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元カレの義姉になりました

元カレの義姉になりました

By:  三水Completed
Language: Japanese
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神崎煌(かんざき こう)は、界隈で知らぬ者のない放蕩な御曹司だった。危険なレース、喧嘩、命知らずな遊び。無茶と呼ばれるものなら、ひと通りやり尽くしていた。 だが、白川冬美(しらかわ ふゆみ)と出会ってから、暴れ馬のようだった煌は嘘のように大人しくなった。 冬美が「血が怖い」と言えば、煌は二度と喧嘩をしなくなった。冬美が「あなたに何かあったら怖い」と言えば、愛してやまなかったスピードとスリルさえ、あっさり手放した。 界隈の誰もが噂した。煌は今度こそ本気で落ちたのだと。あの清らかで無垢な冬美を、どうしようもないほど愛しているのだと。 けれど5年が経っても、煌は冬美にちゃんとした立場を与えなかった。 煌のそばに寄り添って5年目のある日、冬美のもとへ、煌の仲間から突然電話が入った。 「冬美さん!今すぐ来てくれ!煌が完全にイカれた。幻影峠を走る気だ!」

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Chapter 1

第1話

神崎煌(かんざき こう)は、界隈で知らぬ者のない放蕩な御曹司だった。危険なレース、喧嘩、命知らずな遊び。無茶と呼ばれるものなら、ひと通りやり尽くしていた。

だが、白川冬美(しらかわ ふゆみ)と出会ってから、暴れ馬のようだった煌は嘘のように大人しくなった。

冬美が「血が怖い」と言えば、煌は二度と喧嘩をしなくなった。冬美が「あなたに何かあったら怖い」と言えば、愛してやまなかったスピードとスリルさえ、あっさり手放した。

界隈の誰もが噂した。煌は今度こそ本気で落ちたのだと。あの清らかで無垢な冬美を、どうしようもないほど愛しているのだと。

けれど5年が経っても、煌は冬美にちゃんとした立場を与えなかった。

煌のそばに寄り添って5年目のある日、冬美のもとへ、煌の仲間から突然電話が入った。

「冬美さん!今すぐ来てくれ!煌が完全にイカれた。幻影峠を走る気だ!」

……

冬美は指先を震わせ、スマホを床に落とした。

ガタン、という乾いた音が足元で跳ねた。

幻影峠の魔のコース。そこは、煌がかつて命を削るように走っていた場所だ。冬美と付き合い始めてから、煌は二度とそこへ近づかなかった。

冬美が駆けつけた時、コース脇にはすでに大勢の人だかりができていた。

冬美は人波をかき分けて前へ出た。だが、目の前の光景を見た瞬間、足がその場に縫い止められた。

白いワンピースを着た若い女性が、煌の腰にしがみついている。目元は泣きはらしたように真っ赤だった。

「あのネックレス、もういらない。だから行かないで……」

煌は彼女を見下ろし、冬美がよく知る、あの奔放で不敵な笑みを口元に浮かべた。

「いい子だ。ゴールで待ってろ」

そう言い残し、煌は振り向いてスポーツカーに乗り込んだ。

エンジンが唸りを上げた瞬間、冬美の心臓が重く沈んだ。

冬美は車へ駆け寄り、窓を叩いた。

「煌!行かないで!あのコースは……」

窓が下りた。煌は冷えきった横顔のまま、短く告げた。「どけ」

たった一言が、冬美の全身を凍りつかせた。

次の瞬間、車は放たれた矢のように飛び出した。

「狂ってる!煌のやつ、完全にイカれてる!」

「あのスピード……死ぬ気かよ!」

「ネックレス一つで、そこまでやるか!?」

周囲のどよめきが耳を刺した。

冬美は両手を固く握りしめ、いつ崖下へ消えてもおかしくない車の影を、瞬きもできずに見つめていた。

かつて煌は、冬美が「怖い」と一言こぼしただけで、愛してやまなかったスピードもスリルもあっさり手放した。

それなのに今、別の女性を笑顔にするためだけに、命すら投げ出そうとしている。

最後の急カーブ。煌は減速するどころか、さらにアクセルを踏み込んだ。タイヤが白煙を噴き、車体が横滑りしながら、真っ先にゴールラインを駆け抜けた。

「勝ったぞ!」

人々の歓声が一斉に弾けた。

しかし、凄まじい勢いを殺しきれなかった車は、そのまま制御を失った。

次の瞬間、車体がガードレールに激突した。

「煌!」

「おい、煌!」

その場にいた全員が青ざめ、事故車へ向かってなだれ込んだ。

冬美は膝から力が抜けそうになりながらも、よろめく足で人々の後を追った。

大破した運転席から、煌がどうにか這い出してきた。額から血が流れているのに、痛みなど感じていないようだった。

煌はベルベットの小箱を握りしめ、駆け寄ってきた仲間に差し出した。

「これ、凛に……早く、誰かあいつを先に送ってやれ……血を見ると倒れるから……」

言い終える前に、煌の体がぐらりと傾いた。

そのまま意識を失った。

周囲の者たちは慌てて煌を受け止めた。数人が怯えきった相沢凛(あいざわ りん)を先にその場から連れ出し、残りの大勢が煌を抱え上げ、病院へ急いだ。

冬美は一言も発さないまま、黙って車に乗り込んだ。

煌が救命処置室へ運ばれてから、時間はひどく遅く流れた。

一分一秒が、じりじりと肌を焼かれるように苦しい。

突然、処置室の扉が開いた。看護師が血相を変えて飛び出してきた。

「大変です。患者さんの出血が止まりません!Rhマイナスで、院内の血液の在庫が足りないんです!」

Rhマイナス?!

煌の仲間たちは一斉に騒然となった。誰もが慌ててスマホを取り出し、心当たりへ連絡を入れ始めた。

その時、静かで冷たい声が響いた。

「私がRhマイナスです。私の血を採ってください」

全員が驚いて振り返った。

廊下の隅に、冬美が立っていた。顔色は蛍光灯の光よりも白く、生気を失っていた。

仲間たちは顔を見合わせた。その目には、隠しきれない気まずさが浮かんでいた。

「冬美さん……」

冬美は相手の言葉を遮った。

「採ってください。人命が最優先です」

その声に迷いはなかった。

冬美はそのまま看護師の後について、採血室へ向かった。

針が血管に入った瞬間も、冬美は眉ひとつ動かさなかった。

看護師が心配そうに冬美の顔を覗き込んだ。

「すでに600cc抜いています。これ以上の採血は危険です」

冬美の声はかすれていた。それでも、はっきりとしていた。

「続けてください。彼に必要な分だけ……採ってください」

赤い血がチューブを伝って流れていく。

冬美の視界は少しずつぼやけた。

1000ccに達したところで、ようやく煌に必要な血液が確保された。

同時に、冬美も限界を迎え、そのまま意識を失った。

再び目を覚ました時、冬美は病室のベッドに横たわっていた。

窓の外はすでに暗い。煌がどうなったのか、まだ分からない。

冬美は無理やり体を起こした。壁に手をつきながら、ゆっくりと煌の病室へ向かった。

病室の扉の前まで来たところで、中から話し声が聞こえた。

「煌、前は冬美さんのこと、かなり気に入ってたじゃねえか。なのに、どうして急に凛さんのためにあんな無茶をしたんだよ。

今回、冬美さんがどれだけ血を抜かれたか知ってるか?あの人、お前のこと本気で愛してるんだぞ。もう心変わりしたなんて、俺からはとても言えねえよ」

煌は頭に包帯を巻いていた。

それでも、あの大胆不敵な雰囲気は少しも薄れていない。煌はライターを指先で弄りながら、気怠げにベッドの背へもたれていた。

「前は確かに冬美のことを気に入ってた。でも、どこか物足りなかったんだ。凛に会って、ようやくこれだと思えた」

あっけらかんとした口調だった。

けれど、その一語一語が鋭い刃となって冬美の胸を抉った。

「あんなに胸がドキドキするは初めてだ。冬美と一緒にいる時は、一度も感じたことがなかった」

仲間たちは息を呑んだ。

「でも、冬美さんは5年も一緒にいたんだぞ。本当に……捨てるのか?」

煌は短く答えた。「ああ。いらない」

その冷酷な言葉を耳にした瞬間、扉の外で冬美の手が近くの消火栓に触れた。

かすかな金属音が鳴った。

「外に誰かいるのか?」

「まさか冬美さんじゃないよな?」

「ありえねえよ。冬美さんなら、煌の話を聞いた時点で泣きながら飛び込んでくるだろ。どうせ風の音か何かだ。放っとけ」

扉の外で、冬美は口元を覆っていた手をゆっくり下ろした。

だが、彼らが想像したような苦痛の表情はどこにもなかった。

冬美の顔は不思議なほど静かだった。涙も一滴も流していなかった。

彼女は黙って背を向けた。

それからスマホを取り出し、暗記している番号へ電話をかけた。

すぐに通話が繋がった。

低く、冷ややかな男の声が耳に届いた。

「もしもし」

冬美は静かに告げた。「社長。煌さんに、もっと好きな女性ができました。私ではもう、彼を繋ぎ止めておくことはできません」

電話の向こうで、神崎迅(かんざき じん)はしばらく沈黙した。

迅ほどの情報網があれば、弟が一人の女性のために大金を使い、命がけで車を走らせたことなど、とっくに把握しているはずだ。

やがて、迅が淡々と口を開いた。

「分かった。この5年間、ご苦労だった。2億円を君の口座に振り込んでおこう」

冬美は短く礼を述べた。「ありがとうございます、社長」

通話を切ると、冬美は冷たい壁にもたれ、ゆっくり目を閉じた。

5年前、冬美は何段階もの選考をくぐり抜け、神崎グループCEOである迅の秘書になった。

だが、出社初日、迅は冬美に仕事を一つも与えなかった。

スーツ姿の迅は社長椅子に腰かけ、長い指で一枚の写真を机の上に滑らせた。

「この男を知っているか?」

写真の中の男は、挑むような目をして、自由気ままに笑っていた。

神崎家の次男。迅の実の弟、神崎煌だ。

迅の声は氷のように冷たかった。

「彼に近づき、君を愛させろ。君の愛情で彼を縛りつけ、二度と命を危険に晒すような真似をさせるな」

冬美はその時、しばらく呆然としていたことを覚えている。

神崎家の兄弟は、この界隈でよく知られていた。

兄の迅は冷徹で禁欲的。若くして神崎グループのすべてを掌握している。

弟の煌は自由奔放で、誰もが目を奪われるほどの容姿を持ちながら、性格はひどく荒い。カーレース、スカイダイビング、ロッククライミング。命が危うい遊びほど、面白がって手を出した。

つい先週も、煌はレース中の事故で集中治療室へ運ばれたばかりだった。

迅の次の言葉に、冬美は思わず顔を上げた。

「報酬は2億円だ」

2億円。

幼い頃から貧しい地区で這い上がるように生きてきた冬美にとって、それは想像もできない金額だった。

だから冬美は小切手と写真を受け取り、この馬鹿げた任務も引き受けた。

迅は冬美に教えた。煌が好きなのは、何色にも染まっていない、白紙のように純真無垢な女性だという。

そこで冬美は、鮮やかな色の服をすべて処分し、白いワンピースだけを選ぶようになった。

ゆるく波打つ髪をストレートに整え、清楚な黒髪のロングヘアに変えた。

化粧はできるだけ薄くし、何も知らない可憐な花を演じた。

冬美は煌がよく通う会員制クラブへ赴き、酔客に絡まれるという芝居を入念に仕組んだ。

そして取り乱したふりをして、涙を浮かべながら、あの不遜な男の胸へ飛び込んだ。煌の服の裾を掴み、震える声で助けを求めた。

煌は、見事に罠にかかった。

その夜、冬美は流されるように煌のベッドへ連れていかれた。

それから5年、冬美はずっと煌のそばにいた。

優しさと愛情で網を編み、煌が喧嘩をすることも、危険なレースに出ることも許さなかった。

煌もまた、その束縛を楽しんでいるように、冬美を徹底的に甘やかした。

冬美が「お腹が空いた」とこぼせば、煌は深夜でも車を出し、街を大きく回って冬美の好きな夜食を買ってきた。

冬美が生理痛で冷や汗を流す時は、煌は優しく腹をさすった。

毎朝、目を覚ますと真っ先に冬美の姿を探し、腕の中へ抱き寄せてキスをした。

けれど3ヶ月前の夜、情事の最中、煌は冬美の上に覆いかぶさったまま、見知らぬ名前を呼んだ。

「凛……」

その後、冬美は凛という女性を調べた。

凛はバーでアルバイトをしている大学生だった。清楚で、か弱く、庇護欲をそそる雰囲気を持っていた。

ある夜、客に絡まれていたところを、通りかかった煌に助けられたらしい。

凛の写真を見た瞬間、冬美は自分の出番が終わったことを悟った。

本当に清らかで無垢なのは凛だ。

冬美は、ただそう見えるように作られた偽物にすぎない。

だから煌は、冬美に「物足りなかった」と感じたのだ。

今、任務は終わった。

これからは、冬美が自分の望む人生を生きる番だ。

煌については、もう関係ない。

冬美は最後に病室の方向を一瞥し、背を向けて歩き出した。

煌には凛がいる。

そして冬美は、ようやく本当の自分に戻れたのだ。

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第1話
神崎煌(かんざき こう)は、界隈で知らぬ者のない放蕩な御曹司だった。危険なレース、喧嘩、命知らずな遊び。無茶と呼ばれるものなら、ひと通りやり尽くしていた。だが、白川冬美(しらかわ ふゆみ)と出会ってから、暴れ馬のようだった煌は嘘のように大人しくなった。冬美が「血が怖い」と言えば、煌は二度と喧嘩をしなくなった。冬美が「あなたに何かあったら怖い」と言えば、愛してやまなかったスピードとスリルさえ、あっさり手放した。界隈の誰もが噂した。煌は今度こそ本気で落ちたのだと。あの清らかで無垢な冬美を、どうしようもないほど愛しているのだと。けれど5年が経っても、煌は冬美にちゃんとした立場を与えなかった。煌のそばに寄り添って5年目のある日、冬美のもとへ、煌の仲間から突然電話が入った。「冬美さん!今すぐ来てくれ!煌が完全にイカれた。幻影峠を走る気だ!」……冬美は指先を震わせ、スマホを床に落とした。ガタン、という乾いた音が足元で跳ねた。幻影峠の魔のコース。そこは、煌がかつて命を削るように走っていた場所だ。冬美と付き合い始めてから、煌は二度とそこへ近づかなかった。冬美が駆けつけた時、コース脇にはすでに大勢の人だかりができていた。冬美は人波をかき分けて前へ出た。だが、目の前の光景を見た瞬間、足がその場に縫い止められた。白いワンピースを着た若い女性が、煌の腰にしがみついている。目元は泣きはらしたように真っ赤だった。「あのネックレス、もういらない。だから行かないで……」煌は彼女を見下ろし、冬美がよく知る、あの奔放で不敵な笑みを口元に浮かべた。「いい子だ。ゴールで待ってろ」そう言い残し、煌は振り向いてスポーツカーに乗り込んだ。エンジンが唸りを上げた瞬間、冬美の心臓が重く沈んだ。冬美は車へ駆け寄り、窓を叩いた。「煌!行かないで!あのコースは……」窓が下りた。煌は冷えきった横顔のまま、短く告げた。「どけ」たった一言が、冬美の全身を凍りつかせた。次の瞬間、車は放たれた矢のように飛び出した。「狂ってる!煌のやつ、完全にイカれてる!」「あのスピード……死ぬ気かよ!」「ネックレス一つで、そこまでやるか!?」周囲のどよめきが耳を刺した。冬美は両手を固く握りしめ、いつ崖下へ消えてもおかしくない車の影を、瞬
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第2話
病院を出た冬美が最初に向かったのは、渡航ビザを申請する窓口だった。担当者は、半月ほどでビザが下りると告げた。冬美は小さく頷き、その足で煌と暮らしていた邸宅へ向かった。自分の荷物をすべてまとめ、その家を出る。煌が別れるつもりなら、自分から身を引いた方がいい。先に部屋を明け渡してしまえば、互いに気まずい思いをせずに済む。冬美はスーツケースを引き、市街地で短期滞在向けの部屋を借りた。部屋に着き、服を一着ずつクローゼットへ掛けていくうち、冬美の手はだんだん鈍くなっていった。そこにあるのは、どれも白ばかりだった。白いワンピース。レース、シルク、綿麻。形は違っても、どれも純白で、他の色はひとかけらも混じっていない。全部、煌が好きだったものだ。煌は、何色にも染まっていない、白紙のように純真無垢な女を好んだ。だからこの5年間、冬美のクローゼットに並ぶのは、煌が好む色と形だけだった。けれど、芝居は終わった。なら、この衣装も脱ぎ捨てるべきだ。翌日、冬美はこの街でいちばん賑わう商業施設へ向かった。鏡の前に立ち、赤いドレスをまとった自分を見つめる。冬美は毛先のゆるく巻いた黒髪にそっと触れ、その瞬間、5年前の自分がふっと重なった。白いワンピースを着て男の好みに合わせ続けた女ではない。キャンパスで赤いドレスを着て、人目を引くほど鮮やかに咲いていた、あの頃の自分だ。販売員が傍らで声を弾ませた。「お客様、とてもよくお似合いです」冬美は微笑み、そのまま迷いなくカードを切った。こんなにも長い時間がかかったけれど、ようやく自分自身に戻れたのだ。商業施設を出た直後、スマホが鳴った。画面に表示された名前は、煌。「冬美」受話口から届いた煌の声は、ひどく低かった。「誰が勝手に出て行っていいと言った?」冬美は一瞬、言葉を失った。自分が出ていけば、煌は喜ぶものだと思っていたからだ。冬美は静かに聞き返した。「凛さんのために、部屋を空けてあげたんだけど?」電話の向こうに、数秒の沈黙が降りた。煌の浅い息遣いだけが、やけにはっきり聞こえる。「今すぐノクターンに来い。話がある」それは有無を言わせない口調だった。通話が切れると、冬美は道端でタクシーを拾った。クラブ「ノクターン」は、今夜も相変わ
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第3話
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第4話
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第5話
煌は反射的に手を伸ばし、力なく崩れ落ちる冬美の体を受け止めた。生温かい血がみるみる溢れ、煌の手を赤く染めていった。冬美は口を開いた。けれど声は出ない。意識はあっという間に暗闇へ呑み込まれた。再び目を覚ました時、冬美は病室のベッドに横たわっていた。腹部を裂くような痛みが、直前に何が起きたのかを容赦なく思い出させた。目を開けると、ベッドのそばに煌が座っていた。その顔には複雑な色が浮かび、目の奥は赤く血走っていた。冬美が目を覚ましたと分かると、煌はすぐに口を開いた。その声は、これまでにないほど重かった。「どうして俺を庇って刺された?」冬美は喉がひどく乾いていた。あれはただの事故で、誰かに押されただけだと、どうにか説明しようとした。けれど煌は冬美の言葉を遮った。苛立ちと、妙な確信が混じった目をしていた。「冬美、お前がまだ俺を好きで、俺のためなら死ねるくらいだってことはよく分かった。でも、俺はもうはっきり言ったはずだ。今の俺が好きなのは凛だけだ」煌は何かを決めたように、ポケットから小切手帳を取り出した。新しい小切手に署名し、前の一枚と一緒にベッド脇のサイドテーブルへ置いた。「前のは受け取らなかったな。今回はさらに2億円を上乗せする」煌は立ち上がり、もう冬美を見なかった。「金は持っていけ。これからは……二度と俺たちの前に現れるな。凛は純粋で、不安になりやすい。お前の存在で、あいつを不安にさせたくないんだ」そう言い残し、煌は未練など一切ないように背を向けて出ていった。冬美は目に刺さるほど真っ白な二枚の小切手を見つめた。腹部の痛みと重なって、苦笑する力さえ残っていなかった。彼女は目を閉じた。ただ、果てしない疲れだけが体の奥へと沈んでいった。それから数日が過ぎ、冬美の傷は少し落ち着き、退院できることになった。退院手続きに向かうと、ちょうど凛の退院手続きに付き添っている煌と鉢合わせた。凛は冬美を見るなり、すぐに歩み寄ってきた。顔には心配そうな色が浮かんでいたが、その奥にはほんのわずかな優越感が透けて見えた。「冬美さん、傷はもう大丈夫?あの日、煌を庇ってくれてありがとう。5年も一緒にいた気持ちをすぐに手放せないのは分かる。でも、今の煌は私の彼氏だから。二人の間に割って入るような真似は、やっぱりよくないと思うの
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第6話
「部屋の契約書?」煌の声は低く、冷えきっていた。冬美を探るような響きがあった。「煌……」そばにいた凛が、ふいに力を抜くように煌の胸へもたれかかった。細い手で煌の上着の胸元を掴み、苦しげに眉を寄せた。「頭がくらくらするの。病院の消毒液の匂いで、気分が悪くなっちゃって……早く帰ろう?ついでに冬美さんも送ってあげて。ひとりで帰るのは大変でしょう?」凛の言葉は、あまりにも絶妙なタイミングで煌の追及を遮った。同時に、冬美が口を開く隙も塞いでしまった。煌の意識は、すぐに腕の中の凛へ向いた。具合の悪そうな顔を見るなり、怪しげな「契約書」のことなど頭から抜け落ちたようだった。「分かった。すぐ帰ろう」声には心配が滲んでいた。煌は有無を言わせず、凛を半ば抱えるようにして出口へ向かった。その途中で、冬美を一瞥した。「ついてこい」逆らうことのできない口調だった。冬美は手の中の契約書を強く握りしめた。二人の背中を見つめ、結局、黙って後を追うしかなかった。後部座席に座った冬美からは、前の席で凛を細やかに気遣う煌の姿がよく見えた。煌はクッションの位置を丁寧に直し、冷えた凛の手を自分の手のひらで包んで息を吹きかけた。さらに、エアコンは寒くないかと、低い声で何度も尋ねていた。その細やかな気遣いは、かつて冬美に向けられたことなど一度もないものだった。昔の煌も、冬美を甘やかしてはくれた。けれどそれは、もっと独占欲が強く、気まぐれで、身勝手な愛情だった。機嫌がよければ空の星さえ取ってきそうなほど尽くすのに、少し不機嫌になれば平気で冬美を放っておいた。凛に向けるような、壊れやすい宝物を手の中で守るような慎重さは、冬美に向けられたことは一度もなかった。冬美は黙って視線を外し、窓の外を流れていく街の景色を見た。それでいい。煌を繋ぎ止め、もう命を危険に晒す遊びへ戻らせない人がいるのだから。迅も……これで安心できるはずだ。自分の任務も、別の形で果たされたことになる。その時、助手席からどこか様子のおかしい凛の声が漏れた。「ん……煌……暑い……」凛の声は妙に甘く、熱を帯びていた。何度も自分の襟元を引き、頬には不自然な赤みが差していた。煌は異変に気づき、凛の体を支えた。「凛?どうした?」「分か
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第7話
冬美の顔から血の気が引いた。それでも言われた通りに車を降り、煌と席を替わった。冬美は無理やり前だけを見た。エンジンをかけ直し、集中して車を本線へ戻した。けれど、車内は狭い。後部座席の気配を無視することなどできなかった。細かなキスの音。凛の耐えきれず押し殺した声。煌の荒い息遣い。それらが見えない針のように、冬美の耳へ細かく突き刺さってきた。「んっ……煌……だめ……やめて……」突然、凛が泣きそうな声で拒み始めた。「お母さんに言われてるの……結婚するまでは、そういうことはだめだって……ちゃんと……初夜まで待たなきゃだめだって……」その後に聞こえた煌の声は、冬美が一度も聞いたことのないものだった。極限まで優しく、ひどく辛抱強い。押し殺したような掠れを含んでいた。「いい子だ。分かってる。お前の気持ちは尊重する」煌は低く宥めた。「怖がるな。最後まではしない。手で楽にしてやる。それならいいだろ?」「じゃあ……あなたはどうするの?あなたも、すごく苦しそう……」凛の声は柔らかく、熱を含んでいた。「俺はいい。お前が楽になれば、それでいい」煌の声は、滴るほど甘かった。それから、さらに耳を塞ぎたくなるような音が続いた。凛は煌に慰められ、少しずつ力を抜いていった。やがて、抑えきれない甘い声が漏れ始めた。「気持ちいいか?」煌が低く尋ねた。声には甘やかす響きがたっぷり混じっていた。「うん……煌……すごく、気持ちいい……」「気持ちいいならいい」煌は小さく笑い、凛に口づけた。「俺たちが結婚する日には、もっと気持ちよくしてやる」冬美は、この5年間のことを思い出した。煌はベッドの中で、自分を喜ばせることもあった。けれど多くの場合、優先されるのは彼自身の快楽だった。そこには、逆らうことを許さないような、奪う側の強引さがあった。凛に向けるように、どこまでも辛抱強く、優しく、自分は耐えてでも相手を先に満たす。そんなことは、一度もなかった。冬美は車を揺らさないよう、ひたすらまっすぐ走らせた。やがて、冬美が借りている部屋の建物の前に着いた。後部座席の音も、ようやく静まっていた。冬美は車を停め、無意識にルームミラーへ目を上げた。ちょうど、凛の服を整え終えた煌が顔を上げたところだった。煌の瞳には
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第8話
「冬美、すぐ西区の廃工場に来い!凛が猛に拉致された!」桐生猛(きりゅう たける)。煌の宿敵で、昔から何かにつけて煌とぶつかってきた男だ。冬美が駆けつけた時、廃工場の周囲には煌の部下たちが大勢集まっていた。だが、人質を取られている以上、誰も軽率には動けなかった。いつも人を食ったような煌の顔は、今は暗く沈んでいた。冬美を見るなり、煌はその手首を掴んだ。骨が軋みそうなほど強い力だった。「猛がお前を指名してきた」煌の声は掠れていた。「お前が行って、凛と代われ」冬美の胸が震えた。何か言いかける前に、煌が急いで言葉を継いだ。「安心しろ。条件はもう話してある。あいつはお前に手を出さない。ただ……三日間、あいつの話し相手をして耐えればいい」そう言ううちに、煌の声がふいに柔らかくなった。あの人を惑わせるような目に、冬美のよく知る優しさが一瞬だけよぎった。「お前がまだ俺を好きなのは分かってる。今回行ってくれたら、一日だけお前とデートしてやる」冬美は煌を見つめた。彼女は言いたかった。本当は煌のことなど好きではない。そんなことのために、身代わりになりたくもないと。けれど……言えなかった。あの契約が、枷のように冬美の喉を締めつけていた。迅から与えられた任務に背くことはできなかった。真実を明かすこともできなかった。それに、冬美は煌をよく知っていた。たとえ自分が拒んだとしても、凛のためなら、煌はどんな手を使ってでも自分を向こうへ送り込むだろう。絶望が波のように押し寄せ、冬美を呑み込んでいった。最後に、冬美は静かに目を伏せた。その声は、消え入りそうだった。「分かった。行くわ」煌は明らかにほっとした顔をした。冬美の頭に触れようと手を伸ばしかけた。けれどその手は途中で止まり、結局、静かな声だけが落ちた。「三日後に迎えに来る」冬美は煌の部下たちに連れられ、猛が指定した場所へ送られた。中へ入った瞬間、煌の言った「手を出さない」が、どれほど馬鹿げた約束だったのかを悟った。猛は吐き気を催すような目で、冬美を上から下まで眺め回した。「冬美、俺は初めてお前を見た時から欲しくてたまらなかったんだよ。煌とは、お前の体には手を出さねえって約束した。けどな、鞭で打たねえとは言ってねえ。お前のその綺麗な肌が鞭で赤く腫れたら、
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第9話
冬美は、そんな埋め合わせのようなデートはいらないと断ろうとした。だがその前に、煌はもう冬美の手首を掴み、車へ乗せていた。煌の言うデートとは、この街でいちばん大きな遊園地へ連れていくことだった。けれど道中、煌はずっと上の空だった。スマホをほとんど手放さず、凛とメッセージをやり取りし、柔らかな言葉で相手を宥め続けていた。【いい子にしてろ。本当に会議中だ】【ショートケーキ、生クリームを倍にしてもらうか?】【会いたくないわけないだろ。毎秒、お前のことを考えてる】冬美は煌の隣を歩いていた。けれど、まるで余計な影みたいだった。煌が別の女に、ありったけの忍耐と愛情を注いでいるのを、ただ見ていることしかできなかった。彼女は何か言いかけた。そもそもこのデートに来たかったわけではない。もうここで終わりにした方がいい。そうすれば煌も凛のところへ帰れる。そう言おうとした、その時だった。見覚えのある人影が、突然二人の前に現れた。凛だった。凛は目を泣き腫らし、震える声で言った。「会議中だって言ってたのに、本当は彼女とデートしてたの?煌、まだ彼女のことが好きなら、私たち別れよう」そう言い残し、凛は身を翻して走り出した。「凛!」煌は一瞬で取り乱し、すぐに追いかけて凛を掴んだ。「違う。お前が思ってるようなことじゃない。話を聞け。この前、あいつがお前の代わりに猛のところへ行っただろ。その埋め合わせに、一度だけデートするって約束したんだ。ただの埋め合わせだ。余計なことを考えるな」凛は身をよじり、泣きながら信じようとしなかった。その時、そばにあった巨大な広告看板が、なぜか突然ぐらりと傾いた。凛が立っている方へ、勢いよく倒れてきた。「危ない!」煌の瞳孔がぎゅっと縮んだ。ほとんど本能のように、煌は全身の力で凛を突き飛ばした。次の瞬間、その重い看板が、煌の上へ激しく倒れ込み、彼はその場で血だまりの中に倒れた。「煌――!」凛の悲鳴が響き渡った。現場は一瞬で混乱に包まれた。サイレンを響かせ、救急車が駆けつけた。冬美は大事になるのが怖くて、結局病院までついていった。手術室の外で、凛はずっと泣いていた。息ができなくなるほど泣き続けていた。冬美はその泣き声を聞きながら、思わず言った。「泣かないで。泣
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第10話
凛は煌の胸に飛び込み、涙をぽろぽろこぼしていた。「煌!やっと目が覚めたのね!ごめんなさい、全部私が悪いの……私がわがままを言わなかったら、あなたはこんなことに……私のこと、怒ってる?」煌の顔色はまだ青白かった。それでも手を上げ、凛の髪をそっと撫でた。その声は弱っていたが、ひどく優しかった。「馬鹿だな。こんなに愛してるのに、お前を怒るわけないだろ」煌は少し言葉を切った。凛の疲れた顔と赤く腫れた目を見つめ、痛ましげに尋ねた。「それよりお前、一晩中寝ずに俺についていてくれたんだろ。疲れたか?これからは、こういう大変なことは看護スタッフに任せればいい。お前を疲れさせたくないんだ」凛の体が、ほんのわずかに強張った。視線が一瞬だけ揺れた。けれどすぐに、柔らかな声で答えた。「看護スタッフに任せるだけじゃ不安だったの。先生も、親しい人がそばでちゃんと見ていた方がいいって言ってたし……」煌はその言葉に深く胸を打たれたようだった。瞳の奥に、濃く溶けきらない愛情と感動が揺れていた。彼は凛の顎をそっと持ち上げ、唇に口づけた。しばらくキスを交わしたあと、煌は甘やかすように低く笑った。吐息混じりの声が落ちた。「何度もキスしてるのに、まだ息継ぎが下手だな。大丈夫だ。これから俺が、たっぷり教えてやる……」冬美はそれ以上見なかった。静かに背を向け、音もなくその場を離れた。病院の入口まで出て、タクシーを拾おうとした時だった。凛が後ろから慌てて追いかけてきた。「待って!」冬美は足を止めた。凛は冬美の前まで駆け寄ってきた。息が少し乱れていた。顔には、気まずさと焦りがにじんでいた。「さっき……病室の入口に人影が見えたの。やっぱり冬美さんだったんだ……昨夜は、煌のことを看病してくれてありがとう……」凛は唇を噛んだ。声が少し低くなった。「煌……目が覚めた時、私が看病したんだって勘違いして……私……もっと愛してほしくて、否定できなかったの……ごめんなさい。冬美さんの手柄を横取りするつもりじゃなかったの……」冬美は目の前の凛を見つめた。ただ、底のない疲れだけが胸に広がっていった。冬美は首を横に振った。「気にしないで。あなたたちは恋人同士なんだし、それで二人の仲が深まるなら、別にいいわ」凛は呆然とした。
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