LOGINその状況に遥はとても驚いた。このボディーガードは、一目見ただけで館内の普通の警備員ではないと分かるのだ。遥のボディーガードは全員外にいた。実際彼女もまさか館内でトラブルが起きるなんて、思ってもみなかったから。遥は数秒考えると、やはり後を追った。もしかしたら、月子が何か仕組んだのかもしれない。月子は隼人と付き合っていたのだ。会ったこともない妹がこれほどの驚きを与えてくれたので、遥が月子に好奇心を抱くのは当然だった。一方で楓は、このボディーガードが騒ぎを起こすのを止めようとしているのではなく、自分を懲らしめにきたのだと気づいた。それには楓も少し恐怖を感じた。幸い、視界の隅に遥が追ってくるのが見えた。遥ならきっと助けてくれるはずだ。ただそのせいで、周りから笑いものにされたようだ。自分がこんな惨めな目に遭うのも、全部月子のせいだ。あの女。展示館の倉庫は美術品を保管するため、どこもスペースが広い。そこは関係者以外立ち入り禁止の区域だった。楓が引きずり込まれると、すぐにドアは閉められた。遥は外で足止めされた。その時になって初めて、楓は本物の恐怖を感じた。楓は倉庫の隅に放り出された。警察に通報しようとスマホを取り出すと、そのボディーガードに奪い取られた。突然、何の予兆もなく平手打ちが彼女の顔に炸裂した。激痛が走り、楓は悲鳴を上げた。「あなたたち、誰よ!よくも私を殴ったわね!」このボディーガードは特殊部隊の出身で、命令を実行することが彼の天職だった。その体からは殺伐としたオーラが漂っていた。ボディーガードはまるで冷たい道具のようだった。楓の悲鳴や詰問にも、少しも動じる様子はなかった。「もう一発。ちゃんと懲らしめて」それは、ひどく傲慢な声だった。楓はこれまで多くの人を見てきた。この言葉に含まれる傲慢さから、相手が裕福な家の令嬢であることは間違いなかった。彼女が考える間もなく、重い平手打ちが飛んできた。歯で口の中が切れ、血の味が広がり、口の端から血が滲み出た。続いてめまいがして、数秒間、頭の中が真っ白になった。楓も、J市社交界では名のある令嬢だ。家柄は鷹司家には遠く及ばないものの、資産は数千億円もある、正真正銘のセレブだった。しかも、兄の賢は家業を継いでいないが人脈は広く、影響力で言えば、実
人は誰かを好きになると、感覚が鋭くなるものだ。楓は、ほとんど一瞬で察した。それから彼女は狂ったように賢に付きまとい、隼人と月子が付き合っていることを突き止めた。片思いの相手に恋人ができたという事実は、楓にとって失恋と同じくらい辛いことだった。楓は、この数か月間をどうやって耐えてきたのか自分でも分からないほどだった。遥がそばにいてくれたのが、せめてもの救いだった。そして最近、遥に協力してもらい、隼人が引っ越したことを突き止めた。これで二人が別れたと確信した楓は、傷心が一瞬で癒えるほどの喜びを感じていた。以前は月子なんて眼中になく、恋敵とさえ思っていなかった。それなのに、本当に隼人と付き合っていたのだ。二人がキスをしたり、抱き合ったり、体を重ねていたかもしれないと想像するだけで、楓は月子への憎しみに駆られた。そして、今月子に会ってみると元気がないように見えた。きっと心の底から傷ついているんだろうな。いい気味ね。もともと釣り合わないくせに、よくも図々しく隼人と纏わりついたものね。身の程をわきまえない人間が一番ムカつくんだからと楓は思った。だから、二人が別れたと確信すると、楓はこのうえなく気分が良かった。彼女は周りに展示されている作品を見回してから、月子に視線を戻した。「美術展なんて見に来る余裕があるんですね。本当に彼のことが好きだったのですか?別れたなら、普通はズタボロになって、しばらく引きこもるものですよ。まあ、あなた達が別れてくれて、私はすっきりしましたけど。こうしてあなたの惨めな姿を見れたんですから」楓は嘲笑った。「でも、あなたにこの作品が理解できるのですか?あなたみたいな人がアートなんて、笑わせないでくださいよ」楓は芸術家なだけに、個性が強く、言葉もキツくて耳障りなことが多かった。ひらったく言えば、彼女は礼儀知らずなところがあるのだ。遥が隣で楓をなだめた。「楓さん、もういいから、落ち着いて」「落ち着けるわけないでしょ!家柄も資産もない、おまけにバツイチよ?彼女のどこが隼人に釣り合うっていうの!思い出すだけで虫唾が走る。気が収まるわけないじゃない!」月子は楓が言い終わるのを待ってから口を開いた。「楓さん、あなたが好きな人に振り向いてもらえない理由、まだ分からないのですか?」楓は虚を突かれた。「ふん、
「個性派の新進気鋭アーティストで、作品は大胆な色使いで知られてて。一枚の絵が数千万円以上で取引されるらしいよ」桜はまたスマホをタップした。「まっ、全部話題作りってとこね。裏に専門のPRチームがついてるの。それに、マネーロンダリングみたいな裏の工作もしているらしい。有名人の資産隠しを手伝ったりしてるみたい。彼女の芸術的才能は、噂されてるほどじゃないってことね」美咲は天音と知り合ってから、本当に視野が広がった。彼女が一番強く感じたのは、絶大な資金力の前では、才能のない人間でも名声と富の両方を手に入れられるということ。まるで初めて新しい世界に足を踏み入れたようで、世の中のルールが根底から覆され、大きな衝撃を受けた。「たかが数千万円のために、こそこそ資産隠しなんてする必要がある?少なくとも数十億円の値がつく骨董品のオークションとか、数億円レベルの美術品じゃないの?」と天音は尋ねた。竜紀は言った。「それは純資産がいくらあるかによる。資産が少なければ、その程度の額しか動かせない。あるいは、この新進画家の芸術的価値が、その程度だってことだな」「ちょっと待って、彼女の経歴、結構すごいわよ」桜はスマホの画面を指差した。「J市社交界の一員みたい。界隈の有名人と一緒にイベントに出てる写真もたくさんある。多分家柄は悪くないはずよ」好きな人以外は誰であろうと見下す天音は、すぐに結論を出した。「てことは、家柄の良いお嬢様が小さい頃から絵を習っていたのに、結局は話題作りに頼らないと、この程度の価値しか認められないってこと?」桜は、楓の作品を探し出した。天音はそれを一瞥すると鼻で笑い、美咲に見せた。「これ、素敵だと思う?」美咲が覗き込んでみると、そこには様々な形の線が描かれていて、色使いも確かに大胆だった。天音は馬鹿にしていたが、彼女は正直に、「う……うん、結構きれいだと思う」と言った。天音はスマホを取り出し、画面をタップした。「じゃあ、こっちの絵と比べてみて。どっちがいい?」朝日が昇る様子が描かれ、色彩はより調和がとれていた。線とも一体化していて、見ていて心地よい。「それは断然こっちの絵ね」と美咲は言った。「これは海外で買ったの。ご飯も食べられないくらい貧乏な、無名のアーティストの作品よ」「……アーティストの支援までしてるなんて、あなたって
「隼人さんが子供二人を受け入れるだけでも、ものすごく大変なことなのに。この先、彼は何度もそのことで心を傷つけられることになると思うと居た堪れないの。しかも、それは一度きりでは終わらず、子供が大きくなるまでには何年も続くことなの。それはきっと彼をずっと苦しめ続けるに違いない……そんなの隼人さんにとって、あまりにも辛すぎるでしょ。最終的に、彼は傷だらけになって、思い出さえも苦いものになってしまうかもしれない。隼人さんにそんな残酷なことはできない。私には無理よ。だから、別れるのが一番いい結果なの。こう言えば、私の気持ちを分かってくれる?」彩乃はもちろん分かっていた。でも、分かれば分かるほど、胸が痛くてたまらなかった。「あなた達って本当……別れを切り出した時、鷹司社長はあなたを引き止めなかったの?」「彼はすぐに別れに同意してくれた」「そんなはずないでしょ。鷹司社長は、あんなにあなたに執着してたのに……」月子は虚ろな笑みを浮かべた。「それは、隼人さんが私のことを理解しすぎてるからよ。どうして私が別れたいのか、ちゃんと分かってるの。別れたくなくても、引き止めることはできなかった。別れなければ私がもっと苦しむって、彼には分かっていたのよ。彼も、私のことを考えてくれたの」言葉にしなくても、相手がなぜその選択をしたのかが分かる。月子と隼人は、それほどまでに心が通じ合い、お互いを思いやっていた。だからこそ、別れ際に言い争うこともなく、ただ静かに離れることができたのだ。しかし、月子は隼人にはっきりと「別れよう」とも「さようなら」とも言ったわけではなかった。そんな言葉を口にするのは、二人にとってあまりにも残酷すぎたからだ。すべてを理解した彩乃は、もう何も言わなかった。ただ、本当に胸が痛かった。せっかく二人は出会って、あんなに素敵で甘い時間を過ごしたのに。幸せな結末を迎えるどころか、別れるしかない状況に追い込まれてしまったなんて。「おいで」彩乃は月子を抱きしめ、少しでも彼女を温めてあげたいと思った。そして、静真を罵り始めた。彼の無責任さ、後先を考えない行動、二つの小さな命を何とも思っていない態度を……罵れば罵るほど腹が立ってきて、最後にはありとあらゆる悪口で彼をこき下ろした。もちろん、月子だって早く立ち直りたかった。けれど、隼人を忘れることは、
そう言った直後、彩乃がドアを開けて入ってきた。そして、月子の描いた絵が目に入った。美術展によく足を運ぶ彩乃は、その絵から伝わってくる感情に一瞬で心を掴まれた。それは息をのむほど素晴らしい出来栄えで、美術展でそこそこ有名な画家たちの作品とは比べ物にならないほどだった。月子を見ると、彼女の表情はいつも通りで、見た目には元気そうだった。しかし、本当の気持ちはすべて心の中に押し殺しているようだ。本当に強がりな子だ。死ぬほど辛いはずなのに、仕事のスケジュールを一切遅らせようとしないのだから、会社の同僚もほとんど彼女の変化には気づいていなかったのだ。でも彩乃は月子を気にかけて、気晴らしに飲みに連れ出したりしていた。そうでもしないと、月子は仕事で自分を追い詰め、壊れてしまいそうだったから。気持ちが落ち込んでいる時だからこそ、体まで壊すわけにはいかない。だから彩乃は、最近ずっと月子のそばにいるようにしていた。しかし、この絵を見てしまったら、何日も胸にしまっていた言葉が、つい口からこぼれてしまった。「月子、鷹司社長はまだあなたと一緒にいたいって言ってるんでしょ……本当にすごい人だと思う。でも、あなたの親友としては、私にも言いたいことがあるの」月子は彼女の方を向いて尋ねた。「言いたいことって、何?」彩乃は、はっきりと口にした。「もちろん、鷹司社長を受け入れてほしいってことよ。彼の気持ちをね。考えてみて。もし別れなければ、鷹司社長と一緒にいられた。子供が生まれたら大変なこともたくさんあるだろうけど、彼ならちゃんとあなたと一緒に背負ってくれるはずよ。でも今のあなたは、失恋の辛さを抱えながら、これから先、一人であのヤバい静真と向き合わなきゃいけないのよ。二人の子供の成長や教育のことも心配しなきゃいけない。頭がおかしいんじゃないかと思うような男に、まともな子供が育てられるわけないじゃない。彼自身が普通じゃないんだから。月子、あなたがもし子供たちを放っておけるような人なら、話は別よ。でも静真は、あなたの性格を分かってるから、子供を使ってあなたを縛り付けてるんでしょ。彼はきっと、子供が辛い思いをしてるってあなたの耳に入れてくるわ。子供に何かあったら、あなたは絶対に見過ごせないもの。子供たちが大人になるまで、あと十八年もあるのよ。一人だって大変なのに、二人も。
「私……今……一人じゃいられない……ねえ、そばにいてくれないかな……もう無理……彩乃、もう無理なの。本当に、本当にもう無理……体中が痛いの、全身が、どこもかしこも全部痛くて、もう死にそう……」そう言うとスマホが月子の手から滑り落ちた。そのまま彼女は床に倒れ込み、しゃくりあげる力もなく、ただ静かに涙を流すだけだった。彩乃は月子のことが心配で、まだ近くにいた。彼女は月子からの電話を受けると、すぐに車から飛び出した。エレベーターを降りると、月子の家のドアは開けっぱなしだった。彩乃が急いで駆け込むと、リビングの床に倒れている月子の姿が目に飛び込んできた。そして、そんな彼女は生きる気力も失くし、絶望しきった顔をしていた。彩乃の目から、わっと涙が溢れ出た。彼女はすぐに月子を抱き起こすと、その頬を軽く叩いて、「大丈夫、もう大丈夫だからね……」とあやすように言った。彩乃の顔を見ると、月子の瞳にようやく光が戻った。彼女は彩乃の腰に強くしがみつき、その胸に顔をうずめた。抑え込んでいた感情と、耐え難いほどの痛みが、涙となって一気に溢れ出した。本当は月子も、こんな風に弱々しく感傷的になりたいわけではなかった。でも、本当に失恋してしまったのだ。家に帰ってきた途端、その事実があまりにもはっきりと突きつけられて、もう耐えられなくなってしまったのだ。この一週間の出張中、彼女はずっと無理して気丈に振る舞っていただけだった。自分はこんなにも隼人のことが好きだったんだ。誰にも頼りたくないと思っていた自分が、隼人のことだけは心の支えにしていた。それなのに今、その支えを根こそぎ奪われてしまったのだ。「痛い、体中が痛いの……息ができない……彩乃……彩乃……」彩乃は月子をさらに強く抱きしめ、自分の体温を必死で彼女を温めてあげようとした。できることなら月子の痛みをすべて肩代わりしてあげたかった。でも彼女にできるのはただ慰めてあげることだけだった。「痛いの痛いの、飛んでいけ。大丈夫……月子、きっと大丈夫だから。痛いの痛いの、飛んでいけ……」……出張から帰ってきて四日が経ち、月子はなんとか普通に振舞えるように落ち着いた。彼女は未だに、隼人との思い出が詰まったこの部屋にまだ住み続けている。そこはかつての甘い思い出が詰まった場所だったが、今の彼女にはとても耐え難い苦痛の