紗枝が唯と離婚訴訟について話し合った後、唯はすぐに訴状の作成に取りかかった。「うん、ずっとこのままじゃ埒があかないから」紗枝は訴状に目を通しながら唯に言った。「必要な資料があったら、教えてね」「できるだけ早く、この訴訟を終わらせたいんだけど、自信はある?」唯は少し躊躇しながら、慎重に紗枝を見つめて答えた。「紗枝、もし過去の治療のカルテを出せば、勝つ確率は8割くらいあると思う」紗枝は結婚してからずっと子供ができず、さまざまな治療を受けてきた。また、重度の鬱病に悩まされ、さらに啓司と何年も別居していた。ただの離婚訴訟なら、勝つ可能性はかなり高い。紗枝もそれを理解していた。「わかった、準備ができたら渡すね」「それと、啓司と葵の関係に関する証拠や、彼があなたに酷いことをした証拠があれば、役立つわ」唯は続けた。紗枝はうなずいた。「じゃあ、今日中に訴状を提出しに行くね?」「うん」…一方、啓司は会社に戻ると、裏で動いていた株主たちをすぐに処分した。彼はまだ、紗枝が離婚を訴訟で申し立てたことを知らなかった。仕事を片付けたあと、彼はすぐに牡丹別荘に戻った。家に戻ると、紗枝がリビングのソファで厳重に体を包み込んで座っていた。暖房はついているはずなのに、彼女はまだ寒そうに見えた。啓司はコートを脱ぎ、一度暖房の温度を上げた。「ご飯は食べたのか?」紗枝は声に気づいて顔を上げ、彼を見つめた。「うん」啓司は彼女のそばに来て、彼女がまるでおにぎりのように包まれているのを見て、口元が自然と緩んだ。「俺はまだ食べてない。俺に付き合って、一緒にご飯を食べに行こう」「行きたくない」体調が悪くなってから、紗枝は特に寒さに弱くなった。海外にいた時は、ここまで気温が低くはなかった。啓司は彼女の隣に座り、彼女を抱き寄せた。「これで暖かくなったか?」紗枝は驚いて固まった。「病院に行ってみるか?」啓司は再び尋ねた。「行かない」紗枝はすぐに拒否した。彼女はすでに病院で診察を受けていて、医者は寒さに弱い体質は時間をかけて調整する必要があると言っていた。紗枝は啓司を押しのけ、ソファの隅に寄り添った。啓司の腕が空っぽになり、彼の心も同じように虚しく感じられた。「昨日は言い過ぎた」彼は少し間を
紗枝は話しているうちに、いつの間にか眠ってしまった。今度は逆に、啓司が眠れなくなった。頭の中では、拓司の言葉が繰り返し響いていた。「彼女が好きなのはずっと僕だった。結婚するはずだったのも僕なんだ!」やっとのことで彼は眠りについたが、夢の中で再び紗枝が自分から離れていくのを見た。目が覚めた時、まだ夜明け前で、紗枝は静かに彼の隣で寝ていた。しかし、啓司はもう二度と眠れそうになかった。彼は起き上がり、拓司に電話をかけたが、誰も出なかった。仕方なく、綾子に電話をかけた。「母さん、拓司は今どこにいる?」「拓司の病気が悪化して、治療に連れて行かれた。どうしたの?」綾子が尋ねた。「いや、なんでもない」啓司の目は冷たく光った。そう言って電話を切った。綾子は、元々紗枝のことを聞こうと思っていたが、電話が切れたことに小さくため息をついた。そして、すぐに秘書に尋ねた。「景ちゃんは幼稚園に戻った?」「園長によると、先日お父さんに迎えられてから、まだ登園していません」秘書が答えた。綾子は眉をしかめ、しばらく考えて言った。「清水さんには会えた?」秘書は首を振りながら答えた。「清水さんは、会うつもりはないそうです」綾子は完全にお手上げの状態だった。先日、景之に会えなかったことがずっと頭から離れず、食欲もなくなっていた。「いつになったら孫の顔が見られるのかしら…」拓司は体が弱く、啓司は子供を欲しがらない。一生懸命働いてきたすべてが他の人に渡るかもしれないと思うと、綾子はますます納得がいかなかった。「園長に聞いてみて、景ちゃんのお父さんが誰なのか、その人と話がしたい」「かしこまりました」秘書はすぐに調査に動き出した。あっという間に景之のお父さんが和彦だという情報を掴んだ。綾子はこれに驚き、すぐに和彦を呼び出すよう指示した。病院。和彦は手術を終えたばかりだったが、綾子の秘書から電話がかかり、一度来てほしいと言われた。澤村家と黒木家は関係が良好で、和彦も綾子を親戚のように見ていたため、手術服を脱いで黒木家の屋敷に向かった。出発前、和彦は啓司にメッセージを送り、知らせることを忘れなかった。「黒木さん、綾子さんが話があるって言ってました。紗枝さんと一緒に戻ってきたって聞きましたけど、何かあった
そこにはこう書かれていた。「お手伝いいただき、ありがとうございます。正直、最近本当に協力が必要だったので助かりました。それと、前に離婚のことをお尋ねいただいた時は、なぜそんなことを聞かれたのか分かりませんでしたが、正直に言います。私の結婚生活はうまくいっていませんが、すべての結婚が悪いわけではありません。もしあなたも結婚で問題を抱えているなら、どうか解決できるように願っています。あなたと奥様が幸せになれることを祈っています」この長いメッセージを見て、啓司の心の中は複雑な感情でいっぱいだった。彼は思わずタイピングを始めた。「でも、彼女はもう僕を愛していないみたいなんだ。どうすればいい?」紗枝は、ぼんやりとスマホの通知音を聞いて、手に取って確認すると、以前契約したウェブサイトの担当者からのメッセージだった。まさか相手も結婚問題を抱えているとは思わず、返信が来たことにも驚いた。紗枝はタイピングした。「もしかして、二人の間に誤解があるのでは?」啓司はメッセージを見て、少し考えた後、タイピングを再開した。「僕は以前、彼女にひどいことをしてしまった…」彼はすぐに続けて打ち込んだ。「彼女は昔、僕をとても愛していたんだ」しかし、最後の一文を打った後、彼は削除した。なぜなら、紗枝が愛していたのは最初から彼ではなかったからだ。啓司はしばらく考えた後、文章を修正して送った。「僕は昔、彼女にとても冷たくしてしまった。今、彼女は別の人と一緒にいて、子供までできてしまった」紗枝は、まさか相手が啓司本人だとは思いもしなかった。彼女は単にメッセージの内容をそのまま解釈して、自分とは無関係だと感じていた。「申し訳ありませんが、私にはどう助けていいか分かりません」と返信した。すると、すぐにまたメッセージが届いた。「気にしないでください。彼女が僕を愛していなくても、僕は絶対に彼女を手放しません!」紗枝はそのメッセージを見て、返事をしようと思ったが、相手はすでにオフラインになっていた。彼女は、この親切にしてくれた人に慰めのメッセージを残そうと考えていたが、ちょうどその時、寝室のドアがノックされた。啓司が、いつの間にかドアのところに立っていた。「起きたか?」「朝食を食べろ」紗枝は慌ててスマホを隠した。啓司は、彼女の小さな動作を見
啓司は答えなかった。彼にとって、手に入れたいものはすべて簡単に手に入るものだった。紗枝もそれ以上追及せず、暖かいソファに座り、周囲の馴染み深い光景を眺めていた。目に浮かんだのは懐かしさだけだった。「もしここが気に入ったなら、これからはここに住もう」啓司はそう言った。紗枝は彼が誤解していることに気づいた。母親に愛されなかった彼女にとって、この家はまったく好きではなかった。父親は彼女を大事にしてくれたが、ほとんどの時間は仕事に追われていた。父が家を留守にしている間、彼女はここで過ごし、母と弟が仲良くしている様子を見ながら、自分がまるで他人のように感じていた。「ここには住みたくない」啓司は黙り込んだ。紗枝は彼を見つめて言った。「この家は葵に返してあげて」「私たちはきちんと清算しておくべきよ」唯は前日に離婚訴状を裁判所に提出しており、もうすぐ啓司にもそのことが伝わるはずだ。紗枝は立ち上がって言った。「特に話すことがないなら、今日は唯のところに行く」彼女は啓司の返事を待たずに、上着を羽織って出かけた。外は本当に冷え込んでいた。啓司は彼女を止めることなく、手下に彼女を見張らせ、逃げ出さないように指示を出した。しかし、紗枝に逃げるつもりはなかった。彼女はただ、啓司との離婚訴訟を待っているだけだった。彼女は車で唯のアパートへ向かい、唯は訴訟のための資料を準備していた。紗枝も海外での病気や入院の記録をすべて取り寄せ、彼女に渡した。「裁判所の審査は通った?」紗枝は尋ねた。「ええ、さっき通った。今夜には啓司に届くはず」唯は答えた。「じゃあ、今日はもう帰らないわ」紗枝は唯の毛布を膝に掛けた。唯は少し心配そうに聞いた。「今夜帰らなかったら、啓司が怒るんじゃない?」「怒ってくれたほうがいいわ。ここには録音できるものがあるでしょう?」紗枝は尋ねた。唯はすぐに理解し、笑いながら答えた。「もちろんよ。弁護士として、録音設備を持っていないわけないでしょ」彼女は小型の胸章型レコーダーを取り出し、紗枝の服に装着した。「もし彼が何か良くないことをしたら、このボタンを押せばすぐに録音できるわ」紗枝は頷いた。「わかった」一方で、紗枝が唯のところに行った後、啓司は何も手につかなくなった。なぜか、彼は
紗枝が電話を切ると、啓司は怒りでスマホを投げつけそうになった。牧野はそっと立っていたが、一言も発せず、啓司の機嫌を伺っていた。啓司の胸にはまるで巨大な石がのしかかっているような圧迫感があった。「あとどれくらいか?」「半月ほどです」離婚訴訟が受理されると、資料を準備するまでに大体半月ほどの時間が与えられる。牧野も、紗枝がここまで決意を固めているとは思わなかった。彼は、紗枝がすぐに啓司を許し、再び黒木家の妻としての役割を受け入れると思っていた。何と言っても、黒木家は名家であり、紗枝のような女性が啓司と結婚できたのは、まさに大出世だと思っていた。啓司はすぐに冷静を取り戻した。「紗枝の弁護士は誰だ?」「清水唯、彼女の友人です」啓司は牧野を見つめた。「前に調べた唯のことだけど、彼女の元彼も弁護士だったよな?」牧野はすぐに理解し、笑みを浮かべて言った。「ええ、しかも彼は一流の弁護士で、名前は花城実言です。今すぐ手配します」牧野は足早にオフィスを後にした。訴訟となると、黒木グループに勝てる者はいない。啓司はこれまで何度も訴訟を経験しており、相手の弱点を一瞬で見抜ける。しかし、今回の相手は紗枝であり、状況は微妙だった。彼は車を走らせ、唯の住むマンションに向かった。限られた台数しか存在しない高級車がその場所に停まると、すぐに人々の注目を集めた。啓司は周囲の目など気にせず、スマホを手に取り、紗枝に電話をかけた。「出てこい。話をしよう」10分後、紗枝は厚手のダウンジャケットを羽織って外に出てきた。彼女はすぐに、車のそばに立つ啓司の高い背中を見つけた。彼の深い視線は、一瞬たりとも紗枝から離れることがなかった。紗枝は雪を踏みしめながら近づいていき、録音機をそっと起動させた。「何を話すの?」「車に乗って話そう」啓司はドアを開けた。しかし、紗枝は車に乗ろうとせず、一歩後退した。「ここで話すわ」「乗れ!」啓司の声は思わず大きくなった。自分の声が大きすぎたことに気づき、彼は声を少し抑えて言った。「寒がりだろう?」紗枝は仕方なく車に乗り込んだ。啓司は反対側から運転席に座り、車をスタートさせた。車は静かに走り出したが、車内には重苦しい沈黙が続いた。その沈黙に耐えられず、紗枝
啓司は、紗枝にきつい言葉を浴びせながらも、キスをし、彼女を腕の中に閉じ込めて離そうとしなかった。「お前、どうすれば訴訟を取り下げる?」「何が欲しい?言ってくれ。訴訟さえ取り下げれば、俺が持っているものなら何でもやる!」啓司は裁判に負けることは怖くなかった。ただ、彼は彼女を失うことができないと思っていた。もし裁判所が離婚を認めてしまったら、もう彼女を無理やり引き留める理由がなくなってしまうのだ。「言ってくれさえすれば、俺が持っているものは全部やる!」彼は何度も何度も繰り返した。紗枝は、なんとか彼から逃れようと抵抗した。啓司は、彼女が黙っているのを見て、彼女を力強く抱きしめながら低くつぶやいた。「辰夫と連絡を取ったのか?」紗枝は彼を押し返しながら言った。「何もいらない......」啓司はその言葉を信じなかった。彼は紗枝を抱きしめたまま、離れようとしなかった。車は静かに路肩に停まり、大雪が止むことなく降り続いていた。外は徐々に暗くなっていったが、啓司は動こうとせず、紗枝が少しでも動けば、彼はさらに強く彼女を抱きしめた。紗枝は眉をひそめ、静かに言った。「啓司、あなた、もしかして私のことが好きになったの?」かつて彼女はこの質問をしたことがあったが、その時は確信が持てなかった。だが今、彼女は少し確信があった。啓司は驚き、紗枝の澄んだ目を見つめ、喉を鳴らした。彼が黙っている間に、紗枝は彼に少しずつ近づいていった。「もう、答えなくていい」紗枝は苦笑して言った。「今は、あなたが私を好きだなんて望んでいない。ただ、私を自由にしてほしいだけ」「私たち、離婚しましょう。お願いだから......」「お願いだから、私を解放して」啓司の喉はまるで針が刺さったように痛み、息をすることすら苦しかった。「いやだ」紗枝の目には失望の色が浮かび、それ以上何も言わなかった。この瞬間、啓司は昔の彼女を懐かしく思った。もし可能なら、彼は彼女が自分を愛していた頃に戻りたいと心から願った。紗枝は啓司の腕の中に寄り添い、時間が経つにつれて、彼女は疲れ、眠りに落ちた。啓司は、彼女が静かに眠っているのを見つめていた。その瞬間、彼は彼女を連れてどこか遠くへ行ってしまおうかと考えた。そうすれば、彼女を永遠に自分のそばに置い
景之は今回、啓司のプライベートなPCをハッキングしようとしていたが、まさか父親がまだ起きているとは思わなかった。啓司は眠れず、仕事をしていたところで、突然PCがハッキングされていることに気づいた。画面上のマウスが自動的にクリックされるのを見て、彼は目を細め、すぐにキーボードを素早く打ち始めた。一方、景之はPCの前で、額にびっしりと汗がにじんでいた。「お兄ちゃん、どうしたの?」逸之は隣で彼に尋ねた。「しまった、バレた!」最後の瞬間、景之のPCが突然ブラックアウトした。まさか、啓司のPCに侵入しようとして逆に彼に侵入されるとは。景之はまだ若く、啓司には到底敵わなかった。すぐに啓司は彼らの位置を特定し、住所を突き止めた。「命知らずめ」啓司はその住所が海外であることを確認し、それを牧野に送り、調査を指示した。景之は疲れ果てて呟いた。「くそっ!」「まさかクズ親父がこんなに腕が立つとはね」逸之はコンピュータには詳しくなかったが、事態の重大さは理解していた。「親父が来る前に、証拠を消さなきゃ」景之はPCをシャットダウンした。「逃げないの?」逸之は啓司が手ごわいことを知っていた。捕まれば長い間拘束されるのは確実だ。泉の園で過ごした退屈な日々が彼を思い出させた。「心配するな。特定されたのは大まかな住所だ。俺たちだとはまだわからない」「そうだね。僕たちはまだ子供だし、ただゲームをしていただけだもんね」逸之はベッドに戻り、小さな毛布を掛けて横になった。景之も疲れていたので、隣のベッドに戻って横になった。逸之は体が少し痛んでいたが、歌を口ずさみながら眠りについた。......離婚裁判の審理を待つ日々は、非常に長く感じられた。紗枝は父親の墓地を訪れ、周りの雪を掃き、腰を下ろして父親の遺影を見つめた。「お父さん、久しぶりです」紗枝は深く息を吸い、雪に覆われた遠くの山々を見つめた。「お父さん、覚えていますか?昔、何かあったらいつでも話してくれ、どこにいても聞いてあげるって言ってくれましたよね」「今日はそのことを話しに来ました。私、離婚訴訟を起こすことに決めました」「正直言って、こんな形で伝えることになるとは思っていませんでした」「お父さんがいなくなってから、本当にいろんなことが起きまし
雷七はハンドルを切って、紗枝の前に車を停めた。「お乗りください」紗枝は何も考えず、そのまま車に乗り込んだ。「これからよろしくお願いします」…数日前、啓司が初めて雷七を見た時から、すぐに彼の身元を調べさせた。調べた結果、雷七は元々辰夫の側近として仕えていたが、その後紗枝の護衛を担当するようになったことが分かった。今日、紗枝を追跡していた者から、雷七も一緒に桃洲市に来たことを報告されると、啓司は眉を少しひそめた。「今は一緒に住んでいるのか?」啓司はこのボディーガードを覚えていた。顔立ちが端正で、瞳には確固たる意志が宿っており、どう見ても普通のボディーガードには見えなかった。「奥様は唯の家に住んでいますが、彼は車の中で生活しています」と部下が答えた。啓司はようやく眉を緩めた。「わかった。引き続き見張っておけ」「承知しました」紗枝が訴訟している離婚の件は、今のところ秘密に進行していた。外部の人間は何も知らず、この件に関わる者も簡単に公表することはなかった。なにしろ、この問題は啓司と黒木グループ全体に関わる重大な事柄だったからだ。ところが、開廷前日のこと。突然、「仮死した名門の嫁、離婚訴訟で数千億の資産分割」というタイトルの記事がネット上で話題となり、瞬く間にトップニュースとなった。その記事には、名門の嫁がかつて夏目家の長女であったことが記されていた。さらに、名門とは桃洲市で一番の名家である黒木家を指しており、記事の執筆者は、紗枝の背景写真まで添えていた。記事の内容は、紗枝が啓司と結婚した後、夫や姑から十分な愛情を受けず。むしろ厳しく扱われたために、病気にかかり、やむを得ず死を偽って国外に逃亡したというものだった。その後、病気から回復した紗枝は帰国し、啓司と離婚訴訟を起こして巨額の財産を分割しようとしていると記されていた。この報道が出た直後、黒木グループの株価はその日のうちにストップ安となり、ネット上では大騒ぎになった。多くのネットユーザーがコメントしていた。「ずっと黒木啓司と柳沢葵が付き合ってると思ってたけど、まさか妻がいたとは」「しかも、その妻が障害者だったなんて…」「結局また不浮気男か」「女も大したことないね。何もないくせに、財産を分けようだなんて」「…」ネッ
雷七が逸之を迎えに行った帰りだった。逸ちゃんは二人に向かって大きく手を振り、こっそりと写真を撮った。そしてすぐに景之に送信。写真を受け取った景之は眉間にしわを寄せた。「くそっ」あいつ、こんなに早くママを落としたのか?逸之は更にメッセージを送る。「お兄ちゃん、これからはパパって呼ばないとだめだよ」「うるさい」景之は一言だけ返した。啓司なんか、絶対にパパなんて呼ばない!和彦は居間で水を飲みながら、景之の険しい表情が気になり、覗き込んでみた。途端に、喉に詰まった水を吹き出しそうになった。啓司さんが紗枝さんを背負っている?まさか、これには衝撃を受けた。あの黒木啓司が女性を背負うなんて。きっと鞄すら持ったことがないはずなのに。こっそり写真を撮ろうとした和彦だったが、指が滑って、仲間内のグループに送信してしまった。気付かぬうちに、啓司の親しい友人たちのグループは大騒ぎになっていた。祝福のメッセージが次々と届き、中には祝い金まで送る者も。「啓司さん、本当の愛を見つけましたね」かつて聴覚障害者を見下していた啓司が、なぜ今になって惹かれたのか。誰も理解できなかったが、皆、心からの祝福を送った。グループは瞬く間に祝福の言葉で溢れた。親友の花山院琉生もその投稿をじっと見つめていた。啓司は私事を公にすることを極端に嫌がる。和彦の行動を、啓司は知っているのだろうか。牡丹別荘に着くと、紗枝は急いで啓司の背中から降りた。逸之も車から降り、三人で歩いて帰ることにした。夜道を歩く三人の姿は、まるで幸せな家族のようだった。家に戻った啓司は、友人グループに大量のメッセージが届いていることに気づいた。音声を再生すると、祝福の言葉が次々と流れてきた。状況が呑み込めない啓司は、和彦に電話をかけた。和彦はその時になって、うっかり写真をグループに送信してしまったことに気付いた。今さら取り消すことはできない。「あの、ただみんなが啓司さんと奥様のことを祝福してるだけです」「突然、なぜだ?」「……」「話せ。何があった」重圧に耐えかねた和彦は、観念して話し出した。「お二人の写真を、グループに送ってしまったんです」「でも、私が撮ったんじゃありません。逸ちゃんが景ちゃんに送ったのを見て……」啓司の眉間に
啓司は紗枝がまた逃げ出すのではないかという直感から、差し出されたカードを受け取ろうとはしなかった。「もう使ったの。幼稚園の株式を買ったから。それに、他に使い道もないし……私、自分で稼いで使いたいの」紗枝が説明すると、啓司の表情が僅かに和らいだ。「お前の金はお前の金だ。俺が渡すのは、また別物」一呼吸置いて、啓司は続けた。「夫なら妻に資産を任せるのは当然だろう。俺がどれだけ持ってるか、知りたくないのか?」好奇心を抑えられない紗枝が尋ねる。「じゃあ、いくら?」啓司の唇が緩む。「数え切れないぐらい」なんて曖昧な答え。紗枝は呆れた表情を浮かべた。啓司は自然な仕草で紗枝を抱き寄せると、囁いた。「紗枝、近々プレゼントがある」「そんな……」思わず口にした断りの言葉。「断らせない」啓司の声が紗枝の言葉を遮った。紗枝は再び言葉を失った。結局、啓司の強引さに負けた紗枝は、デートに連れ出されることになった。まさか遊園地とは……妊婦の自分を遊園地に連れて行くなんて。この人のデート観は少し問題ありじゃない?最終的に、メリーゴーラウンドとジェットコースターに乗っただけで終わった。その夜、二人は映画を見に出かけた。都心の一等地にある映画館を完全貸し切りにしていたため、映画を楽しみにしていた客たちは、ショッピングモールの入り口で足止めを食らっていた。「昔はよく映画を見たがってたな。これからは毎週映画でもどうだ?」啓司が尋ねると、紗枝は首を振った。「家で見る方がいいんじゃない?外で見ても、あなたは映像が見えないし、音声だけでしょう。家なら音量も調節できるし、人目も気にならないわ」「ああ、お前の言う通りにしよう」素直な返事に、紗枝は薄暗い中で啓司の整った横顔を見つめた。思わず手を伸ばし、彼の顎に触れる。その瞬間、啓司は紗枝を強引に抱き寄せた。「や、やめて。監視カメラがあるわ」「全部外させてある。大丈夫だ」「ダメ!こういうの嫌」紗枝は必死で抵抗した。啓司は動きを止めた。「さっきは誘ってたんじゃ……」さっきの紗枝の仕草を誘いだと勘違いして、つい……牧野から、女性は恥ずかしがり屋だから、暗示的な表現をすることがあると聞いていたので。「誘ってなんかないわよ!何考えてるの?ここ外なのよ」紗枝は耳まで
紗枝は抵抗せず、天井を見つめながら、啓司に話しかけるような、独り言のような口調で続けた。「今でも分からないの。なぜあんなに私を憎んでいたのか……」「昔は、女の子が嫌いなのかと思ってた。冷血な人なんだって。でも今日見たの……」「病気で苦しいはずなのに、昭子にバッグを届けようとしてた。昭子が自分のことを嫌がってるって聞こえてたはずなのに、聞こえないふりをして……」「あんなに卑屈な様子、母らしくないわ」啓司は紗枝の手を強く握りしめた。「俺がいる」「もう怒ってないの?」紗枝は啓司の方を振り向いた。「相殺しないか?」啓司は問い返した。「相殺?」「俺が三年間冷たくした分と、お前が子供を連れて四、五年離れていた分。相殺して、やり直せないか?」啓司の声は静かに、しかし切実に響いた。紗枝は喉に込み上げるものを感じながら、啓司に向き直って抱きついた。突然の抱擁に啓司の体が強張る。やがてゆっくりと腕を回し、より強く紗枝を抱き寄せた。自制を効かせながら、紗枝の眉間に軽くキスを落とす。喉仏が微かに動いた。「これからは何かあったら、すぐに俺に言ってくれ。また突然いなくなるのは……」返事の代わりに、紗枝は顔を上げ、啓司の喉仏に唇を寄せた。その瞬間、啓司の理性は崩れ落ち、紗枝を押し倒した。......翌朝、朝食を済ませても両親が起きてこないことに、逸之は首を傾げた。声をかけようと部屋に向かおうとしたところを、家政婦に制された。「逸之ちゃま、お父様とお母様は昨夜遅くまでお休みになれなかったので、起こさない方が……」家政婦の部屋からは主寝室の明かりが見えるため、そう察していたのだ。「おばさん、母さんと父さん、昨日は一緒に寝たの?」逸之は小声で尋ねた。「ええ、主寝室の明かりだけでしたし、他のお部屋も使った形跡がありませんでした」昨夜は早く寝てしまい、両親を同じ部屋に寝かせるのを忘れていた逸之。でも両親が自然と同じ部屋で……まあ、毎日一緒に暮らしてるんだし、若い二人が……「おばさん、学校行ってきます!」逸之は嬉しそうな表情を浮かべながら手を振った。「いってらっしゃい」昼過ぎになってようやく目を覚ました紗枝は、昨夜のことを思い出して頬が熱くなった。何がそうさせたのか、啓司と話しているうちに、気付けば…
自分が愛だと思い込んでいたものの為に、本当に自分を愛してくれていた人を捨ててしまったことへの、深い後悔が。「あなた、私のことを恨んでいるでしょうね」涙を拭いながら、美希は呟いた。世隆は本当に忙しいのだ、昭子だって用事があるから付き添えないだけ——そう自分に言い聞かせた。ふと、スマートフォンを開いているうちに、古い家族グループを覗いていた。紗枝、太郎、自分、そして夫。四人家族のグループだ。そこには、夫が他界する直前に送ったメッセージが残されていた。「美希、娘の結婚式、このスーツで格好いいかな?」紗枝「お父さん、すっごくかっこいい!」美希「ダサすぎ」「じゃあ、別のにして驚かせるよ」これが、グループでの彼の最後の言葉となった。さらに上へとスクロールしているうちに、紗枝とのプライベートメッセージが開かれた。自分の命と引き換えに育ての恩を返した紗枝とのやり取りは、それ以来途絶えたままだった。スクロールしていくと、六年前の紗枝からのメッセージが目に入った。「お母さん、お誕生日おめでとう。今日買ったケーキ、食べた?」「お母さん、怒らないで。体に毒だよ。風邪引いてるみたいだから、梨の氷砂糖煮作ったの」「お母さん、離婚したい。もう人に頼らなくても大丈夫」「お母さん、私が働いて養うから。心配しないで」それらの温かなメッセージに対する自分の返信は、どれも冷たいものばかりだった。かつての紗枝からのメッセージを眺めながら、美希の脳裏には、幼い頃から今までの紗枝の姿が次々と浮かんでいった。母がバレリーナだと知った紗枝は、人一倍の努力を重ねた。ステージで踊る姿を見せて、母である自分を誇らしく思わせたいという一心で。今でも覚えている。舞台から降りてきた時の、血豆だらけの足を。あの旅行の時も。山で綺麗な花を見つけた自分が一言感心しただけで、紗枝は危険も顧みず摘みに行って、あわや足を折るところだった……数え切れないほどの思い出が押し寄せてきて、美希は慌ててスマートフォンの電源を切った。「あんな恩知らずのことなんて考えることないわ。所詮他人の子じも」「聴覚障害者なんて、何の才能も実績もない子が、どうして私の娘になれるっていうの?」独り言を呟く声が、空しく病室に響いた。布団に潜り込んでも、なかなか眠れない。
美希が一人で歩き出すと、後ろで介護士たちが小声で話し始めた。「可哀想に。あんな重い病気なのに、旦那さんも息子さんも来ないなんて。娘さんだってちょっと顔を出すだけで」「ほんと。あの娘さんったら、着飾ってはいるけど、お母さんがベッドを汚した時の、あの嫌そうな顔といったら」「お金があっても、幸せとは限らないわねぇ」後ろの介護士たちの会話が耳に入り、先ほど病院の入り口で昭子が言っていた言葉が脳裏に蘇った。「何を勝手なことを!」突然、美希は激しい口調で言い放った。「私の夫がどれだけ私を愛しているか。息子だって仕事が忙しいだけよ。娘だって毎日私のことを心配して見舞いに来てくれる」「あなたたち、ただの妬みでしょう!」介護士たちは即座に口を閉ざし、それ以上何も言えなくなった。病室のベッドに横たわった美希の耳には、先ほどの昭子の嫌悪に満ちた言葉と、介護士たちの心無い噂話が繰り返し響いていた。「もう最悪。ベッドで漏らすし、部屋に入った時は吐き気がしそうだったわ」「鈴木青葉の世話だってしたことないのに。実の息子も見向きもしないくせに」「ほんと。あの娘さんったら、着飾ってはいるけど、お母さんがベッドを汚した時の、あの嫌そうな顔といったら」プライドの高い美希が、娘の本心を認めるはずもなかった。それに、全ての望みをこの娘に託し、二度と踊らないという誓いさえ破り、夏目家の財産を鈴木家に譲るところまでしたのだ……美希は携帯を手に取り、世隆に電話をかけた。しばらくして、やっと通話が繋がった。「また何かあったのか?」苛立ちの混じった世隆の声。その語調に気付かない美希は尋ねた。「あなた、まだ仕事?いつ来てくれるの?一人は寂しいわ」「言っただろう?会社でトラブルがあって、今は本当に忙しいんだ。介護士も二人つけてやっただろう?暇なら彼女たちと話でもしていろ」美希が何か言いかけた時、世隆は一方的に電話を切った。かつての美しい妻が、今や病に侵された中年女性となった美希に、世隆はもはや一片の関心も示さなくなっていた。華やかな女性秘書が世隆の傍らで微笑んだ。「社長、そんなにお怒りにならないで」胸に手を当てて、なだめるように軽く叩く仕草に、世隆は秘書の手を掴んだ。「あの女が死んだら、君と結婚しようか?」二人の笑い声がオフィスに
太郎の言葉に、拓司は平静を保ったまま答えた。「紗枝さんの選択は、尊重すべきだ」今や太郎は、姉を拓司のもとに無理やりにでも連れて行きたい気持ちでいっぱいだった。「拓司さん、ご存じないでしょう。姉が啓司と結婚した時、あいつは義父の家を助けるどころか、逆に潰しにかかったんです。夏目家を破滅させたのは、あいつなんです」太郎には、夏目家の没落が自分に原因があるとは、今でも思えていなかった。かつて母親が黒木家に金を無心しに行ったことも、自分が会社と父の遺産を手放してしまったことも、すっかり忘れてしまっているようだった。「心配するな。これからは私がしっかりと支援しよう」拓司は静かに告げた。太郎は感極まった様子で大きく頷いた。きっと一流の実業家になって、自分を見下してきた連中を見返してやる――......一方、電話を切られた昭子は、激しい怒りに駆られていた。息子なのに母親の面倒も見ない太郎。なぜ娘の自分が世話をしなければならないのか。昭子は携帯を取り出し、父親の世隆に不満を漏らそうとした。しかし、昭子がバッグを忘れたのを気にした美希は、痛む体を押して追いかけてきていた。そして、昭子の言葉が耳に入った。「もう最悪。ベッドで漏らすし、部屋に入った時は吐き気がしそうだったわ」「鈴木青葉の世話だってしたことないのに。実の息子も見向きもしないくせに」「あの人の財産がなければ、とっくに……」言葉の途中で振り返った昭子は、すぐ後ろに立ち尽くす美希の姿を目にした。慌てて電話を切り、作り笑いを浮かべる。「お母さん!どうして出てきちゃったの?まだ歩いちゃいけないって……」昭子は心配そうに駆け寄った。先ほどの嫌悪感など微塵も感じさせない表情で。美希は一瞬、自分の耳を疑った。だが何も言わず、ただバッグを差し出した。「昭子、バッグを忘れてたから」昭子は何の気兼ねもなく受け取った。「ありがとう、お母さん。じゃあ行くわね。お体に気をつけて、早く部屋に戻ってね」車に乗り込んだ昭子は、ほっと胸を撫で下ろした。聞かれてないはず……だって聞いていたら、母さんが黙っているはずがない。昭子は何食わぬ顔で運転手に出発を命じた。二人とも、近くに停めてある黒い車に見覚えのある人物が乗っているとは気付かなかった。後部座席
病室には、紗枝が去って間もなく異変が起きた。激痛に耐えかねた美希の容態が急変し、昭子が部屋に入った時には、既に不快な臭気が漂っていた。「昭子……」美希は恥ずかしそうに娘を見つめた。「介護人を呼んでくれない?我慢できなくて……シーツを汚してしまったの」その言葉の意味を理解した昭子の顔に、一瞬、嫌悪の色が浮かんだ。「お母さん、まだそんな年じゃないでしょう。どうして……」「ごめんなさい。病気の後遺症なの。昭子……私のこと、嫌いにならない?」昭子の前での美希は、いつになく卑屈な様子を見せていた。昭子は知っていた。確かに美希は資産の大部分を鈴木家に持ち込んだものの、まだ隠し持っている財産があるはずだ。父にも知らせていない秘密の貯金を。その分も死後は自分のものになるはず――「まさか!実の娘があなたを嫌うわけないじゃない。ただちょっとびっくりしただけ。これからどうしましょう……」昭子は優しく声を掛けた。「すぐに介護人を呼んで、それから医師や看護師にも診てもらいましょう」「ありがとう……」美希は安堵の表情を浮かべた。目の前にいるのは自分の実の娘。きっと自分を嫌うことも、傷つけることもないはず――昭子は急いで部屋を出ると、介護人に電話をかけた。やがて介護人がシーツ交換にやって来た。かつての誇り高い名バレリーナが、こんな姿になるなんて――誰が想像できただろう。医師の治療を受けた美希の容態は、何とか持ち直した。昭子は消毒液の匂いが漂う病室に居たくなかった。適当な言い訳をして、すぐに外へ出た。美希の前で孝行娘を演じなければならないとはいえ、こんな場所に長居する気など毛頭なかった。外に出ると、やっと新鮮な空気が吸える。昭子は太郎に電話をかけた。すぐに電話が繋がると、昭子は姉らしい口調で切り出した。「太郎、お母さんが病気なの。いつ戻ってくる?」拓司の支援で自分の会社を持つまでになった太郎は、その話を一蹴した。「昭子、母さんに伝えてくれ。もうそんな古い手は通用しないって。紗枝姉さんが母さんを告訴しようとしてるからって、病気のふりをしたところで無駄だ」もう鈴木家に頼る必要のない太郎は、昭子の名前を呼び捨てにしていた。「今回は本当よ。子宮頸がんの末期なの」昭子は不快感を隠しながら説明した。がんが見つかってから
美希は一瞬固まった。紗枝の言葉に何か引っかかるものを感じ、思わず聞き返した。「どういう意味?」「お父さんの事故……あなたと関係があるんじゃない?」「何を言い出すの!」美希の目に明らかな動揺が走った。その反応を見た紗枝の心は、さらに冷めていった。紗枝が黙り込むと、美希は自らの罪悪感に追い詰められるように話し始めた。「あの人の遺書に……他に何か書いてあったの?」紗枝は目の前の女性を見つめた。この人は自分の実の母親で、父の最愛の妻だったはずなのに、まるで見知らぬ人のようだった。「どうだと思う?」紗枝は逆に問い返した。美希の表情が一変し、紗枝の手首を掴んだ。「遺書を見せなさい!」紗枝は美希の手を振り払った。「安心して。法廷で公開するわ」実際の遺書には、太郎が役立たずなら紗枝が夏目家の全財産を継ぐことができる、とだけ書かれていた。美希の悪口など一切なかった。でも、紗枝は美希に疑わせ、恐れさせたかった。また激しい腹痛に襲われ、美希の額には冷や汗が浮かんでいた。「このバチ当たり、恩知らず!育てるんじゃなかったわ!」紗枝は美希の様子を見て、確信した。本当に重病を患っているのだと。因果応報というものかもしれない。紗枝が部屋を出ようとすると、美希が引き止めた。「なぜ私が昭子を可愛がって、あなたを嫌うのか、知りたくない?」紗枝の足が止まる。「昭子はあなたより優秀で、思慮深くて、私に似てる。でもあなたは……吐き気がするほど嫌!」その言葉だけでは飽き足らず、美希は更に罵倒を続けた。「このろくでなし!あなたの父が『残せ』と言わなければ、とっくに捨てていたわ。人間のクズね。実の母親を訴えるなんて。その母親が病気になったら、嘲りに来るなんて。覚えておきなさい。あなたには絶対に、永遠に昭子には及ばないわ」「呪ってやる。一生不幸になれ!」紗枝は背後からの罵声を無視し、廊下へと出た。そこで向かいから来た昭子とばったり出くわした。「妹よ」昭子は紗枝の顔の傷跡に視線を這わせながら、内心で愉悦を感じていた。こんな醜い顔になって、拓司はまだあなたを望むかしら?紗枝は冷ややかな目で昭子を見据えた。「義姉さんと呼んでください。私と美希さんは、もう母娘の関係は終わっています」それに、昭子のような冷酷な女の妹にな
牡丹別荘で、切れた通話画面を見つめながら、紗枝は最後に美希と会った時のことを思い出していた。顔面蒼白で、腹を押さえ、全身を震わせていた美希の姿が。あの様子は、演技とは思えなかった。しかも、二度も癌を言い訳にするなんて、逆に不自然すぎる。そう考えを巡らせた末、紗枝は病院へ様子を見に行くことを決めた。市立病院で、紗枝が病室へ向かう途中、思いがけず澤村和彦と鉢合わせた。紗枝の姿を認めた和彦は、彼女がマスクを着用していても、右頬から口元にかけて伸びる傷跡がはっきりと確認できることに気付いた。「お義姉さん」以前、幼稚園で景之を助けてくれた一件があり、紗枝は昔ほど冷たい態度ではなかったものの、親しげでもなかった。「ええ」そっけない返事を残し、紗枝は急ぎ足で上階の病室へと向かった。和彦は不審に思い、傍らの秘書に尋ねた。「病気か?」秘書はすぐにタブレットで確認したが、首を振った。「いいえ」そして見覚えのある名前を見つけ、報告した。「夏目さんのお母様が入院されているようです」「夏目美希が?」「はい」「どういう容態だ?」秘書はカルテを開き、声を潜めて答えた。「子宮頸がん末期です」和彦の目に驚きの色が浮かんだ。末期となれば治療の余地はほとんどない。生存期間は長くて一年か二年というところだ。「偽装の可能性は?」和彦は美希の収監が迫っていることを知っていた。「当院の専門医による診断です。通常、偽装は考えにくいかと」秘書は答えた。和彦は金の力の大きさを痛感していた。「念入りに調査しろ。この件に関してはミスは許されん」「承知いたしました」......病室の前に到着した紗枝は、軽くノックをした。美希は昭子が戻ってきたのだと思い、満面の笑みを浮かべた。「何よ、ノックなんてして。早く入っていらっしゃい」しかし扉が開き、紗枝の姿を目にした途端、その笑顔は凍りついた。「なぜ、あなたが……」紗枝は、この急激な態度の変化を予想していたかのように、平然としていた。「昭子に電話をさせたということは、私に来てほしかったんでしょう?」美希は冷笑を浮かべた。「不孝者に会いたいなんて誰が思うもんですか。これで満足でしょう?本当に癌になって、余命は長くて二年よ」いつもプライドが高く、美しさ