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航跡の彼方に

航跡の彼方に

By:  心閲Completed
Language: Japanese
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結婚して四年目が過ぎた頃、夫・川井彰紀(かわい あきのり)にとって忘れられない人が戻ってきた。妻の小森伊織(こもり いおり)は必死に彼を取り戻そうとしたが、結局、心が完全に冷えてしまい、去ることを決意した。 彰紀はようやく伊織という存在の大きさに気づいたが、時すでに遅く、彼女を静かに見守るしかなかった。

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Chapter 1

第1話

「先輩、私、あなたと一緒に海外へ研修に行くことに決めた」

電話の向こうで、今井佑樹(いまい ゆうき)は小森伊織(こもり いおり)がようやく下した決断を聞き、抑えきれない興奮を覚えた。ただ、少し冷静になって、彼は躊躇いながら口を開いた。

「伊織、本当に考えたのか?今回、行ったら三年から五年、いやもっと長く滞在するかもしれないんだぞ。君には家庭がある。ご主人は……同意してくれるのか?」

伊織はわずかに言葉に詰まり、唇の端を自嘲気味に歪めた。

川井彰紀(かわい あきのり)か……

彼が自分がすぐに海外に行き、完全に縁を切ろうとしていることを知ったら、きっと心底、喜ぶだろうな。

伊織は心に湧き上がる苦い思いを必死に押し殺し、言った。

「大丈夫だ、先輩。これは私自身のこと。彼とは関係ない」

その口調は冷たく、電話で話題にのぼった「彼」とはまるで無関係であるかのようだった。

かつて、二人の関係はこんな風ではなかったのに。

伊織は電話を切り、ぼんやりと寝室の壁にかかった結婚写真を見つめた。

彰紀が彼女の腰を抱き、普段は冷たい印象の整った顔にも、ほのかな笑みが浮かんでいた。

結婚式の日、彼は言った。

「結婚は一生のことだ。伊織、二人でちゃんとやっていこう」

伊織と彰紀は幼なじみだった。彼女はごく小さい頃から、このクールで無口な隣家の兄を好きで、あらゆる手を尽くして想いを伝えようとした。

しかし、彰紀の心は動かなかった。伊織がまさに諦めかけていたその時、彼は突然、結婚を申し込んだのだった。

伊織は嬉しさのあまり涙を流した。長い苦労の末に、ついに報われたのだと思ったのだ。

結婚後、彼は彼女に優しかった。以前のような冷たさはなく、むしろ甘やかし、寛大な態度が増えていた。

あの頃を思い出す。伊織がとてつもなく高価なダイヤモンドのネックレスを欲しがった時、家族は皆、買うことを許さなかった。彰紀がそれを知ると、何も言わず、数日後にはそのネックレスを枕元に置いてくれたのだった。

「俺の妻が欲しいと言うものなら、何だって手に入るさ」

その夜、彼女は感動のあまり涙があふれ、男の唇を激しく奪うようにキスした。彼は拒まず、むしろそのキスを深めた。

伊織は、二人がこのまま幸せな時間を続けていけるのだと、本気で信じていた。

それが、三ヶ月前に、彰紀の初恋の人、沢田涼子(さわだ りょうこ)が突然帰国し、離婚届けを携えて現れるまでは。

伊織はその時、初めて理解した。なぜ彰紀が突然、自分に結婚を申し込んだのかを。それはついに彼女の一途な思いに打たれたからではなかった。

ただ……彼が愛したあの女性が結婚したからに過ぎなかったのだ。

そうした思いが頭をよぎり、伊織の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。胸が締め付けられるように痛む。寝室のドアがいつ開いたのか、彼女は全く気づいていなかった。

涙でぼやけた視界の中で、伊織ははっとした。ふと見ると、そこには眉をひそめ、明らかに苛立っている夫の姿があった。

「また、何を泣いているんだ?」

「言っただろう?涼子は離婚したばかりで、状態がとても悪いんだ。彼女のそばに誰かいてやる必要がある。お前はいつもこの件で、理不尽なわがままを言わないでくれないか?」

彰紀は疲れたように眉間を押さえ、伊織を慰めようと近づく気配すら見せなかった。

彼は振り返り、スーツケースに何枚かの服を詰めると、ファスナーを閉め、また出て行こうとした。

どこへ行くのか、いつ戻るのか——伊織に一言も告げることはなかった。

わざわざ聞くまでもなかった。涼子が帰国し、軽いうつ病と診断されて以来、彰紀はほとんど毎日、彼女のそばにいた。

今回帰宅したのも、おそらく着替えを取るためだけだったのだ。

伊織は初めて、これまでのように走り寄って彼の腰を抱き、「行かないで、自分の夫が他の女性のそばにいるのが嫌なの」と泣きながら懇願しなかった。

彼女はただ、その場に立ち尽くし、男の背中が遠ざかっていくのを見つめていた。

もう、この結婚も、ここで終わりを迎えるのだと、彼女は悟ったのだった。

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第1話
「先輩、私、あなたと一緒に海外へ研修に行くことに決めた」電話の向こうで、今井佑樹(いまい ゆうき)は小森伊織(こもり いおり)がようやく下した決断を聞き、抑えきれない興奮を覚えた。ただ、少し冷静になって、彼は躊躇いながら口を開いた。「伊織、本当に考えたのか?今回、行ったら三年から五年、いやもっと長く滞在するかもしれないんだぞ。君には家庭がある。ご主人は……同意してくれるのか?」伊織はわずかに言葉に詰まり、唇の端を自嘲気味に歪めた。川井彰紀(かわい あきのり)か……彼が自分がすぐに海外に行き、完全に縁を切ろうとしていることを知ったら、きっと心底、喜ぶだろうな。伊織は心に湧き上がる苦い思いを必死に押し殺し、言った。「大丈夫だ、先輩。これは私自身のこと。彼とは関係ない」その口調は冷たく、電話で話題にのぼった「彼」とはまるで無関係であるかのようだった。かつて、二人の関係はこんな風ではなかったのに。伊織は電話を切り、ぼんやりと寝室の壁にかかった結婚写真を見つめた。彰紀が彼女の腰を抱き、普段は冷たい印象の整った顔にも、ほのかな笑みが浮かんでいた。結婚式の日、彼は言った。「結婚は一生のことだ。伊織、二人でちゃんとやっていこう」伊織と彰紀は幼なじみだった。彼女はごく小さい頃から、このクールで無口な隣家の兄を好きで、あらゆる手を尽くして想いを伝えようとした。しかし、彰紀の心は動かなかった。伊織がまさに諦めかけていたその時、彼は突然、結婚を申し込んだのだった。伊織は嬉しさのあまり涙を流した。長い苦労の末に、ついに報われたのだと思ったのだ。結婚後、彼は彼女に優しかった。以前のような冷たさはなく、むしろ甘やかし、寛大な態度が増えていた。あの頃を思い出す。伊織がとてつもなく高価なダイヤモンドのネックレスを欲しがった時、家族は皆、買うことを許さなかった。彰紀がそれを知ると、何も言わず、数日後にはそのネックレスを枕元に置いてくれたのだった。「俺の妻が欲しいと言うものなら、何だって手に入るさ」その夜、彼女は感動のあまり涙があふれ、男の唇を激しく奪うようにキスした。彼は拒まず、むしろそのキスを深めた。伊織は、二人がこのまま幸せな時間を続けていけるのだと、本気で信じていた。それが、三ヶ月前に、彰紀の初恋の人、沢田涼
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第2話
翌日、伊織は早々に舞踊団に到着した。彼女は幼い頃からダンスを学び、非常に優秀な成績を収めていた。もともとはこの道を極めようと思っていたのだ。ところが、彰紀が言った。「踊る女は好きじゃない。それに、お前が踊るのはなおさら嫌だ」と。伊織は奇妙に感じつつも、それでも彰紀を心底愛していた。何もかも彼を中心に考えたいと願い、ためらうことなく舞踊団を辞めた。そして次第に、補助的な指導の仕事だけをするようになっていった。それなのに、舞台に戻った初日、人垣の向こう、観客席の最前列に座る彰紀の姿を、伊織は一目で見つけてしまった。その瞬間、頭の中が真っ白になった。ふと、涼子もダンスを習っていたことを思い出したのだ。伊織が横を見ると、顔色は青白いものの、きちんと化粧を整えた沢田涼子がすぐそばに立っていた。どうやら彼女が、先生の口にしていた有名なダンサー、今日の主役だったらしい。涼子は伊織の存在に気づいていないようだった。その瞳は、舞台下の彰紀だけを一心に見つめ、恋慕の情をたたえている。彰紀もまた、彼女をしっかりと見つめ返していた。称賛と愛情に満ちた眼差しだった。伊織は突然、胸の奥が締め付けられるような苦しみを覚えた。彼が嫌いなのは踊る女ではなかった。踊る沢田涼子だけを愛していたのだ。あの最も美しい思い出は、同じ寝床を共にする妻すら、ほんの少しも触れてはならない聖域だった――そう思うと、伊織の涙はまたも止まらずにこぼれ落ちた。空間を隔てて絡み合う二人の熱い視線を眺めながら、伊織は心に誓った。これが最後だ、彰紀のために泣くのはこれが最後だと。もう二度と、こんなことはない。感情を整えると、伊織は涼子と共に舞台へと歩き出した。しかし、誰が予想しただろうか。公演が中盤に入った頃、舞台上の梁が突然緩み、ガタガタと音を立てて揺れ、今にも落ちてきそうになったのだ。「涼子!」彰紀の目が鋭く光った。彼は猛然と駆け上がり、伊織を一蹴りするように突き飛ばすと、涼子を強く抱きしめた。伊織は身体に激しい痛みを感じ、勢いよく床に叩きつけられた。目を回す中、自分の夫が涼子を抱きかかえる姿が映った。その表情に浮かぶ緊張感は、伊織がこれまで見たことのないものだった。「涼子、大丈夫か?」「ええ……」涼子は彰紀の胸にすがりつき、哀れっぽく彼のシャツ
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第3話
伊織は一瞬、はっとした。彰紀がまた誤解しているのだ。昔のように、ちょっとしたことで気弱に振る舞ったり仮病を使ったりして、彼の心を和らげ、自分を気遣わせようとしている、と思い込んでいるのだ。あの頃なら、彰紀は喜んでしゃがみ込み、どこが痛いのか尋ね、それからとても甘ったるくキスをしてくれたものだ。けれど今……目に映るのは嫌悪の色だけだった。伊織は説明せず、ただ黙って湿布薬を貼り終えてから、淡々と言った。「大丈夫よ」振り返って階段を上ろうとしたところを、彰紀に手首をぎゅっと掴まれた。彼はかなりの力を込めていて、怒りを秘めているようだった。「涼子が言うには、あの舞台装置はお前と佑樹が準備したんだってな。だから……」伊織ははたと気づいた。彼は自分が涼子を傷つけようとしたのではないかと疑っているのだ。胸の奥に押し込めていた悔しさがまた込み上げてきた。三年もの間、同じ屋根の下で寝起きを共にしてきたのに、それでも彼の初恋の相手の一言には敵わないのだ。伊織は胸のつかえを必死に押し殺し、一言一言をはっきりと言った。「私、そんなことしてないわ。昔だって、これからだって、絶対にしない」「じゃあ、裏方でお前と佑樹がこそこそ何を話してたんだ?」彰紀は詰め寄り、整った顔立ちを怒りで歪めていた。伊織は少し間を置いた。彼女が佑樹に尋ねていたのは、留学の手続きについてだった。けれど今はまだビザの書類も下りていない。彰紀に無駄な期待を抱かせたくなかった彼女は、適当な嘘を口にした。「次の舞台の振り付けの話よ。聞きたい?」案の定、彰紀はそれ以上は問い詰めなかった。彼はもともと伊織のことにあまり関心を持っていなかった。最後に一言だけ残した。「涼子に何か企んでるんじゃないだろうな。ああ、それと、明日は家族の集まりだ。早めに来いよ」伊織は見送った。彰紀は別荘のドアを素早く通り抜け、一瞬たりとも振り返ろうとはしなかった。しばらくすると、彼女の携帯に知らない番号からの友達申請が届いた。承諾をタップすると、すぐに一枚の写真が送られてきた。細い足首の上に、冷たく白い長い指がそっと置かれている。とても丁寧で、気遣いのこもった仕草に見えた。その大きな手の薬指には、深く刻まれた指輪の跡があった。それは伊織と彰紀の結婚指輪の跡だ。けれど今はもう、指から外されている。
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第4話
彰紀と涼子が付き合っていた頃は、二人ともまだ若く、誰にも知られないようにしていた。彰紀の両親はそのことを知らず、涼子を単に、鬱病を患い行き場のない彰紀の友人だと思っていた。だから彼女に親切にし、ついには彰紀の隣に座らせるほどだった。伊織は、涼子に料理を取り分け、細やかに気遣う彰紀の優しい姿を見て、突然、目の前の食事が味気ないものに思えてきた。まずくてたまらなかった。適当な言い訳をして、裏庭へと抜け出した。長く伸びた陽の光が降り注ぐ花園の中、一本の小さな木が、まるで場違いなように立っていた。伊織が近づいて見ていると、背後から冷たい声が聞こえた。「あれは高校の時、涼子と一緒に植えたんだ」伊織ははっとし、振り返ると、顔をこわばらせた彰紀が立っていた。伊織は淡々と「そう」とだけ応えた。自分の夫と他の女性との過去の話には、正直、興味がなかった。立ち去ろうとすると、彰紀がまた彼女の腕を掴んだ。その目には、渦巻くような、伊織には理解できない感情があった。「俺が高校生の頃、親が離婚騒ぎをしてて……心の病にかかってしまったんだ。周りで好意を持ってくれてた奴らもみんな離れていった。でも、涼子だけは最後までそばにいてくれて……だから……」彰紀はそれ以上は言わなかったが、伊織にはわかった。だからこそ、彼はこれほど長い間、涼子を忘れられなかったのだ。伊織は急に、情けなく思えた。高校時代、彼女も彰紀にたくさんの手紙を書いていた。当時の彰紀はとても人付き合いが悪いで、性格も捻くれていた。伊織はむやみに近づく勇気がなく、机の中にそっと忍ばせるだけだった。でも、彼女の手紙と涼子のそれとは違っていた。涼子は彰紀の心の中に入り込めた。彼女にはそれができなかった。伊織は口元をゆがめて、自嘲気味に言った。「だから、あなたは彼女がそんなに好きなのね」彰紀はその質問には答えず、否定もしなかった。代わりに顔を上げて、伊織に尋ねた。「……お前は?なぜ俺が好きなんだ?」伊織は一瞬、言葉に詰まった。彰紀が好きな理由はたくさんあった。彼が格好良かったから、子供の頃、遊んでいていつも彼が守ってくれたから……あまりに多すぎた。しかし、伊織が話し終える前に、遠くから涼子が走ってきて、勢いよく彰紀の胸に飛び込んだ。「彰紀……また頭が痛くな
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第5話
伊織は内心で驚いたが、すぐに平静を取り戻した。「ああ、数日後に公演があるの。舞踊団で合宿練習に入るから」彰紀はうなずき、伊織が言いたいのはそれだけかと思った。再び歩き出そうとしたその時、背後から伊織に呼び止められた。「彰紀……私が踊るのは『錦瑟』なの。公演、見に来てくれない?」全く同じ言葉を、伊織は何年も前に彰紀にかけたことがあった。あの頃、二人は熱い恋のさなかだった。だから、伊織が外で踊ることを好まなかった彰紀も、優しくうなずいたものだ。「うん、伊織の初舞台だろ?必ず行くよ」しかし今は、昔とは状況が違う。彰紀はしばらく考え、振り返ると、伊織の瞳に浮かぶ切実な願いを見た。結局、彼はうなずいた。「特に用事がなければ行くよ」そう言い終えると、彼は一言も残さず、きっぱりとその場を去った。その夜、伊織の元には涼子から、またしても曖昧な写真が何枚も送られてきた。彼女はそれらを見て、ただ無表情に笑った。心はすでに何の波紋も立たなくなっていた。この結婚はとっくにぼろぼろに傷だらけ。彼女にできるのは、せめてこの感情にきれいな終止符を打つことだけ。ただそれだけだった。伊織は荷物をすべてまとめ、その夜のうちに舞踊団の寮に移った。そしてすぐに練習に没頭した。およそ二週間近く、伊織は食事制限をしながら稽古に打ち込み、ダンスシューズを二足も駄目にした。公演当日、彼女は早くに起きてメイクを済ませ、振り付けを復習した。そして最後に、勇気を振り絞って彰紀にメッセージを送った。【今日……来てくれるよね?】彰紀の返事はかなり遅れて届き、たった一言だった。【ああ】伊織は心の底から微笑んだ。手元には積み上げられた日記帳と一枚のカード。それは彼女が十数年もの間、彰紀を想い続けてきた記録の全てだった。この舞を踊り終えたら、それを彼に渡し、そして去ろう。かつて彼女がこの舞を踊り終えた時、彼は彼女に夢にまで見た結婚を与えてくれたのように。今度は、彼女が十数年にわたる想いを返し、彼が本当に好きな人と一緒になれるようにしてあげるのだ。伊織はカードに書き記した。【そばにいてくれてありがとう。これからも、どうかお幸せに】一緒に渡すのは、離婚届だった。全てを終えると、伊織は前日のリハーサルで決められた位置に、早々と舞
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第6話
書類はとっくに揃っていたので、伊織はその晩、パリ行きの航空券をすぐに手配した。佑樹が手配した車で、彼は自分もすぐに向かうと告げ、すでに始まっているステージを眺めながら深いため息をついた。「伊織、他に何か段取りしておくことはないか?」伊織は考えた。彼女は昔から独立心が強く、両親も彼女のことに口出しすることはなかった。本当に伝えることは何もないようだった。ただ一つだけあるとすれば……伊織はテーブルの上の大きな箱を佑樹に手渡し、声を潜めて言った。「先輩、これ、川井家に届けてくれないか?中身は彰紀へのものだ」佑樹の目に一瞬、複雑な色が走ったが、彼はうなずくと、車のドアを閉めた。空港へ向かう車中、伊織は彰紀から何度も電話を受けた。彼女はすべて切った。しかし相手が諦めずにかけ続けるので、仕方なく最後には出た。「あのダンス、涼子がとても気に入った。譲ってやったよ」伊織は淡々と「ええ」とだけ返した。彼女がこんなにも平静であることに、彰紀は面喰らったようだ。言葉を続けた。「彼女は体調が良くないんだ。少しは譲ってやってくれ。今度ソロの機会があって、もし彼女が気に入らなかったら、お前にやらせる」「だが、このダンスだけは駄目だ」そう言い終えると、彰紀は電話をきっぱりと切った。伊織は口元をわずかに歪ませた。人そのものを捨てるというのに、たかが一本のダンスを気にするものか?彼女は何気なくスマートフォンを操作していたが、ふと表示されたトレンドワードの見出しに目が留まった。【離婚した社長がバレエの女神にプロポーズ!契りのダンスが証に!】伊織は一瞬、固まった。タップして開くと、ステージの真ん中にいる彰紀は質素な身なりながらも、その気品を隠しきれていない。片膝をつき、指輪を掲げて花束を抱えた涼子に向かっている。動画からは、彰紀の「結婚してくれ」という言葉がはっきりと聞こえてきた。その投稿にはすでに何千万ものコメントが寄せられていた。【『錦瑟』って、川井社長が涼子さんのダンスを初めて見た時の演目らしいよ。その時から好きだったんだろうね】【昔別れた恋人同士の再会、ああああめっちゃキュンとする!たまらないわ】【やっぱりあの小森伊織とは政略結婚で、愛情なんてなかったんだ。彼がずっと好きだったのは涼子ちゃんだったの!】
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第7話
舞台袖で、彰紀は鳴り続ける携帯電話を見つめていた。どれもこれも、沢田涼子との関係について問い合わせるものだ。しかし、何百と鳴り響く着信音の中に、伊織からのものはただの一通もなかった。彼の胸に、漠然とした不安が湧き上がる。ついさっき、電話の向こうであの娘が発した、柔らかでありながらも明らかに無関心な声が耳の奥でこびりついていた。「ええ、いいの。沢田さんが気に入ってくだされば、それで」以前の彼女なら、決してそんな風に話したりしなかった。騒ぎ、怒り、時には物を壊すほど取り乱すこともあったけれど、自分の所有物が別の女性に奪われるのを、これほどまでに静かに見つめることは決してなかった。その胸の内に渦巻く不安はどんどん大きくなり、涼子が近づいてきた瞬間、彰紀は反射的に立ち上がり、距離を取った。「俺……家に戻る」涼子が彼の腕を掴もうとしたが、その手は届かなかった。帰路、彰紀の車は猛烈なスピードで飛ばした。彼自身も気づかないほど、その目には焦りが宿っていた。頭の中はただ一つの疑問でいっぱいだった——なぜ彼女は一本も電話をくれないのか?以前の彼女なら、帰りがほんの少し遅れただけで、何十本も電話をかけてきたものだ。いったいいつから、彼の行動を問いたださなくなったのか?どこに行くのか気にかけなくなったのか?彰紀の思考は乱れ、車が到着すると、彼は猛スピードで別荘へ駆け込んだ。そこで気づいた。別荘には誰もおらず、玄関には伊織の靴も、コート掛けには彼女の服も、何もかもがなかったのだ。彼女はどこへ行った?なぜまだ戻ってこない?彰紀の胸の不安はますます大きくなった。彼は家政婦に駆け寄り、声を荒げて尋ねた。「奥様は戻られたか?」「いいえ」家政婦は首を振ると、一枚の書類を差し出した。「ですが旦那様、奥様からこれが届いております」震える手で封筒を開け、中身を目にした彰紀は、その場に釘付けになった。まるで足元が崩れ落ちるような衝撃だった。離婚届。なんと……彼女は本当に離婚する気だったのだ。彰紀の指はさらに激しく震えた。彼は突然、恐ろしい事実に気づいた。おそらく、もう二度と小森伊織には会えないだろう。彼女は離婚届一枚を残して去った。もはや彼の妻ではない。二人の間には、何の繋がりも残されていなかった。
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第8話
パリに到着して間もなく、佑樹はすぐに駆けつけてきた。芸術学校の構内で、伊織は、旅の疲れがにじむ先輩の姿を見て、心の奥底がじんと熱くなった。彼女と佑樹は、子供の頃のダンス教室以来の同窓だった。その後もずっとダンスを共に学び、彼は彼女の先輩となった。彼女の恋愛感情は紆余曲折あったけれど、この友情だけは変わらずに続いてきたのだった。伊織は心のうちを素直に口にした。「先輩、ありがとう。落ち着いたらご飯おごるね。先輩という友達がいなかったら、私はどうすればいいか、本当にわからなかったと思うんだ」「友達」という言葉を聞いた瞬間、佑樹の笑みがほんのわずか固まったが、すぐに普段の表情を取り戻した。「気にしないで。入学手続きが終われば、また新しいスタートだよ」伊織はうなずき、手続きの書類の準備を始めた。彼女の細くてか弱そうな背中を見つめながら、佑樹は思わず考えてしまった。もし、あの賭けの話を自分がわざと彰紀にリークしたことを、彼女が知ったら、どんな表情をするだろうか。怒る?悲しむ?それとも……平気な顔をする?佑樹は首を振り、頭の中の最後の迷いを振り払おうとした。背後から人の恋路を妨害するなんて、確かにあまり筋が良いことじゃない。でも、筋を通すことと伊織のどちらかを選べと言われたら――彼は迷わず彼女を選ぶ。彰紀は目の前の離婚届を呆然と見つめていた。しばらくは我に返れなかった。そこへ涼子が駆け込んできて、彼の胸に飛び込もうとした。「彰紀、どうして……」男は立ち上がると、涼子をぐいと押しのけ、冷たく言い放った。「お前、何しに来た?」その表情は冷ややかで、ついさっきまで深い愛情を込めてプロポーズしていた男とは別人のようだった。涼子はそれを見て、必死に笑顔を作った。「私たち、結婚するんじゃなかった?あなた……」続く言葉が言い終わらないうちに、彰紀の鋭い声が遮った。「涼子!」「分かってるだろう?お前を一時的にかくまっているだけだ。それ以上の関係はありえない」男の冷たい態度を見て、涼子に一気に悔しさが込み上げてきた。なぜ?もともと自分たちこそが一組だったはずなのに。彼女が戻ってきてからというもの、彰紀は彼女を小森伊織を刺激するための道具としてしか見ておらず、ろくに目も合わせようとしない。涼子は思わず涙をこぼした。駆
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第9話
伊織は、佑樹が向かいのアパートのドアを開けるのをぼうっと見つめた。「先輩、ここに住んでるのか?」予算の都合で、伊織はかなり安い物件を選んだ。場所もあまり良くなかった。対して佑樹は裕福な家庭に育ち、普段から生活の質にこだわるタイプだ。まさか隣人になるとは、伊織は夢にも思っていなかった。佑樹は微笑んだ。「近くにいたほうが……お互いの面倒を見やすいから」伊織は笑顔を見せた。「いいわよ。そのうちパリの奥さん連れてきて、私が美味しいもの作ってあげる」佑樹の表情が一瞬で曇った。「伊織、まだ川井彰紀のことが好きなのか?」伊織の笑みが凍りついた。「好きじゃない」と口元を引きつらせながら、彼女は言った。「離婚の手続きが済んだら、私たち何の関係もなくなるんだから」最初から彼女のものではなかった感情に、未練を残す必要なんてない。……「川井社長、奥様がパリ行きの航空券を購入したことが判明しました」パリ……確かパリに留学したいって言ってたな。「一人か?」「奥様の先輩、今井佑樹氏も同行しています」ふと、彰紀は手にしたタバコを消した。全身から危険な気配が漂っている。「航空券を手配しろ」「最も早くパリに着く便で」空港へ向かう車中、彰紀の携帯に涼子から着信があった。泣き声が聞こえる。「彰紀さん、寂しいんです。また悪夢を見ちゃって……会いに来てくれないか?」「用事がある」彰紀は答えた。早く電話を切りたいという苛立ちを隠せない。だが、ふと思い出したように問いかけた。「涼子、あの夜、伊織を見なかったか?」「お前の公演があった夜だ。それか……彼女が何か置いていったりしなかったか?」彰紀はどこか腑に落ちなかった。小森伊織という女は、いつだって儀式めいたことを大切にするタイプだ。見た目が綺麗なコーヒー一杯でさえ、写真を撮り、文章に綴るような女だ。離婚という大事な決断を、彼女が一言の置き手紙もなしに済ませるはずがない。それほどまでに、俺が嫌いになったというのか?そう考えた瞬間、彰紀は思わず携帯を握りしめた。携帯の向こうで、涼子は一瞬たじろいだが、すぐに答えた。「いいえ」「何も見ていない」彰紀は低く「ああ」と応じた。声には隠しきれない苛立ちがにじんでいた。携帯の向こう側、涼子は手元に積まれた日記帳を見つめ
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第10話
「ええ、隣の部屋に住む若い男性ですよ」老婦人は隣のドアを指さしながら、真剣な口調で付け加えた。「あのカップル、実に面白いんです。わざわざ二部屋も借りてるんですから。男の子は本当に紳士で……」彰紀が考えるまでもなかった。隣に住んでいるのは間違いなく今井佑樹だ!妻を攫うような奴が、よくも紳士面を!彰紀の額に青筋が浮かび上がり、端整な顔つきは一層冷たく硬くなった。「あいつらはどこへ行った?」老婦人は首を振った。「さあ……遅くなるんでしょうね。デートって時間がかかるものですから」「デート」という言葉が、一度ならず二度も聞こえてくるたびに、ナイフのように彰紀の心臓を抉った。顔色はますます険しくなり、彼は素早く足を返して階段を駆け下りた。後ろにはアシスタントが英語で謝罪する声だけが残った。「申し訳ありません、ありがとうございます」「普段はこうじゃないんです。妻が……行方不明になって、取り乱してまして……」伊織と佑樹が公演を終え、家路につく頃になっても、伊織は佑樹が朝、隣の夫人に言った「デートに出かける」という言葉がまだ引っかかっていた。彼女の美しい顔は少し紅潮し、やや怒り気味だった。「先輩、どうして隣の奥様に、私たちがデートに行くなんて言ったの?」「私たち、そんな関係じゃないのに……」佑樹は彼女が距離を置こうとする様子を見て、心の奥でさらに冷たいものを感じた。しかし、表情には一切出さず、相変わらず優しい紳士然とした態度を崩さなかった。「ただ何気なく言っただけさ。そんなに気になるのかい?」伊織は強くうなずいた。彼女は今、恋愛に関わるどんなことにも巻き込まれたくなかった。特に、こんな曖昧な状態で、しかも大切な友人である彼と一緒にいることには。「わかった、次からは言わないよ」佑樹は笑って、彼女の髪を撫でようとしたが、伊織はそれをかわした。伊織には理由がわからなかった。フランスに来てから、佑樹に以前ほどの親しみやすさを感じられなくなっていた。具体的には言えないが、ただただ違和感を感じるのだ。だから彼女は佑樹と距離を置き、手を振った。「先輩、私、少し一人でぶらぶらしたい。先に帰っていいよ」そう言うと、彼女は家とは反対の方向へ、まるで佑樹が追いかけてくるのを恐れるかのように、足早に歩き去った。間もなくして佑樹の姿は見え
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