ANMELDENもし策がここにいたら、海斗がこれほど礼儀正しく自分から挨拶をすることに、腰を抜かすに違いない。海斗といえば、誰もが知る御曹司だ。彼が現れれば誰もがすぐに立ち上がり、「竹内社長」そうでなくとも「海斗様」と向こうから挨拶してくるのが普通だった。だから、海斗自身が先に他人へと声をかけることなどまずないのに……今夜は異例中の異例だ。凛は以前、海斗と一緒に接待の席へ出たことがあった。その場では誰もが海斗を中心に動き、彼を立てていたし、海斗自身もどこか人を寄せつけないような傲然とした態度を取っていた。だからこそ、こんなにも紳士的で礼儀正しい彼を目にして、思わず面食らってしまった。杏や雅美は年上だからともかく、年下である梓にまでこの態度とは。「竹内社長、お世話になっております」梓はすぐさま立ち上がり、緊張した面持ちで挨拶をした。「高木梓です。凛さんの後輩です」海斗は頷いた。「凛さんの後輩か」座っている面々を一瞥すれば、全員が凛の先生や後輩といった、名だたる顔ぶればかりだった。さらに、克哉と梓に至っては、あの交流会にも参加していた。「竹内社長、どうぞ座って」「ありがとうございます、二宮教授」海斗が着席すると、仁がすかさず食器を差し出す。そして、杏はこう付け加えた。「今日は肩書きなど忘れて。みんな凛の友人として食事を楽しんでいるだけだからね」心中には疑念も憶測もあるだろうが、ここでそれを口にしてはならない、そういうことだと海斗は察した。互いに言葉を交わさずとも、意思は通じている。杏と克哉は満足げに視線を交わした。頭の切れる相手は話が早くて助かる。「先輩!先輩も早く座ってくださいよ。全然食べてないじゃないですか」梓が凛を促した。凛が椅子に腰を下ろすと、耳元で海斗が呟いた。「食事の邪魔をしてしまったみたいだな」しかし、謝罪の気持ちなど微塵も感じられない。凛は横目で海斗をちらりと見た。分かってるなら、それでいい……そう思いながらも、表情には一切出さず、何でもないような顔で言った。「竹内社長も、召し上がってください」食事の間中、梓はずっと二人の様子を窺うように視線を向けていた。彼女が海斗と凛の関係を知りたくてたまらないのは、誰の目にも明らかだった。たとえ退職していなかったとしても、社長が部下の家にくるのは普通
凛は振り返って、ダイニングテーブルに座る杏や克哉たちを見て、彼らの元に戻る。「竹内社長です」一同は呆気に取られた。「皆さんは、このままお食事を続けていてください。私はちょっと出てきますね」凛はテーブルの携帯をポケットに入れ、ドアを開けて外に出た。海斗を見つめ、彼がいる前で扉を閉めた。そのことで、海斗は凛の家に客がいることを瞬時に察する。またその客と今、自分が顔を合わせるのは都合が悪いのだろう。「竹内社長、どうされたんですか?」ひどく寒い夜、凛は白い息を吐きながら、海斗に説明をする。「すみません、お客さんが来ていまして」「そうか」と、返事をした海斗だったが、自分がなぜ凛の家に来たかについては、彼自身でも分からなかった。なぜだか、気づいたらここまで来ていたのだ。「入札がいよいよ明日になったから、知らせようと思って」海斗はそれしか理由を見つけられなかった。凛が退職し、あの箱をすでに渡してしまった今、唯一の接点は彼女が退職時に海斗の前で少しだけ触れた、このプロジェクトだけ。こんなことになると分かっていれば、あの箱の中身をひとつずつ返したのに。しかし、凛のこの目で見つめられると、海斗は拒否なんてできなかったのだ。「君が退職の日に少しだけ口にしてたから、気になっていると思って」と海斗は言い訳を付け足す。凛は頷いて言った。「竹内社長、明日の成功を祈ってます」「もし谷口社長が負けたら、君はどうする?」この質問に違和感を覚えた凛は、変なものでも見るような視線を海斗に向けてから首を振った。「特に何もしません。勝負には勝敗があるものですから。彼が競り勝てばそれは実力ですし、そうでなくても普通のことだと思います」「もし谷口社長が何かトラブルに巻き込まれたら?」海斗は彼女の目を見つめ、そこにどんな動揺が浮かぶのか探る。その瞬間、凛の瞳がかすかに揺れた。凛が聞き返す。「何かするつもりなんですか?」「なんだ?」海斗の声が低くなった。「元旦那を心配しているのか?」「いえ、彼のことなど私には無関係ですので」凛はそう言い切り、真っ直ぐに海斗を見つめる。「ただ、明日は竹内社長にとっても重要な日ですので、真っ当に挑まれたほうがいいかと思いまして」海斗の口角がくっと上がった。「なんだ、俺のことを心配してくれていたのか」凛は怪訝な
父の言うことにも一理あると思った智也は渋々指輪を外し、財布に入れた。中には既に一つの指輪がある。二つが重なり合った今、まるで自分と凛が寄り添っているように思えた。智也の口元がわずかに緩み、その目もどこか優しげな色を帯びる。健吾は、財布のポケットの中にある二つの指輪を見て尋ねた。「どうして凛の指輪までお前が持っているんだ?」本当は智也に言いたかった。凛が指輪を外した今、お前が指輪をつける意味があるのか、と。「凛はいつも指輪を大切にしてくれていたから、家事をする時に外すんだよ。今回もきっと付け忘れただけだろうし、無くすのは心配だからここに入れておこうと思ってさ」智也はそう説明し、財布を元に戻す。一家は食事の席についた。智也は料理の写真を一枚撮り、凛に送る。【父さんが、お前は今日急用で帰ってこないって言ってたけど、何かあったのか?】凛は返信をしなかった。時を同じくして、凛は南山ヒルズ9号棟で、杏、仁、克哉と克哉の妻である佐野雅美(さの まさみ)、それに梓と一緒に夕食を食べていた。とても和やかな食卓だった。杏が何度も目を潤ませる。「ついにこの日が来たんだね。天国の史哉もきっと喜んでるよ」雅美も杏にティッシュを手渡し、しみじみと語った。「うちの主人もこれでようやくひと息つけて、私と娘と過ごす時間も増えるはずね。でも、休みだってそんなに長くないんでしょう?」「ああ、特許の売却ではなく共同研究になるから、後もいろいろとあるんだよ」克哉は笑い、雅美の手を軽く握った。「苦労かけてごめんな」「いいのよ。私と娘はあなたのことをとても誇らしく思っているんだから」そう言って、雅美は彼の皿に料理をよそう。梓が明るく言った。「私も明日が終わったら、両親に全部正直に話そうと思います。ここ数年、変な仕事をしているんじゃないかってずっと心配されていましたから。もし、警察の方がわざわざ家に行って『これ以上は聞かないように』って諭してくれていなかったら、きっと毎日問いただされていたはずです」その場が笑いに包まれた。そして、一同の視線が凛に集まる。皆、凛が今、何を考えているのか知りたかったのだ。だから、凛は言った。「今夜のうちに、サインを少し練習しておこうと思います」皆は一瞬呆気に取られたが、やがてまたその場が笑いに包まれる
入札の前日、智也は万全の状態で臨めるよう、早めに帰宅して体を休めることにした。家に着くとドアが少し開いていて、中からは料理の良い匂いが漂ってきている。「凛?帰ってきたのか?」智也がドアを開けると、リビングのソファには両親と胡桃が座っていた。呆気に取られた智也は、キッチンへ視線を走らせる。そこには、慣れない手つきで慌ただしく立ち回る人影があった。使用人だ。凛ではない。智也の目に微かな失望がよぎったのを梨花は見逃さなかった。少し腹は立ったが、明日は息子にとって大事な日だから、やはり息子の機嫌を取ることが最優先だ。「智也、お帰り。夕飯はあと少しでできるから、フルーツでも食べて待ってて」「ただいま」智也は短く声をかけ、コートを脱いだ。「先に着替えてくるよ」「ええ、分かったわ」健吾は、智也が部屋に入ったのを確認すると、すぐに胡桃へと釘を刺す。「いいか、今日は絶対に智也を怒らせるようなことはするなよ。余計な口を利くのも禁止だ」胡桃が口を尖らせる。「凛さんのことであれこれ言うなってことでしょ?私だって別に何も言わないから。それに、凛さんは何もかも綺麗に整えて、まるでもう帰ってこないみたいじゃん」「名前すら出すな」「分かってるってば。私だって、出すつもりもないし、あの人を思い出すだけで反吐が出るんだから」智也が部屋着に着替えて戻ってきたので、梨花はすぐに胡桃の肘を小突いて黙らせた。胡桃も即座に黙り込み、何事もなかったかのように黙々とフルーツを食べ始める。智也はソファーに座ると、凛に電話をかけようと携帯を取り出した。家族が皆揃っているのだから、凛を呼ばないわけにはいかないだろう。それに、今までは重要な仕事の前日には必ず凛が美味しい食事を用意し、仕事の成功を応援してくれていたのだから。なのに今日は、何の反応もない。健吾は、智也が凛へ連絡しようとしているのを見ると、すぐに制止した。「もう凛には連絡を入れてある。でも、今日は外せない用があるらしく、来られないそうだ」智也は微かに眉をひそめる。「父さんたちが、凛に連絡したのか?」「ああ、母さんや胡桃じゃなくて、俺が連絡しておいた」智也のことだ、自分たちが凛に対して何か嫌味でも言ったのではないかと疑っているのだろう。父が直接凛に連絡したと知り、智也は少し胸を
「だったら、機嫌を直してくれるかい?」「だから、怒ってなんかないってば」柚葉は英樹の腕にしがみついて揺らした。幼い頃と変わらないその甘えっぷりに、英樹もつられて笑った。「さっきは智也とかいう男と電話をしていたのか?」「うん」柚葉がうなずく。智也の名前が出た瞬間、柚葉は少し恥ずかしそうなそぶりを見せる。英樹は、孫娘をここまで夢中にさせているその若い男に、強い関心を抱いた。「海外に4年もいたお前を、本当に待ってくれていたのか?」「そうだよ。お爺様に内緒にしていただけで、毎年欠かさず誕生日には飛んできてくれてたんだから」柚葉はそのまま続ける。「別に、お爺様に内緒にしていたわけじゃなくて……男にうつつを抜かして、研究してないって思われるんじゃないかって少し怖かったの。それに、智也だって私の研究を邪魔しないようにって、そんなに頻繁には会いにこなかったし、それでも、何でも困ったときはいつも助けてくれたんだよ」英樹は深くうなずき、満足そうに目尻を下げた。「それじゃあこの4年間、そいつはずっと独り身だったってわけか?」柚葉は言葉に詰まった。しかし、すぐにこう答える。「そうよ、智也が女なんて作るわけないでしょ?それに智也は、私との子供しかいらないって言ってたんだから」英樹が柚葉をにらみつけた。「結婚どころか、まだ挨拶すら済ませていないっていうのに、何が子供だ」年寄りは皆、考えが古いんだから。一方、海外暮らしの長かった柚葉は開放的で、そんなことなど気にせず、子どもさえできれば智也と結婚できる、と思っていた。智也という男は責任感が強い。彼が今も凛と離婚せずにいるのも、結婚したことへの責任を放棄しきれないという生真面目さからなのだ。これを逆に利用すれば、子どもという武器が最強の切り札になる。この前の酒の力を借りた時……避妊道具は使っていない。もう少しで、あれから1ヶ月になる。次の生理が遅れたら、すぐ病院へ行こう。「柚葉、どうしたんだ?」考え込んでいた柚葉に、英樹が声をかけた。はっと我に返った柚葉は、そのまま言った。「智也のことを考えてたの。お爺様、智也を助けてくれるって約束したでしょ?彼は本当に仕事熱心だし、このプロジェクトだってすごく重要視してるんだから」「ああ、分かってるよ」そして、英樹はため息
英樹からの要求をすぐには受けなかった克哉だったが、その日の夜寝る前に承諾の連絡が英樹のもとに届いた。このことを話してから、半日経っての返事だったため、英樹はかなり信憑性が高いと思った。携帯をしまった英樹は、使用人に尋ねる。「ここ数日、柚葉の様子はどうだ?」「食事の時間以外は部屋か書斎に篭りっきりですよ」「庭にも出ていないのか?」英樹はわずかに眉をひそめた。使用人が静かに頷く。英樹は書斎と2階にある柚葉の部屋の方を見上げ、使用人に聞いた。「今はどこにいる?」「自室にいらっしゃいます」「そうか」英樹は自ら柚葉の部屋の前へ向かい、ドアをノックする。電話中だった柚葉は、音が聞こえるとすぐに振り返った。「誰?」実のところ、誰が来たのかは大体察しがついていた。「わしだ」英樹の力強い声が響く。柚葉はすぐにはドアを開けず、電話の相手である智也に向かって声をかけた。「お爺様が来たから、またあとで連絡するね。智也、大好きだよ。またね」電話を切ると、柚葉はわざと不機嫌そうな顔をしてドアを開けた。英樹が柚葉をじっと見つめる。「まだ怒っているのか?」「お爺様になんて怒れるわけがないでしょ?」その言葉には、愛情を一身に受けて育った者らしい甘えがにじんでいた。しかし英樹は気分を害するどころか、むしろ当然のように受け止めていた。何しろ、幼い頃から自らの手で育ててきた孫だったからだ。柚葉は少し体をずらし、英樹を中へ入れる。「こんなに汚いなんて、これでも女の部屋なのか?」柚葉はすぐに駆け寄って椅子にあった服を抱えると、使用人に手渡した。使用人は急いで部屋を片付け始める。すると、英樹が使用人に言った。「なんで普段から柚葉の部屋の掃除に来ないんだ?」使用人は顔を強張らせた。口ではお嬢様の部屋が汚いと言っている旦那様だが、そこにお嬢様を責める意味は欠片もない。なのに、自分がお嬢様の部屋を片づけに来なかったことに対しては、完全に叱責の意味が込められているようだ。英樹から寵愛される柚葉に、細心の注意を払わねばならないことは、松田家の誰もが知っている。それに、彼女たちが掃除に来なかったのではない。柚葉がドアを開けないことには、片付けようがなかったのだ。「お爺様、私が掃除しなくていいって言っただけだから」と柚葉が言う
その時、恵に電話が入った。電話の向こうの拓海が尋ねる。「凛さんは無事?」「ええ、無事よ」恵は頷き、続けた。「ねえ、拓海さん。なんでお嬢様を連れてきたの?」拓海は言った。「俺じゃない」恵は聞いた。「じゃあ誰が?」しかし、拓海は笑うだけで、その質問には答えず、彼女たちにこう言った。「凛さんはお嬢様と一緒に買い物をするみたいだから、そのカードは君たちで自由に使って」「やったあ!ありがとう、森田さん。竹内社長、最高だね!」喜ぶ二人はカードを手に買い物へと出かけた。一方、凛は日和に連れられ、店の扉が半分閉められている高級ブティックへと来ていた。普通、こんな状態の時は中にか
こんな人が凛さんの旦那だなんて。豚に真珠だ。日和の露骨な嫌悪感に、智也は何を焚き付けられたのか、名刺を差し出す。「昨夜は、凛がお世話になりました」そうだ。これが智也の完璧な外面だった、と凛は心の中で思った。「ありがとうございます。でも、名刺は結構ですので」日和は笑顔を浮かべながらも、智也の名刺は受け取らなかった。智也が眉をひそめる。そして、ちらりと凛に向けられたその視線は、「お前の友人はこんなにも失礼なのか?」と言いたげだった。だが、智也が日和をどう思おうが、凛にはどうでもよかった。なぜなら、凛自身が日和のことを気に入っていたから。ヘアゴムを受け取ると、ポケットに入れ、
恵と理央は顔を見合わせた。この女性、なぜ自分たちが竹内グループの人間だと分かったのか?もしかして、竹内社長の知り合い?「私たちは竹内社長の秘書なんです。凛さんも今は私たちと一緒に働いているんですよ」恵の言葉に、柚葉は少し驚いた。昨日、祖父に頼んだばかりなのに、まさかこんなに早く話を進めてくれるなんて。「凛さん、昇進おめでとうございます」そう言った柚葉は、まるで本当に凛の昇進を喜んでいるような笑顔を浮かべていた。しかし智也は面白くなかった。とはいえ、海斗の秘書がいる手前、凛を無理に連れ出すわけにもいかない。「柚葉、先に戻っていてくれないか?凛と少し話がしたいんだ」とっくに
凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。「なんでこんなに遅いんだ?」「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も







