Mag-log in孝昌は家にいた使用人を全員下がらせると、ベランダの二人へ声をかけた。「中へ入れ。最初から全部話してもらうから」彰菜はその場から動こうとしなかったが、莉紗に強引に引っ張り込まれた。28年前、G県で何があったのか、二人は何としても聞き出すつもりだった。だが彰菜は口を閉ざしたままで、涙だけをポロポロと流し、それを手で拭うだけ。両親が何を聞いても答えないし、彼ら二人が自分たちなりの推測を並べても、一言も返さなかった。「……またこれ」莉紗は頭を抱えた。この彰菜の姿を見ていると、28年前を思い出すのだ。茂と彰菜が美雪を連れてG県から戻ってきたあとも、彰菜はこんな状態だった。昼も夜も泣き続け、口を閉ざしているかと思えば、突然激しく怒り出す。そして、怒鳴り散らしたあとは、自分で怯えたように全身を震わせていた。美雪を見るたび、恐怖に駆られたような顔をし、腹を立てると赤ん坊を抱き上げて放り出すように遠ざけるのに、その直後には我に返って慌てて抱き戻す。胸にきつく抱きしめ、何度もキスをしながら「ごめんなさい」と繰り返していた。あまりに不安定だったため、最初の2年ほどは茂も彰菜と子供をなるべく二人きりにしなかったほどだった。当時の莉紗には、なぜ娘がそこまでおかしくなったのかわからなかった。二人目が男の子ではなかったからといって、あれほど取り乱すものなのか。すでに長男はいるのだから、どうしてもというなら、また次を考えればいい、そう思っていた。だが今になって、ようやくわかった。あの裏には、娘を捨てたという事実があったのだ。莉紗は再び彰菜を責めた。「あなた、本当に何考えてたのよ!公務員の妻だったあなたが、あんな時期に子供を捨てるなんて!」その言葉で、孝昌もようやく一つのことに思い至った。「……待て。茂があのころ公職を辞めて商売の道に移ったのも、この件が原因なのか?」当時、茂が将来を嘱望されていた公職を捨てたことに、福井家は誰より強く反対したし、あれから長い年月が経っても、孝昌の心にはずっと引っかかっていた。しかし、あれほど先のある道を突然捨てた原因が、自分の娘にあったとは……莉紗も遅れて気づき、怒りを露わにした。「本当に何してくれてるのよ!」彰菜はそのまま泣き続けるかと思われたが、突然顔を上げ、両親を激しく睨みつける。「そうさせたのは、お
莉紗は途端にむっとした。「でも、それを全部彰菜のせいにするのは違うんじゃないの?あの子だって、きっとあなたのためを思ってのこと。だって、息子が二人いれば、あなたも家の中で肩身の狭い思いをしなくて済むし、跡取りだって増えるでしょ?」茂の目が、わずかに冷える。「当時から、俺はそんなことは望んでいないと言っていました。男でも女でも、自分の子供なら同じだと。でも、彰菜には伝わらなかった。それどころか、お二人にも伝わっていなかったんですね」莉紗が再び何か言い返そうとしたが、孝昌が制した。「彰菜にはこっちから話すよ。本当の娘を遠ざけて、血のつながらない美雪ばかり可愛がるなんて、どう考えてもおかしいからな」そう言うと、孝昌たちは帰って行った。すでに退勤時間も近かったが、茂は一緒には帰らず、剛に二人を家まで送らせた。そして、二人が去ったあと、茂は利明へ電話をかける。「どうして戻ってこなかった?」「帰りたくないんだ」それだけ答えたあと、利明が不意に呟いた。「僕が間違ってた」茂は一瞬、言葉を失った。この息子は子供のころから一見すると聞き分けがよかったが、根は頑固だった。茂はてっきり思春期に大きく反抗するものだと思っていたのに、その時期には何もなく、30歳近くなってからようやく自分の意思を押し通そうとした。それが……もう終わったのか?「何があった?」茂は声を和らげ、問いかけた。だが利明は、何があったのかを話す気にはなれなかった。「これからは、家で決めたことに従うよ」そうして、電話はすぐに切れた。茂は携帯を見つめた。道を一度外れれば、元の道に戻ろうとしても、以前と同じ場所には戻れないことがある。それを息子に伝えたかった。だが今は、利明より彰菜のほうが深刻だ。凛がB市を離れ、ようやく一息つけると思っていた彰菜にとって、今日は最悪の一日だった。息子が自分の両親を連れてA市へ行き、両親だけが戻ってきた。しかも利明は帰ってこない。そして戻ってきた両親は、まるで自分が取り返しのつかない罪でも犯したかのように、揃って険しい顔をしていた。「お父さん、何よその顔……」莉紗は娘の腕を掴むと、そのままベランダへ引っ張っていった。冷たい風など気にも留めず、単刀直入に問い詰める。「凛と美雪は、本当は取り違えられたんじゃないんでしょ?28年前、
B市。孝昌と莉紗を空港まで迎えに来たのは剛だった。茂は仕事が立て込んでいるため来られなかったのだと、笑顔で説明する。だが今の二人にとって、娘婿が迎えに来たかどうかなど大した問題ではなかった。頭にあるのは、凛と美雪のことだけ。取り違えられたのではなく、捨てられた。その意味をどうしても確かめなければならない。車に乗り込むと、孝昌は剛に言った。「神谷観光へ行ってくれ」剛は驚いて聞き返した。「茂さんに何か御用ですか?もう少しで仕事も終わるでしょうし、ご自宅でも会えますが」「待てない。会社へ行ってくれ」二人の険しい表情を見て、剛はそれ以上聞かなかった。おそらく、すぐ茂に確認しなければならないほどのことが、A市で何かあったのだろう。車を走らせながら、さりげなく探りを入れる。「お二人とも、凛さんには会えましたか?」二人とも答えなかった。しばらくして、莉紗がようやく口を開く。「会ったわ……まあ、知るつもりのなかったことまで聞かされたけどね」それだけで剛には察しがついた。凛は、知っていることを話したのだ。「利明くんは一緒に戻らなかったんですか?何か用事でも?」莉紗が首を振る。「あの子だってもう大人よ。自分の用事くらいあるでしょう」剛は笑顔で返した。「それもそうですね」その後、車内に会話はなかった。神谷観光の地下駐車場へ着くと、剛は車を降り、二人のためにドアを開けるわずかな間に、携帯で茂へメッセージを送った。ちょうど弁護士との話を終えた茂は、二人が上がってくると知ると、すぐ弁護士を帰す。エレベーターから降りた孝昌と莉紗は、ちょうど帰ろうとしていたその弁護士とすれ違った。面識はないが、服装や持ち物を見れば、それが弁護士だということくらいはわかる。孝昌が眉をひそめた。「弁護士か?なんで、今さら?」神谷観光で最近、弁護士が必要になるような問題が起きたとは聞いていないが、神谷家には今まさに大きな問題がある。しかもこのタイミングで弁護士……孝昌の中に、一つの推測が浮かんだ。剛は何も答えず、二人を茂の社長室へ案内し、中へ通すと、静かにドアを閉めた。「お義父さん、お義母さん」茂は立ち上がった。二人がソファへ腰を下ろすと、自ら水を用意し、向かいへ座る。「移動ばかりで疲れたでしょう。どうして一度家に戻ってお休
凛は、こうして車を走らせる海斗を見るのが好きだった。かっこよくて、見ているだけで、なんだか……力が抜けそうになる。凛はペットボトルの蓋を開け、ごくごくとジュースを飲んだ。海斗が何か言うより先に、日和がぴしゃりと言う。「お兄ちゃんの分はないから。凛お姉ちゃんに好き放題してた罰」さっき凛の唇を軽く噛んだことを思い出し、海斗は否定しなかった。そうすると、その目の前に凛から飲みかけのジュースが差し出される。凛は海斗にジュースを渡しながら、日和に尋ねた。「お腹空いた?車にクッキーあるから、少し食べる?それから帰ってご飯にしよう」「お腹空いたから、帰りましょう!」日和は凛の腕に自分の腕を絡めた。そのくせ海斗が凛の残りのジュースを飲んでいるのを見つけると、兄をじろりと睨む。しかし、当の本人である海斗はそんな視線など、まるで気にしていなくて、むしろ上機嫌だった。元々少し後ろを歩いていた日和は、腕を組んで楽しそうに談笑する二人の姿を見ていた。不意に、凛が残った片方の手を後ろに伸ばしてきた。初めは二人の少し後ろを歩いていた海斗だったが、ふと凛の空いているほうの手が後ろへ伸びてきた。少し曲げられた指先が、海斗にはまるで自分を誘うように見えた。目元を緩め、大きな手を伸ばす。日和は三人が横並びになったことで、ようやく状況を察した。「はいはい、分かったよ」呆れたように首を振ると、凛の腕を離し、気を利かせて少し横へずれる。凛さんとは友達であるけれども、自分はお兄ちゃんの妹でもあるのだ。だから、これくらいどうってことない。二人とも、付き合い始めたころより今のほうがよほどラブラブに見える。まあ、好きなだけいちゃつけばいいよ。できれば、このままずっとね!駐車場に着くと、日和は凛がどちらの車に乗るかで海斗と張り合うこともなく、素直に自分の車へ乗り込んだ。そして、運転席から凛へ投げキスを送る。「じゃあ、特別宿舎で!美穂子さんのご飯、楽しみ!」海斗は助手席のドアを開け、凛を乗せた。そして凛がシートベルトを締めている途中で、また顎をそっと持ち上げると、そのまま身を屈め、軽くキスをした。端正で冷たい印象の顔からは想像できないほど、優しい口付け。凛は思わず笑う。「甘えん坊なんだから」海斗は否定せずに、ドアを閉めて運転席へ回ると、今度は先ほどまでと
触れるだけだったはずのキスは、すぐに深くなる。凛は次第についていけなくなった。家の中ならともかく、ここは屋外のサーキットだ。さすがに落ち着かない。海斗の胸へ手を当て、少し押し返す。「……新しい車に乗るんじゃなかったの?」凛が息を整えながら言うと、海斗はようやく離れた。凛の手を取り、その掌へ軽く口づける。「そうだな」二人は車から降りた。冷たい風に吹かれて少し冷静さを取り戻した海斗は、凛の手首を優しく引くと、自分専用のガレージへと向かった。そして、マットなカバーが掛けられた車の一台の前で足を止める。海斗が合図すると、サーキットのスタッフが二人歩み寄り、カバーを外した。そこから現れたのはマクラーレン750S。深みのあるマットブラックのボディは極限まで低く構え、流れるような輪郭の中にも鋭さがある。余計な派手さはないが、それでも、ひと目でただものではないとわかる迫力があった。やがてエンジンの爆音が低く鳴り響き、冷たい風を切り裂くように、車体がコースへ滑り出した。そして一気に加速した瞬間、凛の背中が反射的に強張る。だが、横目に海斗の姿を見た途端、不思議と力が抜けていった。いつもより目元が柔らかく、口元には隠す気もない笑みが浮かび、黒い瞳には熱を帯びた光が宿っている。会社も責任も肩書きも、そんなものを、今だけ全部置いてきたような顔で、そこにいるのは、ただ好きなことに夢中になっている一人の青年だった。「どう?」いつもの低く冷静な声とは違い、どこか軽やかで、楽しそうだった。まるで褒めてほしい子供のようでもある。凛は初めて見る海斗の表情に、思わず見入ってしまった。仕事では何手も先を読み、誰より冷静に物事を動かすそんな海斗とはまるで違う。ただ風を追いかけることを楽しむ、自由な青年の顔だった。海斗って、車に乗るとこんな顔するんだ。そして、ふと疑問が浮かぶ。海斗はレースと天文ならどちらが好きなのだろう?「凛」海斗が横目で凛を見る。ハンドルを切る動きには一切の迷いがない。「前、見て」凛に見つめられるのは好きだったけれど、今だけは同じ方向を見てほしかった。一緒に前だけを向いて、この速度を味わいたい。「うん」凛も視線を正面へ戻した。速度そのものが身体を揺さぶり、全身に一気にアドレナリンが巡る。カーブへ入る緊張や、抜け切った瞬間
責任者は何度か確認し、それが本当に免許試験でやるようなS字カーブの練習だとわかると、黙って唇を引き結んだ。それでも営業用の笑みを浮かべる。「では、ご自由にお使いください」一度はそう言って離れかけたものの、やはり気になったらしく、また戻ってきた。「竹内社長、一応お伝えしておきますが……こちらのコースはレース用ですので、カーブもかなりきつく、半径も小さいです。連続した急カーブも多いので、免許試験のS字とはだいぶ違いますよ」そのことは、海斗も承知の上だった。そもそも、本気で凛に運転を教えるためにここへ連れてきたわけではなかった。凛は製品テストに夢中になり、朝からほとんど一日中研究室にこもっていた。梓に聞けば、昼もおにぎりを半分食べただけだという。それに、海斗が研究室から無理やり連れ出したのが、ほんの1時間前。ただ気分転換に行こうと言ったところで、凛なら「大丈夫」と言ってまた研究室へ戻るに決まっている。だから、運転の練習ということにしたのだ。ここは郊外にある屋外サーキットで、街の喧騒からも離れているし、今はほかに客もいない。ゆっくり走れば危険も少ないうえに、ついでに何か一つでも覚えられればそれでよかった。まずは海斗が一周走り、助手席の凛にコースの感覚を見せる。2周目は運転を交代し、凛自身にゆっくり走らせることにした。サーキットの安全設備は十分すぎるほど整っているため、凛が多少操作を誤ったところで、大事になるような場所ではない。ちょうど凛が運転席へ移ったところで、日和からビデオ通話がかかってきた。「運転の練習中でしたか?」「うん。日和さんはどこかにお出かけ?」「凛さんに会いに行こうかなって思ってたんです。でも練習中ならまた今度にしますね」「練習が終わったら大丈夫だよ。場所送るね」凛がそのまま現在地を送ると、横で海斗が何か言いたげな顔をしながら、手まで伸ばしてきて、止めようとした。だが、もう遅かった。日和の携帯に住所が届いた瞬間、画面の向こうから異様に落ち着いた日和の声が聞こえてきた。しかも笑顔なのに、目がまったく笑っていない。「凛さん、ちょっと携帯をお兄ちゃんに向けてもらえますか?顔見て話したいことがあるんです」理由はよくわからなかったが、凛は素直に携帯を海斗へ向けた。海斗は開けた窓に肘をつき、頬杖をついたまま、気だ
智也は、凛が綺麗でスタイルも良いことを知っていた。たまにじゃれあうだけでも、抑えがきかなくなるほどだった。しかし凛と肌を重ねようとすると、心の底で初恋の人を裏切っているような罪悪感が芽生える。だから、この何年もずっと我慢してきた。でも……凛は法律上の妻だ。それに、今夜の彼女はあまりにも魅力的すぎた。凛は、智也に見つめられていることに気づいていた。だけど、初恋の人としか子供を作りたくない男が、自分に欲情するはずがないことも分かっていた。彼女は平然と智也の前を行ったり来たりして、ドライヤーを手に取った。智也は突っ立ったまま、目で凛の動きを追っていた。凛は智也に背を向ける
「同姓同名なだけだよ。彼女はただの、ごく普通の会社員だから」智也は、淡々とした口調で説明した。「でもまあ、プロジェクトにいる凄い人と同姓同名なんて、凛にとっても光栄なことじゃないかな」「ええ、本当に光栄だわ」柚葉はにっこりと微笑んだ。「私たちのプロジェクトの凛さんは、本当に優秀なんですよ」もっとも、優秀すぎて腹立たしいくらいですけど。プロジェクトの責任者であることを盾に、自分を歓迎しないどころか、中心業務にも一切関わらせてくれないんです。やっぱり、「谷口凛」という名前の人はどうも気に食わない。凛は、柚葉をまっすぐに見つめて言った。「小林さんは、どんなプロジェクトを?
梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話してい
「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活