結婚して四年目が過ぎた頃、夫・川井彰紀(かわい あきのり)にとって忘れられない人が戻ってきた。妻の小森伊織(こもり いおり)は必死に彼を取り戻そうとしたが、結局、心が完全に冷えてしまい、去ることを決意した。 彰紀はようやく伊織という存在の大きさに気づいたが、時すでに遅く、彼女を静かに見守るしかなかった。
View Moreパリを離れるその日、彰紀は数多の人々に会い、伊織のために水面下で手配を整えた。彼女の口座には膨大な金額を振り込み、舞踊団には莫大な資金を提供した。そして団員たちにこう告げる。「小森伊織をしっかり育ててくれれば、毎年この資金は続く」と。途切れることなく。彼は彼女のためのあらゆる道を用意し、彼女が今年の冬に踊る初舞台を見にいく準備をしていた。ヨーロッパは冬時間に移行し、冬が始まった。しかし彰紀は、もはや伊織の世界へと入っていくことはできなかった。ただ別れを告げるだけだった。だが世の中は予測不能だ。公演前日、彰紀は舞台裏で怪しい影を見つけた。「あれは誰だ?」彼がアシスタントに尋ねると、アシスタントは調べてすぐに戻ってきた。「今井佑樹です」佑樹?追い出したはずではないか、またここで何をしている?真剣にリハーサルに励む伊織を見つめながら、彰紀の胸に漠然とした不安が湧き上がった。眉をひそめ、アシスタントに命じた。「今井佑樹を連れ出させろ」アシスタントが出ていったが、すぐに戻り「今井さんはいなくなっていました」と報告した。消えた?さっきまで怪しい動きをしていたのに、一体どこへ?佑樹は拒絶されて以来、正気を失っていた。何をしてかすか分からない。伊織に危害を加えるのではないか?胸の内の不安はますます強くなり、彰紀は荷物をまとめて劇場を出る伊織を、息を詰めて見つめながら後を追った。緊張から伊織だけに視線を注いでいたため、アシスタントにも同行するよう伝えるのを忘れていたことに気づかなかった。彼女の嫌悪をさらに買うことを恐れて、彰紀はあまり近づくこともできなかった。少し歩いたところで、突然、黒い影が二人の間に割って入った。佑樹だ!不審を察知した彰紀は素早く動き、伊織に付きまとう佑樹の行く手を遮った。佑樹が振り返り、彰紀だと気づく。その目にはさらに激しい怒りが燃え上がった!またあいつだ!またあいつだ!この男が俺の伊織を奪ったんだ!佑樹は完全に逆上し、長いナイフを彰紀に向かって突き刺した。彰紀はかわしたが、それでも太ももを貫かれ、思わず声をあげた。前方を歩いていた伊織が何かを察したように振り返ったが、何も見えなかった。その一方で、彰紀は激痛に耐えながら佑樹を脇の路地へと押し込
佑樹が彰紀のボディーガードに追い出された後も、伊織の心の動揺はなかなか収まらなかった。あの佑樹がそこまで執拗で激昂するとは思わなかった。ましてや、彰紀が自分をかばって――躊躇なく傷を負うとは。病院で、幾重にも巻かれた包帯。首から吊るされた彰紀の腕は、妙にコミカルな様相を呈していた。思わず伊織の口元が緩んだ。川井彰紀といえば、決して自分を損なうような真似はしない男じゃないか。よくもまあ、あんなみっともない姿になれるものだ。その彼を嘲笑うように、伊織の目尻は下がっていた。なのに彰紀は怒るどころか、むしろ嬉しそうだった。伊織がこんなに明るい表情を見せるのを、彼はもうずっとずっと見ていなかった。彼女は彼を警戒し、嫌悪し、避け続けてきた。自分に向けて笑顔を見せることすら、もう何年もなかったのだ。今、その笑顔を目にした彰紀も、思わず口元をほころばせた。「大丈夫か?」優しく声をかける。伊織はハッと我に返り、表情を再び冷たく閉ざした。「助けてくれて……ありがとう」「これで二度目だ」気が咎めたのか、伊織は財布から分厚い札束を取り出し、彼の前に置いた。「……ほんの気持ちよ。少ないけど勘弁してね。それと、食事もままならないだろうから、ちゃんとした介護の人も手配するわ……」彼女はてきぱきと手配を進めようとした。彰紀の笑顔は完全に消えていた。彼の瞳には深い悲しみが渦巻き、声をひそめて言った。「……やっぱり、まだ許してくれていないんだな?」伊織は一瞬沈黙し、静かに答えた。「過去のことは、もう終わったの」「でも、誤解だったんだよ!」フランスに来て十五日目。彰紀は幾度となく、二人の間に横たわった誤解を説明してきた。「今井佑樹と沢田涼子があの手この手で誤解を仕組んだんだ!佑樹が俺を逆なでするためにわざと賭けの話を吹き込んだなんて知らなかった。それに、あの時、俺を慰めてくれたのは涼子じゃなくてお前だったってことも……!数えきれない誤解があっただけだろ、なのにどうして……どうしてやり直せないんだ!」叫ぶように訴える彰紀。彼には理解できなかった。ここまでやってきたのに。なぜ伊織はどうしても許してくれないのか!理解できず、怒りを込めて伊織を見つめたが、返ってきたのは微動だにしない、静かなまなざしだけだった。
伊織に断られたあの日から、彰紀はそれまでの短気で怒りっぽい性格をすっかり捨て去り、厚かましくも彼女の側にまとわりつくようになった。仕事もそっちのけで、毎日彼女の後をつけ回す。伊織がどこで公演しようと、必ずそこに現れる。ついには、隣家の老婦人から家を買い取るという、あきれるほどの所業にまで及んだ。彼女の隣人になろうというのだ。伊織は心底驚くと同時に、心底うんざりした。ある夜、伊織は後ろにずっとついてくる男の姿を見て、とうとう我慢の限界に達した。「一体、何がしたいの?」「もう言ったでしょ、あなたのことは好きじゃないって!わからないの!?」以前の伊織がこんな風に彰紀に言えば、彼はすぐに袖を引いて去っていったものだ。しかし今の彼は、自尊心などまるで気にしていない。それを踏みにじられるのも厭わなかった。整った顔は微かに笑みを浮かべて、言う。「お前の安否が心配なんだ。側にいないと、どうしても気が済まなくて……」……まったく、頭がおかしくなったのか。伊織は話にならないと悟り、もうどうでもいいと思った。まっすぐに玄関のドアを開け、パンッと彰紀を閉め出した。しばらくして、またインターホンが鳴った。伊織は怒りを爆発させた。「彰紀、いい加減にして!もう言ったでしょ、あなたとは……」言葉を続ける間もなく、彼女は突然言葉を詰まらせた。訪ねてきたのは彰紀ではない。出張で半月も留守にしていた佑樹だったのだ。佑樹の笑みが口元で固まり、次第に顔色が険しくなっていく。「川井が来てたのか?」あの男め、いつまでたってもしつこい!出張から戻ったら伊織に想いを伝えようと、ずっと心に決めていたのに!ようやく伊織がネットで声明を出したと知り、佑樹は彼女が完全に諦めたのだと確信した。やっとチャンスが巡ってきたと思ったのに……なんと、あの男がまた戻ってきていたとは!佑樹は真っ赤なバラの大きな花束を抱えたまま、その場に立ちすくみ、進むべきか退くべきかわからなかった。伊織は呆然として尋ねた。「先輩……これは……?」佑樹は一瞬呆けたが、伊織の玄関先に一輪また一輪と置かれたバラの花束を見て、すべてを悟った。彰紀はすでに行動を開始していたのだ。じっと手をこまねいているわけにはいかない。佑樹は思い切って花束を伊織の
伊織は最近、自分が所属する舞踊団に違和感を覚えていた。普段は学生として学校に通いながら、この無名の小さな舞踊団で舞台に立っていた。有名ダンサーでもない学生の彼女に、有名団体が声をかけるはずもなかったのだ。しかし、この名もなき舞踊団が、突如として潤沢な資金を得たように見えた。そうそうたるダンス界の大物たちが次々と加わり、稽古場は見違えるように改装され、ヨーロッパ各国を巡るツアーも実現した。舞踊団の創設メンバーである伊織の名も、瞬く間に知られるようになった。ほんの数日で、名だたる公演からのオファーが殺到したのだ。それだけではない。舞踊団は彼女のために、特別にソロダンスを用意してくれた。異国の地で、伊織は英文で綴られたそのダンスのタイトルを、ただ呆然と見つめた。Kinshitsu『錦瑟』。彼女の記憶の奥底に深く刻まれた、あのダンスの名前だった。「伊織、最近舞踊団のために尽くしてくれて、本当にありがとう。僕たちも君の夢を叶えてあげたいと思ってね」責任者は優しい笑みを浮かべて言った。「君のソロを奪ったあの件、知っているよ。これは、君のために特別に用意した舞台なんだ」特別に……自分のために……?伊織の頭は混乱していた。いったい自分が何をしたというのか?舞踊団全体が彼女を立て、彼女の夢を叶えるために動いているなんて。腑に落ちない思いが胸をよぎった。口を開こうとしたその瞬間、視界の端に、見覚えのある人影が飛び込んだ。少し離れた場所で、舞踊団の幹部と何やら契約書らしきものにサインをしている。伊織は駆け寄った。やはり、間違いなかった。川井彰紀だ。十日以上も会っていなかった彰紀の目に、喜びの色が一瞬あふれた。「伊織、俺は……」『会いたかった』という言葉は、伊織の冷たい眼差しによって、喉元で押しつぶされた。「また何しに来たの?今度は何の用?」伊織は彼の手から契約書を奪い取った。そこには一億ユーロという投資額が記されていた。頭がおかしいんじゃないの?伊織は眼前の男を、あきれた目で見つめた。「一体何やってるの?金をぶん投げて遊んでる気か?」訳のわからない声明文を出したかと思えば、今度は彼女所属の舞踊団に投資する。この男の真意がまったく読めなかった。しかし、今回は彰紀も彼女に推測を任せようとはしなかった。
彰紀は女性の背後に立ち、知らず知らずのうちに話の一部始終を聞き終えていた。拳をぎゅっと握りしめ、突如としてすべてを悟った。ああ、あの賭け事は今井佑樹がわざと自分に教えたのだ。目的は自分と伊織の間にわだかまりを作ることだったのだ。ああ、沢田涼子が流したあの片思いの日記は、伊織が今井佑樹に宛てたものなんかじゃない。それは、自分に宛てたものだったのだ。そうか、彼女はずっと、自分を愛していた。あの頃から。手紙をくれて、暗い思春期の自分を支えてくれたあの人が、彼女だったのか!それなのに、自分はまったく気づかず、彼女を信じず、わけも確かめずに復讐なんて仕掛けて、彼女を傷つけてしまった!彰紀の拳はますます強く握られ、心の中では自分を殺してしまいたいほどだった!よくも、彼女をそんなに傷つけられたものだ!ガキッ、ガキッ……と骨が鳴る音を聞いた沢田涼子が、はっと振り返り、仰天した。腕に抱えていた日記帳がばらりと床に落ちた。「彰紀さん、あ、あなた……」パンッ!彰紀は涼子の頬を思い切り平手打ちにした。立ち上がると、涼子の首を掴み、まるで彼女を殺めるつもりで、力を込めた。「俺は女を殴ったことはなかった。だが、お前は俺の逆鱗に触れた!」「伊織を陥れるとは、俺の限界を超えたな!」涼子がもがいているが、彰紀の忍耐はとっくに切れていた。彼は涼子を床に叩きつけた。冷たい声で命じる。「この女を芸能界から追放しろ。それに、海外でのあの醜聞も、全部ばら撒け。彼女、うつ病だって言ってただろう?精神病院にぶち込め!」「今すぐだ!すぐに!即座に!」彰紀が叫んだ。冷たく残忍なその表情に、周囲の誰もが口を挟めなかった。静まり返った別荘の広間には、ただ涼子のうめき声だけが響く。彼女にはわかっていた。川井彰紀が芸能界に持つ強大な力は、彼が一言放てば、自分が二度と舞台に立てることはないことを。涼子は彰紀に許しを請うたが、彰紀の心は微動だにしなかった。冷たい怒りの眼差しだけが返ってくるだけだった。広間が再び静寂に包まれる中、彰紀は立ち上がり、床に散らばった日記帳を一冊一冊、丁寧に拾い上げた。清らかな字で綴られた一文字一文字。そして最後の最後に、涼子が送らなかった署名があった。【小森伊織、川井彰紀のことが好きな、また一日】【
会議中だった彰紀は、はるか彼方からのスマートフォンに届いたあるコメントを呆然と見つめていた。その瞬間、手にしていたタブレットが滑り落ちた。床に勢いよく叩きつけられ、あっという間に砕け散った。まるで彼の心臓のように。激しく引き裂かれ、あまりの痛みに息もできなかった。結局、駆けつけたアシスタントが会議を一時中断し、彰紀を休憩室へと支えて連れて行く。上司がすっかり魂を抜かれたような様子を見て、アシスタントは彰紀が小森伊織を深く想っていることを察していた。だが、この男は生来冷徹で、生い立ちの影響もあり、激しい苦しみを自分の中に押し込めてしまう。愛を追い求める勇気を持てないでいるのだ。本質は、拒まれることへの恐れだった。小森伊織に、冷たく突き放されることを怖がっていた。しかし……アシスタントは考えに考えた末、ついに口を開かずにはいられなかった。「川井社長、奥様はもういらっしゃらないのです。今、全力で取り戻すか、彼女がいない人生を受け入れるか、どちらかしかありません」彼女がいない人生……その言葉だけでも、彰紀の表情はさらに強ばった。心臓がさらに締めつけられる。机に手をつき、よろめきそうになる。静寂の中、アシスタントは彼の低い呟きを聞き取った。「……彼女を失いたくない」アシスタントはため息をつき、心を込めて諭した。「それならば、社長。今こそ迷っている場合ではありません。奥様の元へ行ってください。どんな手を使っても、必死に食い下がって、全力で償いを尽くすんです」「さもなければ」アシスタントは彰紀の深い眼差しを受け止めながら、ゆっくりと言葉を続けた。「……本当に、二度と取り戻せなくなりますよ」その言葉は、まるで雷のように、迷いの中にいた彰紀を激しく打ちのめした。そうだ。彼は彼女を愛している。どんなことがあっても。あの賭けなど関係ない。彼女が今、自分を本当に嫌っていようとも……諦めたくない。彰紀は拳を強く握りしめ、ハッと我に返った。椅子の背もたれにかかっていた上着を掴むと、ほとんど走る勢いで外へと飛び出していった。「すぐにチケットを手配しろ!」アシスタントは一瞬呆けた。「どちらへ?」「パリだ!最も早い便で!」そうだ。彰紀はずっと迷い、悩んでいた。小森伊織を追い続けるべきかどうかを。今、やっと悟っ
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