ログイン葵は納得したように頷いた。「罪滅ぼしのつもりってわけね。さっき電話で、唯の好物をあれこれ聞いてきたから、何事かと思ったわ」まさか司がそんなことを聞いてくるとは思わなかったが、私はナースコールを押して駆けつけた看護師に彼の手当てを頼んだ。司は思いがけない私の言葉に目を見張り、それから嬉しそうに表情を緩めた。やがて会社から呼び出しを受け、司は病室を去っていった。もう顔を合わせずに済むのだと、心の底から安堵した。点滴を終えて葵のマンションへ戻った夜、司から着信が入ったが、迷わず通話を切った。直後、階下から短いクラクションの音が響いた。窓の外を見下ろした葵が告げてくる。「司よ」葵は呆れたように舌打ちをした。「今さら一途な男を気取って、何様のつもりよ。最初からそうしていればよかったのに」秋の夜は一段と冷え込んでいた。寝る前に葵から「まだ下に立って部屋を見上げている」と聞かされ、窓辺から見下ろすと、街灯の下に立ち尽くす司の姿が目に入った。このまま下で倒れられても困るので、画面を開いてLINEで「帰って」とだけ送ったが、司は画面を一瞥したきり立ち去ろうとはしなかった。翌朝、仕事へ出かけた葵がすぐに引き返してきた。その手にはパンと牛乳を持っている。「司がエントランスの前でしゃがみ込んでいてね。唯に渡してくれって頼まれたのよ」そんな不器用な気遣いに戸惑いはすれど胸が動かされることは微塵もなく、むしろその執着が重荷でしかなかった。「葵、私、もう一度きちんと働こうと思うの」葵はバッグから一枚の名刺を取り出して手渡してくれた。「これ、今度開催されるアート展の責任者の連絡先よ。企画担当者を募集しているから、応募してみるといいわ。大学時代、唯の企画書はいつも一番高く評価されていたじゃない」葵に礼を言い、採用されたらご馳走すると葵に約束した。一階へ降りると、エントランスの前で司が待っており、きちんと話し合って決着をつけない限り、司の執着は終わらないのだと悟った。近くの喫茶店に入ると、司の向かいに腰を下ろした。卓上にはちょうど運ばれてきたばかりの飲み物が並んでいた。「司、お互いのために、最後くらい綺麗に終わりましょう」大人の別れとは、過去を恨むことも許しを乞うて縋りつくこともなく、ただ静かにそれぞれの道
「唯、司を責めないであげて。あの子はあの女に惑わされていたんだ。今日ここへ来たのも、あの女の本性を暴いて、司に真実を知らせるためだったのよ」何と答えればいいのか分からなかった。義母に騙されて結婚した過去はあるものの、嫁いでからの義母は本当に良くしてくれたのだ。「どうして司が私の家へ来ると分かったのですか?」「会社名義の車だから、車両管理用のGPSで居場所を確認したのよ」やがて病室の扉が開き、司が入ってきた。彼が足を踏み入れただけで、病室の空気が一瞬にして重くなった。私は冷淡な視線を彼に向けた。「何の用?」「……その腰の怪我は、国内屈指の専門医に診てもらう。必ず治してみせる」その言葉に、乾いた笑いが漏れた。「お義母様が笙子さんの嘘を暴かなかったら、私が苦しむ姿を見ても、いい気味だとしか思わなかったでしょう?」司は必死に弁解しようと言葉を探したが、最後には掠れた声で絞り出した。「……すまなかった」「謝罪なんていらないわ。ただ離婚協議書にサインして、二度と私の前に現れないと約束して」冷え切った私の視線は、かつて彼が私に向けていた侮蔑の眼差しそのものだった。「司、離婚しましょう」司は全身を強張らせ、縋るような瞳で私を見つめた。「唯、それだけはできない」深く息を吸い込み、一言ずつ噛み締めるように告げる。「ねえ司、知っている?七年間、ずっとあなただけを好きだった。でも、それは私の独り相撲であって、あなたには関係のないことよ。だから……これ以上私の人生を奪わないで」司の手が震え、固く握りしめられた拳が白くなった。彼が驚愕するのも無理はない。自分自身でさえ、なぜこれほど長い間この男だけを一途に想い続けてこられたのか不思議でならないのだから。「好きだったから結婚して、もう一緒にいたくないから離婚したいのよ」司の目元が赤く滲み、縋るような、ひどく傷ついた表情で顔を上げた。「唯、望むことなら何でもする。だが離婚だけは……絶対に嫌だ」憤りに任せてベッドサイドにあったガラスの花瓶を掴み、力任せに投げつけた。「卑怯者!」花瓶は司の額に直撃し、ガシャンという鋭い音を立てて砕けた。額からは血が滴り落ちた。同時に、点滴の針が刺さっていた私の手の甲からも、花瓶を投げた拍子に針がずれ、血が
司が大股で詰め寄ってきたため、思わず後ずさった拍子に、痛む腰をドアノブに強打してしまった。激痛に顔が引きつる。この男は、私の命を削るために現れたのではないかとさえ思えてくる。笙子は泣き崩れながら司の腕に縋りついた。「司さん、私が唯さんにお願いすればいいの。そうすれば、お義母様も私とあの子を受け入れてくださるから……」司は私を冷たく睨みつけ、低く詰問してきた。「唯、母さんに何を吹き込んだ」打ちつけた腰を手で押さえた。顔からは血の気が引き、昨日痛めた箇所に再び激痛が走って、立っていることさえままならない。激しい痛みに耐え兼ね、掠れた声で懇願した。「……腰が痛むの。病院へ連れて行ってくれないかしら」一年間、形だけでも夫婦だった情があれば、病院へ送るくらいの慈悲は見せてくれるのではないか――そんな淡い期待は、一瞬で打ち砕かれた。「俺の知ったことか」自嘲の笑みが口元に浮かび、視界が滲む。病院へ連れて行ってくれないことではなく、まだこの男に一欠片の情を期待してしまった己の浅ましさに、涙が溢れそうだった。その時、エレベーターの扉が開き、書類の入った分厚い封筒を手にした義母が姿を現した。私の青ざめた顔を見るなり、血相を変えて駆け寄ってくる。「唯、大丈夫?」「お義母様……腰が痛くて……」義母はすぐさま病院へ連れて行こうとしたが、司がその前に立ちはだかった。「母さん!唯が笙子たちをどれほど追い詰めているか見えないのか?」激痛に耐えながら壁に寄りかかる私を庇うように、義母は毅然とした声で言い放った。「司、これをよく見なさい!誰が誰を追い詰めているのか、その目で確かめてみなさい!」義母が封筒から取り出して床へ叩きつけたのは、当時の交通事故に関する調査資料と、親子鑑定書だった。司が床の書類を拾い上げる。添付された写真を目にした瞬間、司の冷徹な表情が崩れ、ありありと動揺が浮かんだ。取り憑かれたようにページをめくる司の指先が小刻みに震え、やがて信じられないものを見るようにこちらを凝視する。その瞳には、世界の崩壊を目の当たりにしたような絶望が宿っていた。――彼を救った本当の恩人が私であり、笙子が命の恩人を騙っていたと知ったのだ。司は鑑定書を笙子の顔めがけて投げつけた。「笙子……!この
再び目を覚ました時、鼻をついたのはツンとする消毒液の匂いだった。身につけている病衣に目をやり、重い体を何とか起こすと、すぐさま葵が病室へ駆け込んできて抱きついてきた。「唯!よかった……本当に心配したんだから」「私、どうして病院にいるの……?」葵は憤りを隠せない様子で吐き捨てた。「司が運んできたのよ。私に連絡を入れてきて、駆けつけた時にはもう姿を消していたけれどね。急に倒れるなんて、一体何があったの?」私は自嘲気味に口元を歪めた。「離婚協議書よ。あいつ、絶対に署名しないって。それに、離婚するなら瀬戸家を潰すって脅されたわ」葵は息を呑んだ後、瞳を怒らせた。「唯、こっちには、あいつの決定的なスキャンダルがあるじゃない。不貞行為のうえに、隠し子までいるのよ。瀬戸家を脅すつもりなら、全部世間に暴露してやればいいわ。そうすれば痛い目を見るのはあっちよ」その言葉に、一つの決意を固めた。退院後、私は司をカフェへと呼び出して、不倫の証拠写真をテーブルに叩きつけた。「司、離婚に応じるか、笙子さんが不倫相手だと世間にさらされるか、どちらかを選んで」司の表情が一変し、乱暴に腕を引っ張られ、その拍子に腰をテーブルの角へ激しく打ちつけた。あまりの激痛に、思わず呻き声が漏れた。あの事故以来、傷を負った腰はわずかな衝撃にも耐えられない。激痛が全身を貫き、冷や汗が滲む。引っ張られた服の裾がわずかに捲れ上がり、10センチにも及ぶ痛々しい傷痕が露わになった。司の動きがピタリと止まる。体を重ねたことなど一度もない彼が、私の背中に刻まれた傷を知るはずもない。強く打ちつけた箇所は、瞬く間に赤く腫れ上がり、擦れた皮膚から血が滲んでいた。立っていることすらままならないほどの激痛が走った。だが、司は冷酷に言い放った。「唯、自業自得だ」赤く充血した瞳で彼を見つめ返す。「ええ……そうね。全部、私の自業自得よ」彼を七年間も想い続けたせいで、見下され、傷つけられる。その一途な想いも、彼の手によって粉々に踏みにじられ、もう微塵も残っていなかった。司はわずかに視線を逸らすと、テーブルの上に数枚の一万円札を無造作に放り出した。「治療費だ」そう言い捨てて立ち去っていく背中と、テーブルに残された紙幣をただ見つめてい
「笙子が嫌がっている。家に置いてほしくないそうだ」司の手で無理やり手渡されたオルゴールを見つめる。両足が鉛のように重く沈み込んでいくようだった。笙子たちを邸宅に住まわせるとは聞いていたが、もう私の私物を整理し始めているのだろうか。彼がいらないと言うのなら、私が未練を持つ理由などどこにもない。迷うことなくオルゴールを近くのゴミ箱へ投げ捨てた。その様子を見ていた葵が駆け寄り、そっと抱きしめてくれる。「唯、あいつのしたことは立派な不貞行為よ。協議書の内容、もっと有利に書き直そうか?」私のために怒ってくれているのは痛いほど伝わってきたが、もう彼と関わりを持つこと自体が苦痛だった。「いいの。財産分与も慰謝料も、すべて放棄するから、一刻も早く関係を断ち切りたいの」「でも、唯はあいつの命の恩人じゃない?本当のことを話せば、すぐに離婚協議書に署名するはずよ!」「……話したところで無駄よ。司は笙子さんが助けてくれたと思い込んでいるの。それに、二人にはもう二歳になる子供までいるのよ」いまさら真実を明かしたところで、信じてもらえれば離婚に応じなくなるだけだし、信じてもらえなければ笑いものにされるだけだ。葵は小さく息を呑み、悔しそうに頷いた。「……分かったわ。この離婚協議書、今すぐあいつに突きつけてやる!あの嘘つき女と勝手に一生添い遂げればいいのよ」だが、その二日後、司が突然マンションへ押しかけてきた。葵が仕事で留守にしていたところ、激しく鳴り響くインターホンに扉を開けると、そこには昨日葵が届けたはずの離婚協議書を握りしめた司が立っていた。「唯、どういうつもりだ」冷ややかに視線を据える。「何の説明が必要だと言うの?」司は書類を床へ叩きつけた。「言ったはずだ。こんなものに署名する気はない。母さんが笙子を認めるまでは、お前には桐原家の妻でいてもらう」怒りで視界が眩む。「司、どうして私があなたたちの愛のために犠牲にならなきゃいけないの?この一年間、あなたが海外で笙子さんと何をしていたか、一々言わせるつもり?平然と不倫をしておきながら、なぜ私だけが貴重な時間を無駄にしなきゃいけないのよ!」この男に捧げてきた時間は、彼が想像しているより遥かに長い――七年、実に七年もの歳月だ。彼の命を救った代償とし
葵は真剣な眼差しで続けた。「離婚協議書はもう揃ってるわ。唯が署名したら、私が責任を持ってあいつに突きつけてやるから」部屋へ上がると、葵から協議書を受け取った。迷うことなく署名を済ませ、葵に手渡し、極度の疲労から吸い込まれるように眠りについた。翌朝、目を覚ますと同時に司から着信が入った。【唯、祖母が本家で一緒に食事をしようと言っている】隣で葵が怪訝そうに眉を寄せた。「司から?」頷きながら身支度を始める。「おばあ様が食事に呼んでくださっているの。いつも優しくしてくださるから、断れなくて」葵は再び痛み止めを手渡してきた。「一日一錠、忘れずに飲みなさいよ。冷え込んできたから、外に出るとまた腰が痛むわ」小さく笑って薬を水で流し込み、部屋を出た。タクシーを拾うつもりで通りへ出ると、短いクラクションが鳴り響いた。外で司の車が停まっている。司が無表情に窓を開けた。「乗れ」助手席に収まり、昨日と同じ疑問を口にする。「どうして迎えに?」これまでの司なら、私がどうやって本家へ向かおうが気にも留めず、迎えに来るどころか連絡一本寄越さなかったはずだ。司は前方を見据えたまま、淡々と言った。「祖母は高齢で、あまり刺激に耐えられない。昨夜、急に体調を崩して、危うく入院するところだった」「急に体調を崩したの……知らなかったわ」「俺も昨夜遅くに知らされた」祖母の前で円満な夫婦を演じさせるために迎えに来たのだと合点がいったが、そんな取り繕いなど遅かれ早かれ露呈するに決まっている。「司、あなたに協力するのは、これが最後よ」冷酷な彼のためではなく、体調を崩した祖母を思っての譲歩だった。「……余計なことはいい。食事に行くぞ」司は不快そうに眉根を寄せたが、一言だけ言って車を発進させた。本家での食事の席で、祖母は甲斐甲斐しく料理を取り分けてくれた。「唯、お前のために、栄養たっぷりの料理を作ったよ。温かいうちにおあがり」桐原家で唯一、私に温かく接してくれた人だった。しかし、私には孫嫁としてこの家に残る縁はない。「おばあ様、どうかお体を大切にしてくださいね。最近仕事が忙しくて、しばらく顔を出せないかもしれませんから」祖母は優しく私の手の甲を叩いた。「仕事に励むのは良いことだよ。たまに顔を見せ