何故だろうか……これまでの異常すぎる状況や、イオの静かで揺るぎない口調、その表情が彼女の言葉の信憑性をひどく持たせていた。「証拠はあるのか?」 ――証拠。 そうだ、俺の常識を覆すほどの絶対的な証拠が必要だ。「証拠か……ただ言葉で信じろっていうのが無理な話だよね」 イオはそう呟くと、懐から一冊の本を取り出した。 どこに隠し持っていたのだろうか。空間の歪みから引きずり出すようにして現れたそれは深い青色をした古い書物。 間違いない。かつて、青の暴君ことサピロスがひっそりと守っていたあの『青い冒険書』だ。「これは『竜血戦記エクスル』……この世界の前に作られた物語、過去の世界の記録の一つさ」 ラナンは黙って、青い冒険書をじっと見つめている。 あの時、俺に隠し部屋の存在を教えてくれたのは彼女だった。 この冒険書の持つ本当の意味に、彼女は気付いていたのだろうか? そんな疑問を持ちつつも、俺はイオに尋ねた。「見たところ、ただの古い冒険書に見えるが……」 俺の言葉に、イオは薄く微笑んで首を振った。「確かに冒険の記録を記した書物のようなものだね。でも、これはただの冒険書であって冒険書ではないんだ」 冒険書であって冒険書ではない
迫り来る紅紫の毒炎が、視界のすべてを焼き尽くそうとしている。 死を覚悟したその瞬間――。 俺の全身を包む呪いの鎧『パープル・ミラージュ』が理の外側にある不吉な脈動を刻み始めたのだ。 ――ガギィィッ! キリキリキリッ!! それは金属の軋みを超えた、世界の『バグ』が発する悲鳴だ。 直撃するはずの『紅紫の毒炎鎖』が、俺の数センチ手前で目に見えない断層に衝突したかのように霧散していく。 いや、霧散したのではない。 鎧が放つ悍ましい紫光が、毒炎という『事象』そのものを喰らい無効化していた。
王都イリアサン。 ステンドグラスを通した七色の光が、冷たい大理石の床に幾何学的な模様を描き出している。 ここは光の神を祀る大寺院『シテン寺院』の最奥にして、選ばれた高位の者しか立ち入ることを許されない聖域である。 部屋の中央には、天を突くほど巨大な女神像が鎮座している。 これなるは、イリアサンを守護する『ルビナス』という女神を模ったものだ。 慈愛に満ちた微笑みを浮かべるその巨大な石像――。 しかし、私――ジルにはそれが世界そのものを管理するための『無機質な巨大魔法装置』のように不気味に思えてならなかった
「灰燼に帰しなさい――赤の火弾ッ!」 ラナンは有無を言わせず、両手から灼熱の火球を放った。 スキル『二連詠唱』による、タイムラグのない連続攻撃。 殺意の照準は、祭壇の中央で錫杖を構えるゲレドッツォへ正確に向けられていた。「ゲレドッツォ様!」「我らの命を盾とし、御身をお守りするのだァ!!」 火球が届くより早く、二匹のオークがゲレドッツォの前に飛び出した。 身を挺して肉の盾となった彼らに魔法が直撃し、紅蓮の炎がオークたちを包み込む。 断末魔すら上げず、彼らは文字通り灰となって崩れ落ちた。「イ、イカれてやがる……」 フサームが、信じられないもの
「ぐうゥ……ガ、ガルアめ。スカルヘルムを渡したのがマズかったか」 人気のない納屋の隅で、勇者イグナスは自らの胸を押さえ、血を吐きながらうずくまっていた。 とある塔のダンジョンで手に入れた『スカルヘルム』。 人の頭蓋骨を模したその不吉な兜。 最高クラスの防御力を誇る代償として、装備者の精神を蝕み『混乱』を引き起こす副作用があるのではないかと、イグナスは密かに疑っていたのだ。 そもそも、イグナスがガルアを仲間に引き入れたのは序盤の冒険で立ち寄った村でのことだ。 村一番の剣の使い手――そ







