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第4話

Author: ひとくち餃子
路線バスに乗り、楓から送られた住所を頼りに高級レジデンス「リバーテラス」へ到着したのは、午前8時40分ちょうどだった。

門の前には、制服をきちんと着た警備員が背筋を伸ばして立っていた。夏帆がスーツケースを引いて近づくと呼び止められたが、あらかじめ話は通っていたらしい。

警備員は夏帆の身元を確認すると、当面は自由に出入りできるよう登録してくれた。夏帆は礼を言って中へ入った。木々が茂る広い敷地は、静かな庭園のようだった。

送られてきた地図を見ながらたどり着いた3号棟は6階建てで、各階に2戸しかない、ゆったりとした造りになっている。専用エレベーターで3階へ上がると、扉の先には広々としたホールがあった。

重厚な玄関ドアの前に立つと、夏帆の手のひらにじわりと汗がにじんだ。こんな一等地の超高級マンションに足を踏み入れるのは、生まれて初めてだった。ましてや、自分がそこに住むことになるなど夢にも思わなかった。

深く息を吸ってドアをノックすると、すぐに内側から開いた。スーツ姿の楓が、声を潜めて迎え入れる。

「橘様、会長はまだお休みですので、静かにお願いします」

時計を見ると、もう9時近い。こんな時間までまだ寝ているらしい。余計な質問は控え、夏帆は素直にうなずいた。

「はい、わかりました」

楓に案内され、部屋の中を簡単に見て回る。300平米を超える室内はモノトーンで統一され、きれいに整っていたが、生活感はほとんどなかった。リビングの壁一面の窓からは、敷地の中央にある庭園が見渡せる。ティールームやダイニング、キッチンのほか、来客用の応接スペースも備わっていた。

主寝室は一番奥にあり、その隣が治療用の部屋で、書斎には別に鍵が掛かっていた。楓はそれらの扉を指し示し、厳しい口調で念を押した。

「会長の寝室と治療用の部屋、それからこちらの書斎には、許可なく入らないでください。普段は会長の様子に気を配り、呼ばれたらすぐに対応してください」

「わかりました」

夏帆がうなずいたところで、楓のスマートフォンが鳴った。電話に出た楓は、ほどなくして帰っていった。

夏帆は書斎の隣にあるゲストルームへスーツケースを運び入れ、わずかな荷物を片づけ始めた。途中、何度かゲストルームから出たが、怜司の寝室の扉は閉まったままで、中からは物音ひとつ聞こえなかった。

片づけを終える頃には昼近くになっていた。少しお腹もすいてきたので、夏帆はキッチンへ向かった。

これからここで暮らすのだから、怜司にはいい印象を持ってもらいたい。楓からは、怜司が食事で控えるべきものをまとめたリストが届いていた。夏帆はそれを確認し、自分の経験も生かして、あっさりした副菜を3品と、煮込みうどんを作った。

最後の皿をダイニングテーブルに並べたとき、ポケットの中のスマートフォンが震えた。画面を見ると、親友の水野柚葉(みずの ゆずは)からの着信だった。通話ボタンを押した途端、驚きと怒りに満ちた声が飛び込んでくる。

「夏帆!アキラのやつ、何考えてるの!?

女連れてうちの店に来て、高い料理ばっかり頼んでるの!しかも、その女のステーキまで切り分けてあげてるんだよ?夏帆、聞いてた?ほんと何なの、あいつ!」

アキラ。その名前を聞いた瞬間、夏帆の胸がわずかに痛んだ。

5年前、全身に傷を負って記憶を失い、捨てられた子犬のように頼りなかった彼に、夏帆がつけた名前だ。

その綺麗な目元を見ていると、なぜか「アキラ」と呼びたくなった。姓も自分と同じ「橘」にした。それが2人だけの特別な絆なのだと信じていたのに、まさか彼の本名と偶然重なっていたとは思いもしなかった。

夏帆はこみ上げるものをこらえ、静かに答えた。

「柚葉、私たち、もう別れたの」

電話の向こうが静まり返り、数秒後、柚葉が裏返った声を上げた。

「はあ!?別れたって……じゃあ、あいつ、金持ちの女に乗り換えたわけ?しかも、いかにも高そうなスーツ着てるの!あれ、どう見ても20万はするよ!

あんた一筋だと思ってたのに、信じられない!別の女とイチャつくならよそでやればいいのに、よく平気でうちの店に連れてこられるよね。ちょっと待ってて、あいつに文句言ってやる!」

柚葉を止めようと、夏帆は慌てて声を上げた。

「やめて!」

怜司がまだ寝ているのを思い出し、急いで声を落とした。

「もう別れたんだから、何も言わなくていいよ。それに、お金目当てで乗り換えたわけじゃないの。実は、あの人お金持ちの家の息子だったのよ」

夏帆は自嘲気味に笑った。鷹宮家の跡取りが、女に養ってもらう必要などない。

柚葉も夏帆と同じように、地方から出てきて地道に働いてきた。ようやくこの街の高級レストランで、条件のいい仕事を見つけたのだ。自分のために明に逆らったせいで、柚葉まで仕事を失ってはたまらない。

柚葉は戸惑った様子で聞き返した。

「ちょっと待って。あいつの実家、お金持ちなの?ずっとお金がないって言ってたじゃん……」

柚葉がさらに尋ねようとしたとき、夏帆の背後でドアの開く音がした。夏帆は身をこわばらせ、声を潜めて早口で言った。

「あとで説明するから、いったん切るね」

通話を切って振り返ると、怜司が主寝室の入り口に立っていた。ゆったりしたグレーのシルクの部屋着姿で、少し開いた襟元から白い肌と鎖骨がのぞいている。

長身で肩幅が広く、脚も長い。額にかかる無造作な黒髪が、いつもの冷たい印象をいくらか和らげていたが、人を寄せつけない雰囲気は変わらなかった。

彫りが深く鼻筋の通った顔立ちで、薄い唇には血の気がない。切れ長の目をこちらに向けていたが、関心はなさそうだった。その冷たい表情からは、何を考えているのか読み取れない。

夏帆は息をのみ、手の中のスマートフォンを握りしめた。

「すみません、起こしてしまいましたか?これからは自分の部屋で電話します」

怜司は夏帆をちらりと見ただけで、何も言わずにダイニングへ向かった。190センチもある彼が近づくと、夏帆はその迫力に押されるように道を空けた。

ダイニングテーブルの前で足を止めた怜司が、並んだ料理に視線を落とす。煮込みうどんの入った土鍋からは、湯気とともにほのかな香りが漂っていた。

「お前が作ったのか」

寝起きのかすれた声で尋ねられ、夏帆はすぐにうどんを器によそって差し出した。

「あ、はい。まだ朝食を召し上がっていないと、佐伯さんから伺ったので。胃に負担がかからないよう、柔らかく煮てみました。お口に合えばいいんですが」

怜司は器を受け取って席に着き、うどんをひと口すすった。柔らかく煮込まれた麺がするりと喉を通り、胃がじんわりと温まる。続けて、旬の野菜を使ったあっさりとした副菜に箸を伸ばす。

「悪くない」

口調は相変わらず素っ気なかったが、箸を動かす手は止まらない。夏帆はほっと胸をなで下ろし、彼の向かいに遠慮がちに腰を下ろした。

夏帆はうつむいてうどんを食べていたが、さっきの電話が気になってしかたがなかった。柚葉との話を、怜司はどこまで聞いていたのだろう。お金欲しさに恋人を捨てて結婚したと思われてはいないだろうか。

ポケットの中でスマートフォンが震えた。取り出すと、柚葉から写真とボイスメッセージが届いていた。

写真には、スーツ姿で店の個室に座る明が写っていた。隣にいるのは、あの夜、ホテルのスイートルームの前で彼と腕を組んでいた美咲だ。満面の笑みで明を見上げ、何かを話している。

明は美咲のほうへ少し顔を向け、かすかに微笑みながら話を聞いていた。その優しい表情は、かつて夏帆に向けていたものとそっくりだった。

夏帆は箸を止めたが、この2日間のように胸が引き裂かれるほどの痛みはなかった。ただ、皮肉なものだと思った。

ボイスメッセージを文字に変換して読もうとしたが、汗ばんだ指が滑り、そのまま再生してしまった。

『あのクズ野郎、夏帆と別れたばっかりなのに――!』

静まり返ったダイニングに、柚葉の怒鳴り声が響いた。夏帆は顔色を変えて慌てて再生を止めたが、今の言葉は怜司にもはっきり聞こえていた。

怜司はゆっくりと目を上げ、夏帆を冷ややかに見据えた。

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